2010年09月05日

孤独という擬制

SIZさんの「祭りの後の時代の孤独な生」とRさんの「神なき時代の「良心」の可能性〜現代作家の本当の孤独とは」を読み比べました。

いや最近、Rさんのおかげでブログに久方ぶりにまともな記事が出てきて、いいなあと思いますね。 やはりこうでなくてはならない。一つのブログを4人で共有する意味があるとすれば、このように誰かの記事に対して周囲が反応することによって議論が盛り上がるという効果でしょう。
現在あふたーかーにばるは盛り上がりを欠いて、後退戦を強いられてきているわけですが、だからこそこういうやりとりが必要なんだなあと思わされました。
とはいえ、なかなか私も書くことができないでいるわけですが。

さて、お二人の記事についてなんですが、私が読んだ感じ、お二人が問題にしようとしていることには、そもそも最初からずれがあるように感じられます。おそらくはSIZさんが意図的にずらしたんではないかと思うのですが、「神」の捉え方がふたりの間では異なっているように感じられる。SIZさんはここで「神」を「人間の行動に一定の方向づけを与える考え」つまり「普遍的価値観」と言えるようなものを保証する存在と定義しているようですが、私の読む限り、Rさんのいう「神」にはもう少し「信仰」という問題が含まれているように思うのです。
SIZさんの定義であれば、我々の「神」は我々が意識するとしないとに関わらず我々の行動や思考を規制する存在としてあり、現代においては肝心の神様はお留守なのにそのことを知ってか知らずか、神の名を騙って我々の行動を支配しようとする言説がはびこっていると議論を進めているようです。
しかしRさんがここで言っているのは、色々とSIZさんの定義とかぶるところはあるにせよ、信仰が問題になっているという点で大きく違っています。Rさんは次のように言います。

バッハはプロテスタントと言いましたが、いわゆる宗教改革後、信仰において(カトリックのような)教会との関係性・帰属性よりも、個人と神との垂直の、かつ純粋な「信心」がスポットライトを浴びることになります。まさにまごころを持って神と「直面」することが至上となってきます。


ここでRさんは、「我々が何事かを為すさいに、誠実であることははたして可能か」と問うているようです。簡単に言えば、「神」などと言うものは我々が自分自身と向き合うための方便に過ぎません。我々に常に自省を促す監視者としての「神」を想定することで、我々はようやく自分自身と巡り会える。だからこそ教会との関係性や帰属性はここでは夾雑物とされているのでしょう。
そのように考えたとき、確かに我々は何よりも自己と向き合うのが難しい時代にあると言えるでしょう。何を作るにせよ、何を為すにせよ、自分自身の欲望と他者の欲望は見分けがつかないし、読者だとか市場だとかニコ動のコメだとかを意識せずに何かを作ったりそれを発表することはできそうにありません。その意味で現代の創造性というのは半ば自動化しているのであって、我々は何かを創造しているのか消費しているのかさえ判断しにくいわけです。
このように我々と神との間に、多くの夾雑物が挟まっており、ついに我々は神=自身に巡り会うことができない。そのような時代にあって誠実であることは可能なのか、あるいは誠実である必要はあるのかとRさんは問うているのではないでしょうか。

しかし、むろんここには難しい問題が最初から横たわっているように見えます。
もし私のRさんに対する理解が正しいとしても、そもそもでは「神」と垂直に対話するということが果たして本当に可能なのか、バッハに可能に見えた誠実さは真に誠実なものだったのかという疑問は残ります。
私はバッハは全然知りませんが、『のだめカンタービレ』で得た知識によると、バッハは「正しすぎる」らしい。そのような正しさ、つくりの美しさ自体、キリスト教的システムの効果によるものでしかないという可能性はないのでしょうか。我々が向き合っているのはいつだって読者やら市場やらニコ動のコメやら2chでの反応やらでしかないのではないでしょうか。
確かに我々はシステムによって疲弊させられています。現代のシステムがあまりにも複雑で手触りがなくその割に高く厚く我々の前に立ちはだかって見えるからです。たとえば音楽ひとつとってもいったいどんなものが「良い」ものなのか、どうすれば「売れる」のか、さっぱりわかりません。
だから、我々に必要なのは、「誠実に己と向き合うこと」ではなく、「己と向き合っているように感じさせてくれるシステム」なのではないでしょうか。システムによる疲弊を避けつつ我々が自己を再発見するためには、そのような擬制が必要なのではないでしょうか。(A.I.)
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2010年09月04日

アフター・カーニバル深夜便〜第21回生放送の告知:続・試験に出ないマンガ史!〜

9月4日(土)夜24:00〜(5日(日)0:00〜)

会場
(今日の放送は諸事情により中止になりました。申し訳ありません)

マンガの週 担当:R

第4回:続・試験に出ないマンガ史!〜アフター・カーニバルの個人的マンガ体験

・いつどんなマンガ雑誌から読み出したのか?
・周りは読んでいなかったが自分だけは読んでいたマンガは?
・はじめてエッチなシーンに衝撃を受けたマンガは?
・はじめて感動して人知れず泣いたマンガは?
・怖くてトラウマになったマンガは?
・実際に訪れたことのあるマンガの舞台は?

