2010年11月13日

失われた祭りをもとめて〜村上春樹『1973年のピンボール』

★なぜ村上春樹は消える女たちを探し求めるのか?

 村上春樹の小説では、短編長編問わず頻繁に女性が消える。妻だったり愛人だったり恋人だったり、また失踪だったり自殺だったりと色々だが、とにかく主人公の前からいなくなることが多い。それが村上文学の「喪失」を特徴づける大きなそして具体的な出来事のようにも見える。
 むろん「僕」は、消えた女性を探し求める。それが探求譚といわれる所以でもある。「シーク&ファインド」の物語だと。しかし「僕」が「喪失したもの」をただ奪還しようとしているのだとは思えない。かつて「失ったもの」をもう一度手に入れようとするだけの物語ではないはずだ。もちろん消えた女性だけのことではない。失われたのは、自分の前からいなくなった女の向こうにある何かだ。それは過去のある時まで確かにあったものだ。

 『1973年のピンボール』で、「僕」は消えた女性「直子」の話に出てきたある駅を、彼女の痕跡を求めるかのようにそれから四年後の1973年にひとりで訪れる。だが結局むなしく帰ることになり思い知らされる。

 
帰りの電車の中で何度も自分に言いきかせた。全ては終っちまったんだ、もう忘れろ、と。そのためにここまで来たんじゃないか、と。でも忘れることなんてできなかった。直子を愛していたことも。そして彼女がもう死んでしまったことも。結局のところ何ひとつ終ってはいなかったからだ。


 忘れるため、終わらせるために来たのに、「終っちまった」ことを受け入れられなかった。逆に「何ひとつ終ってはいなかった」ことを再確認しただけだった。「僕」のなかで「直子」という青春、そうした時間性は死んでいないし、終わっていないのである。

 「僕」は1970年の冬、すでに「直子」がいなくなった世界で、あるピンボール・マシーンの呪術性から抜け出せなくなっていた。「僕」はそのマシーンを「彼女」と呼び、「彼女」からの呼びかけに答えるように対話(プレイ)する。何度も何度も(リプレイ)ハイスコアを目指す。「彼女」は「あなたは悪くなんかないのよ、精いっぱいやったじゃない。」と言うが、「僕」は「違うんだ。僕は何ひとつ出来なかった。指一本動かせなかった。でも、やろうと思えばできたんだ。」という後悔の念から抜け出せない。「やろうと思えばできた」という思いが「僕」にピンボールを何度もやり直させているのだろう。しかし、それはいずれにしろ「終わっちまった」ことであり、「やろうと思えばできた」かどうか、そうした「過去」は不可知ゆえにどこまでいっても回収できないものだが、「でも何ひとつ終っちゃいない、いつまでもきっと同じなんだ」とひたすら得点を高めることを目指しつづける。「彼女」に「終ったのよ、何もかも」と告げられたとしても。
 だから「彼女」がお払い箱になり行方知れずになったあとも、「しかるべき時がやってきて、誰もがピンボールをやめる。ただそれだけのことだ」といいながら、1973年になってもそのピンボールを探し出すことになるのである。「しかるべき時」がやってきても「僕」は「彼女」との対話(プレイ)を求めていたのだ。

 だが、最後にいたって「僕」は「直子」(「古い夢の墓場」にあったかつて失われたピンボールの「彼女」=「僕」が失ったもの)と「再会」し、次のように感じる。

 
僕たちが共有しているものは、ずっと昔に死んでしまった時間の断片にすぎなかった。それでもその暖い想いの幾らかは、古い光のように僕の心の中を今も彷徨いつづけていた。そして死が僕を捉え、再び無の坩堝に放り込むまでの束の間の時を、僕はその光とともに歩むだろう。


 「僕」はここで、お互いの間に流れていた時間は、もうずっと前に死んで砕片となってしまったことを実感する。「終っちまった」ことを実感するがゆえに、そこで失われていったものが放つ「古い光」は、死ぬまで「僕の心の中」に生きつづけるだろうことも確認される。それでも「僕」は「終り」の方へ歩み出すのだ。「彼女」が「ゲームはやらないの?」と訊いても、「やらない」と答える。再びスコアを求めることはしないのだ。「ベストスコア」をそのままにしておくためにも。そうして「彼女」にはじめて「さようなら」を告げる。

