(この記事は2005年9月24日に書かれました)
(ストーリー)
徳川の次期将軍を決めるため、伊賀、甲賀それぞれ手練れの忍が五人ずつで戦うことになる。
原作は一応山田風太郎の『甲賀忍法帖』ということになっているが、到底信じられない。『甲賀忍法帖』は読んだことがないが、少なくともぼくの知っているヤマフウとはだいぶ違う。おそらく原作通りなのは伊賀と甲賀の忍びが戦うというそこだけなのだろう。しかしこの設定は好きだ。
伊賀と甲賀には400年前から忍者の精鋭部隊を作るための隠れ里があって、それぞれ鍔隠れ、卍谷という。鍔隠れは川辺にあり卍谷は切り立った谷にあり、小さな集落でしかないが、その忍術は一騎当千の強さを誇る。鍔隠れと卍谷は憎しみ合っているが服部半蔵の命によってお互いを敵として戦うことを禁じられていた。しかし両里の術を脅威と見た徳川家康と南海坊天海が一計を案じ、次期将軍を決めるために両里が五名ずつの手練れを出して、戦い合うことを命じる。つまり伊賀が勝てば竹千代、甲賀が勝てば国千代が次期将軍となるというわけで、伊賀からは次期統主の朧を筆頭に、300年を生きているという薬師寺天膳、髪を操る天才忍者・夜叉丸、毒蛾を操る蛍火、野生児・蓑念鬼の五名が、そして甲賀からは次期統主の甲賀弦之介、盲目の室賀豹馬、体内で毒を生成する陽炎、棒手裏剣の名手・筑摩小四郎、変幻自在の如月左衛門の五名が指名され戦うことになる。この設定だけでもうすっごい楽しみである。ワクワクする。しかも両里の次期統主である朧と弦之介が恋仲になるのである。要するに『ロミオとジュリエット』なのである。こういうベタベタなのも好きだ。すっごい好きだ。大好きだ。
というわけでかなり楽しみにして見に行ったのだけど、出来はイマイチだった。一言で言って「薄い」のである。なぜ両里はいがみあうのか、また朧と弦之介はどの程度愛し合っていたのかが描かれていない。両者が結局闘いあうことになるのも予想はつくけど、必然性に薄い。ふたりが何を夢見たのかも描かれていない。薬師寺天膳の望みや陽炎の嫉妬、筑摩小四郎のコンプレックスに蛍火の献身などどれもドラマになる要素を持っているだけになぜああも薄めてしまえるのか不思議だ。CGの使い方も下手で、あんな風に使うくらいなら使わないほうがマシだろう。
良いところもたくさんあるので本当にもったいない。衣装もいいし、相当ロケハンしたらしく背景に来ている自然の風景も良かった。両里のビジュアルもいい。特に卍谷のセットはかなりかっこよかったと思うわけで、要するにひとつひとつの絵はすごく良いのだ。しかしそれを活かすだけの力量が監督にない。あれだけのセットを組みながらほとんど作品に活かされていないし、小道具も思わせぶりに登場しながら全然活躍していない。かなり濃いキャラクターを造型しておきながら、ほとんど使い捨てである。もったいない。大量消費時代の権化みたいな作品である。
しかしそれにもかかわらず実はけっこう面白かった。まず夜叉丸と筑摩小四郎の闘いはカットでごまかしたりCG使ったり早回し使ったりあるものの、悪くなかったし、薬師寺天膳役の椎名桔平はさすがに貫禄があって楽しめた。そして何と言っても仲間由紀恵である。実は最初のほうはなんか肌が荒れているし、目の下の隈はメイクでもごまかしきれてないし、全然魅力を感じなかったのだけど、最後のほうは不覚にもちょっと感動してしまっていて、これはもう仲間由紀恵の演技によるものだと思う。実際、演出はダメだし、どう見てもかなりチープなシーンのはずなのだけど、どういうわけか説得力があるのだ。
まあ、そんなわけで役者の頑張りに救われた作品でした。でもやっぱりこういう話は好きです。(A.I.)
2009年07月02日
2009年07月01日
シン・シティ(ロバート・ロドリゲス)
(この記事は2005年10月11日に書かれました)
(ストーリー)
悪い奴らが撃ったり撃たれたり。
すごい良いというほどではないが、面白かった。しかしロバート・ロドリゲスはアホな監督だな。
とにかくやたらと豪華なキャストで、ブルース・ウィリス、ミッキー・ローク、クライヴ・オーウェン、ジェシカ・アルバ、ベニチオ・デル・トロ、イライジャ・ウッド、ブリタニー・マーフィ、デヴォン青木、ジョシュ・ハートネット、マイケル・クラーク・ダンカン、ニック・スタール、マイケル・マドセン、ジェイミー・キング、ルトガー・ハウアーとこれだけ見てもやたらとメンツが濃いことが分かる。
個人的にはイライジャ・ウッドとベニチオ・デル・トロの怪演とジェシカ・アルバのすっごいセクシーなダンスだけで満足。特にジェシカ・アルバは最高でした。(A.I.)
(ストーリー)
悪い奴らが撃ったり撃たれたり。
すごい良いというほどではないが、面白かった。しかしロバート・ロドリゲスはアホな監督だな。
とにかくやたらと豪華なキャストで、ブルース・ウィリス、ミッキー・ローク、クライヴ・オーウェン、ジェシカ・アルバ、ベニチオ・デル・トロ、イライジャ・ウッド、ブリタニー・マーフィ、デヴォン青木、ジョシュ・ハートネット、マイケル・クラーク・ダンカン、ニック・スタール、マイケル・マドセン、ジェイミー・キング、ルトガー・ハウアーとこれだけ見てもやたらとメンツが濃いことが分かる。
個人的にはイライジャ・ウッドとベニチオ・デル・トロの怪演とジェシカ・アルバのすっごいセクシーなダンスだけで満足。特にジェシカ・アルバは最高でした。(A.I.)
