2013年08月24日

アニメ映画『ねらわれた学園』レビュー

ようやく念願の『ねらわれた学園』を観る。
とりあえず思うのは岩井俊二かよというくらいに嫌味スレスレのキラキラ・ライティングがほどこされていて、やたら世界は木漏れ日と葉漏れ日で眩しいのだが、新海誠の描写した世界像よりずっと好ましいということだ。
これはあれだ、『耳をすませば』を観た時に似ている。

映像と音楽が共に素晴らしく、質量が豊穣で、ノスタルジーを誘うオープニングのリリシズムは、『耳をすませば』と『星を追う子ども』に匹敵する。

これはれっきとした江ノ島モノでもあり、しかも異世界ファンタジーとしての江ノ島である。
例によって権五郎神社で一悶着あり、夜には画面奥の背景で、沖の波が月明りに揺らいでる。
HDならではだろう。
灯台のサーチライトは強調され、常に舞い散る花弁は車輌内にも飛び、もはや江ノ電は銀河鉄道にしか見えない。

出てくる登場人物は好んで議論を交わし、画面には常に二つ以上のドラマが進行していく。
そこで焦点になるのは今を生きることのかけがえなさであり、つまりこのアニメの季節感溢れる風景描写は、推移する時間を全編に力動させることに費やされている。

ああ、それにしてもドングリ攻撃の場面の遊びは楽しい。

音楽は音像が分厚く雄弁で、しかも画面を吹き渡る風のように流れてやまない。
特にピアノの音にこだわりを見せていて、主要モチーフとなる『月の光』の演奏はサントラ担当が自奏しているが、数々映像で使用されてきた中でも素晴らしい演奏になっている。

ただし主題歌が余計で、ラストの余韻をぶち壊している。
(R)
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2010年11月04日

『戦場のヴァルキュリア』

 ずいぶん前に序盤を観たままになっていたが、やっとのこと終りまで観た。第一次大戦のヨーロッパ世界がモデルとなっている架空戦記物。前半の小隊の牧歌的日常と鮮やかな作戦実行が楽しいが、戦争物の必然か例によって中盤から物語は急に重苦しくなり、あれよあれよというまに悲劇が重なってそのまま引き返すことなくクライマックスへ突入し超常的な終幕を迎えることになる。イラスト風の人物・兵器ともに画の安定性と彩色そしてデジタルの動きは程よい仕上がりだったと思う。

 音楽は、モチーフの魅力はないものの、オーケストレーションに迫真性と臨場性を与えることにおいて秀でている人なので、いかにも戦記らしい曲が揃っている。ドラクエやFFを編曲したものを聞いたことがあるが、スケールの大きいオーケストレーションが上手い人だなと感じた。初回を観たとき引き込まれたのは音楽に由来するところがかなりあった。

 第17話でのまさかの唐突な悲劇は、賭けだったと思う。それまで積み上げていったものが台無しになりかねない。その後もそれに似たところがいくつかあって、制作陣のあっさりとした意識がやや気になった。終盤、軍事力がヴァルキュリア人の力によって無力化していくのは、ある種のインフレであろう。またそれに伴ってアニメ表現も急にドラゴンボールじみてきたのが残念だった。その上ダモンのような胡乱な貴族将校が軍のトップなのは仕方ないとしても、仮にも正規軍の参謀陣に虫けらほどの脳みそしか見あたらないのは少々、脚本の品位に欠ける気がする。

 それでもこの作品世界は好きだし、中盤までは戦略・戦術を適度な空間説明とともにしっかり見せてくれる(戦闘機がいっさい出てこないから基本的には地上戦となる)のでかなり気に入った。こんな感じで『皇国の守護者』も観てみたいものだ。率直に言って、『風の谷のナウシカ』のトルメキア軍の侵攻を想起させるものがあってそれだけで心躍るのだ。ちなみに制作陣には『魔女の宅急便』や『猫の恩返し』の森田宏幸がいる。

 それにしても(おそらく撃たれたはずの)イェーガーはどうやって助かったのか。それと最後の最後で戦死させられてしまったファルディオを悼むシーンがないのはあんまりじゃないのか。(R)
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2010年10月07日

『けいおん!!』〜アニメ的身体の無時間性が学園ドラマの時間性に対置されるとき

 なんだかよく分からないタイトルですが駄菓子屋のシーンを観ていて、このスタッフは「モヤさま」を見ているに違いないと思ったRです。

 さて学園祭での完全燃焼が、もっと言えばその直後の部室での涙のシーンがやはり「けいおん!!」の山場だったと思う。
 ただライブそのものは前年より少しの進歩が見られたものの、結局バラードが披露されることもなく、物量にやや乏しい感はあった。むしろクラス劇のロミオとジュリエットに使われていた音楽に魅かれるものがあったくらいだ(元ネタを色々感じはしたが)。

 しかし、実は一番泣きキャラではなさそうな唯が感極まって泣きじゃくる、あの夕陽に差し込まれた時間こそは、それまで積み重ねてきた日常の歴史を礎石にして最も輝ける瞬間が描き出されていたように思う。
 この青春のサイクルがこのあともその次もずっと続くこと、来年も新歓ライブや学祭に出ることが当然のように語られ、かつ次の瞬間にはそれが叶わぬものであることを涙している。こうしたシークエンスに新鮮なもの、光るものを感じたとともに、バンドを含めて同様の経験を何度もしているこちらとしてはぐっとくるものがあった。このメンバーでこの環境でやることはもうできない、という「この」に対するこよない愛惜の念。「いまここ」に執着しきることはじつは簡単なことではない。ドライに「いまここ」を離れて感傷にひたるほうが簡易で安全だからだ。
 顧問であり担任の山中先生の側から見ると、思い入れのある際だった連中が一つ一つのことを終えて、確実に終局へ向かい、やがて巣立っていく。しかしまた、次々に残されていく下級生をもう一度同じように見守りながら、彼らの時々の想いを見届けていくのだ。
 個人的に一番好きな卒業式の前日のエピソードにはそうした終焉を廻る眼差しが凝縮されている。

 最終話。唯が証書入れの蓋が出す音を「この音好き」とつぶやいて隣席のクラスメイトが微笑む。何でもない日常的な一場面が式後の最後のHRという別れの現場でやりとりされた後で、山中先生が「じゃあ・・・解散」と静かに宣言するとき、このアニメの行間には多くのものが含まれていた。そこには「時間の流れ」というものが存在していた。(どうでもいいが色紙がやたらリアルだ。あれだと普通は二枚にわたるはずだけど)

 学園生活のほぼ最後の瞬間まで描かれたと思うが、たとえば部室に通いそこで共有される最後の時間を描いたものの部室を出て行くシーンは省略されたのが惜しい。別に演出的に問題があるわけでもないが、それこそ誰もいなくなった無人の部室に、カセットデッキから放課後の5人のおしゃべりが流れてるというような、あり得ない光景を想像してしまった。そこで聞えるのは、いつものように「おこちゃまツンデレ」VS「幼児姉」の戯れだ。

 番外編のはじけっぷりはいいのだが、本編ラストの感慨が薄れてしまうのはいたしかたない。
 ところでエンディングアニメで描かれる世界は大学生になった5人の、その後の未来の姿のように見える。(R)
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2010年07月27日

アニメ「CLONE WARS」を観る〜STAR WARSに巨神兵があらわる

 アニメ版スター・ウォーズ「CLONE WARS EP2」を全部見終わったが、本当に毎回どれも素晴らしい出来で、ピクサー級のアニメが劇場公開でない形で見られるという贅沢さはSWシリーズだからだろうか。

 それにしても各話の緩急が良い。どこから描くか視点もさまざまで、大宇宙戦争のごく一局面・局地戦から全面戦争まで、小状況と大状況が入れ替わりまた小状況に戻ったりして単純に静から動、小から大への進歩史観で作ってない。スピンオフにありがちな一兵士の生活や物語みたいなのも、そればかり描かれても矮小化しか感じられないだろうが、このやり方だとうまいリズム感を持たせることに役立っているし、「現実」の展開に即していると感じてしまうのである。