先月の続きです。われわれは青年期に移行します。(R)
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2010年09月02日

祭りの後の時代の孤独な生

神なき時代の「良心」の可能性〜現代作家の本当の孤独とは
http://after-carnival.seesaa.net/article/161178961.html

 Rさんのこの記事を読んで、いくつか疑問に思ったことがあるので、そのことについてちょっと書いてみたい。

 まず、Rさんは、この記事で、「神」というものを持ち出す。「この世に神がいなければ万事窮するのです」と。Rさんは現代を「神なき時代」として規定する(「われわれはいかにして「良心的」であることが可能でしょうか? もはや神がいないこの世界の片隅で」)。ここで言う「神」とは何を意味しているのだろうか。

 この記事で問題になっている「現代社会」を日本の現代社会のことだと限定して考えてみるのならば、果たして、日本において、神という存在がどれほど重要視されているのか、という疑問が生じてくる。日本においても神が問題になるとしても、それは、バッハがそれに属していたようなキリスト教圏における神とはその意味合いが大きく異なることだろう。つまり、日本において、一神教の神がどれほど問題になるのだろうか、という疑問が生じてくる。

 神という言葉の意味づけを脇に置けば、ここでRさんの言いたいことはよく理解できる。Rさんは、ある種の方向づけが見失われた時代を「神なき時代」と呼んでいて、そうした時代においては、何が良いことで何が悪いことなのか判明ではない、ということを言っているように思われるからだ。

 日本において、一神教の神が機能していなくても、世界の法則、あるいは、少なくとも、社会の法則といったものについての一般的な考えのようなものは存在していることだろう。それは、世の中はこうなっているという考え、例えば、「努力すれば必ず報われる」とか、「良いことをすれば良いことが、悪いことをすれば悪いことが自分に返ってくる」といったような因果応報的な価値観などといったもののことである。そうした法則を裏で支えている存在、そうした法則を最後のところで保証している存在を、日本においても、神と呼ぶことはある。

 こんなふうに人間の行動に一定の方向づけを与える考えをイデオロギーと呼ぶこともできるだろうが、こうしたイデオロギーがここ最近になって揺らいできた、少なくとも変化の兆しを見せ始めているのは間違いないように思える。

 例えば、戦後日本において、人々の行動に一定の方向づけを与えていた考えとはどのようなものだったのか。それはまず生活が豊かになることだったと思われる。それでは次に、生活が豊かになった後に出てきた価値観とはどのようなものか。それは、個人の夢の実現こそが人生の幸福だ、という考えではなかったか。やりたいことをやること、夢の実現に向けて努力することが善だ、という考えである。

 そして、現代という時代は、この夢の実現という考えが崩壊してきた時代ではないかと思われるのだ。夢の実現のためには社会に一定の豊かさが必要であるが、その豊かさの担保が揺らいできた時代が現代ではないのか。努力しても必ずしも報われることはないということが明らかになった時代が現代ではないのか。そうした意味で、夢の実現に価値を置くことが困難になってきたのが現代という気がするのだ。

 未来の豊かさのために、未来の幸福のために、現在の労苦を感受するというのが旧来の価値観だったとすれば、未来の豊かさが担保されないという事態、希望をもはや見出すことができないという事態にあっては、そこでの価値観が大きく揺らぐことになるのも当然であるだろう。

 それでは、現代において、夢の実現に代わる価値観が何か出てきているのか、という点が問題になりうる。新しい価値観の芽はいくつか出ているのかも知れないが、僕の見たところ、現代においても支配的なのは、旧来の価値観であるように思える。旧来の価値観を支える制度にほころびが見出されるのに旧来の価値観がそのまま存続しているというのが現代という時代ではないのか(意識と社会関係とのこうしたギャップを見事に描いているマンガ家が浅野いにおだと僕は思っている)。

 もし仮にRさんがこのような時代状況を「神なき時代」と呼んでいるとすれば、その次に問題になりうることは、Rさんは果たして神の復権を望んでいるのかどうか、ということである。それは、つまり、何か明確な正しさが存在し、人々はその正しさに従うべきだ、ということを主張したいのかどうか、ということである。「精神的な囲い込みに対抗する」という村上春樹の言葉に支持を表明していたRさんならば、当然のことながら、そのような主張をすることはないだろう。アフター・カーニバル(祭りの後)的な考えからしても、神なき時代からこそわれわれの時代が始まる、神なき時代こそわれわれの時代だ、と言うべきであろう。