2009年06月29日
スウィングガールズ ファースト・ラスト・コンサート(矢口史靖)
(この記事は2005年5月16日に書かれました)
(ストーリー)
スウィングガールズの最初で最後のコンサート。
去年、『スウィングガールズ』を観に行った帰り、一緒に観た彼女に「トロンボーンを吹いてたメガネの女の子が可愛かった」と言ったら、「やっぱりね。絶対あの子だと思ったよ」と散々に言われたわけだが、本仮屋ユイカという名のその子は、その後NHKの朝の連続テレビ小説のヒロインに抜擢されたりして大活躍しているわけで、要するにあの子が一番可愛いと思ったのは別にぼくが眼鏡っ子好きだとか大人しめの子が好みだとかそういうこととは関係なくて、ぼく自身の美的感覚がごく平均的だったからだと思う。
あの映画の最後に演奏される「シングシングシング」という曲で、本仮屋ユイカが物凄くかっこよくトロンボーンを独奏する場面があって、あのユイカ嬢の勇姿がもう一度見たくて今回このDVDを借りてみたわけだけど、さすがに売れっ子になっただけあって、17人のスウィングガールズのメンバー中よりにもよってユイカ嬢のみこのコンサートには参加していないのであった。これでは借りた意味がほとんど無いに等しい。
しかしとりあえず他の女の子たちも可愛らしくて、何はともあれ若くて可愛くて元気いっぱいの女の子たちが一生懸命に何かをやっている姿を見るのは決して悪くない。うん、悪くない。
だからまあ実はけっこう楽しく見たし、全員で演奏するのはこれで本当に最後だということもあって途中からみんな泣きながら演奏していて、そういうのもなかなか悪くなかった。もちろん泣きながら演奏しているからあとのほうになるにつれて演奏自体はひどくなっていくのだが、まあそういうことを言うのは野暮だろう。とにかく青春真っ直中という感じで、ひどく鬱屈とした青春時代を過したぼくとしては羨ましいやら切ないやらで、こっちまで胸が痛かったです。
去年の2月あたりにぼくはこのサイトで「今年は邦画が楽しみだ」と書いて、「デビルマン」「スチームボーイ」「ハウル」「アップルシード」「キャシャーン」なんかを挙げたのだけど、それらぼくの期待したアニメ・特撮作品はことごとく期待を外し、全く期待していなかった「スウィングガールズ」「下妻物語」「誰も知らない」「花とアリス」が大変面白かったのだから、つくづくぼくの予想も当てにならないものだと思った。それにしても去年から今年にかけて観て面白かった「スウィングガールズ」「下妻物語」「誰も知らない」「花とアリス」の四作品は、邦画であるという以外ほとんど共通項が無いわけだけど、よく考えてみると2点ほど共通項を持っていることに最近気づいた。まずひとつは要するに可愛い女の子が出てくるという身も蓋もないようなことで、要するにオマエは可愛い女の子がでてりゃあ満足なんだろと思われるかもしれないし、まあその通りなんだけど、ともかくこれは面白い映画には重要な要素である。
もうひとつはどの映画も同人誌的であるということで、これは特に「スウィングガールズ」に顕著だと思う。つまりこの映画はジャズなんて知らない今時の女子高生が、徐々にジャズの魅力につかれて最終的にみんなでジャズバンドを組むという話なのだけど、これはほとんどこの映画の制作の道のりをそのまま辿ったようなところがある。つまり実際の映画制作も音楽に関しては素人の役者を連れてきて数ヶ月に渡って特訓させ、最終的にはコンサートで演奏するわけだし、事実ビデオのパッケージには映画内の演奏は役者たち本人によるものですという注意書きがあるし、ぼく自身にしても登場人物たちの背後に実際の役者の努力を重ね合わせて見ていた。あるいは「誰も知らない」が演技指導など行わず、ほとんど子役達の素の行動や会話をそのまま撮っているように、作品が作品として構築されているのではなく、制作現場の雰囲気を重ね合わせることができるのも同じことだろう。また、「花とアリス」がポッキーのCMから出てきた企画であるように、映画は観る側を楽しませるものというよりもスタッフやキャストがまずその現場を楽しみ、その楽しさを客にお裾分けするという傾向をこれら4作品には強く感じる。つまり作品は独立した作品として扱われることをすでに放棄し、その背後に隠れているべき役者のパーソナリティやあるいは制作秘話などといったものを込みで読まれることを前提としている。DVDの本編よりもメイキングのほうが面白い映画があるという逆転した状況を逆手にとり、メイキング映像のような作品を作っているのである。このような傾向は例えば、本来鑑賞する側に意識されてはならないはずのカメラの存在をわざと前面に押し出すような演出(手ぶれやピンぼけの多用。不自然なカット割りなど)にも通じるものを感じる。
このような状況は、作り手と受け手の「お約束」と言われる共犯関係を許してしまう日本映画の馴れ合い体質を如実に反映していると言えるかもしれず、またそのような馴れ合いをひとつの「表現」であると強弁するふてぶてしさの表れなのかもしれず、同時にこれは日本映画の活路かも知れない。(A.I.)
何を隠そう、じつは今ちょうど「スウィングガールズ」のサントラを借りて聴いているところなのでした。
僕は昔から音楽の中に埋もれて、つねに音楽をやりながら生きてきたのだけれど、僕にとって音楽とは二人以上でやるものである。一人でやるものでは基本的にない。歌でも楽器の合奏でもそこには「合わせ」の作業を通じた、ある秘鑰があるのである。個々のそれぞれは違う仕事をしていながら、全体としてはまとまっているという、個と全体の関係性の妙が何ものにも変えがたい喜びとなるのである。
ギターなんかを弾くひとは特にそうだが、誰でも楽器を弾くものは、その楽器を一番かっこよく弾くためにどうすればいいかという工夫を試みる。主役の上野や本仮谷はその辺が様になってくる過程を、いくつかのTVドキュメンタリー(なんかいくつもあったのでどれがどれやら覚えてないが)で見ることができた。ドラムの子の苦労は並大抵でなかったと思う。あれは一番大変なんじゃないかな。たとえセンスのある人でもドラムを、しかもジャズのリズムをキープするのは気の遠くなるような話だからだ。手首が使えるようになるまで、血のにじむような練習。ひたすら練習。できないのに練習。あのカツラの娘はたまにリズムが揺れてるけど、ライドやハットが叩けるようになり、全部の手足が別々のリズムを刻めるようになっている点で、がんばったなあと思うのである。
しかし本仮谷なんたらはかわいいのか? むろん人の好き好きだが、どうも違う文脈で露出してきているように思う。マツキヨのCMにしても、先祖がえり的な「素朴」ブームにあぐらをかいたような売り出し方を、良くも悪くも感じるというか・・・。この映画では役柄的にかわいいのだろうけど。
セカチューのドラマでは、さらにやぼったい出で立ちで出ていたが、こいつは誰なんだと思ったら数年前の金八で上戸彩といっしょに出てた、優等生委員長だという。ああ、そういえば・・・。そんなちんちくりんなのがいたと記憶をたどったが、もう現在の彼女は随分と成長しているので、わからなかったのだ。あのドラマ(というかTBS)は、お情けなのか何なのか毎回の役者を、その後自局のドラマに必ず使うという暗黙の了解みたいなのがあるようで、見てるとやたら「元生徒」が出てくるのだ。
ところで「カメラの存在をわざと前面に押し出すような演出」といえば、そもそもヌーヴェル・ヴァーグを思い出すわけだが・・・。それがもはや馴れ合いでしかないというわけですの。(R)
(ストーリー)
スウィングガールズの最初で最後のコンサート。
去年、『スウィングガールズ』を観に行った帰り、一緒に観た彼女に「トロンボーンを吹いてたメガネの女の子が可愛かった」と言ったら、「やっぱりね。絶対あの子だと思ったよ」と散々に言われたわけだが、本仮屋ユイカという名のその子は、その後NHKの朝の連続テレビ小説のヒロインに抜擢されたりして大活躍しているわけで、要するにあの子が一番可愛いと思ったのは別にぼくが眼鏡っ子好きだとか大人しめの子が好みだとかそういうこととは関係なくて、ぼく自身の美的感覚がごく平均的だったからだと思う。
あの映画の最後に演奏される「シングシングシング」という曲で、本仮屋ユイカが物凄くかっこよくトロンボーンを独奏する場面があって、あのユイカ嬢の勇姿がもう一度見たくて今回このDVDを借りてみたわけだけど、さすがに売れっ子になっただけあって、17人のスウィングガールズのメンバー中よりにもよってユイカ嬢のみこのコンサートには参加していないのであった。これでは借りた意味がほとんど無いに等しい。
しかしとりあえず他の女の子たちも可愛らしくて、何はともあれ若くて可愛くて元気いっぱいの女の子たちが一生懸命に何かをやっている姿を見るのは決して悪くない。うん、悪くない。
だからまあ実はけっこう楽しく見たし、全員で演奏するのはこれで本当に最後だということもあって途中からみんな泣きながら演奏していて、そういうのもなかなか悪くなかった。もちろん泣きながら演奏しているからあとのほうになるにつれて演奏自体はひどくなっていくのだが、まあそういうことを言うのは野暮だろう。とにかく青春真っ直中という感じで、ひどく鬱屈とした青春時代を過したぼくとしては羨ましいやら切ないやらで、こっちまで胸が痛かったです。
去年の2月あたりにぼくはこのサイトで「今年は邦画が楽しみだ」と書いて、「デビルマン」「スチームボーイ」「ハウル」「アップルシード」「キャシャーン」なんかを挙げたのだけど、それらぼくの期待したアニメ・特撮作品はことごとく期待を外し、全く期待していなかった「スウィングガールズ」「下妻物語」「誰も知らない」「花とアリス」が大変面白かったのだから、つくづくぼくの予想も当てにならないものだと思った。それにしても去年から今年にかけて観て面白かった「スウィングガールズ」「下妻物語」「誰も知らない」「花とアリス」の四作品は、邦画であるという以外ほとんど共通項が無いわけだけど、よく考えてみると2点ほど共通項を持っていることに最近気づいた。まずひとつは要するに可愛い女の子が出てくるという身も蓋もないようなことで、要するにオマエは可愛い女の子がでてりゃあ満足なんだろと思われるかもしれないし、まあその通りなんだけど、ともかくこれは面白い映画には重要な要素である。
もうひとつはどの映画も同人誌的であるということで、これは特に「スウィングガールズ」に顕著だと思う。つまりこの映画はジャズなんて知らない今時の女子高生が、徐々にジャズの魅力につかれて最終的にみんなでジャズバンドを組むという話なのだけど、これはほとんどこの映画の制作の道のりをそのまま辿ったようなところがある。つまり実際の映画制作も音楽に関しては素人の役者を連れてきて数ヶ月に渡って特訓させ、最終的にはコンサートで演奏するわけだし、事実ビデオのパッケージには映画内の演奏は役者たち本人によるものですという注意書きがあるし、ぼく自身にしても登場人物たちの背後に実際の役者の努力を重ね合わせて見ていた。あるいは「誰も知らない」が演技指導など行わず、ほとんど子役達の素の行動や会話をそのまま撮っているように、作品が作品として構築されているのではなく、制作現場の雰囲気を重ね合わせることができるのも同じことだろう。また、「花とアリス」がポッキーのCMから出てきた企画であるように、映画は観る側を楽しませるものというよりもスタッフやキャストがまずその現場を楽しみ、その楽しさを客にお裾分けするという傾向をこれら4作品には強く感じる。つまり作品は独立した作品として扱われることをすでに放棄し、その背後に隠れているべき役者のパーソナリティやあるいは制作秘話などといったものを込みで読まれることを前提としている。DVDの本編よりもメイキングのほうが面白い映画があるという逆転した状況を逆手にとり、メイキング映像のような作品を作っているのである。このような傾向は例えば、本来鑑賞する側に意識されてはならないはずのカメラの存在をわざと前面に押し出すような演出(手ぶれやピンぼけの多用。不自然なカット割りなど)にも通じるものを感じる。
このような状況は、作り手と受け手の「お約束」と言われる共犯関係を許してしまう日本映画の馴れ合い体質を如実に反映していると言えるかもしれず、またそのような馴れ合いをひとつの「表現」であると強弁するふてぶてしさの表れなのかもしれず、同時にこれは日本映画の活路かも知れない。(A.I.)
