2010年12月17日

失われた祭りをもとめて〜現代サブカルの深層心理

★終わりを忌避する現代社会

 911テロの跡地であるグラウンド・ゼロに再び世界貿易センタービルをも凌ぐ記念タワーを創り上げる計画があるという。色々な問題を抱えて難航しているようだが、そこからうかがえるのはいまだ治らないアメリカの病である。それは「失われた祭り」を再現しようと躍起になる姿に見える。彼らは、あの広大な一画をぽっかりとした空白地帯のゼロ地点のままにしておくことが出来ないのである。追悼の塔であると主張しているようだが、このような弔いのあり方はむしろ死者の犠牲を無に帰す反魂にすぎないのでないか。そこには「喪に服する」ということへの根源的な省察が欠けており、彼らは致命的な誤謬を犯しているのではないだろうか。グラウンド・ゼロはかつての「輝けるアメリカ」のあくまで跡地なのであり、悲惨な出来事の跡地として素舞台にしておくことによってのみ真の鎮魂が成り立つのである。「悼む」ことは、痛みを麻痺させることによって可能になるのではない。どこまでも悲劇の痛覚を想像しうる喚起力をグラウンド・ゼロは持たねばならない。アメリカの「祭り」はまだ終わっていないのである。

 現代社会はグローバルな状況として「終わり」を望まない傾向にあると言える。「終わり」を迎えることの極端な忌避、そして究極的には「死」を可能な限り回避・延命し続けることによって、この世の「無常」の隠蔽を拡大し推し進めていく科学技術とそれへの信仰。たとえば近年のアニメ業界の最大のヒット作であり、サブカル界を席巻した『けいおん!』のマンガおよびアニメの連載終了・放映終了における、愛好者の過剰なうろたえぶりは記憶に新しい。連載終了をあたかも世界の終わりであるかのように受け入れられないものとしてふるまう愛好者たちの姿は、現代のサブカルチャー(マンガ・アニメ・ゲーム)のマスが何を志向しているのかを暗示している。むろんそれはひとつの擬態にすぎないであろう。だがそのようにふるまおうとすることに現代のサブカル文脈の基盤があるとも言えよう。まさに「アイロニカルな没入=虚構にすぎないことをよく知っているが、それでも不動の『現実』であるかのように振る舞う態度」(大澤真幸)の横溢である。2010年に話題となったTVドラマ『Q10』でも、そのような「終わること」をめぐる主人公のモノローグが散見され、また『けいおん!』の連載終了に恐怖したような者たちの戯画が描写されてもいた。(しかしこの作品では、最終的には主人公が未来から来たロボットのリセット・ボタンを押して、かけがえのないものとなっていたロボットとの関係性を断ち切るという苦渋の選択が描かれていた。)

 そもそもSFが今よりもサブカルのスタンダードに食い込んでいたと思われる時代では、一日が何度も反復される趣向の作品がありふれていたし、反復といえばループ系のタイムリープもの、あるいはパラレル・ワールドのモチーフは、80年代ラブコメの定型だったろう。有名な押井守『ビューティフル・ドリーマー』(いつまでも文化祭当日がやって来ず「祭り」の準備だけが反復される作品)の他にもアニメ『きまぐれオレンジロード』では、望月智充が演出担当した「そしてダ・カーポ」などの話に顕著であった。それらは往々にして話型じたいが円環構造をなしていたことも指摘できよう。

 そもそも『サザエさん』に代表される過去無数に量産されてきた日常系の作品では、「終わり」というものが設定も意識もされていない。それは「終わり」の刻印がどこにもない作品類型だと言える。だが同時に世紀末を跨ぐ辺りから『あずまんが大王』や『けいおん!』といった日常系の学園ものなどで、非常にサブカル的な身体性を持ちながら、過ぎ去る時間と成長する人物という基軸が導入されるようになり、先述のように作品内の「卒業」に耐えられないといった倒錯した現象が起きてくる。われわれはこれまでのサブカル作品において、「終わり」が回避されてあることに飼い慣らされすぎていたのだろうか。

 だがわれわれはつい十年ほど前の前世紀末までノストラダムスに代表される終末論の世界観を共有し、ハルマゲドンを懼れつつそのような「物語」を消費してきたし、一部に勃興した「物語」濫用者はじっさいにそれを起こそうともした。だがそこでのそうした「終わり」の「物語」は、終わりゆくものに引導を渡す大義を放擲した「お祭り騒ぎ」にすぎなかった。われわれはそれを無責任に愉しむことすらしただろう。そうした点から見れば、オウム教団の幹部が来たるべき最終結論に向けて準備していたものも、ひとつの巨大な「祭り」の準備にすぎなかったとも言えるだろう。

 なぜわれわれの社会はハルマゲドンという「祭り」を希望したのか。しかもそれは「祭りのあと」に現れた「祭り」であった。蓋し「祭り」が渇望されるのは「祭り」がすでに終了しているからであり、「祭り」がない状態すなわち「終わりなき日常」ゆえにである。宮台真司がかつて指摘したように「終わりなき日常」を拒否して「祭り=ハルマゲドン」を希求することのなかからオウムの実力行使は産まれてきた。われわれにとってもはや「終わりなき日常」は「祭り」の欠如態としてある。だとすれば戦後から世紀末にかけて失われていった「祭り」とは何だったろうかと考えてみる必要がありそうだ。そのときそこで終わっていたものとは何であろうか、と。

 よく言われるように、ひとつにはそれは「物語」の失墜であろう。われわれにとって、共同体として信じられ、希望を見いだせる「物語」(宮台真司は「良きことの自明性」「良心」「倫理」などを挙げていた)は戦後、順次さまざまな段階を経て瓦解していった。敗戦、市民運動・学生運動の挫折、三島の自決、昭和の終焉、共産主義の敗北、バブル経済の暴落、1995年の衝撃、911テロ、広がるコミュニケーション・ギャップとあらゆる格差、各方面の安全神話の崩落、どの局面にも見出せるモラル・ハザード、それと反比例するかのようにますます狭量になる検閲的モラルの帝国主義・・・・・・ハルマゲドンは、あらゆる価値の文脈が解体され崩壊した後にかろうじて機能しかけた大きな(「 」つきの)「物語」であり、終末論はお手頃なものにリサイジングされた「祭り」のいわば「しおり」であった。あの当時のわれわれの社会では、それに対して人々がどのようなリアクションを取るにせよ、半ば無意識に「祭り」に参加していたのである。

 だから赤城智弘の物議を醸した議論「希望は戦争」は、21世紀に突如として出現した心理ではない。すでに終末論を求めた人々の心の荒廃に暗に胚胎していたものであり、世紀末という「祭り」以後も終わらなかった「後の祭り」なのである。