 アフター・カーニバルは、全共闘の運動に対する村上春樹の違和感から出発したところがあるわけだが、全共闘の運動が父なき時代に父との闘争を捏造しようとしていたところがあったとすれば、そうした闘争の構図からの離脱を志向した村上春樹の方向性にわれわれも従うべきではないだろうか。

 僕たちの世代は、オウム事件を経験しているわけだが、この事件においても同種のことが問題になっているように思える。つまり、この事件には自作自演的なところ(未知の敵からのサリン攻撃を受けていたはずのオウム教団が、人々の敵となり、サリンを自ら撒くようになる)があるわけだが、こうした虚構のシナリオを自作自演せざるをえないのも、僕たちの時代が「神なき時代」、父なき時代、祭りの後の時代だからであるだろう。

 そうした意味では、現代において、良心という言葉に疑問符が付かざるをえないのは当然だと言える。良心の見かけだけが存在し、そうした良心の見かけを偽善という言葉によって攻撃するのが容易なのが現代という時代だろう。偽善よりも露悪のほうが誠実に見えるのが現代という時代だろう。

 Rさんは「何か生産的な仕事をする上でこのシステムは実に疲弊させられます」と言う。しかし、そもそも、生産性についての考えを改める必要があるのではないだろうか。そうしたことを考えて、僕は、この前、「不毛、断念、無意味――祭りの後の新しい価値観」という記事を書いた。

 Rさんはバッハの名前を持ち出してきたが、バッハがある種の芸術家像として持ち上げられるようになったのは、近代的な芸術観があってのことではないだろうか。つまり、作品なり作家なり芸術なりといった言葉に込められた意味合いや価値観の多くは、近代という時代がもたらしたものであるように思われる。そうした時代性のことを考慮に入れるとすれば、生産性についての考え方も検討し直す必要があるように思われる。

 僕は別にニヒリズムを推奨しようと思っているわけではない。ニヒリズムに対抗するにしても、神を持ち出すには限界があると思うのだ。信仰や信念、真理への意志といったものが重要であるとしても、何か外的なものを持ち出してくることによって、それらのものを支えようとすることに限界があるように思うのだ。

 そういう意味では、Rさんが記事のタイトルに入れた「孤独」という立場こそが現代において(も)本質的なのかも知れない。孤独とはまさに外的な支えが何もない状態を意味するのだろう。思うにバッハもやはり孤独だったのではないだろうか。バッハにおいて神が問題になりうるとしても、それは、そうした孤独な地点から見出された神であったことだろう。

 コミュニケーションというものが重視される現代にあって、依って立つところを見出すことができない現代にあって、孤独というものは行き止まりのようにも見える。しかしながら、Rさんがしばしば重視する「個」という立場からするならば、われわれは、やっとのことで、孤独の重要性を知ることのできる地点にたどり着いたと言うこともできるだろう。(SIZ)
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2010年09月01日

『ザ・リング』と『白髪鬼』と『夢十夜』とあと百閧ニ〜「越境してくるもの」のこと

先日のSIZさんの投稿記事「恐怖の構造――「夢十夜」の第三夜と「信号手」について」を読んでいてふと思ったことがある。かつて世間を賑わせた映画『リング』の有名なラストだ。中田秀夫が世間をあっといわせた最大の手柄である例のシーンである。都市伝説として広まった呪いのビデオの元凶となる怨霊・貞子が、主人公の鎮魂によって鎮まったかと思われた矢先にこの世に現れる。突然、和室のTVのブラウン管に貞子のいる森の中の井戸がなぜか映り出す。しだいに井戸から白い手が出てきて貞子が這い上がってくる。顔が長髪で覆われたままゆらゆらとこちらへ歩いてくる。あたりは森閑とした森の中である。やがて桂正和「電影少女」もかくやという感じにTVから貞子が出てくるのである。皆さんも一度は目にしたことがあるはずのあの度肝をぬく恐怖。僕はTVに井戸が映ったとき「これは出てくるな。出てきたら面白いな」と思ってじっさい予想通りだったわけだが、なおも快哉を叫んだのは表現の達成度が高かったからだ。出てくるまでの絶妙なテンポ感と四畳半(?)を這う「リアル貞子」の質感の生々しさ。動きの演出等々ディテールによく支えられていたと思う。しかしこのシーンをホラー映画史上に残る白眉とした最大の理由は「越境感」だと思うのである。「越境性」こそが人の恐怖の底にあって、人が自明に信頼している安定した地盤というものを揺さぶるのだ、と確認させられるのだ。森の中で「ホラー的な現象」が起きてもそれは依然として非日常の出来事であり、我々の実感から遠い。そのような「安心感」は貞子が画面を飛び出しこちらに越境し受肉したことで破られる。いつも居住している日常空間であるこの部屋に貞子が来ること、それもいきなりここに来るのではなく、わざわざ異世界から「越境してくること」。それこそが自らの日常性の基盤を恐怖の場面へと変質させるのだからただごとではないのだ。中田秀夫はそれをまざまざと見せつけたのである。