何を隠そう、じつは今ちょうど「スウィングガールズ」のサントラを借りて聴いているところなのでした。
僕は昔から音楽の中に埋もれて、つねに音楽をやりながら生きてきたのだけれど、僕にとって音楽とは二人以上でやるものである。一人でやるものでは基本的にない。歌でも楽器の合奏でもそこには「合わせ」の作業を通じた、ある秘鑰があるのである。個々のそれぞれは違う仕事をしていながら、全体としてはまとまっているという、個と全体の関係性の妙が何ものにも変えがたい喜びとなるのである。
ギターなんかを弾くひとは特にそうだが、誰でも楽器を弾くものは、その楽器を一番かっこよく弾くためにどうすればいいかという工夫を試みる。主役の上野や本仮谷はその辺が様になってくる過程を、いくつかのTVドキュメンタリー(なんかいくつもあったのでどれがどれやら覚えてないが)で見ることができた。ドラムの子の苦労は並大抵でなかったと思う。あれは一番大変なんじゃないかな。たとえセンスのある人でもドラムを、しかもジャズのリズムをキープするのは気の遠くなるような話だからだ。手首が使えるようになるまで、血のにじむような練習。ひたすら練習。できないのに練習。あのカツラの娘はたまにリズムが揺れてるけど、ライドやハットが叩けるようになり、全部の手足が別々のリズムを刻めるようになっている点で、がんばったなあと思うのである。
しかし本仮谷なんたらはかわいいのか? むろん人の好き好きだが、どうも違う文脈で露出してきているように思う。マツキヨのCMにしても、先祖がえり的な「素朴」ブームにあぐらをかいたような売り出し方を、良くも悪くも感じるというか・・・。この映画では役柄的にかわいいのだろうけど。
セカチューのドラマでは、さらにやぼったい出で立ちで出ていたが、こいつは誰なんだと思ったら数年前の金八で上戸彩といっしょに出てた、優等生委員長だという。ああ、そういえば・・・。そんなちんちくりんなのがいたと記憶をたどったが、もう現在の彼女は随分と成長しているので、わからなかったのだ。あのドラマ(というかTBS)は、お情けなのか何なのか毎回の役者を、その後自局のドラマに必ず使うという暗黙の了解みたいなのがあるようで、見てるとやたら「元生徒」が出てくるのだ。
ところで「カメラの存在をわざと前面に押し出すような演出」といえば、そもそもヌーヴェル・ヴァーグを思い出すわけだが・・・。それがもはや馴れ合いでしかないというわけですの。(R)
2009年06月28日
アフター・カーニバル深夜便(第九回)〜発表の報告:保坂和志の小説論〜
みなさん、こんばんは。
今週もアフター・カーニバル深夜便をお届けします。
今週は、某イベントで保坂和志を前にしてR氏が発表した、その発表の報告をR氏自身が行なっています。
具体的にどのような点で保坂和志と意見が異なったのか(あるいは同じだったのか)というところが聞き所ではないかと思います。
意見が同じところにしろ異なるところにしろ、そこで提出された争点は、今後アフター・カーニバルで問題にしていく重要な論点でもあることでしょう。
この放送を録音したのが奇しくも6月19日という太宰治の誕生日(いわゆる桜桃忌)で、それも生誕百年に当たる日だったので、A.I.氏が太宰の名前を出していますが、保坂和志と対比される作家の名前として太宰の名前が上がっているのも面白いところではないかと思います。
R氏が毎回用意することになった開始と終了の音楽にも注目してみてください。(SIZ)
(トピック)
今週のジングル
某イベント・某学会で呼んだ人たち
保坂和志の小説論についてのR氏の発表
隣の他者のことが抜け落ちている
型の問題
辺境について
薄っぺらな枠組みを再度出してくるしかない
『恋空』的なリアリティ
オーソドックスなアプローチの困難
太宰治生誕百年
太宰はキャラを生きている
終了のオルゴール
それはともかく
今週もアフター・カーニバル深夜便をお届けします。
今週は、某イベントで保坂和志を前にしてR氏が発表した、その発表の報告をR氏自身が行なっています。
具体的にどのような点で保坂和志と意見が異なったのか(あるいは同じだったのか)というところが聞き所ではないかと思います。
意見が同じところにしろ異なるところにしろ、そこで提出された争点は、今後アフター・カーニバルで問題にしていく重要な論点でもあることでしょう。
この放送を録音したのが奇しくも6月19日という太宰治の誕生日(いわゆる桜桃忌)で、それも生誕百年に当たる日だったので、A.I.氏が太宰の名前を出していますが、保坂和志と対比される作家の名前として太宰の名前が上がっているのも面白いところではないかと思います。
R氏が毎回用意することになった開始と終了の音楽にも注目してみてください。(SIZ)
(トピック)
今週のジングル
某イベント・某学会で呼んだ人たち
保坂和志の小説論についてのR氏の発表
隣の他者のことが抜け落ちている
型の問題
辺境について
薄っぺらな枠組みを再度出してくるしかない
『恋空』的なリアリティ
オーソドックスなアプローチの困難
太宰治生誕百年
太宰はキャラを生きている
終了のオルゴール
それはともかく
2009年06月25日
シグルイ 6巻(原作:南條範夫、漫画:山口貴由)
(この記事は2006年4月25日に書かれました)
虎眼VS伊良子。すべてを超越した〈最狂〉の残酷無惨バトルである。
以下、ネタバレ注意。
僕は連載で読んでいるので、単行本を買うのはコレクションと加筆訂正・描き下ろしポスターを確認する意味合いしかないといってもいいのだが、それでもひまさえあればめくっている。
今回の(も、というべきか)主役は虎眼先生である。見せ場、ありすぎ。伊良子については、地謡と無明逆流れ以外にはかっこいいところはなく、完全な引き立て役である。
御簾の向こうに貴人のごとく座している(けど失禁)虎眼先生、萌え。せっかく助けに来てくれた弟子を切り捨てる二刀流の虎眼先生、萌え。魔神化、萌え。にゃんこ化、激萌え。とにかく虎眼先生の魅力がつまった一冊に仕上がっている。
そしてやはり、なんといっても最高の見せ場は無明逆流れの前に倒れる場面である。まず、敗れた虎眼先生に嫁入り姿を見せに来る三重。伊良子の嫁として嫁ぐ姿を見せるというのは、虎眼先生への最大の復讐である一方、三重の結婚を待ちこがれていた先生への、最高の親孝行でもある。このくだり、まさに愛憎劇というべきであろう。しかし、三重の花嫁姿を見て虎眼先生は虎眼流の存続という妄執を超えて、「美しゅうなった喃」と、素朴な親心を見せるのである。矛盾によってしか繋がり得ない親子の姿の臨界点。ここまでプロセスを積み上げておけば、虎眼先生のひとしずくの涙も空々しいものにはならない。
その直後に発覚する、すでに顔面の左半分を失った虎眼先生の残酷なお姿。常よりも一指多い右手の指も切られてしまい、大脳がうどん玉のごとくこぼれ落ちる。これも、いままででもっともグロテスクな描写ではなかったか。
つまり、叙情的な面においても、残酷さの面においても、6巻の虎眼先生は群を抜いているのであり、『シグルイ』最強のキャラクターなのである。これは間違いないだろう。いや、断じて、最強=最狂である。かっこよすぎる。強さ、哀しさ、狂いぶり、それらすべてを内包しながらまばゆく輝いている。