 世紀末の終わりとともに「祭り」は終わり、社会は「祭りのあと」を今も過ごしている。だが終末が終わったとき、われわれは「祭り」がなぜ求められたのかという問題それじたいを終らせていたわけではなかった。したがって「祭り」は内面的に続行されつづけているのである。そこでは「戦後」もまた終わってなどいないのだ。むろん、しかるべき訣別なきところには何らの鎮魂も追悼もありえないのである。(R)

2010年12月15日

失われた祭りをもとめて〜伊東静雄『夏の終わり』

 以下は、詩誌「四季」や日本浪曼派の代表的な詩人である伊東静雄の代表作である。

 
夜来の颱風にひとりはぐれた白い雲が
 気のとほくなるほど澄みに澄んだ
 かぐはしい大気の空をながれてゆく
 太陽の燃えかがやく野の景観に
 それがおほきく落す静かな翳は
 ……さよなら……さやうなら……
 ……さよなら……さやうなら……
 いちいちさう頷く眼差のやうに
 一筋ひかる街道をよこぎり
 あざやかな暗緑の水田の面を移り
 ちひさく動く行人をおひ越して
 しづかにしづかに村落の屋根屋根や
 樹上にかげり
 ……さよなら……さやうなら……
 ……さよなら……さやうなら……
 ずつとこの会釈をつづけながら
 やがて優しくわが視野から遠ざかる 
                   伊東静雄「夏の終わり」


 文芸評論家の江藤淳は、かつて敗戦後まもない頃の虚脱感と喪失感のなかで伊東静雄の詩「夏の終わり」を収めた詩集『反響』に出会い、非常に慰められたという。江藤によれば伊東は「なにか大きなものを喪いつつ、それに耐えている人」であり、「むしろその喪失を創造の出発点に据えて、〈明るくかし処を彩〉ろうとして来た人」であった。江藤は「もし、このとき、『反響』にめぐりあわなければ、私は文学を仕事とするようになっていただろうか?」という感懐を吐露していた。彼がこの「夏の終わり」に慰撫された理由は、「自分がいまなによりも、この「……さよなら……さやうなら……」とこだまする歌を必要としていることに、気がつかざるを得なかった」からであり、「さまざまなものに〈……さよなら……さやうなら……〉をいわなければならなかった」からであった。その「さまざまなもの」とは、住み慣れた「鎌倉」や「幼いころから親しんで来た生活の様式」、敗戦に至る前の「それを成り立たせていた時代」としての「少年時代」であり、また「敗戦」という「汚辱から自由だった日本」である。そして、できれば手放したくなかったであろうそれらを喪う悲哀に耐えることを、「夏の終わり」の「……さよなら……さやうなら……」という「反響」(リフレイン)が可能にしていたというのである。

 「白い雲」が「落す静かな翳」は「……さよなら……さやうなら……」と「いちいち頷く」ように、「街道」や「水田」や「行人」「屋根屋根」そして「樹上」に呼びかけ、遠ざかっていく。その「反響」は、それを聴く江藤の喪失感や別離それじたいを歌いあげるものとして響く。そのとき「……さよなら……さやうなら……」というこだまは、「街道」や「水田」や「行人」「屋根屋根」そして「樹上」それぞれの一つひとつに、「いちいち頷く」ように「反響」していくのである。そしてそれら個々の「反響」が、ひいては「夏の終わり」という、別離の全体性へと高次化されていく。

 われわれはすでに打ち上げ花火が発光とともに必滅するものであることを見知っている。そこには打ち上がる一発ごとに「さようなら」がある。ところで日本語において、移りゆく「こと」の世界を言葉に表すことによって、一つひとつの個々の事象(たまさか・偶然性・一回性のできごと)を「さようならば」と確認し、その場、その場を成就させていこうとするのが「さらば」という仕方での別離のいとなみである。そしてまた、みずからに起きた一回性の「こと」を「さようであるならば」と、そのつどそれぞれに確認・総括することを介して、むしろ「さようであらねばならないならば」という、有為転変する無常の普遍原理が承認可能となってくる。ならばここでの「夏の終わり」の「終わり」の営みとは、「……さよなら……さやうなら……」によって「眼差」され、総括されていく個々の景物――それはむしろ詩人の心象としての内景だが――をそのように一つひとつ歌いあげ、余さず数えあげていくことによって、「夏の終わり」そのものを成就せしめんとする心的態度にほかならないだろう。なおかつそのことは、終わりゆくものが、「夏」、あるいは「少年時代」や「汚辱から自由だった日本」が、まさに終わらなければならないものとして感得されている(「さようならば」と受けとめられている)からこそ、そうした「反響」が別離の承認・成就として響いてくるのだろう。

 以上のことは、まどみちおの詩「さようなら」においても想起される。

 
子供よ、あの赤い夕焼けは、一日が「さようなら」っ
て言ってるのだ。
 子供よ、今落ちた木の葉の、あのしずかな音も、
やはりあの木の葉の「さようなら」だ。
 子供よ、お前の持っている鉛筆でさえ短くなる
たびに、「さようなら」「さようなら」って書いて
いる。
 ああ、子供よ、耳をすましてみると、なにもか
にもみんながみんな、「さようなら」「さようなら」っ
て言ってるではないか。


 ここでは、自己が自己の前に立ち現れる個々の現象なり、自己を包む万象のそれぞれから、「さようなら」と常にすでに呼びかけられているありようが提示されている。いわばわれわれは、万象それぞれからの無限の「さようなら」に出会うかたちで、その総体としてのこの世界に立ち会っている。そのような「さようなら」を聞く者として、それに一つひとつ応答する仕方で、われわれは世界全体を常にすでに「諦めている(別れている)」とも言えるとすれば、万象の「さようなら」の声を一つひとつ余さず「聞いている(聞き取る)私」という詩人のありようが逆に浮かび上がってこよう。
 つまり世界をそうした見立てにおいて見る詩人の感受性こそ、むしろわれわれが一つひとつの事象をそのように丁寧かつ十全に愛でることにおいて、なおそれと分かたれてくるという別れのあり方と可能性を逆証しているからである。(R)

2010年12月12日

失われた祭りをもとめて〜一期一会のふたゝたびかへらざる事

★井伊直弼『茶湯一会集』

 「安政の大獄」で有名な幕末の大老井伊直弼は、千利休以降の重要な茶人に数え上げられる当代きっての文化人であり教養人であった。利休に由来する「一期一会」という茶湯用語とその極意を世に伝え広めた人でもある。