 「古の巨人獣」という連続2回があった。これがまたすごい。今シリーズのハイライトの一つだろう。かなり横道にそらした回だと思うがそれだけに作り手の妙な意気込みすら感じる。これはもう数ある巨大怪獣ものの「文学史」に加えられなければならない。あの霧ががった暗闇の大穴のはるか下の方で始動する未知の巨人獣を見下ろすイメージショットは、まったくツボをくすぐるのである。(小さいころ初めて観たときの)ラピュタのロボット兵が地下からはい上がって迫ってくるあの恐ろしさを思い出した。もちろんナウシカの巨神兵やエヴァンゲリオン・クローバーフィールド・ゴジラ・キングコング・ベオウルフなどに通じるところがいっぱいあってそれだけでも楽しいことこの上ないのだが、なんせSWなのでジェダイがいるわけである。闘うんである。巨人獣と。
 皇帝すら危ないシーンがあったが、最後には生物兵器に有効活用しようと悪だくみしてたが、とにかく生身で太刀打ちできるような相手ではない。ライトセーバーで切れなかったってのは他にない。
 しかしこの種の他の映画とは違って、恐れ知らずのジェダイはこの巨人獣にすら立ち向かうことに何のためらいもない。個人的にヨーダが自ら駆けていくときの頼もしさは、EP3で皇帝と決戦したときに匹敵すると狂喜したんであります。

 だけどここで出てくるマスター・プロ・クーンとか、グリーバス戦とか観るに最強なんじゃないかと思ったキット・フィストーとかも、EP3であっけなく死ぬんだよなあ・・・。キット・フィストーですら皇帝にあっさり殺されてるし。
 そして気になるのはアソーカはどうなったのかということだ。今後そこが描かれないとすれば、ヨーダとオビワン以外にも残ったらしいジェダイの一人になるのかもしれない。まさか師匠アナキンに殺されはしまい。(R)
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2010年06月30日

崖の上のポニョ(宮崎駿)

 ジブリの話題に触発されて、ワールドカップで世間が未曾有の一体感に包まれているなか、『崖の上のポニョ』を観ました。

 いや、よかったです。

 まず、崖の上に宗助の家があって、裏の道を下ればすぐ海があるというところがいい。

 そして、島の大半が水に沈んでしまうという発想は最高。

 誰もが、自分の町が半ば水没していまうという情景を思い描いたことがあると思いますが、それを具現化してみせている。

 窓を開けるとすぐ海になってしまっているし、しかもおもちゃの船で進める。あの船の動かし方も、なんだかできなくもなさそうなところがよい。

 日常と幻想世界の重なり合い、これこそがファンタジーの醍醐味だと痛感しました。

 また、ぼくはあの辺りの出身なので、舞台が瀬戸内海だということにはすぐに気がつきました。あれは太平洋や日本海側ではできません。

 あの、小島が点在していて、両側には本州・四国があるという風土そのものが、すでに何らかのファンタジー要素を含んでいるのだと思います。

 「ポニョ」のあの感じ、瀬戸大橋を渡ってみるとよく分かると思います。明石大橋や鳴門大橋ではだめです。しまなみ街道はいけるかも。

 がんばれニッポン!!(イワン)
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2010年06月02日

『けいおん!』の部室

『けいおん!』の部室がすごいことになっている。

『けいおん!』といえば「作画の素晴らしい萌えアニメ」とゆうやつに分類されるのだろうが、そんなものより普通にハイクオリティなアニメを期待したい僕が何でこれを見ているのかというと、これが軽音部(「部」がわりと大事)モノだからである。ギャグ自体も嫌いじゃないけど。軽音部には部員としても監督する側としてもけっこう色んな形で関わってきたのでそれなりに思い入れはある。『けいおん!』に期待するところは特にないのだが、流れで見てしまう。すると楽器シンクロに驚くことにはなる。ベースの指引きがリアルだとか、それぞれ実在する楽器を使用しているだとかそれなりにほーと思う(BECKや浅野いにお等のマンガなら分かるが)。しかしTVアニメにせよ昨今のアニメ界のハイクオリティの流れからすればまあ当然かなとも思うので、まあそれはいいのだ。ただ劇中でほとんど完全な校歌を作って、それをまじめにイントロのピアノから演奏して、歌わせて、間奏越えてまで続けてやったのにはちょっと心意気のような物を感じないでもなかった。個人的に。

第2シーズンで僕が萌えたのは、部室の描写だ。
L字型。これに尽きる。いったいなぜ? いやむろんそこがいいわけなのだが、普通そうゆう設定出ないよなぁ・・・と思ってしまう。モデルがあるようだがどこまで実際に忠実なのか知らないので、そこはとりあえずカウントしないで感嘆しておく。木造校舎(外見近代建築だけど)の木の扉を開けると縦に長い教室の奥が右奥にまだ空間を持っている。そこを曲がると準備室がある。この部屋は何なのだろうか?僕は小学校から大学までけっこう色んな学校の音楽室・準備室・視聴覚室・部室やそれに類する施設・教室を見てきたのだが、音楽室にしては狭すぎて生徒は入りきらないし入ってもL字型で授業しづらいことこの上ない。でも黒板(左側が五線譜付き、右側が無地というよく見るアレ)を始め設備は一応あるから不思議だ。準備室としては大きすぎるし物が少ないし、じっさい準備室は隣に設置されている。と思ったら扉の上には「準備室」とある。では中の物置は用具室ということか。この用具室は奥にまだ扉があるので、さらに何やら空間があるらしいのだが・・・。

いずれにせよかなり贅沢なのだが、まあそういうこともあるにはある。もとは小規模の吹奏楽部か合唱部か音楽部用だったということかもしれない。それにしても贅沢だといえばここの学校の潤沢さを示しているのがジャズ研で、軽音部専用音楽室の他にまだ音楽系の教室があろうとは。それも大所帯の吹奏楽やマーチングなら分かるしよくあるのだが、ジャズ研究会である。そもそも高校に(おそらく)部じゃないとはいえジャズ研究会なんてものがあるとは。ジャズとジャズ世代がすたれて久しいなか、大学のサークルで細々と棲息しているのが現状である。吹奏楽ブームで古典的ジャズのスイングがやや息を吹き返してはいる流れもあるかもしれないが、それにしてもである。

ここのジャズ研究会の教室が元々から音楽用の教室かどうか微妙だが、楽器置き場は吹奏楽部並みに充実している。おそらく全生徒用の音楽室にも楽器はそれこそ必要なので、それとは別にジャズ研所有の物であろう。部員のかどうかわからんがちゃんとウッドベースもある。エレキギターやベースだけでも並の軽音部以上に本数を保持しているようだし、普通あんなアンプ充実してないって・・・。後輩と3人でギター練習するシーンではアンプ三台同時に使用している。しっかり配線関係もごまかしていない。シールドも豊富なようだ。まぁシールドにしろアンプにしろこの辺はそれくらいならあるとこにはあるが乱暴な扱いによって結構へたってて使えない物が多いのだ。ジャズ研の部員はなかなか優秀なユーザーということになる。

並んだ楽器ケースから判断するにジャズコンボはおろかビックバンドでもそんなにいらんだろうってくらいの、おそらくは管楽器系が揃えられている。ブラバンクラスで使うようなやつとかがね・・・。しかし何より驚くのは、生ピアノがあるのはまぁいいとして、地味に奥に鎮座ましますビブラフォンである。ビブラフォンというのは鉄琴と木琴の間みたいな楽器でビブラートがかけられドリーミーな音を出す。小学校の音楽室では見かけることがある。それ以外だと学校では、私立などの潤沢で強豪校のブラバンなんかが持っている。あまり教育楽器でもないので学校現場でよく置いてあるという類の物ではないのだ。それがあるではないか! ただジャズには重要な楽器であり、必ず使用されるというほどでもないが、ライオネル・ハンプトンだとかFUNKよりだがビリー・ウッテンなど錚々たるプレイヤーがいる。とはいえさすがにジャズ研部員には扱えてない様子だ。

ところで壁にはたぶん顧問が貼ったのであろうマイルス・デイビス「KIND OF BLUE」のジャケットが飾られている。まぁ普通にそれっぽいチョイスなわけだが、女子校?でジャズ研があるとはいえ、やはり今時の女子校生がこれを飾るとは考えにくいので、そもそもこのジャズ研は顧問の存在がデカいのではないだろうか・・・ということまでを一目に悟らせる背景美術?の仕事なのであった。ということは軽音部とはそういう点でもやや格差があるらしいことが分かり、うむ、ありがちだなあと思うわけである。