このあと、藤木の過去が語られる話では内弟子に迎えた藤木に満面の笑顔を見せ、虎眼先生はむしろ亡くなってから人間的な面を見せ始めているようだ。いなくなって初めて気づく師の偉大さ。
「どうしていつも失ってから、いつもそうだと気づくのだろう」
ガッツばりに切なさで胸が切り裂かれそうである。(友六も好きなイワン)
虎眼VS伊良子。すべてを超越した〈最狂〉の残酷無惨バトルである。
以下、ネタバレ注意。
僕は連載で読んでいるので、単行本を買うのはコレクションと加筆訂正・描き下ろしポスターを確認する意味合いしかないといってもいいのだが、それでもひまさえあればめくっている。
今回の(も、というべきか)主役は虎眼先生である。見せ場、ありすぎ。伊良子については、地謡と無明逆流れ以外にはかっこいいところはなく、完全な引き立て役である。
御簾の向こうに貴人のごとく座している(けど失禁)虎眼先生、萌え。せっかく助けに来てくれた弟子を切り捨てる二刀流の虎眼先生、萌え。魔神化、萌え。にゃんこ化、激萌え。とにかく虎眼先生の魅力がつまった一冊に仕上がっている。
そしてやはり、なんといっても最高の見せ場は無明逆流れの前に倒れる場面である。まず、敗れた虎眼先生に嫁入り姿を見せに来る三重。伊良子の嫁として嫁ぐ姿を見せるというのは、虎眼先生への最大の復讐である一方、三重の結婚を待ちこがれていた先生への、最高の親孝行でもある。このくだり、まさに愛憎劇というべきであろう。しかし、三重の花嫁姿を見て虎眼先生は虎眼流の存続という妄執を超えて、「美しゅうなった喃」と、素朴な親心を見せるのである。矛盾によってしか繋がり得ない親子の姿の臨界点。ここまでプロセスを積み上げておけば、虎眼先生のひとしずくの涙も空々しいものにはならない。
その直後に発覚する、すでに顔面の左半分を失った虎眼先生の残酷なお姿。常よりも一指多い右手の指も切られてしまい、大脳がうどん玉のごとくこぼれ落ちる。これも、いままででもっともグロテスクな描写ではなかったか。
つまり、叙情的な面においても、残酷さの面においても、6巻の虎眼先生は群を抜いているのであり、『シグルイ』最強のキャラクターなのである。これは間違いないだろう。いや、断じて、最強=最狂である。かっこよすぎる。強さ、哀しさ、狂いぶり、それらすべてを内包しながらまばゆく輝いている。
このあと、藤木の過去が語られる話では内弟子に迎えた藤木に満面の笑顔を見せ、虎眼先生はむしろ亡くなってから人間的な面を見せ始めているようだ。いなくなって初めて気づく師の偉大さ。
「どうしていつも失ってから、いつもそうだと気づくのだろう」
ガッツばりに切なさで胸が切り裂かれそうである。(友六も好きなイワン)
2009年06月24日
虚構のヒーロー
(この記事は2005年4月16日に書かれました)
下の記事で、イワン氏が『BECK』について語っている。この作品は、僕もアニメを見たので、その感想を少し書いてみたい。
まず言っておかなければならないこととして、僕はロックについての知識がまったくない。ロックを聞いたこともほとんどない。従って、『BECK』で言及される作品について、それがどのようなニュアンスを持っているのか、以前から気になっていたのだが、それに対してイワン氏が部分的に答えを与えてくれたわけだ。
このイワン氏の意見はかなり鋭い。先にも言った通り、僕はロックについて何も知らない。従って、イワン氏が鋭いと言うのは、ロックに関してその判断が妥当であるというのではなく、あらゆる領域にわたって、そのような判断が妥当ではないのか、ということである。
どんなジャンルにもジャンルの衰退というものはある。黄金期と衰退期がある。ムーブメントがある時期とない時期がある。しかし、今日、こうした一般論を越えて、ビッグ・ネームそのものの不在の時期がやってきたのではないだろうか? 誰もが一目置くようなビッグ・ネーム。その名前に対して賛否両論が日々闘わされるようなビッグ・ネーム。そうした名前が今日、非常に出にくくなっているのではないか? あるいは、衆目を集めるような名前が出てきたとしても、その寿命は非常に短いものではないのか? 一時期、みんなから注目を集めたとしても、翌月には、誰もその名前を口に上らせることがない。そんな極端なギャップが今日、あらゆるところに見受けられるのではないか?
このようなイワン氏の観点から見ていくと、『BECK』とは徹底的に旧時代の作品である。旧時代をノスタルジックに回顧する作品である。そこで示されているのは「真のロック」、「真のバンド」という観念である。分かる人には分かる「本物」というものが厳然とそこにあり、大衆は「紛い物」に常に騙されている、というわけだ。
しかし、今日、事態はこんなに単純だろうか? ロックの伝統、そんなものがあるのだろうか? 「ある」と答える人はもちろんいることだろう。しかし、問題なのは、そうした人はごく少数であり、そうした少数の人たちの中だけで、ロックというものが語られている、ということだ。そして、このことはあらゆるジャンルについて言えることである。
ビッグ・ネーム。それは、われわれのヒーローの名である。しかし、今日、ヒーローが必要なのだろうか? 誰がヒーローを必要としているのだろうか? 私のヒーローとあなたのヒーローは同じ人物だろうか?
今日のヒーローとは、まさに、今日一日だけのヒーローである。昨日まで誰からも注目を集めなかった人が、突然ヒーローに祭り上げられ、そして、その翌日には、また普通の人に戻っている。こうした人間がロック・スターの墓場に行くことは決してないだろう。「BECK」、それは虚構の中だけにいるヒーローの名前である。(SIZ)
下の記事で、イワン氏が『BECK』について語っている。この作品は、僕もアニメを見たので、その感想を少し書いてみたい。
まず言っておかなければならないこととして、僕はロックについての知識がまったくない。ロックを聞いたこともほとんどない。従って、『BECK』で言及される作品について、それがどのようなニュアンスを持っているのか、以前から気になっていたのだが、それに対してイワン氏が部分的に答えを与えてくれたわけだ。
カート・コバーン以前のムーブメントの不在と、カート・コバーン以後のムーブメントの不在は、決定的に質が異なるのではないか? カート以前は周期があった。しかしカートのもたらしたものは、周期そのものの断念だったのではないか?
このイワン氏の意見はかなり鋭い。先にも言った通り、僕はロックについて何も知らない。従って、イワン氏が鋭いと言うのは、ロックに関してその判断が妥当であるというのではなく、あらゆる領域にわたって、そのような判断が妥当ではないのか、ということである。
どんなジャンルにもジャンルの衰退というものはある。黄金期と衰退期がある。ムーブメントがある時期とない時期がある。しかし、今日、こうした一般論を越えて、ビッグ・ネームそのものの不在の時期がやってきたのではないだろうか? 誰もが一目置くようなビッグ・ネーム。その名前に対して賛否両論が日々闘わされるようなビッグ・ネーム。そうした名前が今日、非常に出にくくなっているのではないか? あるいは、衆目を集めるような名前が出てきたとしても、その寿命は非常に短いものではないのか? 一時期、みんなから注目を集めたとしても、翌月には、誰もその名前を口に上らせることがない。そんな極端なギャップが今日、あらゆるところに見受けられるのではないか?