 『茶湯一会集』に、「茶湯の交会は、一期一会といひて、たとへば幾度おなじ主客交会するとも、今日の会にふたたびかへらざる事を思へば、実に我一世一度の会也」とある。それは、主人が客人をもてなすという形で主客が交会する「茶湯」という営みにおいて、何度同じ交会がありうるとしても、それら一つひとつが「一世一度」の出会いであり交会であって、その一つひとつのできごと(一会)のそのつどの成就を本意とするものである。もてなす主人ももてなしを受ける客人も、互いに「此会に又逢ひがたき事を弁へ」て、「深切実意」をもって交わるべきであるとされる。しかもそのことは、茶湯において「強ち品を取かへ飾り・手前等かはらざれば茶湯の趣向ならずといふ謂、曾て無き事也」(そのつど客の目を引くような飾りや茶器等を用意していなければ良い茶湯とは言えないなどということはない)のであって、利休が「呉々相替る事なく、日々同事斗の内、心の働は引替へ引替へ如何様にも可有候」(そうした品々を替えることもなく、毎日同じことばかりのうちに、なお心の働きはいかようにも引き替え改めてもてなすことができる)としたところこそ、「茶道の大本」であるとされるなかで述べられている。つまりそれは、毎日が「茶湯」という現場であり、まさに取り立てて新奇な起伏もない「つれづれ」としての日常の些事一つひとつが「深切実意」に取り扱われることなくしてありえないだろう。だから「一期一会」こそが「茶湯」の極意なのである。

 ところで「一期一会」を観念するということは、すなわち「一会」を連続する時間の無差別・等価値な一瞬から屹立させ、「一会」をまさに代替不可能な「一会」としてそのつど区切ってゆくことで、以前の「一会」および後続する「一会」との截然たる意義をもうけ成就せしめんとすることであろう。そうであってみれば「一期一会」においては、「一会」はあくまでもそのつどにおいて全き成就を見るものであって、すでに終りを見た「一会」をもういちど再現しようとすること(「一期」のものではなくすること)、あるいは過ぎ去った「祭り」をもういちど求めることとは真逆の心意である。以前に述べた花火の例で言えば、「たまさか」の打ち上げ花火こそが「一期一会」であって、再び同じものを求めて「一期一会」を復興可能なもののように扱うことは、どの「一会」をも質的に等価に付すことであり、「又逢ひがたき事を弁へ」ない心得違いのふるまいということになろう。

 『茶湯一会集』の「暇乞い」について手引きしたくだりでは、主客が「共々に残心をのこして、わかるべき也」とある。別れの場面に際し、なお今日の「交会」に心ひかれるものを「余情残心」としてこよなく感受しながらも、充分に別れよということである。さらに言えば相手とはむろんのこと、おそらくは「この一期一会」それじたいとの別れについてをも指したものだろう。それは、客が帰ったあとも決して片付けを急いだりせず、静かに茶席に戻り炉前に独座して「一期一会」を観念する(一心に「一期一会」を想念する)ことが極意だという次の箇所からもうかがえる。

 
炉前に独座して、今暫く御咄も有べきに、もはや何方まで可被参哉、今日、一期一会済て、ふたゝたびかへらざる事を観念し、或は独服をもいたす事、是、一会極意の習なり。此時、寂寞として打語ふものとては釜一口のみにして外に物なし、誠に自得せざればいたりがたき境界なり。


 炉前に独り座り直って、客人は今もうどこまで帰られたであろうかなどと思いやり、今日のこの一期一会が済んでは二度と現れないのだということをよく観念し、あるいは独り茶を一服するのが、一期一会の極意である。このとき己独りの茶の湯であることの物寂しさを全的に味わうには、その極意を自得していなければならない――と。
 「自得」するとはいかなることか。その中身が問われようが、いずれにせよ今日のこの「一期一会」が、いかにも「ふたゝたびかへらざる事」であるのを観念しえたとき、この「一会」との別れが成就するということである。(R)

2010年11月13日

失われた祭りをもとめて〜村上春樹『1973年のピンボール』

★なぜ村上春樹は消える女たちを探し求めるのか?

 村上春樹の小説では、短編長編問わず頻繁に女性が消える。妻だったり愛人だったり恋人だったり、また失踪だったり自殺だったりと色々だが、とにかく主人公の前からいなくなることが多い。それが村上文学の「喪失」を特徴づける大きなそして具体的な出来事のようにも見える。
 むろん「僕」は、消えた女性を探し求める。それが探求譚といわれる所以でもある。「シーク&ファインド」の物語だと。しかし「僕」が「喪失したもの」をただ奪還しようとしているのだとは思えない。かつて「失ったもの」をもう一度手に入れようとするだけの物語ではないはずだ。もちろん消えた女性だけのことではない。失われたのは、自分の前からいなくなった女の向こうにある何かだ。それは過去のある時まで確かにあったものだ。

 『1973年のピンボール』で、「僕」は消えた女性「直子」の話に出てきたある駅を、彼女の痕跡を求めるかのようにそれから四年後の1973年にひとりで訪れる。だが結局むなしく帰ることになり思い知らされる。

 
帰りの電車の中で何度も自分に言いきかせた。全ては終っちまったんだ、もう忘れろ、と。そのためにここまで来たんじゃないか、と。でも忘れることなんてできなかった。直子を愛していたことも。そして彼女がもう死んでしまったことも。結局のところ何ひとつ終ってはいなかったからだ。


 忘れるため、終わらせるために来たのに、「終っちまった」ことを受け入れられなかった。逆に「何ひとつ終ってはいなかった」ことを再確認しただけだった。「僕」のなかで「直子」という青春、そうした時間性は死んでいないし、終わっていないのである。

 「僕」は1970年の冬、すでに「直子」がいなくなった世界で、あるピンボール・マシーンの呪術性から抜け出せなくなっていた。「僕」はそのマシーンを「彼女」と呼び、「彼女」からの呼びかけに答えるように対話(プレイ)する。何度も何度も(リプレイ)ハイスコアを目指す。「彼女」は「あなたは悪くなんかないのよ、精いっぱいやったじゃない。」と言うが、「僕」は「違うんだ。僕は何ひとつ出来なかった。指一本動かせなかった。でも、やろうと思えばできたんだ。」という後悔の念から抜け出せない。「やろうと思えばできた」という思いが「僕」にピンボールを何度もやり直させているのだろう。しかし、それはいずれにしろ「終わっちまった」ことであり、「やろうと思えばできた」かどうか、そうした「過去」は不可知ゆえにどこまでいっても回収できないものだが、「でも何ひとつ終っちゃいない、いつまでもきっと同じなんだ」とひたすら得点を高めることを目指しつづける。「彼女」に「終ったのよ、何もかも」と告げられたとしても。
 だから「彼女」がお払い箱になり行方知れずになったあとも、「しかるべき時がやってきて、誰もがピンボールをやめる。ただそれだけのことだ」といいながら、1973年になってもそのピンボールを探し出すことになるのである。「しかるべき時」がやってきても「僕」は「彼女」との対話(プレイ)を求めていたのだ。