『白髪鬼』と『影を踏まれた女』を書店で見かけて買ったのは四年前だ。光文社の文庫版で、解題を去年ある会で少し絡んだことのある縄田一男氏がやっている。一読して好きな作品だった。これは誰かに語って聞かせたいと、ここの仲間AI氏をはじめ周りに恐怖を伝播させては自ら恐怖を募らせていった覚えがある。みんなの反応もよかった。綺堂は他にもどれも面白いのだが今たまたま記憶してる中では享保年間の怪談「西瓜」という話が印象に残っている、というか題名に期待してなかったぶん以外に怖かった。未読の人は読んでみよう。

高校の国語の授業展開でも一年間小説を取り上げ続けたとき、主なラインナップに『白髪鬼』などの怪談を多く採用したこともあった。手始めに『夢十夜』の第一夜と第三夜。第一夜は「伸び縮みする時間」についての解説が主だったが、第三夜は拠って立つべき「自己」の不確定性・無根拠さといった不安さを浮き彫りにして読み解き合う授業となった。このとき生徒達が書いたレポートは随分とフィードバックとして有益だったので今も取ってある。続いて漱石の弟子群。芥川『羅生門』の主人公も境界に立っているが、『夢十夜』の世界を受け継ぐ百閧フ『冥途』は「境界のあいまいさ」「あやふやの閾」自体が怪異としての骨格をなすものだ。百閧フ文章世界では現実と幻想の間が恍惚として確固としていない。世界の事象はあやふやな位置からあやふやな位置までをあやふやに測定・観測されるのみなのである。断絶してるはずのものが地続きになったり、地と図が反転したりというコペルニクス的転回は、かくして『白髪鬼』でも取り上げて、怪談の構造と特徴として確認した。それから川端の『無言』に出てくる有名な小坪トンネルの怪について話したのを機に実話怪談を一時間してみせたりもした。そしてティム・オブライエン・村上春樹訳の『待ち伏せ』を挟んだ後、春樹の短編『七番目の男』で締めくくった。

小松左京『くだんのはは』も有名だが、これは戦時もの、敗戦後ものに数えたい。石川淳の『焼け跡のイエス』などや、マンガなら『はだしのゲン』など名作が多いが、怪談や民話・因習ものと絡められた戦争ものが好きだ。吉屋信子「生霊」などもそうした怪談の一つだ。その『くだんのはは』には次のような描写がある。玉音放送を聴いても、初めて聴く天皇の妙に甲高い声が聞き取りづらいのが気になるだけで、誰もが事態を飲み込むまでに時間がかかっている。主人公は一応当時の軍国主義に飲み込まれている少年である。


午後の三時には一切の物音が絶え、みんな薄馬鹿のように天を仰ぎ、あちこちに固まって腰をおろし、手持ち無沙汰に欠伸したり、頭をごしごしかいたりした。僕もまた、ボケたようになって邸へ帰って来た。だが、離れに坐ると、突然わけのわからない憤懣がおこって来て、教練教科書をひきさき、帽子をなげつけた。何も彼もぶちこわしたかった。誰かをつかまえて、この何とも形容のしがたいやるせなさをぶちまけたかった。


なんだろうこの伝わってくるものは。そしてこの敗戦と戦時下を巡る様々な文脈や少年の状況が、彼の屈託をして怪物少女「くだん」を暴かせしめるのだ。ちなみに内田百閧フ『件』もこの怪物「くだん」をめぐる短編で、やはりこちらのほうが得体の知れなさというものがある。

ところで落語にも色々と幽霊ものが多いが、僕の最近のお気に入りは桂三木助の『へっつい幽霊』である。これは怖くはない。粋な任侠と気弱な幽霊が博打で金を巡って対決する話である。ちょっと「聊斎志異」に似ているかもしれない。(R)

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神なき時代の「良心」の可能性〜現代作家の本当の孤独とは

人はトイレに紙がなかったら万事休するでしょう。それと同じくらいこの世に神がいなければ万事休するのです。のっけからふざけた話に怒りを覚える人もいるでしょうし、宗教じみた物言い(ほんとにそうか?)に首をひねる方もいると思います。でもこれはいたって真面目な話なのです。