 
僕はピンボールの列を抜けて階段を上がり、レバー・スイッチを切った。まるで空気が抜けるようにピンボールの電気が消え、完全な沈黙と眠りがあたりを被った。再び倉庫を横切り、階段を上がり、電灯のスイッチを切って扉を後手に閉めるまでの長い時間、僕は後を振り向かなかった。一度も振り向かなかった。


 「僕」はもう「後を振り向かなかった。一度も振り向かなかった」のだ。「終っちまった」そのあとで、なお終れなかった「僕」は、ようやくその「終り」をみずから終えたのである。

 一方で対照的なのは、「僕」と同じように「直子」のことを引きずっていると思われる「鼠」の存在である。彼の心は短い夏が消えた後も、「僅かばかりの夏の名残りの中に留まっていた」し、「鼠にとっての時の流れは、まるでどこかでプツンと断ち切られてしまったように見える」のだ。そのようにしてすでに「死んだロープ」を手にしながら、導かれることもなくどこにもたどり着けないでいる。

 
ひとつの季節がドアを開けて去り、もうひとつの季節がもうひとつのドアからやってくる。人は慌ててドアを開け、おい、ちょっと待ってくれ、ひとつだけ言い忘れたことがあるんだ、と叫ぶ。でもそこにはもう誰もいない。……部屋の中には既にもうひとつの季節が椅子に腰を下ろし、マッチを擦って煙草に火を点けている。


 「ひとつの季節」が終わったなら、当然そこから抜け出さねばならないはずである。しかしそれは唐突に、あまりにも唐突にやってくるために俄かに受け入れて何もいわずにそこを出てゆくことは難しい。そうしたことに自覚的でなければ、いつも何か「言い忘れたことがある」気がするし、言い得なかったものを感じてしまうだろう。そうして「鼠」はついにそのまま何かを言わずに立ち去ることはできなかったということだ。
 そのことは冒頭で語られる「僕」の逸話に象徴的に示されている。たいていの物事には「入口があって出口がある」が、そうでないものもあるとして「鼠取り」を例に出すところである。ある時「出口」のない鼠取りを仕掛けた結果、当然のこととして若い鼠を死なせてしまうのだが、「僕」はそのことの悔恨から「物事には必ず入口と出口がなくてはならない」ことを考える。そして「出口」を抜け出せず死んだ若い鼠のように、この物語の中で「鼠」には「出口」は見出せない。
 むろんピンボールの呪術に入り込んで出られなくなった「僕」も同様ではあった。「孤独な消耗」をつづけ、「取り返すことのできぬ貴重な時間」を失った。「僕」は「これはピンボールについての小説である」と言い、あるピンボール研究書の序文を引いている。

 
ピンボール・マシーンはあなたを何処にも連れて行きはしない。リプレイ(再試合)のランプを灯すだけだ。リプレイ、リプレイ、リプレイ……、まるでピンボール・ゲームそのものがある永劫性を目指しているようにさえ思える。


 「ピンボール・マシーン」は「ある永劫性」を目指すものであり、「ひとつの季節」から抜け出すものではなく、むしろそれを阻害する呪術装置としてある。
 これが「ピンボールについての小説である」のもそのためである。この『1973年のピンボール』という小説について「僕」は、そうした「ひとつの季節」の終焉を確実に抜け出るために書かれるのだとその意義を述べている。「一九七三年九月、この小説はそこから始まる。それが入口だ。出口があればいいと思う。もしなければ、文章を書く意味なんて何もない」と。
 だからこそ「僕」が「僕は後ろを振り向かなかった。一度も振り向かなかった」と言うとき、「僕」はもうピンボールのリプレイをすることはないのである。そうして「僕」は「ひとつの季節」を出て行ったのだから。「1973年のピンボール」という「永劫性」からの「出口」を。
 それは「僕」の「祭りのあと」の、「僕」みずからによる鎮魂の物語なのである。(R)