 だが、最後にいたって「僕」は「直子」(「古い夢の墓場」にあったかつて失われたピンボールの「彼女」=「僕」が失ったもの)と「再会」し、次のように感じる。

 
僕たちが共有しているものは、ずっと昔に死んでしまった時間の断片にすぎなかった。それでもその暖い想いの幾らかは、古い光のように僕の心の中を今も彷徨いつづけていた。そして死が僕を捉え、再び無の坩堝に放り込むまでの束の間の時を、僕はその光とともに歩むだろう。


 「僕」はここで、お互いの間に流れていた時間は、もうずっと前に死んで砕片となってしまったことを実感する。「終っちまった」ことを実感するがゆえに、そこで失われていったものが放つ「古い光」は、死ぬまで「僕の心の中」に生きつづけるだろうことも確認される。それでも「僕」は「終り」の方へ歩み出すのだ。「彼女」が「ゲームはやらないの?」と訊いても、「やらない」と答える。再びスコアを求めることはしないのだ。「ベストスコア」をそのままにしておくためにも。そうして「彼女」にはじめて「さようなら」を告げる。

 
僕はピンボールの列を抜けて階段を上がり、レバー・スイッチを切った。まるで空気が抜けるようにピンボールの電気が消え、完全な沈黙と眠りがあたりを被った。再び倉庫を横切り、階段を上がり、電灯のスイッチを切って扉を後手に閉めるまでの長い時間、僕は後を振り向かなかった。一度も振り向かなかった。


 「僕」はもう「後を振り向かなかった。一度も振り向かなかった」のだ。「終っちまった」そのあとで、なお終れなかった「僕」は、ようやくその「終り」をみずから終えたのである。

 一方で対照的なのは、「僕」と同じように「直子」のことを引きずっていると思われる「鼠」の存在である。彼の心は短い夏が消えた後も、「僅かばかりの夏の名残りの中に留まっていた」し、「鼠にとっての時の流れは、まるでどこかでプツンと断ち切られてしまったように見える」のだ。そのようにしてすでに「死んだロープ」を手にしながら、導かれることもなくどこにもたどり着けないでいる。

 
ひとつの季節がドアを開けて去り、もうひとつの季節がもうひとつのドアからやってくる。人は慌ててドアを開け、おい、ちょっと待ってくれ、ひとつだけ言い忘れたことがあるんだ、と叫ぶ。でもそこにはもう誰もいない。……部屋の中には既にもうひとつの季節が椅子に腰を下ろし、マッチを擦って煙草に火を点けている。


 「ひとつの季節」が終わったなら、当然そこから抜け出さねばならないはずである。しかしそれは唐突に、あまりにも唐突にやってくるために俄かに受け入れて何もいわずにそこを出てゆくことは難しい。そうしたことに自覚的でなければ、いつも何か「言い忘れたことがある」気がするし、言い得なかったものを感じてしまうだろう。そうして「鼠」はついにそのまま何かを言わずに立ち去ることはできなかったということだ。
 そのことは冒頭で語られる「僕」の逸話に象徴的に示されている。たいていの物事には「入口があって出口がある」が、そうでないものもあるとして「鼠取り」を例に出すところである。ある時「出口」のない鼠取りを仕掛けた結果、当然のこととして若い鼠を死なせてしまうのだが、「僕」はそのことの悔恨から「物事には必ず入口と出口がなくてはならない」ことを考える。そして「出口」を抜け出せず死んだ若い鼠のように、この物語の中で「鼠」には「出口」は見出せない。
 むろんピンボールの呪術に入り込んで出られなくなった「僕」も同様ではあった。「孤独な消耗」をつづけ、「取り返すことのできぬ貴重な時間」を失った。「僕」は「これはピンボールについての小説である」と言い、あるピンボール研究書の序文を引いている。

 
ピンボール・マシーンはあなたを何処にも連れて行きはしない。リプレイ(再試合)のランプを灯すだけだ。リプレイ、リプレイ、リプレイ……、まるでピンボール・ゲームそのものがある永劫性を目指しているようにさえ思える。


 「ピンボール・マシーン」は「ある永劫性」を目指すものであり、「ひとつの季節」から抜け出すものではなく、むしろそれを阻害する呪術装置としてある。
 これが「ピンボールについての小説である」のもそのためである。この『1973年のピンボール』という小説について「僕」は、そうした「ひとつの季節」の終焉を確実に抜け出るために書かれるのだとその意義を述べている。「一九七三年九月、この小説はそこから始まる。それが入口だ。出口があればいいと思う。もしなければ、文章を書く意味なんて何もない」と。
 だからこそ「僕」が「僕は後ろを振り向かなかった。一度も振り向かなかった」と言うとき、「僕」はもうピンボールのリプレイをすることはないのである。そうして「僕」は「ひとつの季節」を出て行ったのだから。「1973年のピンボール」という「永劫性」からの「出口」を。
 それは「僕」の「祭りのあと」の、「僕」みずからによる鎮魂の物語なのである。(R)

2010年11月12日

失われた祭りをもとめて〜乙一『さみしさの周波数』と新海誠『秒速3センチメートル』

 先月すでに<アフター・カーニバルとは?>のカテゴリで「失われた祭りをもとめて〜終焉を廻るまなざし」という連載記事を4回ほどつづけて終了したのだけれど、まだ色々と補足したり書くべき事が残っているので、また今回からお付き合い願います。
 どうでもいいのだけど、そもそもこの連載は約7年前このブログの前身HP「アフター・カーニバル」を立ち上げた際の第一回記事の予定にあったものを今さら書いている次第である。たしかうっすら載っけたものを削除したような気がする。しかし今頃になってようやく書くべきもののツケを払っているような感じである。

★乙一『さみしさの周波数』と新海誠『秒速3センチメートル』

 乙一の小説『さみしさの周波数』に「未来予報」という短編が収められていて、あらすじはこうだ。

 小学生の頃「僕」と清水は、どちらも目立たない存在だった。お互い家が近所同士なだけで付き合いがある間柄でもなかった。ある日不思議な予知能力があるという転校生に「お前たち二人、どちらかが死ななければ、いつか結婚するぜ」と告げられる。
 それ以来「僕」は彼女と前よりいっそう距離を置くようになってしまった。中学卒業を経て高校は離ればなれになり、疎遠なまま成人した。「僕」は人生から落ちこぼれて行き、進学もせずフリーターとして社会の底辺を這って日々を無為に過ごしていた。「未来には不安が待ち構えている。過去には後悔がたたずんでいる。人生を送るというのは、どんなに難しいことなのだろう」と。そんな中で清水のことを想う時間だけが灯火になっていた・・・・・・。

 それはノストラダムスの予言のように、未だ来ない「未来」が現在の自分の人生を色づけする。「予言の成就」を期待するわけではない。にもかかわらず「僕」は「予報」されたという過去の事実、過去の物語の時制を受けていく。
 そうして前後不覚になるような孤独の中、清水の存在を唯一のよりどころとしながら、「だからといっていつまでもそうしていてはいけない。そのような実体のないものからは、いつか自立しなくてはいけない。そして、そのいつかというのを先延ばしにしてはいけないのだ」と「僕」は動き出す。だがその矢先に清水は病没する。
 回想形式の「僕」の物語の終りは次のように締めくくられる。