現代社会において人々の心はすさんでいると方々で言われています。それと同じく、現代にもまだある美談を通じて人間の尊厳を確認したりすることもあります。人間は悪人であったり善人であったりしているようです。あなたの中にも善と悪とが毎日・毎秒ごとに行ったり来たりまさに去来しているでしょう。そんな中で、何かに夢中になってそれをやり遂げたとき、自分にとってか周りにとってか少なくとも「善いことをした」と感じることがないでしょうか。いったい人の「良心」というものはどこからやってくるのでしょう? どこで生まれて何に支えられて「良心」は人間を善へと導かせしめるのでしょうか。

「良心的」という言葉があります。「良心的な価格」「良心的なサービス」・・・的とつくと「良心」そのものではないということになりますが、まあおおむね「良心的」なわけです。何かものを「創る」ことにおいても「良心的な仕事」というのがあります。たいていの人々がそれを期待し「良心的な仕事」には敬意を表します。しかしながら「良心的な仕事」というものは、そうそうめったにお目にかかれるものではありません。残念ながら。なぜでしょう?

有名な音楽家にバッハという人がいます。そう、あの「音楽の父」と言われる人です。まあ「ウルトラの父」みたいな人ですね(?)。18世紀のドイツの片田舎ライプツィヒで活躍しました。だいたいずっとそこにいたので意外と地方発信だったわけですね。東国原知事と一緒ですね、はい。彼は聖トーマス教会の専属オルガニストでした。と同時に音楽監督でもありました。それはどういうことかというと教会というのは毎週日曜に典礼のミサがあるわけです。それ以外にも色々と教会というところはしょちゅうミサをやりますが、まあ週一のミサが本式です。ざっくりと言って、ミサは典礼文という儀式の言葉、基本的には神を賛美したりする詩句ですが、これを時には賛美歌として歌ったりします。バッハは毎週の礼拝ごとにこうした儀式に使用するための曲を作っていたのです。カンタータやコラールなど長短さまざまですが、このなかに有名な「主よ人の望みの喜びよ」や「G線上のアリア」なども入っています。こうしたバッハの曲はどれも精密に構築されていて、ひとつとして雑な作りをした、弛緩した作品はありません。高レベル高品位な作品が週一という驚異的なペースで量産されていったのです。つまり毎週慌ただしく過ぎてく中で、高密度な職人仕事をこなしていたということです。なぜこんなことが可能だったのでしょうか? そこにはバッハが天才だったからの一言では片付けられないものがあるはずです。教会から依頼されて作っていたわけですが、牧師(バッハはプロテスタントなので神父ではありません。また本当はミサではなく礼拝となります)や信徒のためだけに作っていたのでしょうか? 家庭のため? 単なる責任感? ではその責任感はどこからやってくるのでしょうか。

バッハはプロテスタントと言いましたが、いわゆる宗教改革後、信仰において(カトリックのような)教会との関係性・帰属性よりも、個人と神との垂直の、かつ純粋な「信心」がスポットライトを浴びることになります。まさにまごころを持って神と「直面」することが至上となってきます。神を崇める行為つまりバッハにおける宗教曲の作曲とは、最終的には、あるいはまずもって神に対するものでした。真面目で敬虔な信者であるバッハにとっては、一生懸命に作品を仕上げることがすなわち神と向き合う信心深さの表れだったというわけです。だからバッハの作曲家としての、作り手としての「良心」は、神と信仰に支えられたものだったということなのです。中央から離れた地方にいてもどこにいても、神に対して恥じない仕事をする職業精神がバッハのいたドイツの時代精神だったのかもしれません。だからこそ有名な「マタイ受難曲」のような大曲を、あの過密スケジュール下で生み出すことが可能だったのでしょう。この3時間もある宗教曲は、クラシックを知るものなら誰しも頂点に掲げるものですが、音楽史のみならず人類史上の遺産といっても過言ではありません。これに並ぶ曲はあっても、これを越えるものはないからです。その作曲過程と現場を知ると、普通はやっつけ仕事の環境だとしか思えないくらい時間的にも切迫しています。にもかかわらず、そこにはバッハの魂が込められています。

われわれは「ビジネス社会」というものを生きています。「忙しい社会」のことです。「時は金なり」が至上命題になっています。人々は少々値段が高くても遠いスーパーより近くのコンビニですませたりします。誰もが「どこでもドア」や「タイムマシーン」を夢想したりもするでしょう。科学技術が問題なのではありません。それを裏支えしている社会意識の構造的な不備によるものでしょう。何か生産的な仕事をする上でこのシステムは実に疲弊させられます。そんな過酷な無数の「現場」で、われわれはいかにして「良心的」であることが可能でしょうか? もはや神がいないこの世界の片隅で。(R)
posted by R at 05:53| Comment(0) | TrackBack(0) | エッセイ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年08月28日