2010年11月12日

失われた祭りをもとめて〜乙一『さみしさの周波数』と新海誠『秒速3センチメートル』

 先月すでに<アフター・カーニバルとは?>のカテゴリで「失われた祭りをもとめて〜終焉を廻るまなざし」という連載記事を4回ほどつづけて終了したのだけれど、まだ色々と補足したり書くべき事が残っているので、また今回からお付き合い願います。
 どうでもいいのだけど、そもそもこの連載は約7年前このブログの前身HP「アフター・カーニバル」を立ち上げた際の第一回記事の予定にあったものを今さら書いている次第である。たしかうっすら載っけたものを削除したような気がする。しかし今頃になってようやく書くべきもののツケを払っているような感じである。

★乙一『さみしさの周波数』と新海誠『秒速3センチメートル』

 乙一の小説『さみしさの周波数』に「未来予報」という短編が収められていて、あらすじはこうだ。

 小学生の頃「僕」と清水は、どちらも目立たない存在だった。お互い家が近所同士なだけで付き合いがある間柄でもなかった。ある日不思議な予知能力があるという転校生に「お前たち二人、どちらかが死ななければ、いつか結婚するぜ」と告げられる。
 それ以来「僕」は彼女と前よりいっそう距離を置くようになってしまった。中学卒業を経て高校は離ればなれになり、疎遠なまま成人した。「僕」は人生から落ちこぼれて行き、進学もせずフリーターとして社会の底辺を這って日々を無為に過ごしていた。「未来には不安が待ち構えている。過去には後悔がたたずんでいる。人生を送るというのは、どんなに難しいことなのだろう」と。そんな中で清水のことを想う時間だけが灯火になっていた・・・・・・。

 それはノストラダムスの予言のように、未だ来ない「未来」が現在の自分の人生を色づけする。「予言の成就」を期待するわけではない。にもかかわらず「僕」は「予報」されたという過去の事実、過去の物語の時制を受けていく。
 そうして前後不覚になるような孤独の中、清水の存在を唯一のよりどころとしながら、「だからといっていつまでもそうしていてはいけない。そのような実体のないものからは、いつか自立しなくてはいけない。そして、そのいつかというのを先延ばしにしてはいけないのだ」と「僕」は動き出す。だがその矢先に清水は病没する。
 回想形式の「僕」の物語の終りは次のように締めくくられる。

 
僕たちの間には言葉で表現できる「関係」は存在しなかった。ただ透明な川が二人の間を隔てて流れているように、あるような、ないような距離を保っていた。
 しかし、僕は清水のことを考えるとき、まるで何十年も連れ添った後、寿命で眠るように死んでしまった妻へ想いを馳せるような、懐かしい気持ちになるのだ。


 やや感傷的に感じられるかもしれないが、ここで重要なのは明確な「関係」性がなかったにもかかわらず、「僕」にはそれが決定的な意味を持って生きられてきたということだ。「僕」は現実には人生の底辺をさまよいながら、小学生の頃の「未来予報」が暗示したものから規制されていた。「どちらかが死ななければ、いつか結婚する」ということは、二つの可能性を持っている。それは予言者によれば「隣り合わせで、不確定だった」のだという。あの時ああしていたら別の未来がありえたんじゃないかという後悔と疑念。不確定な「未来予報」は「僕」にかかった一種の「呪い」である。

 新海誠のアニメ『秒速5センチメートル』にも「祭りのあと」を抜け殻のように空虚に生きている男が主人公である。
 東京の小学生・遠野貴樹と篠原明里はお互いに対する「他人には分らない特別な想い」があった。しかし卒業後に明里は栃木へ転校しそれきり会えなくなる。中1の夏には明里から手紙が届くが、貴樹もまた鹿児島へ転校してしまう。「もう二度と会えなくなるかもしれない」と思った貴樹は、明里に会いに行く。二人は再会し、そして別れ、ついにそれきりになる。