 
僕たちの間には言葉で表現できる「関係」は存在しなかった。ただ透明な川が二人の間を隔てて流れているように、あるような、ないような距離を保っていた。
 しかし、僕は清水のことを考えるとき、まるで何十年も連れ添った後、寿命で眠るように死んでしまった妻へ想いを馳せるような、懐かしい気持ちになるのだ。


 やや感傷的に感じられるかもしれないが、ここで重要なのは明確な「関係」性がなかったにもかかわらず、「僕」にはそれが決定的な意味を持って生きられてきたということだ。「僕」は現実には人生の底辺をさまよいながら、小学生の頃の「未来予報」が暗示したものから規制されていた。「どちらかが死ななければ、いつか結婚する」ということは、二つの可能性を持っている。それは予言者によれば「隣り合わせで、不確定だった」のだという。あの時ああしていたら別の未来がありえたんじゃないかという後悔と疑念。不確定な「未来予報」は「僕」にかかった一種の「呪い」である。

 新海誠のアニメ『秒速5センチメートル』にも「祭りのあと」を抜け殻のように空虚に生きている男が主人公である。
 東京の小学生・遠野貴樹と篠原明里はお互いに対する「他人には分らない特別な想い」があった。しかし卒業後に明里は栃木へ転校しそれきり会えなくなる。中1の夏には明里から手紙が届くが、貴樹もまた鹿児島へ転校してしまう。「もう二度と会えなくなるかもしれない」と思った貴樹は、明里に会いに行く。二人は再会し、そして別れ、ついにそれきりになる。

 ここでの「祭り」とは、互いにとって「他人には分らない特別な想い」を共有しあったという、人生における初めての「絆」であり、ヒロインとのそのような関係性である。だがそれは絶対的なものではないし、ごく微妙なものでしかない。またすでに断念されたものでもある。だからこそ貴樹はなんとか少年時代の恋愛未満の恋から遠く離れて、今はもう前に進もうとしてきた。しかし、お互いの中で共有されていたはずの「いつかまた一緒に桜を観ることが出来る」という「あの日の黙契」が心の桎梏として自らを成熟させないでいる。「あれほどまでに真剣で切実だった想い」はもう消えたのに、「季節よ移ろわないで One More Time」と街をさまよい、「言えなかった好きという言葉」は痣になって消えない。だからむろん「あの日の僕」が鎮魂されることもないのだ。
 街は彼女の幻影を探し求める空間でしかなく、ふと踏み切りの向こうにすれちがった彼女らしきその人を振り返る。だが、「今振り返れば、あの人もきっと振り返る」という黙契は果たされない。貴樹はこれからも「ずっと昔の夢」を見つづけるだろう。こうした物語構造においては、貴樹にとって彼女は永遠に踏み切りの向こう側に消えてはまた現れる存在に留まり、失われた黙契の夢想を抜け出ることはできないのである。(R)

2010年10月10日

今後のアフター・カーニバル深夜便の放送について

 先日の生放送の告知にも書きましたが、週一回ジャンルを決めて生放送を行なうという形式で放送を行なうのは昨日の放送で最後にすることにしました。以後、生放送なり、音声ファイルの配信なりは、不定期に行なうことにします。
 それに伴い、僕(SIZ)が管理していたアフター・カーニバルのtwitterのアカウントも停止することにしました。最初にアフター・カーニバルのtwitterを作ったときには、個人のアカウントを取得していないメンバーもいたので、アフター・カーニバル名義のアカウントを作る必要性があったと思ったのですが、もはやメンバー全員が自分のアカウントを取得しているので、もし生放送などの告知をする場合には、ブログの他に、そちらで行なうことになると思います。
 僕は、ブログにしろtwitterにしろ、そうした近年のネットサービスは個人単位のメディアだと思っていて、そこでは、ある種の個性が重視されることになると思っています。そうした点で、僕個人としては、今後は、アフター・カーニバルというグループの特異性よりも、各メンバーの個性が際立つようになったほうが、各自にとって実りが多くなるだろう、というふうに考えています。
 アフター・カーニバルの活動を始めてから8年くらい経っているわけですが、アフター・カーニバルというグループの枠づけの意義が僕には見失われたところがあります。そこにいくら意味を詰めたとしても、ある種の活動実体がなければ、名前を支えることはもはやできないと、そんなふうに考えています。(SIZ)

2010年05月31日

アフター・カーニバル深夜便の今後について

 この前メンバーとスカイプで会議を行なって、深夜便の放送を今後どうするか、ということについて話をした。以下が決まったこと。

 まず深夜便の放送は今後も続けることにする(僕はしばらく休もうかと思っていた)。深夜便の放送の形態はustを使った生放送をメインとして、場合によっては録音による配信も行なう。

 一か月4週として、それぞれの週に話すことをジャンルで分けることにする。話すジャンルは以下の四つ。

1週目:マンガ
2週目:映画
3週目:本
4週目:アニメ

 5週目がある月については、上記の4ジャンルに収まらないものについて話すか、何か特別の放送を行なう予定。

 そして、それぞれの週に担当者を設置することにする(イワンさんにはまだ了承を取っていないのだが)。

マンガ:R
映画:A.I.
本:イワン
アニメ:SIZ

 放送を行なう曜日と時間帯は、担当者の都合に合わせるが、概ね週末(金曜日か土曜日)の深夜になる予定。

 今週末から早速始めるわけだが、最初はマンガ、『北斗の拳』について話す(土曜日の深夜)。詳しい告知はまた後日行ないます。(SIZ)

2010年05月02日

『1Q84』月間、終了のお知らせ

 昨日(金曜日の深夜)に深夜便の生放送で村上春樹の『1Q84』についてイワンさんと語ったわけだが、その場で話したように、『1Q84』を、それ単体で、生放送で語るのはもう終わりにしようと思っている。

 僕個人のことを言えば、『1Q84』に関しては、もう語り尽くしたところがある。今後『1Q84』について語ることがあったとしても、それは、他の作品との関わりにおいてであったり、村上春樹の作品をトータルに捉えるとか、そういう形でしかないだろう。

 当然のことながら、他のメンバーが『1Q84』について語りたいと言ったら、すぐにその場をセッティングするつもりだ。Rさんは今現在『1Q84』を読み進めているところだろうし、A.I.さんもいずれ3巻を読むことだろう。

 昨日の放送は録音しなかったので、僕が『1Q84』について何を語ったのかということは聞いていた人の記憶にしかないわけだが、それをすべて文章化するのは面倒な作業だし、文章化するのが面倒だから放送を行なっているところがある。