渋谷HMVが閉店してショックなのはあなただけではありません。

おととい渋谷のアトラクション居酒屋ロックアップへ向かうとき、センター街のHMVを通った。・・・閉まっている。本当に・・・。日曜に閉店ニュースを聞いたばかりだ。その日の僕は由比ヶ浜で浮かれていた。怪談スポットの小坪トンネルをドライブとかしていた。あとで「しまった」と思った。今日が閉店の日だったか・・・。

閉店のニュース自体は早くから伝えられていた。そのときは愕然としたものだ。と同時にもう一度行かねばならないと決意したのだが、かなわなかった、というか忘れていたのだから始末に負えない。HMV渋谷は僕の音楽的青春の中核をなす存在とも言えたのに。それにしても誰がこんな事態を予想できただろうか?ドッグイヤーとはいえこんなにも早くあっけない幕切れを。もちろん数あるHMVの中でよりによって一号店であり日本最大にして本店である渋谷店が他店舗を先んじて閉店したのは、一等地でのビジネスにおける費用対効果に鑑みて無理があるということだろうが、他店舗を全部潰しても世界的に有名な渋谷のランドマークを残して欲しかった。

いずれ街の本屋も同じ運命を辿るだろう。本屋の場合大型店と個人経営のどちらが先に終わるだろうか。電子書籍も進めば半減するかもしれない。ネット購入におおいに頼ってるところもあるが、いまだに書店に足を運ぶのを欠かせない身として一番危惧するのが、ふらっと立ち寄れる書店がなくなるかもしれないということだ。現在なら、このさき全国のどこに引っ越そうとも、だいたい都市部であれば半径数百メートル以内の歩ける近所に書店は存在しているだろう。帰り道に休日に買い物のついでに、あちこちの選択肢の中からいくつかの書店を利用しうる環境はやはり便利なのだ。これがやがて淘汰されれば定期的な書籍のフィジカル・チェックは車か電車をわざわざ利用して・・・ということになりかねない。そうなれば今より足は遠のくに決まっている。雑誌はコンビニに頼るとしても。

横浜のHMVとともに渋谷店を利用するようになったのは90年代後期からだ。いわゆる渋谷系のうっとおしい流行も一段落した頃からである。時代は世紀末の雰囲気と共に洋楽の色んな文脈・シーンが切迫感を伴って喧伝され消費されていた。まだネット文化より雑誌文化で、時代を語る言葉に効力も信憑性もあった。みんな足を使ってフィジカルに音楽を浴びた。やがてタワレコが全国的に下火になりHMV一人勝ちの様相を呈してきてからはCDの試聴と発掘作業は、HMVだった。そこから少し足を伸ばし、DMR周辺のレコード街を歩きアナログ・レコードを試聴・発掘しに行ったものである。まさに庭だった。

ミレニアムを越した頃から音楽シーンとその享受の仕方に変化が見られはじめ、音楽業界全体も変わっていった。だがHMVは店舗拡大を続けていた。個人的には「また作ったのか」という気がしていた。それがつい4年ほど前くらいまでのことだった気がするのに、この2,3年、YOUTUBEが広がりはじめた頃からの激変で一気にもってかれてしまった感がある。体制を整える暇もなかったのではないか。我々消費者とそんなに大差ない感覚で、気がついたら終わっていた、という感じなのではないか・・・。

去年だったか突然ネットでのダウンロード販売から撤退したのを不審に思っていたのだが、HMV自体が色々と危ういのだろう。HMVの店員になることは、あの制服をのぞけば一種のステータスでもあり安全保障でもあった気がしていた頃が近くて遠い過去になったのである。合掌。(R)
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2010年08月27日

アフター・カーニバル深夜便〜第20回生放送の告知:アニメ『イヴの時間』について語る〜

8月28日(土)夜24:00〜(29日(日)0:00〜)

会場
http://www.ustream.tv/channel/siz-ashizu

アニメの週 担当:SIZ

第3回:『イヴの時間』について語る

最近のアニメというわけではないですが、近年のアニメの中でもかなり重要な作品、少なくとも非常に特異な作品だと言える『イヴの時間』について話します。
ロボット(アンドロイド)を基本的なモチーフにしているという点で非常に古典的なテーマ設定を持ち出してきていると言えますが(少なくともアニメにおいては『鉄腕アトム』以後の問題設定)、そうした古いテーマがどのように現代的にアレンジされているのかという点がこの作品の注目的ではないかと僕は思っています。(SIZ)
posted by SIZ at 13:27| Comment(0) | TrackBack(0) | 生放送の告知 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年08月25日

不毛、断念、無意味――祭りの後の新しい価値観

 今月の半ばにアフター・カーニバルの会合が久し振りに行なわれた。僕は事情があって参加しなかったのだが、今回のテーマは、若松孝二の映画『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』を見てそれについて語ること、連合赤軍事件について問題化することであった。誰かメンバーの人で、この日に話されたことをまとめてくれるとありがたいのだが。