 ここでの「祭り」とは、互いにとって「他人には分らない特別な想い」を共有しあったという、人生における初めての「絆」であり、ヒロインとのそのような関係性である。だがそれは絶対的なものではないし、ごく微妙なものでしかない。またすでに断念されたものでもある。だからこそ貴樹はなんとか少年時代の恋愛未満の恋から遠く離れて、今はもう前に進もうとしてきた。しかし、お互いの中で共有されていたはずの「いつかまた一緒に桜を観ることが出来る」という「あの日の黙契」が心の桎梏として自らを成熟させないでいる。「あれほどまでに真剣で切実だった想い」はもう消えたのに、「季節よ移ろわないで One More Time」と街をさまよい、「言えなかった好きという言葉」は痣になって消えない。だからむろん「あの日の僕」が鎮魂されることもないのだ。
 街は彼女の幻影を探し求める空間でしかなく、ふと踏み切りの向こうにすれちがった彼女らしきその人を振り返る。だが、「今振り返れば、あの人もきっと振り返る」という黙契は果たされない。貴樹はこれからも「ずっと昔の夢」を見つづけるだろう。こうした物語構造においては、貴樹にとって彼女は永遠に踏み切りの向こう側に消えてはまた現れる存在に留まり、失われた黙契の夢想を抜け出ることはできないのである。(R)

2010年11月09日

「さらば八月のうた 青春との訣別」劇団MOP解散ドキュメントを観て

 NHKドキュメンタリーだ。つかこうへい影響下でマキノノゾミが26年前に旗揚げした劇団の「青春の幕引き」の現場を追ったものだ。
 劇団員にはTV等に出演してるものもちらほらいるが、たいがい人生の軌道に上手く乗れていない、あるいは乗ろうとしてこなかった者たちだ。ほとんど人生に負けそうになってる者もいる。いわゆる普通の大人の社会生活をあまり歩んでこなかった者たちばかりなのである。40や50になろうかというときにいまだに続くバイト。不安定で困窮する生活。娘の将来を憂う親たちは結婚を強く迫る。それでも夢の為に。彼らにとっての「面白い時間」=「青春」のために。そう、演劇に身を捧げているのだ。
 「もう少しいいかな・・・」でここまで来てしまったのだという。「終わらせられなかった」というのが本音だと。しかし潮時だという想いはあって、それぞれの青春の終焉を迎えることになった。

 彼らは何を引きずってきたのだろうか。その拘りつづけた何かが残ったのだろうか。それは極めて微妙なものだ。
 かつてマキノとともに旗揚げをした看板役者は18年前に退団して去った。劇団員人生に先を見いだせず限界を感じたのだ。職に就き結婚して家庭を持った。そのことに後悔はなく演劇に未練はない。劇的じゃない普通の物語としての「実生活」にリアルを感じるようになったのだという。それは団員たちにはなかなか手にできない居場所である。
 何か村上春樹『風の歌を聴け』の最後を思い出す。「鼠」は相変わらず小説を書き続け、「あらゆるものは通りすぎる。誰にもそれを捉えることはできない。僕らはそんな風にして生きている」ことを思う「僕」は結婚して故郷を去ったのだった。
 残ったマキノは「やめて去った瞬間から過去になりすべては消える。何も残らない。演劇はやり続けていてこそなのだ」と言う。ということは、少なくとも劇団として走り続けることをやめる今、そこで引きずってきたもの=拘りつづけてきたものも、ある意味では消えるということだ。演劇人生は続くとしても。

 それでも、去ったかつての看板役者は最終公演を観て、走り続けてきた団員たちをまぶしく思う。自分と舞台上の彼らとの距離は遥かなものだと。そこにはとにもかくにも走り続けてきた者にしか見えない風景があると。(R)
posted by R at 19:40| Comment(0) | TrackBack(0) | エッセイ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年11月08日

『白線流し』〜1996、1月〜3月の頃

 それはまだ911テロのなかった時代。セカイがまだ平板化し透明化する前のことだ。スピッツは『空も飛べるはず』で、そのセカイのことを「ゴミできらめく世界」と歌っていた。「ゴミ」のようなセカイであっても、そこにはある陰影が残っていた。「幼い微熱」や「隠したナイフ」といった言葉の、まさにあどけない微熱のような、ガラス細工のような危うい自己措定によって、自己とセカイを隔てていた。「色あせながら/ひび割れながら/輝くすべを求めて」いた。そこでは「色あせ」ることや「ひび割れ」ることがまだ出来たのだ。自分という現象が、色あせるだけの色彩も、ひび割れするだけの外殻も備えていたということだ。それは、すでにして色あせているし、輪郭の乏しいセカイではひび割れることすらできないというゼロ年代に出現した状況とどのように連続し断絶していたのだろうか。失われたとされる90年代。ともかくもそこには「ゴミできらめく世界が/僕たちを拒んでも/ずっとそばで笑っていて欲しい」と思えるような二人のセカイがあった。