 しかし、やはり文章でも何か書いておきたいという思いはある。

 そこで、ポイントになりそうなところ、これから生放送で行なっていきたいことに関わることを少しだけ書くと、僕は、この『1Q84』がジョージ・オーウェルの『1984年』とどのような関係にあるのか、ということに興味がある。簡単に言ってオーウェルの『1984』が未来の管理社会を描いていたとすれば、同じテーマがやはり春樹の『1Q84』にも見出せるのではないか。

 端的に言って、監視の問題が『1Q84』でどのように描かれていたのか、ということに興味がある。「ビッグ・ブラザーが見ている」という管理社会(監視社会)の問題が『1Q84』においては「リトル・ブラザーが見ている」というふうに変化していることは間違いない。この変化をどんなものとして考えることができるのか。

 こうした点を考えるにあたって、オーウェルの『1984』を読むというのもいいのだが、その前に春樹の『アフターダーク』を再読してみたいという思いに駆られた(『アフターダーク』は発売当時、会合でみんなで読んだ)。『アフターダーク』においても監視することの問題、見ることの問題というものが提示されていた。

 イワンさんが放送で指摘していたように、『アフターダーク』における一人称複数の人称も気になる。一人称から三人称へ、という春樹の移行に関して、この一人称複数をどのように考えることができるのか。

 『1Q84』について語っているうちに、このような問題が出てきたので、次の金曜日深夜の生放送では、このあたりのことを問題にしようと思っている。しばらくは「『1Q84』を読む」の延長戦になるだろう。(SIZ)

2010年04月13日

ツイッター始めてみました

 生放送を始めるとなると、告知などでツイッターも利用したほうが便利になるんじゃないかと思って、アフター・カーニバルのアカウントを作ってみました。

http://twitter.com/aftercarnival

 ブログの更新情報なり掲示板で話題にしたことなどをツイートしていくことになるかと思います。

 僕は個人的にツイッターのアカウントを持っているので、どんなふうに書き分けていけばいいのか、ちょっと悩むところです。誰か他のメンバーに書いてもらうか、アカウントを共有して使うか。そういうことも含めて、ちょっと試行錯誤してみようと思っています。(SIZ)

2010年04月12日

4月は1Q84月間

 今月の16日(次の金曜日)に村上春樹の『1Q84』の第3巻が発売されるわけですが、それに合わせて、アフター・カーニバルでは「1Q84月間」と題して、『1Q84』を集中的に問題にしていこうという企画を立ち上げています。

 昨年『1Q84』が発売されたときには、メンバーの中で読んでいた人もいたのですが、僕がちょっとぐずぐずしてしまったために、『1Q84』を問題にする機会を逃してしまいました。

 どんな形であれ、『1Q84』を取り上げるべきだった、という後悔があるので、今回は第3巻の発売に合わせて、『1Q84』を集中的に問題にしていきたいと思います。

 メインに行なおうと思っているのは放送ですが、今度からは音声ファイルを配信という形だけでなく、ustreamを使って生放送も行なおうと思っています。

 先日そのテスト放送を行なって、何とか声だけは上手く放送することができました。実際に聞いてくれる人がいるかどうか不安ですが、ひとまず試しにやってみたいと思っています。

 生放送を行なう場合は、遅くとも一日前に、このブログに告知します。(SIZ)

2010年02月02日

2009年に亡くなった人でショックだったランキング

 去年とったアンケートだったんですが、存在をすっかり忘れてました。今さらの感もありますが。一応。しかし伊藤計劃による佐藤亜紀『戦争の法』の解説は読みたかった。マジで。


(SIZ)
1 レヴィ=ストロース
2 金田伊功
3 マイケル・ジャクソン
今年は死にそうにない人が死んだ年だった。3、ネバーランドでまだ生きていそう。2、ザンボット3が良かった。1、お疲れ様でした。

(A.I.)
1 伊藤計劃
2 三沢光晴
3 レヴィ=ストロース
3、この人は死ななそうな気がしていた。2、個人の死というよりもプロレスの死を感じた。1、日本SFを背負って立つ気鋭の作家だと思っていたので早世が惜しまれる。

(R)
1 レス・ポール
2 加藤和彦
3 大野晋・土居健郎・坂部恵
3、お世話になった学者がみんな死んだ。2、一回だけ会ったことがあるので衝撃だった。1、けいおんの主人公も弾いてたのに(偽物だけど)。

2010年01月08日

「映画」の過去記事も尽きた

 昨日上げた「トランスフォーマー」の記事で「映画」の過去記事も尽き果てました。昔のホームページの「映画」のカテゴリーは映像表現をすべてカバーしていたので、今のカテゴリーの「映画」、「アニメ」、「ドラマ」の記事がすべてなくなったことになります。

 アップし忘れた記事もいくつかあるかも知れませんが、それをいちいちチェックしていくのは面倒なので、ひとまず全部なくなったことを宣言し、時間のあるときにアップし忘れた記事がないかどうか調べてみることにします。

 「トランスフォーマー」の記事が書かれたのが「2007年8月6日」ということなので、そのすぐあとくらいに旧アフター・カーニバルのホームページがなくなって、新しくこのブログを作ったことになるので、だいたい二年半くらいこのブログに過去記事を上げ続けたことになります。

 まだあと、「音楽」と「エッセイ」の過去記事が残っているので、それらを騙し騙し使っていくことにします(「音楽」の記事はそもそも数が少ないですが)。

 新しい記事をどうやって書いていくか。メンバーの人たちと話し合って、何か方策を考え出したいと思います。(SIZ)

2009年12月31日

来年もよろしくお願いします

 今年も今日で終わりですが、みなさん、いかがお過ごしでしょうか。

 アフター・カーニバルでは年末年始特別企画として、深夜便の特別放送を収録しています。というよりも、僕がゲストを呼んでひとりでやっているだけですが、2009年を振り返る企画をいくつか収録しています。

 最初は生放送でもやろうかと思っていたのですが、聞く人が誰もいないのではないかということを恐れたので、いつもの配信形態にしました。いずれ生放送もやってみたいとは思っています。

 来年も深夜便の放送だけは力を入れることができそうなので、基本的に放送メインでやっていきたいと思っています。前の記事に書いたように、文章の記事も何か書けるようにしたいとは思っています。

 あとブログのデザインを変えました。前のやつは、以前から気になっていたのですが、記事一覧などの文字がオレンジ色で見えにくかったので、新しいやつに変えました(今さらですが)。色はやはり暗めでいきます。これがアフター・カーニバルのテイストだと思うので。

 そんなわけで、来年もよろしくお願いします。深夜便の配信は明日から行なう予定です。(SIZ)

2009年12月23日

「書評」欄の過去記事が尽きた

 昨日、イワン氏による「砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない」についての過去記事をアップしたわけだが、これにて、「書評」欄の過去記事がすべて尽きた。