このようなイワン氏の観点から見ていくと、『BECK』とは徹底的に旧時代の作品である。旧時代をノスタルジックに回顧する作品である。そこで示されているのは「真のロック」、「真のバンド」という観念である。分かる人には分かる「本物」というものが厳然とそこにあり、大衆は「紛い物」に常に騙されている、というわけだ。
しかし、今日、事態はこんなに単純だろうか? ロックの伝統、そんなものがあるのだろうか? 「ある」と答える人はもちろんいることだろう。しかし、問題なのは、そうした人はごく少数であり、そうした少数の人たちの中だけで、ロックというものが語られている、ということだ。そして、このことはあらゆるジャンルについて言えることである。
ビッグ・ネーム。それは、われわれのヒーローの名である。しかし、今日、ヒーローが必要なのだろうか? 誰がヒーローを必要としているのだろうか? 私のヒーローとあなたのヒーローは同じ人物だろうか?
今日のヒーローとは、まさに、今日一日だけのヒーローである。昨日まで誰からも注目を集めなかった人が、突然ヒーローに祭り上げられ、そして、その翌日には、また普通の人に戻っている。こうした人間がロック・スターの墓場に行くことは決してないだろう。「BECK」、それは虚構の中だけにいるヒーローの名前である。(SIZ)
2009年06月23日
カート・コバーンの影――ハロルド作石『BECK』――(現代マンガの潮流いくつ目だっけ)
(この記事は2005年4月14日に書かれました)
12巻くらいまでだが、ハロルド作石『BECK』を読んだ。
感じたのは2点。そしてそれは不可分の2点であろう。
まずはこの作品が、ある〈満たされなさ〉のなかで構想され、〈満たされなさ〉のなかで受容されているのだろうということ。
その〈満たされなさ〉とは何か。それは当然、大きな求心力をもったミュージシャン・バンド・音楽のムーブメントの不在に対しての〈満たされなさ〉であろう。
それらはいつから〈不在〉なのか。僕のなかでは、殊にロックバンドでいうと、欧米でいえばニルヴァーナ以来、日本でいえばBlankey Jet City以来、である。
奥付をみると、『BECK』の連載開始は2000年、もしくは1999年だと見受けられる。カート・コバーンの死後、いまだ訪れない大きなムーブメントに業を煮やして夢想され、描かれ始めたのがこの作品なのではないだろうか。そしてその夢想は多くの読者の共感を生む。
そもそも、僕にしても、この作品を読んでみようと思ったきっかけは、アニメ版のエンディング曲で、過去のミュージシャンたちの肖像が順に登場し、最後にカート・コバーンの肖像で終わるというところを見たからである。
当然、『BECK』の作品世界でも、多様な音楽スタイルが混在し、それをひとつにまとめあげるようなムーヴメントは存在しない。「ロックは死んだ」という空気が横溢してる。
ブランキーの照井利幸をモデルにしたようなキャラクターは、「あなたたちが解散すると、日本のロックは死ぬのではないか」と問われ、「おれたちはガソリンが切れた。だがシーンには周期がある。それはまたやってくる」と言う。さらに、BECKのメンバーが見る夢では、ジョン・レノンはじめ、過去のロック・スターたちが現れ、自分たちの〈ポスト〉を望んでいる(ロック・スターたちの最後に現れるのはカート・コバーンである)。主人公・コユキたちの目標とされる「ダイイング・ブリード」の音楽スタイルは〈とにかくロックである〉という以外、判然としない。やはりBECKは待ち望まれるポストして描かれているのだ。
その、90年代から2000年代にかけての雰囲気のなかでシミュレートされるロック・バンドの成長譚であるというところが、他の音楽マンガとは一線を画するところであり、スリリングな試みであり、多くの読者の共感をよぶところなのであろう。
しかし、本当に大きなムーブメントは再び訪れるのだろうか? カート・コバーンのもたらしたもの、いわゆる〈グランジ・ロック〉。それは、あらゆる音楽スタイルが相対化した末に、ついには音楽ではないもの――ノイズ(雑音)――が価値をもつにいたったという、ロックのなれの果ての姿ではなかったのか? たしかにピストルズをはじめとするパンク・ロックとニルヴァーナのグランジ・ロックはともに破壊的で、一見、類似している。しかし、パンク・ロックは体制のアンチに立つことにより、再構築に向かうための破壊であるのにたいし、ニルヴァーナの破壊は行き場をなくした、目的をもたない破壊ではないのか?(カートが、「しょうがないからライブでギターを壊している」と言っていたのを思い出す)
つまり、カート・コバーン以前のムーブメントの不在と、カート・コバーン以後のムーブメントの不在は、決定的に質が異なるのではないか? カート以前は周期があった。しかしカートのもたらしたものは、周期そのものの断念だったのではないか?
日本でいえば、たしかにBlankey Jet Cityは独特の世界観をもったロック・バンドである。しかしその世界観自体、音楽スタイル自体、過去のロック・スターたちからの綿密な引用によって成り立っているのではないのか? ブランキーの世界観は完成している。しかしブランキーの一曲一曲は、『機動戦士ガンダム』と同じように、広大だが閉じた世界、まさに「Blankey Jet City」のなかでの任意の一回のプレイ、引用である。多分に物語的なその歌詞自体もまた、〈本歌〉をもつものであろう。
だから悲しい。ニルヴァーナもブランキーも。このような不毛感とは、この時代に特有のものではないだろうか。そしてこのようななかで、もう一度、世界を一挙に掌握するようなムーブメントが成立しうるだろうか? また、そのような試み自体、リアリティをもつものだろうか?
ふたつ目に感じた点は、SIZさんが注目している、〈視野狭窄〉の問題である。この作品もまた象徴的で、「14歳にしてすでに先は見えていた」というコユキのモノローグから始まる。つまりこの作品もまた、未来においていわゆる〈人生のレール〉(高校から大学、サラリーマンという)をしか想定できない少年が、ロックという、そこからはずれたところに生き甲斐を見出すという構成となっている。
だがこれもまた、娯楽的な要素を抜きにして考えるなら、欺瞞的な設定ではある。なぜならご多分に漏れず、この一見冴えない主人公・コユキもまた、「自分は社会にとって必要のない、つまらない人間かもしれない」と思いつつも、類い希な音楽の才能を無条件に与えられた、つまりあらかじめ〈選ばれた〉少年だからである。
この物語の滑り出し・基本設定そのものを、僕は〈視野狭窄〉であると感じる。
人生は、皆の乗る、安定しているが生の喜びは感じられない〈レール〉か、そこからはずれて、不安定だが生の実感を感じる道のどちらかであると認識されている。そしてその認識自体が、青少年には秘められた潜在能力があるのだという幻想を生む。なぜならそういう幻想でも抱かないと、どちらの道を選ぶにしても、やりきれないからだ(前者ならば、自分はまだ本当の自分の力を出していないのだと、後者ならば、本当の自分を発揮していくしか術はない、として)。
現実との決定的な差は、実際は僕は(失礼だがもしかすると、おそらくはあなたも)何にも選ばれてなどいないことだ。そして今現在、人々が〈人生のレール〉を嫌った結果、本当に戻るところなどない――望めばいつでも戻れるような〈レール〉を捨てて夢にチャレンジするどころではなく、あらかじめ〈レール〉の側から閉め出されてしまうというような――寄る辺ないリスクフルな時代が到来しているというところだ。
次なる大きなムーブメントの渇望、それは裏を返せば、自分自身がそれそのものになりたいという渇望であろう。
皆、薄々もうそんなことはありえないと感じ始めている。しかし無理矢理にでも〈視野狭窄〉に留まろうとしている。そのほうが安心するからだ。
だとすれば……むしろ求められる物語は、自分は選ばれてなどいないし、身を委ねるべき大きなムーブメントなどありはしないと悟ったところから始められる物語なのではないだろうか。
『BECK』は興味深い作品だし、好感がもてる。だがそれをうけて我々は、もっと深く絶望することでしか、新しい何かを見出すことができないのかもしれない。(イワン)
12巻くらいまでだが、ハロルド作石『BECK』を読んだ。
感じたのは2点。そしてそれは不可分の2点であろう。
まずはこの作品が、ある〈満たされなさ〉のなかで構想され、〈満たされなさ〉のなかで受容されているのだろうということ。
その〈満たされなさ〉とは何か。それは当然、大きな求心力をもったミュージシャン・バンド・音楽のムーブメントの不在に対しての〈満たされなさ〉であろう。