 久しぶりにドラマ『白線流し』を全話見返してみた。このドラマをリアルタイムで見ていた頃、彼らと同じ高校生だった。つまり役者たちも含めて完全に同世代だったのだ。当時の話題となった青春群像劇だが、それぞれの心の機微を追う描写にわれわれのリアルタイム世代の共感を呼び、またたくまに世代を代表するドラマとなっていった。(どうでもいいが冒頭の電車内に出てくるYJの表紙が中森明菜なのはさすがにどうかと思った。事実それが表紙だったんだろうけど)

 「白線流し」とは卒業の儀式だが、そのタイトルからしても、「卒業」が最終的な焦点であることは明らかだ。やがて来る「別れ」が前提にあり、究極的にはそこへいたる過程としてすべてのドラマがある。主人公の園子がつぶやく「もう少しみんなで子供でいたかったな」という言葉は、彼女の立ち位置を明白に物語っている。最終話で、みんながそれぞれの列車に乗り込んで順次ばらばらに別れていく駅のシーン。園子は最後まで見送る人であり、取り残される人でありつづけた。そうした「別れ」を通して、彼女は自分の生き方を決める。「見送る人」という立場を引き受けて高校教師を目指すのである。
 当時、なんとなく自分が共感を持って見ていることを感じていたものの、何に共感していたのか多分気づいてなかったと思う。それは今となっては分からない。しかし今見返してみると、おそらくこうした、あっというまに時間が過ぎてゆき「取りのこされる感覚」への戸惑いだったと思う。

 ちなみに音楽の岩代太郎は、前年にアニメ『H2』の仕事で好きになったが、『白線流し』で稀にみる才能に一気に心奪われた。芸大作曲家の修士を首席で出るだけの繊細かつ知的であまりにも優秀なオーケストレーションがなければ『白線流し』は成立していなかっただろう。この時期の岩代は『フランダースの犬』や『ロマンシング・サガ3』のオーケストレーションで傑出した仕事を立て続けに生み出している。その旋律の処理はリズム面でも和声面でも、時にあたかもベートーヴェンのような「正解」の姿を見せて完璧な筆運びを感じさせたものだ。
 その『白線流し』のメインタイトルは今も高校の卒業式で使われている。答辞の時にバックで流れ出すとかなりぐっとくるのだ。(R)
posted by R at 23:49| Comment(0) | TrackBack(0) | エッセイ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年11月07日

『機動戦士ガンダム デイアフタートゥモロー カイ・シデンのメモリーより』

 ガンダム「30周年」企画で、『ガンダムUC』と平行するように、ファーストの歴史を非常に興味深い角度から扱っている。

 設定は一年戦争終結から約4半世紀たった時代。連邦管理下にあるかつてのジオンの拠点サイド3にて、何やら万博的なイベントを思わせる「一年戦争記念館」と大回顧展が開かれる。展示は主にMSやWB(の残骸)である。そこにオブザーバーとして往時を知るカイ・シデンが招聘される。われわれの現実で言うと今現在から湾岸戦争時代を振り返る距離感に近いだろうか。

 というわけで、一年戦争展を通してファーストという過去の歴史が通覧されたり回想されたり解釈されたりしていくことになるわけで、ある種メタ・ヒストリカルな視点を持つことになる。そしてそこには必然的に「記憶」の問題、「事実」と解釈・記述の問題、などといったような「歴史」をめぐるおなじみの問題群が孕まれてくるのである。そもそもファースト・ガンダムにはそれこそ30年の歴史の蓄積と補完があるわけで、ガンダム・シリーズそのものがある意味で歴史記述の営みなのである。ともかく、そうした視座がこの設定を意義深いものにしているし、また本作を批評性のあるものにしている。