軽音の部室に戻ろう。
マイクスタンドや楽譜スタンドがある。これはいい。アンティークなテーブルとイスがある。会議用か? 確かに準備室にはあるものだ。ソファがある。・・・う〜ん。部屋の間仕切り兼カバン置き場に使用されている。そのおかげでまぁ案外な生活感というか現実感がある。そして収納系。ファイル資料ぽいのとマンガが収まってるらしい壁の棚とは別にチェストのような物にバンドスコア(とマンガ)が入ってる。うむうむ。タンスもあるがこちらはお茶会道具がメインなようだ・・・。用具室の中も充実している。大掃除したときの段ボール箱の中身のあるある感ったら!古い洋楽雑誌もほこりかぶってて良い感じ。

次に注目すべきはオルガンだ。そうかーオルガンあるのかー。いいなぁー。教育楽器としての物っぽいがあるだけ素敵だ。ほとんど調度品のようになってるけど木造校舎によく似合う。
だが・・・なんといっても水道設備である。なんだこれは。妙なリアリティとさりげない存在感。L字型の構造とよくマッチする世界観。玄関先から隠れて見えない所にあるという絶妙な配置。何が絶妙なんだかよくわかんないがとにかくファンタジーを感じる。この蛇口と鏡はどうしてここにあるのだろう? なぜ音楽準備室に?なぜこの位置に?(非実用的なようでもあり納得感があるようでもある)
というわけで『けいおん!』部室最大のポイントはL字型と水道の配置である。

そういえば彼らの練習位置も面白くて、普通なら教室の奥でやりゃあいいものをそこはお茶会場になっていて、ドアを開けてすぐ横の黒板前にドラムセットを(仮設した流れのままな感じで)常設し、そこでバンド演奏をしている。なんだかなりゆき感丸出し、「とりあえず」がずっと続いてる「ザ・日常」みたいな感じがしてグダグダな彼女たちらしいのである。

余談だが、澪はただひとり男言葉というか少年言葉(「〜言っただろ!」とか諸々)を話すところがポイントなんだろうなと思っていたらそれには理由があったようである。そうか一応それにも設定というか理屈があったのか。(R)
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2010年05月30日

クローン・ウォーズ2

BShiで放映中のCW2がすごいことになっている。いや去年やってたCW1から通常のTVアニメを遙かに凌駕するクオリティに驚嘆させられていたし、毎回ほんとにワクワクさせられた。こんなこと大人になってからはめったにないことだ。映画版最終作にはほんとに息も継げなかったが。

闇の中でのライトセーバー戦は実写よりもスピーディで格好良く、ほぼどのエピソードともテンションMAXで繰り広げられる戦争・戦闘。

問題は第五話「砲火を抜けて」だ。このテンションの高さは過去最高な気がする。
エピソード2にも出てきたドロイド工場の拠点、惑星ジオノーシスを再制圧するため、共和国艦隊が正面から攻め入る。最初はすさまじい対空砲火の中、艦船及び強襲揚陸艦とバトルシップでただ目標地点へつっこんでいく。着陸計画なし。結果、撃ち落とされるような格好で地上に部隊は派遣される。その後も敵要塞への侵攻も各部隊間の連絡具合もほとんど行き当たりばったりに等しく、戦略もなにもあったもんじゃあない。ジェダイ=共和国軍にまともな司令官や参謀は存在しないようである。

だが・・・んなこたぁどうでもいいのである。
かつてこれほどまでに迫力のある「戦闘状況」を見たことは、実写を含めてほぼない。デジタル・アニメーションならではだろう。BGM含めてSWシリーズでも屈指である。

特にため息が出たのは、アナキンが手兵を率いて砲火をくぐり抜けながら攻撃目標へと砂丘を駆け上がっていくシークエンス。約30秒間、地上距離200Mくらいをカメラが部隊に併走するように追っていく。ワンカットである。遠景から入りクローズアップで終わる。アソーカが手前で見切れたかと思うと、また手前からフレームインして画面やや奥のアナキンに合流するという、おそらくセル時代では非常に困難な動きが入り画面に胸躍るダイナミズムが生まれる。
これだよこれ。日本だとこういった楽しみがあるのは宮崎駿かなあ。

それからSWシリーズは効果音が最高だ。特にバトルシップの低音やライトセーバーのブンブン音!だから四足四刀流のグリーバスが出てくると盛り上がる。CW1でのキット・フィストー戦は演出・殺陣含めてキレまくってた。 霧の中でぐるぐる回るグリーバスのライトセーバー!
スローモーションかかっておいしすぎたです。

バトルシップも普通の着陸じゃないとこがいい。前進から入って斜め後方にドリフトして止まるというクールさ。くすぐられるなあ。(R)
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2009年12月28日

時をかける少女(細田守)

(この記事は2007年8月4日に書かれました)

(ストーリー)
タイムリープする。


 同時期に公開された『ゲド戦記』や『ブレイブストーリー』などと比べると抜群に評価が高い。

 予算の関係からか、アニメーション特有の映像表現は乏しく、そういう意味での快楽はないが、

 夏。野球。青春。

 といった如何にもなツボは押さえていて、甘酸っぱいような歯がゆいような許せないような。

 実は昨日父親とこのアニメの話になって、舞台となっているのは千葉の幕張総合高校であるらしい。完璧そのまんまだとか。そうか、あれは幕総なのか。どうりで立派な学校だと思ったよ。(A.I.)
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2009年12月02日

鉄コン筋クリート(マイケル・アリアス)

(この記事は2007年7月15日に書かれました)

(ストーリー)
やくざとか警察とかガキとかが出てきて、俺の町だと主張しあう。


 松本大洋原作のアニメ。

 アニメーションとしては相当ハイレベルだと思う。

 ぼく自身は松本大洋には思い入れがないせいか、特に面白い内容だとは思わない。が、シロ・クロ・ネズミ・蛇などの人物造形、テーマパークじみた宝町、それに結構入り乱れる人間関係まで含めて手際よくかつ微細にわたって再現されているし、背景の描き込み、色彩の美しさ、アニメーションならではのアクションなどは、原作を遙かに凌駕する出来だと思う。物語に入り込めないとしても、あの絵がぐいんぐいん動いているのを眺めているだけでも、結構しあわせになれるくらいにはクオリティは高い。監督がすごいのか、それともスタジオ4℃がすごいのか。

 そして何より蒼井優が素晴らしい。(A.I.)
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2009年10月16日

合体の美学

(この記事は2005年4月18日に書かれました)

 この4月から新しく始まったアニメに『創世のアクエリオン』というのがある。『マクロス』の河森正治が監督している巨大ロボット・アニメである。このアニメでは「合体」という言葉が強調されている。巨大ロボット・アニメというジャンルでは、一時期、合体という要素が欠かせないものだったが、『アクエリオン』ではその復活を果たそうというのだろう。

 合体に関して、昔のアニメをパロディにしたようなアニメで、しばしば指摘されるのが、なぜ初めから合体して出てこないのか、という疑問である。こうした巨大ロボット・アニメでは、まず最初にいくつかのメカがバラバラに出てきて、その後でそれらのメカがひとつに合体する。最終的にひとつに合体するのであれば、なぜバラバラに出てくる必要性があるのか、という疑問である。

 『アクエリオン』はそうした疑問にちゃんと答えるような設定になっている。つまり、『アクエリオン』のメカは、どのメカを中心にして合体するかで、合体した後のロボットの能力が変化するのだ。様々なシチュエーションに対応するためには分離・合体の必要がある、というわけだ。

 巨大ロボット・アニメから合体という要素を希薄にさせたアニメは、やはり『ガンダム』だろうが、『ガンダム』においても合体シーンは何回か出てくる。『ガンダム』における合体の必然性は、他のモビルスーツと互換性があるということだろう。ガンダムのコクピット部分は戦闘機(コアファイター)に変形し、この部分はガンキャノンやガンタンクと互換性がある。しかし、残念ながら、この設定が活かされた話はほとんどなかったように思える。