それらはいつから〈不在〉なのか。僕のなかでは、殊にロックバンドでいうと、欧米でいえばニルヴァーナ以来、日本でいえばBlankey Jet City以来、である。
奥付をみると、『BECK』の連載開始は2000年、もしくは1999年だと見受けられる。カート・コバーンの死後、いまだ訪れない大きなムーブメントに業を煮やして夢想され、描かれ始めたのがこの作品なのではないだろうか。そしてその夢想は多くの読者の共感を生む。
そもそも、僕にしても、この作品を読んでみようと思ったきっかけは、アニメ版のエンディング曲で、過去のミュージシャンたちの肖像が順に登場し、最後にカート・コバーンの肖像で終わるというところを見たからである。
当然、『BECK』の作品世界でも、多様な音楽スタイルが混在し、それをひとつにまとめあげるようなムーヴメントは存在しない。「ロックは死んだ」という空気が横溢してる。
ブランキーの照井利幸をモデルにしたようなキャラクターは、「あなたたちが解散すると、日本のロックは死ぬのではないか」と問われ、「おれたちはガソリンが切れた。だがシーンには周期がある。それはまたやってくる」と言う。さらに、BECKのメンバーが見る夢では、ジョン・レノンはじめ、過去のロック・スターたちが現れ、自分たちの〈ポスト〉を望んでいる(ロック・スターたちの最後に現れるのはカート・コバーンである)。主人公・コユキたちの目標とされる「ダイイング・ブリード」の音楽スタイルは〈とにかくロックである〉という以外、判然としない。やはりBECKは待ち望まれるポストして描かれているのだ。
その、90年代から2000年代にかけての雰囲気のなかでシミュレートされるロック・バンドの成長譚であるというところが、他の音楽マンガとは一線を画するところであり、スリリングな試みであり、多くの読者の共感をよぶところなのであろう。
しかし、本当に大きなムーブメントは再び訪れるのだろうか? カート・コバーンのもたらしたもの、いわゆる〈グランジ・ロック〉。それは、あらゆる音楽スタイルが相対化した末に、ついには音楽ではないもの――ノイズ(雑音)――が価値をもつにいたったという、ロックのなれの果ての姿ではなかったのか? たしかにピストルズをはじめとするパンク・ロックとニルヴァーナのグランジ・ロックはともに破壊的で、一見、類似している。しかし、パンク・ロックは体制のアンチに立つことにより、再構築に向かうための破壊であるのにたいし、ニルヴァーナの破壊は行き場をなくした、目的をもたない破壊ではないのか?(カートが、「しょうがないからライブでギターを壊している」と言っていたのを思い出す)
つまり、カート・コバーン以前のムーブメントの不在と、カート・コバーン以後のムーブメントの不在は、決定的に質が異なるのではないか? カート以前は周期があった。しかしカートのもたらしたものは、周期そのものの断念だったのではないか?
日本でいえば、たしかにBlankey Jet Cityは独特の世界観をもったロック・バンドである。しかしその世界観自体、音楽スタイル自体、過去のロック・スターたちからの綿密な引用によって成り立っているのではないのか? ブランキーの世界観は完成している。しかしブランキーの一曲一曲は、『機動戦士ガンダム』と同じように、広大だが閉じた世界、まさに「Blankey Jet City」のなかでの任意の一回のプレイ、引用である。多分に物語的なその歌詞自体もまた、〈本歌〉をもつものであろう。
だから悲しい。ニルヴァーナもブランキーも。このような不毛感とは、この時代に特有のものではないだろうか。そしてこのようななかで、もう一度、世界を一挙に掌握するようなムーブメントが成立しうるだろうか? また、そのような試み自体、リアリティをもつものだろうか?
ふたつ目に感じた点は、SIZさんが注目している、〈視野狭窄〉の問題である。この作品もまた象徴的で、「14歳にしてすでに先は見えていた」というコユキのモノローグから始まる。つまりこの作品もまた、未来においていわゆる〈人生のレール〉(高校から大学、サラリーマンという)をしか想定できない少年が、ロックという、そこからはずれたところに生き甲斐を見出すという構成となっている。
だがこれもまた、娯楽的な要素を抜きにして考えるなら、欺瞞的な設定ではある。なぜならご多分に漏れず、この一見冴えない主人公・コユキもまた、「自分は社会にとって必要のない、つまらない人間かもしれない」と思いつつも、類い希な音楽の才能を無条件に与えられた、つまりあらかじめ〈選ばれた〉少年だからである。
この物語の滑り出し・基本設定そのものを、僕は〈視野狭窄〉であると感じる。
人生は、皆の乗る、安定しているが生の喜びは感じられない〈レール〉か、そこからはずれて、不安定だが生の実感を感じる道のどちらかであると認識されている。そしてその認識自体が、青少年には秘められた潜在能力があるのだという幻想を生む。なぜならそういう幻想でも抱かないと、どちらの道を選ぶにしても、やりきれないからだ(前者ならば、自分はまだ本当の自分の力を出していないのだと、後者ならば、本当の自分を発揮していくしか術はない、として)。
現実との決定的な差は、実際は僕は(失礼だがもしかすると、おそらくはあなたも)何にも選ばれてなどいないことだ。そして今現在、人々が〈人生のレール〉を嫌った結果、本当に戻るところなどない――望めばいつでも戻れるような〈レール〉を捨てて夢にチャレンジするどころではなく、あらかじめ〈レール〉の側から閉め出されてしまうというような――寄る辺ないリスクフルな時代が到来しているというところだ。
次なる大きなムーブメントの渇望、それは裏を返せば、自分自身がそれそのものになりたいという渇望であろう。
皆、薄々もうそんなことはありえないと感じ始めている。しかし無理矢理にでも〈視野狭窄〉に留まろうとしている。そのほうが安心するからだ。
だとすれば……むしろ求められる物語は、自分は選ばれてなどいないし、身を委ねるべき大きなムーブメントなどありはしないと悟ったところから始められる物語なのではないだろうか。
『BECK』は興味深い作品だし、好感がもてる。だがそれをうけて我々は、もっと深く絶望することでしか、新しい何かを見出すことができないのかもしれない。(イワン)
2009年06月22日
ニコニコ動画と村上春樹について物語という観点から問題にするということ
今回の深夜便は、特別編として、先日行なった会合の録音を公開したわけだが、そこでは、物語と小説の違いがメインの話題になっていた。今回の通信でも、このことについて、とりわけ物語というものについて考えてみることにしたい。
そもそも、なぜ、小説と物語との違いが問題になっていたかというと、今回の会合のテーマが保坂和志の小説論だったからである。保坂和志は小説家であるわけだが、彼は自身の創作活動(あるいは創作活動一般)をどのように規定しているのか、ということを検討したわけである。
保坂和志は、反物語というスタンスを貫くことで、小説家という自身の立場を明確にしていたわけだが、こうした保坂の立場は、ある点において、村上春樹の立場と大きく対立するところがある。この点については、これまでの深夜便の放送において問題にされてきたことであるが、春樹は、自身の創作活動を規定するにあたって、「物語」という言葉を持ち出すのである。R氏が指摘したように、春樹は「いい物語は人の心を深く広くする」ということを言うのである。
この規定は、保坂の考えと対照させたときに、大きな問題を生じされることだろう。会合でA.I.氏が言っていたように、物語がひとつの型であるとするならば、それは「人の心を深く広くする」よりも、むしろ、人の心を狭いところに閉じ込めてしまうことになりはしないのだろうか。いったい、なぜ、型である物語が人の心を「深く広くする」のだろうか。
こうしたことを問題にするにあたっては、そもそも春樹が物語というものをどんなふうに考えているのかということを検討する必要があるだろう。春樹は『アンダーグラウンド』のあとがきに当たる「目じるしのない悪夢」で次のように述べている。
ここで春樹は、物語を自我の側に位置づけ、自我よりも大きなもの(神や歴史や制度)と対立させている。つまり、自我の物語は、宗教的な大きな物語とも、国民国家の大きな物語とも対立する小さな物語として規定されている。物語は優れて個人的なものとして規定されているのである。逆に言うと、自我の一貫性を保証しているものこそが物語なのだろう(自分という一貫した物語)。
こうした春樹の規定を前にして僕が思うのは、おそらく、多くの人にとって、自我の確立というものは、非常に困難な課題なのではないか、ということだ。人々は、自分で自分だけの物語を築こうとするよりも、すでにある物語に飛びつこうとするのではないか。春樹は、物語を「「お話」の夢」とも言っているが、われわれの誰しもが夢を見ているとしても、その夢というのは、どこかから借りてこられた夢、大量に生産され、大量に消費される、そのような種類の夢である可能性があるのではないか。