 たとえばWB展に連邦のノーマル・スーツが展示されていて、そこにアムロと同じ白モデルがある。ナビゲーターは、これはアムロの「パーソナル・カラー」と説明するが、カイは首をかしげる。「白なんてたくさんあったじゃないか」と。だが「いや、たしかに戦時中はアムロくらしか見かけなかったかな・・・」と言い直すと、ナビゲーターは「では間違ってはいないということですね」と事実確定してしまう。カイは「そうは言わないが・・・」とさらに首肯しかねている。

 つまり、そこには「事実」と記述され解釈された「史実」に微差があるのだ。「間違ってはいない」と整理された「回顧展」は、カイ個人の記憶と微妙に齟齬するのである。そういう意味では「回顧展」によって確定される「パブリック・メモリー」は、間違ってはいないが、正しくもないのだ。だからこそ、「カイ・メモリー」によってそれは補正・補筆されるべきなのである。ちなみにWB展本部の「公式データ」ではスレッガー中尉は存在しないことになっているらしい(この辺りが今後の展開の鍵だろう)。また「ハロ」のオリジナルに関する記録はカイよりも、制作会社の公式情報が正確であることが判明したりもする。

 ともあれ、カイ・シデンの回想「カイ・メモリー」によって、アムロの白スーツが、ガンダム・パイロットのひいてはアムロの「パーソナル・カラー」として誕生したわけではない経緯の一端に触れることが出来る。結果的にそのように見えるだけで、「事実」の発生起源はそのようなアムロありきの文脈とは異なる要因・要素を持っていた。

 ガンダム・シリーズはたしかにトリビアルになりがちなのかもしれないが、このようなある意味では些末な細部を、いわば「集合的記憶」のあり方という視座において描くことが、むしろ戦争の「記憶」の重要な側面に光を当てている気がするのだ。というわけで今のところ注目している次第である。(R)
posted by R at 13:21| Comment(0) | TrackBack(1) | マンガ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年11月04日

『戦場のヴァルキュリア』

 ずいぶん前に序盤を観たままになっていたが、やっとのこと終りまで観た。第一次大戦のヨーロッパ世界がモデルとなっている架空戦記物。前半の小隊の牧歌的日常と鮮やかな作戦実行が楽しいが、戦争物の必然か例によって中盤から物語は急に重苦しくなり、あれよあれよというまに悲劇が重なってそのまま引き返すことなくクライマックスへ突入し超常的な終幕を迎えることになる。イラスト風の人物・兵器ともに画の安定性と彩色そしてデジタルの動きは程よい仕上がりだったと思う。

 音楽は、モチーフの魅力はないものの、オーケストレーションに迫真性と臨場性を与えることにおいて秀でている人なので、いかにも戦記らしい曲が揃っている。ドラクエやFFを編曲したものを聞いたことがあるが、スケールの大きいオーケストレーションが上手い人だなと感じた。初回を観たとき引き込まれたのは音楽に由来するところがかなりあった。

 第17話でのまさかの唐突な悲劇は、賭けだったと思う。それまで積み上げていったものが台無しになりかねない。その後もそれに似たところがいくつかあって、制作陣のあっさりとした意識がやや気になった。終盤、軍事力がヴァルキュリア人の力によって無力化していくのは、ある種のインフレであろう。またそれに伴ってアニメ表現も急にドラゴンボールじみてきたのが残念だった。その上ダモンのような胡乱な貴族将校が軍のトップなのは仕方ないとしても、仮にも正規軍の参謀陣に虫けらほどの脳みそしか見あたらないのは少々、脚本の品位に欠ける気がする。

 それでもこの作品世界は好きだし、中盤までは戦略・戦術を適度な空間説明とともにしっかり見せてくれる(戦闘機がいっさい出てこないから基本的には地上戦となる)のでかなり気に入った。こんな感じで『皇国の守護者』も観てみたいものだ。率直に言って、『風の谷のナウシカ』のトルメキア軍の侵攻を想起させるものがあってそれだけで心躍るのだ。ちなみに制作陣には『魔女の宅急便』や『猫の恩返し』の森田宏幸がいる。

 それにしても(おそらく撃たれたはずの)イェーガーはどうやって助かったのか。それと最後の最後で戦死させられてしまったファルディオを悼むシーンがないのはあんまりじゃないのか。(R)
posted by R at 00:04| Comment(0) | TrackBack(0) | アニメ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年11月02日