 ガンダム・シリーズの最新作である『ガンダムSEEDデスティニー』においても、合体の要素が復活を果たした。しかし、難点は、合体の必然性のなさまでも、そのまま復活させてしまったところである。残念なのは、合体の醍醐味であるはずの合体シーンを、数秒で終わらせてしまっているところである。往年のロボットアニメでは、ひとつひとつのパーツがどのように組み合わさるのか、ご丁寧に1分くらいの時間をかけて披露していたものだが、『デスティニー』ではそうした演出もなく、出てきてすぐに合体してしまうのである。

 合体の発想の基盤にある考えとは、『アクエリオン』にも出てきたが、毛利元就の「三本の矢」の発想と同じものだろう。一本の矢ならばすぐに折れてしまうが、三本ならばそうではない、つまり、「三つのメカがひとつになる」とより強くなる、という単純な発想である。しかし、これは確かに、子供には受けそうな発想である。主人公たちが危機を迎えたときに、合体をすることによってパワーアップをし、目の前の危機を打開する。そうした物語の基本構造がそこにはあるのだろう。

 男の子向けのアニメでは「強さ」というものが常に問題になってきた。どうすればより強くなれるのか? 合体、変身、巨大化。こうした変化は、「強さ」を非常に分かりやすく表わしている。今日の作品では、男の向けの作品であっても、必ずしも「強さ」という要素は問題にならなくなった。そうした時代の変化は、巨大ロボット・アニメにも大きな影響を与えていることだろう。『アクエリオン』もその一端が窺える作品である。(SIZ)
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2009年09月22日

宮崎駿以前/宮崎駿以後

(この記事は2005年3月4日に書かれました)

 2000年に公開されたスタジオ4℃のアニメ『アリーテ姫』を観た(監督:片渕須直)。

 僕は、このアニメ映画を見ながら、ずっと宮崎駿について考えていた。スタジオ4℃は、ジブリのスタッフが中心になって設立したアニメ制作会社らしいので、それは当然のことかも知れないが、僕が宮崎駿のことを考えていたのは、このアニメが宮崎駿のアニメとよく似ている、ということだけではない。宮崎駿のアニメとどれほど似ていないか、ということもまた考えていたのである。

 このアニメと宮崎駿との近似性は、宮崎駿以前/宮崎駿以後という区分によって、適切に位置づけることができるだろう。つまり、このアニメ映画は、それが作られた時期から言えば、宮崎駿以後の作品ではあるが、その作風は宮崎駿以前を感じさせるものだったのである。

 宮崎駿が(西洋の)ファンタジーに強い影響を受けて自分の作品を作ってきたことは間違いない。彼の作ったアニメはすべてファンタジーだと言っても過言ではないだろう。宮崎駿以前のファンタジー、おそらく宮崎駿が影響を受けてきたファンタジーとは、寓話的なファンタジーではないのか? つまり、子供に向けて何かメッセージなり教訓を伝えるために、面白おかしい話を作り上げる。そのような形のファンタジーが主だったのではないか? こうした寓話的なファンタジーの色合いを『アリーテ姫』も強く感じさせるのである。

 しかし、興味深いことに、こうした寓話的なメッセージ性は、宮崎駿のアニメにおいては、極端に少ないように思われる。そこに何かメッセージがあるとしても、それは明確な言葉にすることができるようなメッセージではなく、ある種の感覚ではないだろうか? 宮崎アニメの面白さとは、端的に言って、彼の主張(メッセージ)にあるのではなく、彼の持っている子供っぽい感性、彼の持っている冒険心にあるのではないか?

 この点、『アリーテ姫』には、冒険の色合いが極端に少ない。冒険はもうすでに終わっているか(姫の求婚者である騎士たちがすでに宝捜しの冒険を行なっている)、始められそうになるまさにその瞬間に中断する(姫に課題が与えられて冒険の旅に出ようとするが、姫は冒険に行かない)のである。これは、この作品が、旧来のファンタジーに対してアンチの立場に立っていることと密接な関係があるかも知れない(王子様の助けを待っている旧来の物語の姫ではなく、自分から積極的に行動する姫)。いずれにせよ、この作品を見ていて、ワクワクすることはあまりない。この事実は、この作品のテーマと矛盾をきたすのではないか? この作品は、自分自身で活路を切り開いていくことに積極的な価値を置いているように見えるが、そんなふうに積極的に行動ができるのは、アリーテ姫が未知のものへの好奇心を持っていたからではないのか? しかし、このアニメ自体が、そのような未知のものへと、われわれを誘うことはない。これは宮崎アニメと対照的なところである。

 『アリーテ姫』は、一面では、「ファンタジーとは何か?」という問いに明確な答えを出しているように思える。つまり、ファンタジーとは、壁の前で、その壁の向こう側を夢想することである(城の中に幽閉された姫が自ら物語を紡ぐ)。だが、何度も言うが、この作品自体は、そのような夢想を紡ぐことを途中で放棄しているように思える。まさに、この作品の主人公の姫のように、夢想することをやめて、行動に移ることを積極的に推奨しているのである。

 われわれが、今日、宮崎駿のアニメを好んで見るのは、そこに未知のものが投影されているからではないのか? そして、その未知のものとは、知性によって捉えられるものというよりも、感性によって捉えられるものである(われわれをワクワクさせる)。宮崎アニメは、われわれの感性に訴えかける。われわれの冒険心をくすぐるわけである。「宮崎駿以後」というものがありえるとすれば、それは、このような感性への訴えかけなしにはありえないのではないか?(SIZ)
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2009年07月14日

ファイナルファンタジーVII アドベント・チルドレン(野村哲也)

(この記事は2005年10月15日に書かれました)

(ストーリー)
ゲームの後日談。


 FFZは結局最後までやらなかった。どうもFFシリーズは制作者が自分たちで作った設定と戯れているようなところがあって、作る方は面白いのかもしれないが、プレイヤーとしてはこの設定に乗れなければもう話にならないわけである。FF]はシンとか変な宗教とかがウザいし、FFZはよく覚えてないけどライフストリームとか知ったことか、である。キャラの性格づけも余計なだけで、バイク・武器・服装・都市などのヴィジュアルがかっこいいだけに、こちらとしてもストーリーを遅延させるためだけに用意されたどうでもいいキャラの懊悩などで時間を浪費したくないわけである。

 だからFFシリーズは要するにムービーだけ見られれば個人的にはそれで十分だと思っていたけど、ちょうどそんな感じの映画(なのかOVAなのかよくわからんが)が作られたのは大変有り難い。実際良くできている。数年前に撮られた映画「ファイナル・ファンタジー」はFFとしての魅力を何一つ感じられない映画だったけど(何故フルCGでやったのか?)、本作はアニメっぽいキャラや町並みをCGで再現し、しかもそのクオリティはべらぼうに高い。アクションシーンも如何にも日本のアニメという感じの誇張に満ちていて、それが実にかっこ良かった。少々スピードが速すぎるのが難点だけど全体としては悪くない。ティファも良かった。(A.I.)
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2009年07月03日

グレネーダー 〜ほほえみの閃士〜(神志那弘志)

(この記事は2005年4月12日に書かれました)

(ストーリー)
戦乱の時代。この世から戦の火種をなくすために各地を旅していた閃士の天道琉朱菜(てんどう・るしゅな)は、剣士の虎島弥次郎と出会う。二人は意気投合し、共に旅をすることになるが、各地で次々と刺客に襲われる。それは、琉朱菜が、身に覚えのない罪で、賞金首になっていたからである。琉朱菜は、事の真偽を確かめるために、自分の主人である天子に会いに行く。


 2005年1月から3月までTV放映していたアニメ(全12話)。原作は海瀬壮祐のマンガ。

 闘う美少女という設定は、すでに80年代くらいから顕著になってきたが、最近のサブカルチャーにおいては、もはや定番となっている。とりわけ、美少女と銃という取り合わせはよく見かける。

 日本のサブカルチャーにおいて、よく見られるアクションは、ガンアクションかチャンバラだが、『グレネーダー』も、その二つを取り入れている。主人公の天道琉朱菜は銃の使い手(閃士)であり、琉朱菜と共に旅をする虎島弥次郎は剣の使い手(剣士)である。ガンアクションとチャンバラは、黒沢明の作品や『スター・ウォーズ』に顕著であるように、相互に影響し合っている。つまり、西部劇の文脈とチャンバラの文脈とが相互に入り混じっているのである。こうした文脈の下で、現在のアクションが作られていることは間違いない。