 なぜ今回連合赤軍事件を取り上げたのかという点については、アフター・カーニバルでこれまで語ってきたことの文脈から言えば、それなりに理解できることである。つまり、アフター・カーニバルは、これまで常に、時代の節目を問題にしてきた。戦前/戦後というのが大きな節目であるし、昭和/平成というのも大きな節目である。連合赤軍事件は60年代から70年代にかけての節目において問題になった出来事である。

 アフター・カーニバルではこれまで村上春樹の小説をずっと問題にしてきたが、春樹が初期の小説において問題にしていたのも、60年代から70年代にかけての時代の節目である。僕たちにとって、この時代の節目が問題になりうるのは、そうした節目の出来事を僕たちの時代の節目の出来事と重ね合わせて考えることができるからである。

 アフター・カーニバルという活動組織名の由来を振り返ってみれば、そこで強調点を置いていたのは、大きな出来事の後をどのように生きるのか、僕たちの生というものはまさに大きな出来事の不在によって規定されているのではないか、という問題意識に基づいてのものである。大きな出来事が存在しない、ビッグネームが不在である、こうした状況において生きることとはどのようなことなのかということをこれまで問うてきたと言えるが、こんなふうに大きな出来事が存在しないという状況にあっては、アフター・カーニバルという活動組織においても、いろいろと支障をきたすことになる。端的に言えば、共通言語の不在、共通の話題の不在として、問題が浮上している。

 連合赤軍について語るというテーマ選択に関しても、それは僕たちの弱点が浮かび上がった選択だったと言えるだろう。つまり、連合赤軍という出来事は、それが祭りの後を象徴するような出来事であったとしても、そんなふうに終わりを象徴できるくらいには大きな出来事であり、僕たちの活動に何らかのまとまりを与えるためには、こんなふうに、少しばかり大きなものが必要になってくるのである。

 では、連合赤軍という今回のテーマが適切だったかと言えば、僕にはあまりそうとは思えない。僕自身も他に代替案を提出できなかったわけだからこの選択には責任があるわけだが、今日的なテーマ設定に根差した選択だとは思えないし、アフター・カーニバルの活動においても面白いテーマ設定だとは思えなかった。

 会合で何が話されたのか、会合の感想はどうだったのかということについて、Rさんとイワンさんから少し感想を聞いたのだが、二人とも、何かポジティヴな意見、何か生産的な意見が出たというふうには言っていなかった。イワンさんは、連合赤軍の活動に関して「不毛」という言葉を用いていたが、しかしながら、まさに、この不毛というものに焦点を合わせることこそ、祭りの後にあっては、重要なことではないのか。

 大きな出来事が起こらない世界において、何も生産的なものを生み出すことができないからこそ、生産性の見かけとでも言うようなものを演出しようとするのではないだろうか。連合赤軍の行動にもそのようなものを見出すことはできないだろうか。つまり、そこにおいては、意味のある活動(革命に向けた活動)を装うことによって、日々の生活を、共同生活をやりすごすことが問題になっていたのではないだろうか。

 言い換えれば、ここで問題になっているのは、無意味なものに対する試練といったものである。こうした試練に現代のわれわれもさらされているだろうし、われわれはこの無意味なものをどのように取り扱っているのか、また、どのように取り扱っていくべきなのか、という点は大きな問題であるだろう。

 しかし、こんなふうに現代の課題を明確化できたとしても、アフター・カーニバル内において、またその外においても、共通言語を確立できないという問題は厄介である。ある種、それぞれがバラバラであるというところに今日的なリアリティがあると言えばあるわけだから、やはり、そこに根差して何とかやっていくしかないのだろう。この断絶それ自体を問題化していくしかないのかも知れない。

 しかし、アフター・カーニバルという基本的なコンセプトは決して悪いものではないかも知れない。そこには明確な断念があり、この断念は、言い換えるならば、これまでの価値観に対する切断をも意味していると言えるかも知れないからだ。

 不毛にしろ断念にしろ無意味にしろ、こうした言葉から否定的なニュアンスを取り去る必要がある。現在が過渡期であるとすれば、これまでの価値基準からするならば否定的に捉えられがちなものにもっと注意を向けるべきだろう。(SIZ)
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2010年08月22日

恐怖の構造――「夢十夜」の第三夜と「信号手」について

 昨日の夜に、深夜便の放送で、怪談小説やホラー小説を取り上げて、イワンさんと話をしたわけだが、僕は、事前の準備として、ディケンズの「信号手」、夏目漱石の「夢十夜」の第三夜、岡本綺堂の「白髪鬼」などを読んでおいた。これらの作品は、A.I.さんが怖いホラー短編小説として勧めていたものだ。