『夕映え少女』

 山田麻衣子の演技が見たかったのだが、高橋真唯もよかった。山田麻衣子ははかない演技をさせたら蒼井優や多部未華子やらに並ぶと思ってるのだけど、未だに一般受けはしない人だ。でも『青い鳥』の頃から傑出してたと思う。

 学生監督が撮ったものだが、撮影監督がいいのか映像が素晴らしい。演出も繊細で心地よく時間が流れるように配慮されている。
 山田と高橋の二人が制服姿や着物姿で並びあうところを、ひたすら美しく撮ろうとしていて「ああ、短編映画はこうであってほしい」と思うところを、きちんと辿ってくれるので、見ていて好感しか持たなかった。特にしゃぼん玉のシーンが好きだ。
 川端の原作も川端らしい少女小説として味わい深い。(R)
posted by R at 02:54| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年11月01日

『30DAYS NIGHT』

 これこれ。これぞB級。いやー好きですよ。じわじわと味わい深くなるこの状況と絵柄。

 アラスカのアメリカ最北の居住区の街。今日から「極夜」に入り、30日間ずっと夜が続く。そこにあらわれる人々を恐怖の底に陥れる絶対的な存在者たち。陸の孤島とあまりにも絶望的な状況。

 「サイレントヒル」を思い出させる。まぁあっちのほうが色々と好みだけど、この常闇に吹雪が激しく荒れ狂う中、かすかに見え隠れする超越者の姿といったら。向こうの屋根の上や建物の陰に・・・。闇に茫洋と浮かぶ製油所の不穏なたたずまい。これはライティングが優れていると思う。アングルも真下を舐めるように俯瞰される殺戮シーンの光景は、こういうジャンルでは未見のものだし、出色の出来かなと。万人が面白いわけではない映画の典型。(R)
posted by R at 00:17| Comment(0) | TrackBack(0) | エッセイ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年10月31日

映画『時をかける少女』〜失われたどこにもない時間を駆けめぐる青春映画

 傑作。泣きそうになった。素晴らしすぎる。予告で仲里依紗が制服姿で走るスクロール・ショットの疾走感を目にしたときから予感はあったが、近年観た邦画では間違いなくベスト1にあがる。脚本も面白い。これだけ過去の作があるリメイクで、これだけのドラマを紡げたことに拍手を送りたい。

 まず昭和のはんぱないディテールの再現力は『三丁目の夕陽』を軽く凌駕している。いやぱっと見のゴージャスさCG力は向こうが上だろう。というかこちらはCG使用した痕跡すらあまり見あたらない。しかし『三丁目の夕陽』はあまりにもどこにもない「昭和空間」だったが、本作は確実に地続きだったかつての世界の肌ざわりをまとっている。単純に手腕があると言っていい。是非この監督を覚えとこうと思う。

 なんといっても仲里依紗がヒロインとしてこれ以上ないほどの存在感を放ち際だっている。涼太のバスが去ってゆく瞬間、まさにSF故のかなしみは頂点に達して、しかもこれぞ青春映画という痛みを彼女は体現していた。

 自主映画のラストに出てくる最後の桜のつぼみをひとつだけ咲かせないところとか、追加撮影したラストショットではヒロインが後ろ姿のみで出てくるので、何も知らない現代ではヒロインだと認識されないとか、とにかく色々と細かいところがこちらの内部を刺激しまくるのであっというまの2時間となる。いやぁ映画館で見るべきだった。

 ところでアニメ版にも「ゴールドベルグ」が主題的に使用されてたけど、今回も一部使用されたのは何かあるのだろうか?(R)
posted by R at 02:27| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年10月29日

アフター・カーニバル深夜便〜第26回生放送の告知:村上春樹『東京奇譚集』から「どこであれそれが見つかりそうな場所で」を読む〜

10月30日(土)25:00(10月31日の午前1時)開始

村上春樹『東京奇譚集』から「どこであれそれが見つかりそうな場所で」を読む

会場
http://www.ustream.tv/channel/siz-ashizu


"!?" いこうぜ……? "読解"の"向こう"側へ……

というわけで次はこれで。人が失踪して戻ってくる話です。(イワン)
posted by SIZ at 07:01| Comment(0) | TrackBack(0) | 生放送の告知 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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