さらに言えば、アメリカ人にとって当然であるようなことが日本人にとって当然であるとは言えないし、とりわけ、自我というものは、日本人にとって厄介な代物ではないかという気がする。だからこそ、春樹自身が言っているように、多くの人々はジャンクな物語に惹かれるのだろうし、麻原彰晃が生み出した物語が大きな力を持ったのだろう。春樹はジャンクな物語について次のように述べている。
こうした現状認識が正しいとして、それでは、なぜ、他方において、物語の凋落という事態が立ち上がっているのだろうか。多くの人々がジャンクな物語を求めているとすれば、物語の凋落は起こらないのではないか。
この問いに答えるために重要なファクターをひとつ持ち出せば、それは、現代社会が多様化している、というものだろう。現代人の生活環境は多様化し、ライフスタイルも多様化している。様々な価値観も多様化し、何が良いことで何が悪いことなのかを一概に言えなくなっているとすれば、当然のことながら、人生の物語も多様化していることだろう。だが、生活が多様化していても、ジャンクな物語が求められるということはありうるわけで、みんなにとって共通の物語というようなものは凋落しているとしても、個々人にとって分かりやすい物語が求められているという現状は存在しているのかも知れない。
今日の物語環境というものを考える必要があるだろうが、共通の物語というものが解体しているのだとすれば、保坂が目指すような反物語的な方向性は、小説において実現されるまでもなく、われわれの日常生活においてすでに実現されていると言えるかも知れない。われわれの日常生活がすでに方向性を見失っており、どこにも接続されることなく断片化している可能性があるのだ。
それでは、こうした物語環境にあっては、個々人のレベルにおいて、それぞれの自我に見合った物語が立ち上がっているかと言えば、そんなことはまったくないように思えるのである。むしろ、人々は、ジャンクな物語に絶えず群がっているように思えるのだが、そこで獲得された物語と自分自身の生活との齟齬が非常に大きいために、そうしたジャンクな物語の持続性はとても短いものになっているのではないか、という気がするのだ。
そもそも、自我というものは、人間が生まれたときから保持しているようなものではなく、徐々に確立されるというか、 他人の自我(物語)をパッチワークすることによって出来上がっているのではないかと思う。そういう意味では、誰しも自分の物語を持っていないとも言えるし、持っているとも言える。今日の問題とは、誰しも持っていると言える「私の物語」が非常に脆弱になっているというか、個々人が自分の物語を生み出すにあたって参照しているメインフレームのようなものが非常に脆くなっているのではないか、という気がするのだ(だからこそ、A.I.氏は、今日の物語のメインフレームに相当する、物語ることの技術というものを重視するのだろう)。
春樹の「いい物語」という言葉を好意的に解釈するとすれば、そこで提示されるはずの物語というのは、人々に人生のモデルを提供するような、そういう意味での物語なのではなく、人々が自分で自分の物語を構築することができるような、ある種のメインフレームを提供する物語になるのではないかと思う。こうしたレベルで解釈しないと、春樹の言っていることに一貫性を与えることはできないだろう。
さて、ここから、今後のアフター・カーニバルの活動についてちょっと考えてみたいのだが、今後ネットの放送で予定されている活動とは、村上春樹の小説の読み直しとニコニコ動画について語ること、この二つである。僕はこの二つの活動が、それぞればらばらに行なわれるのではなく、密接に関わってくると思っているのだが、ここでキーワードになりうるのが「物語」である。他にもいくつかキーワードが出てくるといいと思っているのだが、物語こそが、まず最初に検討されるべきテーマだろう。
ニコニコ動画と物語とはどのような関係にあるのかということが、まずは、検討されるべき課題であるが、この点については、次回以降、詳しく問題にしてみることにしたい。非常に多様な断片的な素材を繋ぎ合わせることによって、様々な作品が生み出される場としてのニコニコ動画。この場を、ジャンクな物語が日々生成している場だと言うことはできるだろうが、そう した物語の生成の仕方や消費のされ方が春樹の小説とどのように関わってくるのか、ということを今後問題にしていきたいと思っているのである。
こんなところで、また次回。(SIZ)
そもそも、なぜ、小説と物語との違いが問題になっていたかというと、今回の会合のテーマが保坂和志の小説論だったからである。保坂和志は小説家であるわけだが、彼は自身の創作活動(あるいは創作活動一般)をどのように規定しているのか、ということを検討したわけである。
保坂和志は、反物語というスタンスを貫くことで、小説家という自身の立場を明確にしていたわけだが、こうした保坂の立場は、ある点において、村上春樹の立場と大きく対立するところがある。この点については、これまでの深夜便の放送において問題にされてきたことであるが、春樹は、自身の創作活動を規定するにあたって、「物語」という言葉を持ち出すのである。R氏が指摘したように、春樹は「いい物語は人の心を深く広くする」ということを言うのである。
この規定は、保坂の考えと対照させたときに、大きな問題を生じされることだろう。会合でA.I.氏が言っていたように、物語がひとつの型であるとするならば、それは「人の心を深く広くする」よりも、むしろ、人の心を狭いところに閉じ込めてしまうことになりはしないのだろうか。いったい、なぜ、型である物語が人の心を「深く広くする」のだろうか。
こうしたことを問題にするにあたっては、そもそも春樹が物語というものをどんなふうに考えているのかということを検討する必要があるだろう。春樹は『アンダーグラウンド』のあとがきに当たる「目じるしのない悪夢」で次のように述べている。
アメリカの作家ラッセル・バンクスは小説『大陸漂流』の中でこのように述べている。
「自我より大きな力を持ったもの、たとえば歴史、あるいは神、無意識といったものに身を委ねるとき、人はいともたやすく目の前の出来事の脈絡を失ってしまう。人生が物語としての流れを失ってしまう のだ」(黒原敏行訳)
そう、もしあなたが自我を失えば、そこであなたは自分という一貫した物語をも喪失してしまう。しかし人は、物語なしに長く生きていくことはできない。物語というものは、あなたがあなたを取り囲み限定する論理的制度(あるいは制度的論理)を超越し、他者と共時体験をおこなうための重要な秘密の鍵であり、安全弁なのだから。
(講談社文庫、1999年、749-750頁)
ここで春樹は、物語を自我の側に位置づけ、自我よりも大きなもの(神や歴史や制度)と対立させている。つまり、自我の物語は、宗教的な大きな物語とも、国民国家の大きな物語とも対立する小さな物語として規定されている。物語は優れて個人的なものとして規定されているのである。逆に言うと、自我の一貫性を保証しているものこそが物語なのだろう(自分という一貫した物語)。
こうした春樹の規定を前にして僕が思うのは、おそらく、多くの人にとって、自我の確立というものは、非常に困難な課題なのではないか、ということだ。人々は、自分で自分だけの物語を築こうとするよりも、すでにある物語に飛びつこうとするのではないか。春樹は、物語を「「お話」の夢」とも言っているが、われわれの誰しもが夢を見ているとしても、その夢というのは、どこかから借りてこられた夢、大量に生産され、大量に消費される、そのような種類の夢である可能性があるのではないか。
さらに言えば、アメリカ人にとって当然であるようなことが日本人にとって当然であるとは言えないし、とりわけ、自我というものは、日本人にとって厄介な代物ではないかという気がする。だからこそ、春樹自身が言っているように、多くの人々はジャンクな物語に惹かれるのだろうし、麻原彰晃が生み出した物語が大きな力を持ったのだろう。春樹はジャンクな物語について次のように述べている。
人々の多くは複雑な、「ああでありながら、同時にこうでもありうる」という総合的、重層的な――そして裏切りを含んだ――物語を受け入れることに、もはや疲れ果てているからだ。そういう表現の多重化の中に自分の身を置く場所を見出すことができなくなったからこそ、人々はすすんで自我を投げ出そうとしているのである。
(同書、751頁)