 「書評」欄というのは、昔のアフター・カーニバルのホームページでは、コンテンツのカテゴリーが、書評、映画、音楽に分かれていたので、そのうちの「書評」に当たるもの、つまり、現在のブログでは、「読書」と「マンガ」欄の過去記事がすべて尽きたことになる。

 「映画」欄の過去記事ももう少しでなくなりそうなので、過去記事ばかりではなく、何か新しい記事を書こうと、みんなでいつも話をしてはいるのだが、やはりなかなかそのエネルギーが出てこない。

 妥協的な手段として、アンケート記事を作っているわけだが、アンケートばかり取っていても仕方がない。

 A.I.さんがこの前新しい記事を書いていたが、その路線を上手く活かして、僕も含めた他のメンバーの人たちが気軽に記事を書ける状態にしていけばいいのだが、そうした状況にまで持っていくのがなかなか大変だ。

 そんなわけで、現在のアフター・カーニバルは、深夜便の放送がメインになってしまっているところがある。放送のための準備はそれなりにしているので、そこでエネルギーは使っているわけだが、基本的にやっていて楽しいので、現在は放送がメインになってしまっているところがある。

 しかし、放送を毎週ちゃんと聴いている人がいるとは思えないので、やはり、文章系の記事のほうも何か書くべきではないかと思っているのだが、それがなかなか上手くいかないのが現状である。

 そんなわけで、アフター・カーニバルの来年の目標は、新しい文章系の記事を書く、ということ。それだけではなく、もっといろいろなことをやって、活動の幅を広げようという野心だけは持っているのだが、それもなかなか思うようにいかないのが現状である。

 そんなこんなで、いまひとつなところはありますが、来年のアフター・カーニバルの活動にもぜひ注目してみてください。(SIZ)

2009年12月06日

最近気になるマンガ

最近、気になっているマンガをアンケートとして挙げて貰いました。個人的には、そういや最近マンガ読んでねえからなあと挙げるのが大変でした。


(SIZ)
1『バクマン。』大場つぐみ 小畑健
2『GANTZ』奥浩哉
3『銃夢Last Order』木城ゆきと

3そろそろ格闘マンガをやめてほしい。天下一武闘会が長すぎる。
2もういい加減に終わらせてほしい。まとめに入ってほしい。
1このコンビには期待している。次の作品にも期待。



(R)
1『光る風』山上たつひこ
2『ストロボライト』青山景
3『モテキ』久保ミツロウ
4『レッド』山本直樹
5『ちはやふる』末次由紀

5盗作問題からの復帰作にしては実力があると思う。
4時代空間が肌で感じられる。
3身につまされる。
2出てくる女の子が初恋の子を思い出させる。やたらノスタルジックな女の子が多い。
1びっくりした。



(A.I.)
1『アンダーザローズ』船戸明里
2『賭博覇王伝 零』福本伸行
3『自殺島』森恒二

そもそも最近マンガを読んでいない。ので読んでないマンガも入っている。
3『自殺島』は読んだことない。が、『ホーリーランド』は面白かったので期待age。
2福本はすばらしい。この人の頭んなかにはアイディアが詰まりまくっている。
1基本的にものすごいことが起こるわけでないが、読ませる。

2009年11月29日

好きなアニメのOP・EDテーマ曲

好きなアニメのOP・EDテーマ曲。

(R)
1『吸血姫美夕』ED 鈴木佐江子「美夕八千代」
http://www.youtube.com/watch?v=HKLbm15_7yU
2『YAWARA!』ED LAZY LOU’S BOOGIE「いつもそこに君がいた」
http://www.youtube.com/watch?v=FK9NSQpsp7Q
3アニメ横山光輝『三国志』ED 遊佐未森「空」
http://www.youtube.com/watch?v=JySckTWH7ds&feature=related
3人形劇のEDも好きだが、この地味なテレ東のアニメのEDだけが印象に残っていた。
2永井真理子の「YOU AND I」とこれが使われていたときが『YAWARA』の黄金時代だ。
1軽んじてたこの頃のアニソンとしてはそれなりに複雑な作り。一瞬プログレかよ思った。だけどポップ。歌詞も秀逸。アレンジは『イグアナの娘』の寺嶋民哉。


(SIZ)
1『スプーンおばさん』OP 飯島真理「夢色のスプーン」
http://www.youtube.com/watch?v=n5YbdFBQJkw
2『ヤダモン』OP LINDBERG「Magical Dreamer」
http://www.youtube.com/watch?v=_q1ni6CSjx4&feature=related
3『はりもぐハーリー』ED CRIPTON 「ダリア」
http://www.youtube.com/watch?v=t8INWFw1i3w&feature=related
好きなのがありすぎるので、縛りプレイで。NHKで放送されたアニメ限定。
3「ダリアはずっと知っていた。奇跡を胸に隠して」
2「Magical Dreamer どうか守って壊れてしまいそうな夢達を」
1「でも誰か知りませんか。倖せと不倖せかきまぜる 夢色の小さなスプーン」


(A.I.)
1『CITY HUNTER 2』ED TM Network「STILL LOVE HER ~失われた風景~」
http://www.youtube.com/watch?v=l_kkbZ8wWNU&feature=related
2『らんま1/2 熱闘編』ED ぴよぴよ「虹と太陽の丘」
http://www.youtube.com/watch?v=xnTfT9tPkWQ
3『サイバーフォーミュラ』ED G・Grip「Winners」
http://www.youtube.com/watch?v=xZxsk-uan7k&feature=related
アニメはほとんど観ていないのでよく知らない。
3小学生のときに覚えさせられたから。歌詞が印象にある。アニメは観たことない。
2高校の頃、放課後速攻で帰るとやっていた。『らんま』の中では一番好き。東京少年の『プレゼント』も良いが。
1ほとんど言うことはない。TMの中でも1、2を争う名曲だと思う。しかもアニメにあってた。

2009年11月22日

好きな文庫

 よくわからんアンケートです。好きな文庫は何?
 最近迷走してんなあ。

(R)
1 講談社文芸文庫
2 春陽堂放哉文庫
3 中公文庫の日本の詩歌シリーズ
3、コレクター心をくすぐるマイナーな詩人が多い。2、放哉文庫はこれだけだから。1、コレクター心をくすぐるカラーバリエーション。


(SIZ)
1 岩波文庫(赤)
2 岩波文庫(青)
3 岩波文庫(緑)
3、目に良いから。2、青はすがすがしい。1、情熱が感じられる。


(A.I.)
1 ハヤカワ文庫(SF)
2 ハルキ文庫
3 講談社文芸文庫
3、高いけど紙質がよく、さわり心地が良い。2、色合いが好き。1、次々と絶版になるところが良い。