 『グレネーダー』は、そうした観点から言えば、西部劇に「活人剣」の要素を加えた作品である(もちろん萌え要素も加わっているが)。つまり、琉朱菜は、銃は使うが、それで人を殺すことはない。彼女の目的は、相手の鎧をはぐこと(心の壁を取り払うこと)であって、人を殺すことにあるのではないのである。それゆえ、この作品のテーマとは、一種の「癒し」であり、こうした点で、琉朱菜は極めて母性的なキャラとなっている(胸が大きいところなど)。

 問題となっているのは、許すことと受け入れること。前提となっている考えというのは、攻撃は防衛のためになされる、というものである。自分を守るために相手を攻撃するのであれば、自分を守る必要がないことを相手に示せば、相手は攻撃をしてこなくなる。これが琉朱菜の考えである。

 母性というのは、現在のサブカル作品(とりわけオタク系の作品)において、切迫した問題対象となっている。『エヴァンゲリオン』のチルドレンが「母なき子」であるというのも故あることだろう。それは、まさに、われわれのセーフティネットが崩れてきていることの表われであるだろう。許しと安らぎを与えてくれるものが見出せなくなってきているのである(山田昌弘が『希望格差社会』の中で問うているように、果たして家庭というのは安らげる場所だろうか?)。

 銃を持って闘う女の子と剣を持って闘う男の子。このコンビは、現在のサブカル作品の主流とは言えないだろう。美少女キャラがいっぱい出てくるギャルゲー的な作品を念頭に置くとすれば、『最終兵器彼女』のような作品のほうが現代的であるだろうし、また銃を持った少女という点で言えば、『ガンスリンガーガール』のような作品のほうが現代的であるだろう。『ガンスリ』で示されるような「奉仕」の観念、これが問題である。

 天道琉朱菜に見出すことができる無垢さ。これは、『サイカノ』の「ちせ」や『ガンスリ』の少女たちにも見出すことができるものである。『ガンスリ』がアイロニカルに描いているように、この無垢さは無知と隣り合っている。彼女たちは、自分たちが政府の機関の道具になっていることには意識を向けず、専ら自分の担当官との人間関係の中だけで事態を捉えようとするのである(担当官に褒められたいがために人を殺す)。『グレネーダー』にもこうした点を見出すことができる。つまり、問題は専ら「個人対個人」にあるのであって、その外に問題が向かうことはないのである。それゆえ、こうした様々な作品に見出すことができる母性の存在は、いかにわれわれが個別化されているか、ということを端的に示している。われわれは孤独であり、それを癒してくれる人間を必要としている、ということである。

 こうした母性に関して、それを巨大ロボットという形で示した『エヴァ』は、やはり卓見である。巨大ロボットはそれを操縦する者に力を与えてくれる。それゆえ、操縦者に一種の全能感を与えてくれる。『機動戦士ガンダム』において、主人公のアムロが言った「僕が一番ガンダムを上手く操縦できるんだ」という台詞を思い出そう。また、彼がホワイトベースから逃亡するときに、ガンダムに乗って出ていったことを思い出そう。ガンダムは、アムロにとって、自身のアイデンティティを保証するような存在だったわけである。

 しかし、『エヴァ』がそこに加えたひと捻りとは、「暴走」という観念である。つまり、巨大ロボットは、確かに操縦者に力を与えてくれる存在だが、その代わり、操縦者の意志に反したことを行なうこともあるのだ(『ガドガード』や今川版『鉄人28号』といった近年の巨大ロボットアニメにおいても、こうした暴走は描かれていた)。そこでは、操縦者の「私」が消失してしまい、操縦者はロボットの一部になってしまうのである(エヴァに取りこまれたシンジのことを想起されたい)。これは母性の裏面を見事に示していないだろうか?

 話が若干逸れたが、僕が言いたかったことは、今日これほど母性というものは問題である、ということだ。『グレネーダー』が示していること、それは、今日われわれは、自分を守るために、絶えず闘い続けていなければならない(他人と競争し続けていなければならない)ということ。われわれは、安らぎの場所をいつも求めているが、それは容易には見つけることができない、ということである。毎回出てくる琉朱菜の入浴シーンは、そんなふうに人と裸で接することのできる場所を見出すことは実に困難だ、ということを逆説的に印づけているように思えてならない。(SIZ)
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2009年06月04日

らいむいろ流奇譚X(cross)〜恋、教ヘテクダサイ。〜(冨永恒雄)

(この記事は2005年4月11日に書かれました)

(ストーリー)
明治38年(1905年)、前年から始まった日露戦争は熾烈を極めていたが、その背後で、ファーデン騎士団という闇の組織と陸軍礼武(らいむ)隊との闘いが繰り広げられていた。陸軍礼武隊を構成するのは、士官候補生の犬養強志朗と「礼武」と呼ばれる巨大ロボットを操る五人の少女たち。彼らは、空飛ぶ戦艦・天乃原に乗って、ロシアにある敵の本拠地へと向かう。


2005年1月から3月までTVで放映していたアニメ(全13話)。原作はエルフのゲーム(シナリオ:あかほりさとる)。先行作品として『らいむいろ戦奇譚』があるが未見。

 この作品は二重に「関節の外れた」作品である。この関節の外れ具合を検証することは、見かけ以上に重要なことである。

 この作品の舞台背景は日露戦争である。わざわざ、この時代を舞台背景に持ってきた意図が当然何かあるはずだ。しかし、それについて語られることはない。物語は別の次元へとシフトさせられているのである。すなわち、1905年、日本とロシアとの間で、壮絶な闘いが繰り広げられていた。しかし、それとは別の場所で、世界の危機を救うために、真の闘いが始まろうとしていた、と。つまり、日露戦争は表面的なものであって、その背後には歴史の真実の姿があった、というわけだ。その歴史の真実、真の闘いというのが、ファーデン騎士団と陸軍礼武隊との闘い、巨大ロボットを操って闘う非常にファンタジックな闘いなのである。

 この点が関節の外れている部分である。日露戦争という大状況を用意しておきながら、それについて言及することを避ける。日本とロシアとの戦争という歴史的な事実を、世界の危機という誇大妄想的な真理へとシフトさせるのである。このときに失われるのは、歴史の特殊個別性、つまり、20世紀初頭に日本とロシアが戦争をしたという歴史の固有性である。もし仮に、「教科書で語られるような歴史の背後で真の闘いが繰り広げられていた」というふうに物語るのであれば、どの時代のどの戦闘を取り上げてもいいはずだろう。しかし、この作品では日露戦争が取り上げられている。当然語られてしかるべき日露戦争の意義、アジアの小国が西洋の大国に勝利したという歴史的意義は不問に付されたままなのである。

 さらにこの作品は、もう一度関節を外しにかかる。それでは、この物語は、世界を征服しようとする闇の組織との闘いに終始するのかと言えば、まったくそんなことはなく、礼武隊の指揮官とその部下である少女たちとの恋愛話が主軸になるのである。つまり、闇の組織との闘いという設定すらも、二次的なものに貶められているのである。

 日露戦争の歴史的意義が脇に追いやられ、世界を救うための闇の組織との闘いも脇に追いやられる。しかし、この二つの大状況的設定は、決して無効化されたわけではないだろう。それは脇に追いやられるという形で、それなりの役割を果たしているのである。

 まず、そこには、間違いなく、時代的なものに対する愛着があることだろう。『サクラ大戦』もそうだったが、明治・大正時代は日本の近代化が進んできた時代であり、古いものと新しいものとが奇妙にも混ざり合った時代である。こうした時代にロマンティシズムを見出している作品はたくさんある(『tactics』もそういう作品だろう)。こうした愛着を考慮に入れたとき、そこで問題となっている時代的なものとは、歴史的な意義とは無関係なものだろう。つまり、日露戦争以前にはこれこれのことがあって、日露戦争以後にはこれこれのことがある。そして、そのときの世界情勢は云々、といったことはすべて括弧に括られているのである。そうした作品における明治・大正時代とは、まるで、その時代だけで孤立して存在している異世界のようである。つまり、ここで問題となっている時代的なものとは、ひとつの世界であって、歴史ではないのである。