 僕は、これらの小説を読んで、そこに、ある似たような構造があることに気がついた。それがホラー小説特有の構造かどうかという点は難しいところだ。僕自身はホラー小説をあまり読んでいないし、ホラー小説以外にも同様の構造を持つ小説作品はありそうに思うからだ。しかし、少なくとも、この構造があるからこそ、恐怖が引き立たせられるということは言えるのではないかと思う。

 その構造とは、簡単に言ってしまうと、距離を取って見ていたのにその距離(自分と対象との距離)を一気に縮められてしまうということ、自分とは無関係だと思っていたものが自分と関わりにあることが分かるということ、相手の話だと思っていたことが自分の話だったと分かるということ、そのような構造である。

 よくよく考えれば、いわゆる怪談話においても、「それはお前だ!」とか「お前の背後にいる!」といったようなやり口で、語られていた出来事が、現在まさに語っているこの次元においても問題になっていることを指摘することで視点のシフトを引き起こすことがある。この視点の転換が、一気に距離を縮められることが、恐怖と何らかの関わりを持っていると言うことはできないだろうか。

 上に挙げた作品で言えば、まずは、「夢十夜」の第三夜。夢を見ている人が六歳になる自分の子供を背負っている。自分の子供という親しい存在であるにも関わらず、夢を見ている人はその子供に何かよそよそしいものを感じる。その子供は「何時の間にか眼が潰れて、青坊主になっている」。ここには親しさとよそよそしさとの同居がある。自分の子供のことなのだから、その子供については大抵のことを知っているはずだろうが、そこには何か未知のものがある。未知のところがあるが、それが自分の子供のことであるわけだから、完全によそよそしい存在であるわけではない。

 こうした不思議な存在が最終的に夢を見ている人に差し向ける言葉が「御前がおれを殺したのは今から丁度百年前だね」である。ここには視点の転換がある。この地点において、自分の子供に向けられていた距離が一挙に縮められる。ここに認められるのが罪責感の一種の喚起だとしたら、罪責感に関わらないもの(子供に関わること)だと思っていたのが、まさにその罪責感の中心だったという視点の大幅な転換が話のキモだと言えるだろう。

 こうした飛躍が恐怖を掻き立てるのは間違いないように思う。ディケンズの「信号手」の怖いところもそうした点ではないかと思う。この作品の語り手である私は、物語の中心にいる信号手とたまたま知り合いになっただけの関係である。にも関わらず、出来事は、語り手の私を必然的に、最初から考慮に入れていたような仕方で展開する。

 「信号手」の物語は語り手の視点が存在しないと完成しないことだろう。信号手が見た幽霊の動作と語り手が見た機関手の動作との同一性を認めることができるためには語り手の存在がどうしても必要である。信号手の語ることだけの次元においては、彼の話に現実的基盤を与えるようなもの(客観的な証拠)は存在しない。それが何らかの実質を持つためには、信号手が死に、語り手が頭の中で思いついた言葉(「危ないっ、どいてくれ」)と機関手が語る言葉との同一性を認めなければならない。そんなふうに出来事の実質を、蚊帳の外にいたはずの自分自身が用意するところに、この物語の恐怖の点があると言える。

 こんなふうに自分がその話の外にいる人物だと思っていたのが、自分自身こそが出来事の構成にあたって重要なパーツのひとつだったということが分かるということ。この発見が恐怖体験と何か関わっているように思える。それがどんなふうに関わっているのかという点についてはもう少しよく考えてみる必要があるだろうが、今回読んだ小説にはそのような共通した構造があったように思う。(SIZ)
posted by SIZ at 09:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 読書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年08月20日

アフター・カーニバル深夜便〜第19回生放送の告知:納涼!恐怖・ホラー小説を語る〜

日時:8月21日(土)24:00〜(22日(日)0:00〜)

会場
http://www.ustream.tv/channel/siz-ashizu

本の週 担当:イワン

第3回:納涼!恐怖・ホラー小説を語る

残暑とはいえないほどの猛暑が続く今日この頃。
古典的なホラーから、現在のホラー小説まで、ぞっとする怖い小説を語り合い、涼をとろうという企画です。
あなたの知らない世界が開けるよ!(イワン)

(関連する過去記事)
夢十夜(夏目漱石)
http://after-carnival.seesaa.net/article/80220703.html
信号手(ディケンズ)
http://after-carnival.seesaa.net/article/80301568.html
七番目の男(村上春樹)
http://after-carnival.seesaa.net/article/80455370.html

(関連する過去の放送(録音))
第二十三回:「コトリバコ」と現代の怪談
http://after-carnival.seesaa.net/article/130531386.html
http://after-carnival.seesaa.net/article/130581862.html
http://after-carnival.seesaa.net/article/130581990.html
http://after-carnival.seesaa.net/article/130627635.html
posted by SIZ at 06:31| Comment(0) | TrackBack(0) | 生放送の告知 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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