こうした現状認識が正しいとして、それでは、なぜ、他方において、物語の凋落という事態が立ち上がっているのだろうか。多くの人々がジャンクな物語を求めているとすれば、物語の凋落は起こらないのではないか。
この問いに答えるために重要なファクターをひとつ持ち出せば、それは、現代社会が多様化している、というものだろう。現代人の生活環境は多様化し、ライフスタイルも多様化している。様々な価値観も多様化し、何が良いことで何が悪いことなのかを一概に言えなくなっているとすれば、当然のことながら、人生の物語も多様化していることだろう。だが、生活が多様化していても、ジャンクな物語が求められるということはありうるわけで、みんなにとって共通の物語というようなものは凋落しているとしても、個々人にとって分かりやすい物語が求められているという現状は存在しているのかも知れない。
今日の物語環境というものを考える必要があるだろうが、共通の物語というものが解体しているのだとすれば、保坂が目指すような反物語的な方向性は、小説において実現されるまでもなく、われわれの日常生活においてすでに実現されていると言えるかも知れない。われわれの日常生活がすでに方向性を見失っており、どこにも接続されることなく断片化している可能性があるのだ。
それでは、こうした物語環境にあっては、個々人のレベルにおいて、それぞれの自我に見合った物語が立ち上がっているかと言えば、そんなことはまったくないように思えるのである。むしろ、人々は、ジャンクな物語に絶えず群がっているように思えるのだが、そこで獲得された物語と自分自身の生活との齟齬が非常に大きいために、そうしたジャンクな物語の持続性はとても短いものになっているのではないか、という気がするのだ。
そもそも、自我というものは、人間が生まれたときから保持しているようなものではなく、徐々に確立されるというか、 他人の自我(物語)をパッチワークすることによって出来上がっているのではないかと思う。そういう意味では、誰しも自分の物語を持っていないとも言えるし、持っているとも言える。今日の問題とは、誰しも持っていると言える「私の物語」が非常に脆弱になっているというか、個々人が自分の物語を生み出すにあたって参照しているメインフレームのようなものが非常に脆くなっているのではないか、という気がするのだ(だからこそ、A.I.氏は、今日の物語のメインフレームに相当する、物語ることの技術というものを重視するのだろう)。
春樹の「いい物語」という言葉を好意的に解釈するとすれば、そこで提示されるはずの物語というのは、人々に人生のモデルを提供するような、そういう意味での物語なのではなく、人々が自分で自分の物語を構築することができるような、ある種のメインフレームを提供する物語になるのではないかと思う。こうしたレベルで解釈しないと、春樹の言っていることに一貫性を与えることはできないだろう。
さて、ここから、今後のアフター・カーニバルの活動についてちょっと考えてみたいのだが、今後ネットの放送で予定されている活動とは、村上春樹の小説の読み直しとニコニコ動画について語ること、この二つである。僕はこの二つの活動が、それぞればらばらに行なわれるのではなく、密接に関わってくると思っているのだが、ここでキーワードになりうるのが「物語」である。他にもいくつかキーワードが出てくるといいと思っているのだが、物語こそが、まず最初に検討されるべきテーマだろう。
ニコニコ動画と物語とはどのような関係にあるのかということが、まずは、検討されるべき課題であるが、この点については、次回以降、詳しく問題にしてみることにしたい。非常に多様な断片的な素材を繋ぎ合わせることによって、様々な作品が生み出される場としてのニコニコ動画。この場を、ジャンクな物語が日々生成している場だと言うことはできるだろうが、そう した物語の生成の仕方や消費のされ方が春樹の小説とどのように関わってくるのか、ということを今後問題にしていきたいと思っているのである。
こんなところで、また次回。(SIZ)
2009年06月21日
アフター・カーニバル深夜便(特別編)〜会合の記録:保坂和志の小説論・後半〜
(トピック)
物語と小説の違い
「今は昔」という物語の枠
『源氏物語』のストーリーテリング
芝居における演技の肉づけ、小説における文章の力
(BGM:故郷(ふるさと))
「き」と「けり」
近代小説と古典の物語の違い
リアリティの源泉はどこにあるのか?
語りの構造、話型
意識的に取られる小説の技術
意識的に書かれていない『恋空』のリアリティ
小説のリアリティはディテール(写実)にある
『恋空』の質をどうやって判断するのか?
近代小説のリアリズム
会合のまとめ
保坂は閉じている
小説にも型がある
他人に向けて書かれる日記
他者性を排除した思考は可能か?
小説は常に他人に向けられているのではないか?
パーティの終了
(参考)
保坂和志の小説論――2009年6月13日の会合の報告
http://after-carnival.seesaa.net/article/121640224.html
物語と小説の違い
「今は昔」という物語の枠
『源氏物語』のストーリーテリング
芝居における演技の肉づけ、小説における文章の力
(BGM:故郷(ふるさと))
「き」と「けり」
近代小説と古典の物語の違い
リアリティの源泉はどこにあるのか?
語りの構造、話型
意識的に取られる小説の技術
意識的に書かれていない『恋空』のリアリティ
小説のリアリティはディテール(写実)にある
『恋空』の質をどうやって判断するのか?
近代小説のリアリズム
会合のまとめ
保坂は閉じている
小説にも型がある
他人に向けて書かれる日記
他者性を排除した思考は可能か?
小説は常に他人に向けられているのではないか?
パーティの終了
(参考)
保坂和志の小説論――2009年6月13日の会合の報告
http://after-carnival.seesaa.net/article/121640224.html
アフター・カーニバル深夜便(特別編)〜会合の記録:保坂和志の小説論・前半〜
みなさん、こんばんは。
今週も深夜便をお届けします。
今週は、特別編として、6月13日に行なわれたアフター・カーニバルの会合の録音を公開したいと思います。
会合に参加しているのは、R氏、A.I.氏、それから僕です(僕は放送に初参加になるわけですが)。
録音した場所は、放送の中でも触れられていますが、僕たちの母校の食堂なので、雑音が入ったり関係ない人の声が入ったり等、いろいろと聞き苦しいところもありますが(音声がリピートしてしまうところも何箇所かあります)、御了承ください。
公開する録音は、5時間くらいにわたって行なわれた会合のすべてではなく、最初の一時間と最後の20分だけです。保坂和志の小説論を中心に据えて、小説と物語の違いなどについて議論しています。
僕が「通信」に書いた会合の報告も参照してもらえるとありがたいです。(SIZ)
(トピック)
母校の食堂から
メンバーのハンドルネームの由来(謎のまま)
ブログのアクセス数
これまでの会合を振り返って
保坂の本の感想
すれすれの感じがない
保坂にとっての理想の小説
叙述トリックと人称
保坂の小説の面白さ
ガルシア=マルケスを思い出す
『カンバセイション・ピース』の朗読
ハリウッド的な作品構成と『ディア・ハンター』
村上春樹の方向性と保坂和志の方向性
近代小説と物語
『当世書生気質』に見る「小説」
今週も深夜便をお届けします。
今週は、特別編として、6月13日に行なわれたアフター・カーニバルの会合の録音を公開したいと思います。
会合に参加しているのは、R氏、A.I.氏、それから僕です(僕は放送に初参加になるわけですが)。
録音した場所は、放送の中でも触れられていますが、僕たちの母校の食堂なので、雑音が入ったり関係ない人の声が入ったり等、いろいろと聞き苦しいところもありますが(音声がリピートしてしまうところも何箇所かあります)、御了承ください。
公開する録音は、5時間くらいにわたって行なわれた会合のすべてではなく、最初の一時間と最後の20分だけです。保坂和志の小説論を中心に据えて、小説と物語の違いなどについて議論しています。
僕が「通信」に書いた会合の報告も参照してもらえるとありがたいです。(SIZ)
(トピック)
母校の食堂から
メンバーのハンドルネームの由来(謎のまま)
ブログのアクセス数
これまでの会合を振り返って
保坂の本の感想
すれすれの感じがない
保坂にとっての理想の小説
叙述トリックと人称
保坂の小説の面白さ
ガルシア=マルケスを思い出す
『カンバセイション・ピース』の朗読
ハリウッド的な作品構成と『ディア・ハンター』
村上春樹の方向性と保坂和志の方向性
近代小説と物語
『当世書生気質』に見る「小説」