 世界の存亡を賭けた闇の組織との闘いについても、歴史から世界への変転を見出すことができるだろう。ここでアクセントが置かれているのも、「そのような歴史に書かれない出来事が過去にあった」という偽史への欲求ではなく、バックグラウンドとしての世界なのである。それゆえ、この作品に見出せるのは、その大状況的な設定とは裏腹に、(恋愛話といった)小状況だけなのである。

 近年のサブカル作品には、このような歴史的文脈の欠如した作品が多い。もはや、われわれにとっては、歴史的文脈などというものは、自らを位置づける場所ではなくなってきている、ということなのだろうか? しかし、われわれが歴史に対して無関心であったとしても、歴史のほうがわれわれに無関心であるとは限らない。それは、われわれが法を知らなくとも、法によって裁かれるのと同じことである。それゆえ、歴史に対しては、どんなに意識的であっても意識的でありすぎるということはないはずだ。歴史を語ることの困難さを思い知らされた作品であった。(SIZ)
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2009年05月19日

きまぐれオレンジロード あの日にかえりたい(望月智充)

(この記事は2005年7月20日に書かれました)

(ストーリー)
いずれ崩壊するであろう三角関係の、その崩壊劇が回想の形式で描かれる。日常性と時間の推移のなかで展開される青春ドラマ。


 はじめて見たのは小学生のころか、中学生だったと思う。それ以来ふとした時に、見返したりしている。88年の作品だが、まさにあの頃の感傷的な時間感覚というか匂いみたいなのが漂っていて、懐かしくなるのである。

 しかし原作は少なくとも当初、超能力を素材とした能天気なラブコメだったはずだ。それが後半になるにつれ、恋の三角関係の陰影が増してきて、ドラマ自体がしっとりしてくる。

 ところが映画はその上を行っている。押井守が『パトレイバー2』で、やはり原作の能天気さをすっ飛ばして、自己の世界観に塗り替えてしまったように、望月智充もこのマンガを劇場版一作目から、まったくカラーの違うものに塗り替えた。とにかく後半の暗さといったら。これが「オレンジロード」かと思うくらいである。あの不愉快なほど能天気を代表しているひかるですら、残酷な現実(あの恭介になんども、厳然と突き放される)の前に、もはや悲劇的人物のようになってしまうのである。まどかと恭介は、その後ろ暗さを引きずって生きてゆくので、どこか痛々しい。

 崩壊する三角関係という意味では、劇中に使用される映画『タッチ 背番号のないエース』が利いている。

 最後は、そのままひかると別れ、まどかと大学に合格して終わるのだが、そこでかかるエンディング・テーマがなんともすばらしい。この曲のイントロと、ホーンやフルートのアレンジが、作品のどうにも重たい後味をどれだけ救い上げているか。そして作劇的意味はないのだが、ロール終了後に、ひかるが舞台を終えて晴れやかな顔で楽屋に帰ってくるシーンが挿入されている。そして画面に向かって、「バーン!」と指鉄砲をして終わるのである。個人的には曲でそのまま終わってほしい気もするのだが(ひかるに思い入れのない人は邪魔でしかないかもしれない)、この挿入があることによってまた、作品内の重さが作品外で解消されているような気がする。観客もそのまま帰されたなら、重苦しい気分を背負って帰らねばならないが、この「バーン!」がその張り詰めたものを破いてくれるのだろう。

 夏の終わりに見ると、どうにも切なくなる作品である。(R)
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2009年04月23日

Mr.インクレディブル(ブラッド・バード)

(この記事は2005年7月2日に書かれました)

(ストーリー)
往年のヒーローが復活する。


 ずいぶん高く評価されている作品なので観たのだけど、個人的にはまあまあと言ったところ。そこまでのものでもないと思う。

 確かに映像は凄かった。CGアニメに於いてカメラワークなんかが凄くても大したことではないのだろうと思う。3Dなのだからカメラワーク自体は自由自在だろうし(座標を指定すれば一発だろう)、実写では無理な映像を作ることも簡単である。が一方で実写ではほとんど気にする必要もないところが逆にアニメでは重要になるわけで、今回も髪の毛が水に濡れるというものすごい映像があってこれにはホントに驚嘆させられる。これが、例えば「風になびく髪」や「流れる水」くらいなら今の技術から言っておそらく大したことはないのだと思う。が、今回は「水に濡れる髪」である。一体どうやって描くんだろう。そういう描写専門のソフトがあるのだろうか。それとも全部スタッフが手書きしたのだろうか。とにかくこういう実写であればあまりに日常的な光景を細部にわたって再現するというその根性には恐れ入る。

 しかし、ねえ……。ストーリーのほうはあれで本当にいいのだろうか。ぼくはあんまりこういうことは言いたいほうではないのだけど(ハリウッド映画大好きだし)、それにしてもさすがに今回は、アメリカという大国が掲げる「正義」の押しつけがましさに辟易させられた。そもそもすでに物語自身が語っているように、あの悪役は正義のヒーローの身勝手さ傲慢さこそが生み出したと言えるわけで、それをアイツが悪者だと言って排除してそれでハッピーエンドで良いのか。少しは罪悪感を感じてほしいものである。(A.I.)
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2009年04月21日

舞-HiME(小原正和)

(この記事は2005年4月1日に書かれました)

(ストーリー)
鴇羽舞衣(ときは・まい)とその弟の巧海(たくみ)は風華学園に転校してくる。そこで舞衣たちは奇妙な事件に巻き込まれ、その結果、自分が「HiME」と呼ばれる特殊な能力の使い手であることを知る。HiMEは全部で12人おり、彼女たちは互いに闘い合わなければならない運命にあった。


 2004年9月から2005年3月にかけてTV放送されたアニメ(全26話)。

 深作欣二の映画『バトル・ロワイアル』が公開されたのは2000年である。この映画が問題としていること、そして、この映画が提示している価値観は、従来の価値観が大きく変化し始めたことを如実に示している。また、2000年は、高橋しんのマンガ『最終兵器彼女』が連載を開始した年でもある。20世紀から21世紀への変わり目の年(まさに終末の年であった1999年のその翌年)、新たな価値観を印づける作品が立て続けに現われてきたというのは興味深い事実である。『舞-HiME』という作品の立ち位置を適切に推し測るためには、これら二作品を補助線にして考えてみるのが最もいいだろう。

 『バトル・ロワイアル』が問題化したもの、それは、端的に言って、競争社会である。ある島の中で強制的に中学生同士が殺し合いをさせられ、最終的にはたったひとりしか生き残ることができない。このような物語設定において課題となっていること、それは、果たして自分は生き残ることができるか、最後の一人=勝者になることができるか、ということではない。そもそも、強制的に殺し合いをさせられているというのが、ここでのポイントである。参加者は殺し合いがしたいわけではない(中にはそうでもない奴もいるが)。しかし、自分が生き残るためには、嫌でも人を殺さなければならない。殺したくないけれども殺さなければならない。この壁は、見た目以上に、大したものではない。いざとなったら、人は人を殺せる(実際、映画の中では、多くの人間が殺し合いをしないことよりも殺し合いをすることを選ぶ)。その殺さなければならない人が見も知らぬ人であれば、なおさらそうである。問題はその殺さなければならない人が自分の知っている人、自分が最も愛している人であった場合はどうか、ということである。

 『バトル・ロワイアル』の主人公・七原秋也は、自分の愛する人を守るために闘うという、バトル・ロワイアルのゲームのルールに反した行動を取る。つまり、この場合、二人して生き残ることはできないわけだから、最終的にはどちらか一方が犠牲となって死ななければならない(実際、登場人物のひとりである川田章吾は、以前のゲームで、自分の恋人を最後に殺してしまう)。ここで重要な点は、価値観のシフトが見られるということである。勝利すること、勝つことが第一の目的ではない。できることであれば、競争などしたくはない。では、そのときに第一に価値が置かれることとは何か? それが愛するものを守るという価値観なのである。勝利を得るために闘うのではなく、愛するものを守るために闘うのである。実際、最終的に勝利を得るのは、このような価値観を抱いていた七原たちであって、勝利を目指して闘っていたものたち(例えば柴咲コウ演じる相馬光子など)は途中で破れている(また、このゲームのシステムそれ自体に闘いを挑んだ者たち=革命家が、このゲームを最も楽しんでいる者=エリートによって殺されるという展開も興味深い)。