(イワン)
1 ちくま文庫
2 ハヤカワ文庫
3 新潮文庫
3、オーソドックスな感じがする。2、楽しそう。1、新しい発見がありそう。

2009年11月15日

好きな太宰治作品

好きな太宰作品ベスト3
『ヴィヨンの妻』を取り上げたので、せっかくですし好きな太宰作品を挙げてみました。しかし意外と太宰って好きな作品ねーなって個人的には思いましたよ。

(R)
1 津軽
2 右大臣実朝
3 女生徒
3、「すごくしょげちゃった」にきゅんとしちゃった。2、「暗いうちはまだ滅亡せぬ」というのがあって、それにうたれた。1、若山牧水の「水上紀行」と並ぶ傑作。


(SIZ)
1 斜陽
2 津軽
3 走れメロス
太宰はあまり読んでいない。その上でのセレクションだが、3は太宰っぽくないところがいい。2はちゃんと読んだ最初の太宰作品。だが、あまり面白く読めなかった。1は草むらで母親が小便するシーンが印象に残っている。


(A.I.)
1 人間失格
2 ダス・ゲマイネ
3 思い出
3、何となく。こんなんでいいんだと感心した。2、研究したから。1、まさしく俺のことだと思った。


(イワン)
1 人間失格
2 駈け込み訴え
3 道化の華
3、テクニカルなところがかっこいい。2、語りにひきこまれる。1、中1で読んだから。

2009年11月08日

高校の頃に読んだ小説で(好きな)印象に残っているもの(アンケート)

 既にネタが尽きたので、今回のメンバーへのアンケートは、ごくごく個人的な理由から高校のころに読んで印象に残ったor好きな文学作品ということで聞いてみた。


(R)
1 坂口安吾『桜の森の満開の下』
2 大江健三郎『性的人間』
3 古今亭志ん生『廓話』

 3、志ん生はテープで聞いてて、時代小説を読む代わりにこれを読んでいたという感じ。2、じいさんの本棚にあって、小学生の頃から目にしていたけど、高校のときにはじめて読んで衝撃だった。1、今まで見たことのない世界を見させられた。


(イワン)
1 大江健三郎『我らの時代』
2 有島武郎『生まれ出づる悩み』
3 谷崎潤一郎『痴人の愛』

 3、どんな話だっけ?夏に読んだ気がするなあ。朝飯に菓子食ってたのが印象に残っている。2、冬に読んだ記憶がある。「人はパンのみに生きるにあらず」だと思った。1、熱い。閉塞状況の中で加熱する若者たちの心と、そこに背中合わせにある無力感に胸を打たれた。


(A.I.)
1 司馬遼太郎『龍馬が行く』
2 村上春樹『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』
3 ロバート・ハインライン『夏への扉』

 3、タイトルに惹かれて読んだ。高2の7月頃。2、高3の頃読んだ。独特の雰囲気に魅了された。1、同じく高3の頃。憧れた。


(SIZ)
1 ドストエフスキー『二重人格』
2 ゲーテ『ファウスト』
3 シャーロック・ホームズ シリーズ

 3、NHKで放送されていた海外ドラマが好きで、そっからはまった。2、手塚治虫の『ネオ・ファウスト』から入って読んだが、よく分からなかった。1、これで文学を知った。

2009年11月01日

好きなゲーム音楽ベスト3

 ゲーム音楽って実は一番繰り返し聞いてるんじゃないかって気がしますね。それゆえ、はまり込んでいたゲームの音楽を聴くと、あの頃の記憶がフルカラー・匂いつきで思い出されたりするのでしょう。
 そんなわけで好きなゲーム音楽を挙げてみた。

(R)
1『ドラクエシリーズ』全体。特にロト三部作
http://www.youtube.com/watch?v=Nn7o5Zrak7Q&feature=PlayList&p=1E8F6A83B48FC875
2『ロマンシングサガ3』の岩代太郎のアルバム
http://www.youtube.com/watch?v=cYwun5tP4nk&feature=related
3『スーパーマリオブラザーズ』
http://www.youtube.com/watch?v=ocfv5iTW5Gk
1問答無用に曲が良い。そして思い出深い。ゲーム音楽と言ったらこれ。
2岩代太郎のオーケストレイションが優秀すぎる。
3作曲者のピアノ演奏の浮遊感が良い。


(SIZ)
1『極上パロディウス』のステージ5の「世界民謡メドレー」
http://www.youtube.com/watch?v=_dmEQnBIYSw
2『ファイナルファンタジーV』の「エンタープライズ海を行く」
http://www.youtube.com/watch?v=ZqVnXuuxUXY&feature=related
3ワンダーモモ
http://www.youtube.com/watch?v=0PhGK8djzqY
1パロディウスのクラシックアレンジはどれもいいが、これが最も凝っている。
2ニコニコでゲーム実況で改めて聞いてこれはいいと。
3ナムコ音楽は大体好きだが、一つ選ぶとしたらこれ。


(くぬぎ)
1『ペルソナ』の「burn my dread」
http://www.youtube.com/watch?v=r7ZLA5FX_v0
2『ブレスオブファイア』の「キャッスルイミテーション」鬼束ちひろ
http://www.youtube.com/watch?v=3iZ2RK39Wco
3『真・女神転生』戦闘の曲
http://www.youtube.com/watch?v=86qVxcL5gcM&feature=related
1こういう曲はゲームのオープニングにはもってこないだろう。という意外性から。
2ゲームがとても難しく、話も重いのでエンディングに流れたときは泣きそうになった。
3は良い悪いではなく刷り込みに近い。戦闘と言ったらこれだろうと。


(A.I.)
1『三國志U』
http://www.nicovideo.jp/watch/sm1166873
2『スパルタンX』
http://www.youtube.com/watch?v=tucWjujpKv4
3『東方紅魔郷』のStage5「月時計〜ルナ・ダイアル」
http://www.youtube.com/watch?v=YXsJdRIChxo&feature=related
1本来ならドラクエVかFFVがここに入るが、あまりにも当然なので、コーエーの初期の名作を。改めて聞いてマジで鳥肌たった。
2『いっき』か、これが初めてやったゲーム。思い入れという点で。
3東方シリーズは全くやったことないです。でもここにはTVゲームを初めてやった頃のわくわく感みたいなのがあると思う。ちなみに「月時計」は上記動画の2分10秒すぎから。


(イワン)
1『ロマンシングサガ』のタイトル画面の音楽
http://www.youtube.com/watch?v=rORhJoEu5Yg
2『ロマンシングサガ』のサルーインの音楽
http://www.youtube.com/watch?v=b6bbAh0YpFE
3FF6の世界が壊れたあとのフィールドの音楽
http://www.youtube.com/watch?v=joRZL671Esk&feature=fvw
1どこまでも広がっていくよみたいな感じが。
2ギリギリな戦いだよみたいな感じが。
3すごくもの悲しい感じが。魚拾ったりとか。

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