 いずれにせよ、この作品で提出されている価値観とは、競争において勝利を得ることではなく、自分にとって最も内的なもの、他の人にはまったく価値のないものでも自分にとっては最も価値のあるもの、そうした個人的な価値というものを前面に押し出すものであった。ひとつの価値観ではなく、複数の価値観。ひとつのライフスタイルではなく、複数のライフスタイル。この映画が示したのはそのようなことである(そして、同様の価値観を『最終兵器彼女』にも見出すことができる。世界が滅びることよりも、二人が生き残ることに価値が置かれているのである)。

 さて、前置きが長くなったが、『舞-HiME』も、まさに、このような流れを汲む作品である。この作品でも、『バトル・ロワイアル』同様、たったひとりになるまで、登場人物たち(HiMEと呼ばれる少女たち)が闘い合うことになるのだが、そこにはひとつ捻りが加えられている。それは、闘いに敗れたときに、その敗れた人物が死ぬのではなく、彼女が最も愛している人が消滅するのである。つまり、闘いの軸がそこでは完全に、愛するものを守るために闘うという点にシフトしているのである。彼女たちが他のHiMEたちと闘う理由もそこにある。自分の愛する人物がいなくなるのを恐れるために闘うのであって、自分自身がどうなるかは二の次、三の次なのである(そして、この「守りたい」という感情が彼女たちの力になる)。

 このような設定が示していること、それは、今日の競争社会において、われわれが闘う理由もまさにそうだということ、われわれが抱いているリアリティとはそういうものだということではないのか? つまり、われわれは、他人と闘いたくなどはない。他人を蹴落としてまで、自分が良い目を見ようなどとは思っていない。しかし、自分はそれでいいとしても、自分の愛している人たちはどうだろうか? 家族はどうか? 恋人はどうか? 「自分はそんなことはやりたくない、でももし自分がやらなかったとしたら…」。この不安感(他人に迷惑がかかるのではないか)に突き動かされるような形で、われわれは何らかの義務を果たしているのではないだろうか?

 それでは、こうした現状に対して、『舞-HiME』はどのような回答を提示しているのか? 最終回を見る限り、そこで提示されているのは、『バトル・ロワイアル』と同じ道、つまり、第三の道を探っていくという道である。ゲームのルールは変えられないものとして諦め、愛するものを守るため仕方なく闘っていくか、それとも、そんなことはやりたくないと言って、自殺行為に走るか。この二者択一にはとどまらない第三の可能性があるのだ、というのが『バトル・ロワイアル』の答えであり、『舞-HiME』の答えである。こうした第三の道を探っていくという方向性には、僕は基本的には賛成したい。想像力を駆使して、可能性の枠を広げていくのである。

 しかし、『舞-HiME』の出した結論には疑問の点もある。それは、最終回に至るまでの深刻な雰囲気をまったく無化するような楽観的な展開だったからである。このラストで提示された世界は、オタクのユートピア的世界とでも言えるようなものである。その先駆的な形は、すでに80年代に、高橋留美子の諸作品に表われている。つまり、登場人物たちが、ひとつの共同体の中で、無限の戯れを行なうという世界である(『うる星やつら』や『らんま1/2』を想起されたい)。宮台真司は、『サブカルチャー神話解体』の中で、それを「閉じた世界の中での無害な戯れ」と呼んでいた。このような物語世界は、今日では、美少女がたくさん出てくるオタク的な作品の典型となっている。この世界は、徐々に失われつつある、日本的な(村社会的な)共同体をノスタルジックに回顧したものだと思われる。

 『舞-HiME』においては、物語の中盤以降、このようなユートピア世界を否定するような方向に話が展開していた。物語はまず初めに、共通の敵をみんなで倒すというふうに展開する。ひとつの組織があり、ひとりの敵がいて、それをみんなで協力して倒すのである。しかし、この敵が倒されると、今度は、協力し合った仲間同士でバトル・ロワイアルを行なわなければならなくなる。以上の物語展開は、80年代以前の物語から90年代以降の物語への変化を反復していて非常に面白い。そして、この展開の狭間に、閑話休題として、登場人物たちがカラオケボックスに集まって戯れ合うというエピソードがある。無害な戯れの後に、バトル・ロワイアルが待ち受けているのである。

 このカラオケボックスのエピソードに象徴されるユートピア世界は、後半において、再度反復される。それは、主人公の舞衣が、敵の力によって、自分の理想的な世界を夢見るシーンである。そこで夢見られた世界というのが「無害な戯れ」の行なわれている世界、深刻な問題がまったくない、誰もみんな傷つかない世界なのである。このような世界の分裂(楽観的な世界と悲観的な世界との分裂)は『エヴァンゲリオン』にも見出される。TV版最終話に出てくる「学園ゲリオン」と呼ばれるユートピア的世界がそれだ。これは、徐々に深刻化していった物語展開の反動のような形で出てきた世界である。つまり、それは、「これではない別の世界」として、主人公の碇シンジが夢想する世界なのである。

 『エヴァ』は、まさに、このようなユートピア的世界を否定するような道を進んでいったわけだが、『舞-HiME』はそれとは逆に、それを肯定するような形で物語を終えているわけである。僕は、このラストを、それまでの物語展開と重ね合わせて、別のふうに読むことも可能だと思っている。それは、まさに、このラストの展開も、主人公・舞衣の夢想したユートピア世界だ、というものである。そうした読みを確実に裏づける根拠は何もないが、まさに、それ以前の物語展開において、こうしたユートピア的世界が否定されてきた、というのが状況証拠にはなるだろう。つまり、無害な戯れに人々がいそしんでいる世界が、一瞬の後には、互いに殺し合いをする凄惨な世界へと一変する。そのようなアイロニーがこのラストには込められていないだろうか? この夢物語もいつかは終わる、と。こんなふうに深読みでもしない限り、あのラストはあまりにも楽観的すぎて、それをそのまま受け入れることはできない。

 われわれは、アニメを見終わってTVを消した後、その後に何が待ち受けているかということに思いをはせてみるべきではないのか? TVの中では、登場人物たちがみんな仲良く、平和に暮らしている。しかし、それでは、それを見て楽しんでいるこの自分はどうだろうか? TVを見ているこの私は、あの世界の外にいる。あの世界とは別の場所にいる。「こんな理想的な世界など絶対にありえない」。そうした疎外感をあのラストシーンは与えはしなかっただろうか?

 「そんなに深刻にならずに、楽観的にいこう。なるようになるさ」。確かにそうかも知れない。今までだってなるようになってきたのかも知れない。多くの問題は単なる杞憂だったのかも知れない。「世はすべて事もなし」。だが、TVのチャンネルを変えてみれば、往々にして、それとはまったく逆の世界が提示されている。どちらが真実なのか? おそらく、そうしたことが問題ではないだろう。まさに、われわれは、こんなふうに、自分の中に、楽観的な側面と悲観的な側面を同時に抱えている、ということが重要ではないのか? そして、われわれは、それを常に使い分けている。必要な作業とは、この分裂した二つの側面にひとつの通路を作り上げることではないのか? われわれが世界を矛盾した形で見ていることに自覚的であるべきではないのか? その時々の感情に流されることなく、事態の別の側面に思いをはせること。希望の中には絶望があって、絶望の中には希望があるということ。そうしたことを常に自覚しておくべきではないのか? 『舞-HiME』から引き出せる可能な倫理的態度とはそのようなものである。(SIZ)
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2009年04月06日

アルティメットガール(ムトウユージ)

(この記事は2005年3月29日に書かれました)

(ストーリー)
21世紀初頭の東京。そこでは定期的に怪獣が現われ、UFOマンというヒーローが怪獣と闘ってくれていた。小春野白絹、鳳ヴィヴィアン、諸星つぼみの三人の女子高生は、偶然UFOマンと怪獣との戦闘に巻き込まれて、踏み潰されてしまう。三人はUFOマンが自分の体を分け与えてくれたおかげで生き返ることができたが、UFOマンの代わりに怪獣と闘うことを余儀なくされる。


2005年1月から3月までTV放映されたアニメ(全12話)。

 今日のサブカルチャー作品は、先行する世代の作品のパロディやオマージュによって出来上がっていると言っても過言ではない。このような傾向自体は80年代から見られるが、その理由は、マンガやアニメなどにどっぷりと漬かった世代が今度は作り手の側に回った、ということである。近年、この傾向は加速している。

 『アルティメットガール』はまさにそのような作品である。この作品がパロディにしている作品は『ウルトラマン』である。パターン化されて、そのイメージが固定しているような作品がパロディの対象となる。昨年では『流星戦隊ムスメット』というアニメもあった(戦隊ものを中心にしたパロディ/オマージュ作品)。

 近年におけるパロディ/オマージュ作品の注目すべき特徴を上げるとすれば、それは、作品の「萌え化」であるだろう。まず第一に、作品の主人公が少年から少女へと変化してきた。地球を守るために敵と戦う。旧来の作品において、この役目を専ら引き受けていたのは少年だった。こうした作品は少年向けの作品であって、少年たちは、戦う主人公に同一化していたのである。こうした作品はもちろん現在でも存在する。そして、それと同じくらいかまたはそれ以上に、少年向けの作品において、戦う美少女を扱った作品が増えてきた。この傾向もまた80年代からの流れである。

 そして、このような傾向に加えて、近年、作品の萌え化が起こってきた。つまり、『アルティメットガール』は、単に、ウルトラマンを美少女化しただけの作品ではない。『ウルトラマン』を萌え化した作品なのである。この差異は決して看過されるべきものではない。萌え化の良い例として、「びんちょうタン」を上げることができるだろう。これは「備長炭」をキャラクター化したものだが、単にキャラクター化したのではなく、萌え化したものである。

 いったい、萌えとは何だろうか? 僕は、萌えとは括弧に入れることだと思っている。妹萌えについて考えてみよう。妹萌えとは、妹を「妹」にすることだ。つまり、括弧つきの「妹」、普通一般に言われている妹がそこで問題なのではなく、特殊な意味での妹が問題だということである。それは、妹という言葉が持っている意味の一部を括弧に入れる。その歴史や背景や文脈というものを一時的に停止させるのだ。妹萌えの場合であれば、兄妹という血縁関係は一時的に停止させられる。そして、その上で、年下の女の子や「おにいちゃん」という台詞などに強調点が置かれるのである。

 「びんちょうタン」であれば、それは、「備長炭」が持つ歴史や文脈から切り離される。そして、この言葉が持つ「タン」という響きに注目する。女の子の愛称としてよく使われる「〜タン」として、「びんちょうタン」を捉え直すのである。そのとき、言葉の原義である「炭」は添え物にすぎなくなる。炭は、単に、このキャラクターの頭の上に添え物として乗っかっているだけなのである。

 それゆえ、『アルティメットガール』は、『ウルトラマン』という作品が持っている歴史や文脈を一時的に停止し、「巨大化」ということに注目する。巨大化する女の子という設定に萌えた結果、出来上がった作品が『アルティメットガール』というわけだ。

 現在、(オタク系の)サブカルチャーの作品形態が大きく変わってきている。そもそも、「作品」というもの自体が成り立つのかどうか、疑問である。つまり、そこで重要なのは、ひとつひとつの完結した作品(や物語)ではなく、そこに登場するキャラクターや背景となる設定が重要性を持っているのである。萌えとはひとつの消費の仕方であり、極端なことを言えば、それはひとつの技術であるだろう。萌えは「意味」とは別の水準を示唆している。作品から意味を汲み取るのではなく、キャラクターに萌えるということ。このような消費形態の変化の意義は非常に大きい。(SIZ)
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2009年04月02日

雲のむこう、約束の場所(新海誠)

(この記事は2005年6月19日に書かれました)

(ストーリー)
「藤沢くんとずっとこうして話したいと思ってたの」「う、うん」、「拓也くんと二人でいるのって初めてだよね」「そうだな」・・・とゆー感じ。


 これだけはやはりと思って見た。見る約束もあったし。今頃の渋谷はきれいだし。だがおかげでまた忙しくなる。12月は予定が多いものだ。しかるに論文は窮地に。さあ、どうしよう。
 
 予告を久々に見た気がする。「恋人までの距離」が9年ぶりの続編というのに驚いた。あの手の映画に続は普通ない。あのカップルが9年ぶりの再会というのもすごい。ゆうても一日だけだし。でも見た目は変わってない。ケイス・ブルームというマニアックなレコードがかかるシーンがあって気に入っているが、今作もサントラに力入れているようだ。ちなみに以前レヴューした「テープ」のR・リンクレイターが監督である。

 テリー・ツワイゴフの「バッド・サンタ」というのもあったが、ビリーボブ・ソーントンなのでただの親父であった。人入り悪そう・・・

 「ほしのこえ」は最悪だった。ああいうのは好きではない、何がいいんだと思っていた。今もそうだし、新海誠自身もやっぱり好きにはなれない。国文出身らしいが、いかにも「いそう」な感じがするタイプの「作家」に見える。

 しかし「新現実」に載った「雲の向こう、約束の場所」の前身である「塔の向こう」というカラー漫画を見て、ああ色々ツボを押さえてるんだなぁ、うまいなあと思ったのである。CGの使い方もいいし、アングルや視点、タッチやシチュエーションなどおいしいとこ取りであった。これでテキストさえ良ければ・・・と感じた。

 それで今作はすごく楽しみにしていた。パイロット版の出来がすごいよかったし、漫画版では見られないカメラワークも見ることができた。本編ではパイロット版の気にいってたシーンが結構使われてなくて残念だったのだが。音楽もそうで使用されてないものにいいのがあるのでもったいない。

 「いつも何かを喪う予感がしている」というモノローグから始まり、それが全編の基調低音でもある。いわゆる「祭りのあと」を安易に使用する、回想ものの系譜である。それ自体に意味があった「ノルウェイの森」はともかく、「セカチュー」に至っては、センチメンタルを醸成させる装置でしかない。他にも「野菊の墓」とかがそうだが、「海がきこえる」のテイストは流行ったものだ。

 それにともなって女の子は「女の子」らしい挙動で存在している。妄想的なシークエンスが散見されるわけだが、見せ方がちょっと面白かったりして、「妄想」も「想像力」の進化に手を貸していたりする。漫画版をみててまず思ったが、「新現実」に掲載ということからしても、大塚英志とはファンタジーというものについて共通する認識があるように思われる。かつて8,9年前に大塚が鶴田謙二「ベネチア」のひとコマを絶賛していたのだが、それはファンタジー世界における日常性の視点の存在、定着感の重要さの指摘であり、リアリティの話だが、僕も同一論者だ。僕がファンタジーにぞくっとくるのもそこであって、剣と魔法の世界より、イギリスやドイツの日常的な童話の方が好きであり、常々世界最高のファンタジーは童話「銀河鉄道の夜」だと思っている。列車が銀河宇宙を飛んでしまったらもうおしまいである。他にどんなものも、もうそれ以上のものはありえないだろう。そしてこの深遠な童話は何よりも、心理描写と日常性と宗教性の絶妙なバランスなのである。

 鶴田謙二「ベネチア」は、水没した町のガードレールのそのわずかに水面を出た上を、少女が両手を広げてバランスをとって歩くシーンが水中から見上げるように描かれていて、異世界のリアリティを何よりも定着させており、そのひとコマですべてが生きている。そして「雲の向こう、約束の場所」のさゆりは、(場面のつながりや唐突なところからして、むしろあざとい挙動に見えてしまうのだが)主人公と別れたあと駅のレールの上を同じようにして歩く「無邪気な」少女として描かれている(そんなこと別れたあとにしないっつの)。しかも新海はその場面(ポスターになってるあたり象徴的だ。ちなみにパイロット版では、夢の中でブロック塀の上をふらふら歩いていた)を含めて見上げて描くことが多い。塔が遠くに見えるので当然なのだが、そもそもその近景と遠景の距離感がファンタジー世界の詩情を生むのである。僕は以前の書評にも書いたのだが、ファンタジーとは遠望感覚だと思っている。よってこの地上すれすれから見上げるアングルは、ファンタジー醸成にとってきわめて重要なのである。しかも新海はブロックを歩く少女がふらついたりするときは、カメラをぶれさしたりしていて憎い演出をする。若干ピントもぶれている。デジタルを使いながらぶれさせるのはとにかくうまい。そういう細かいところが効いている。ベラシーラという飛行機が飛び立つところも、これはパイロット版の方がかっこいいのだが、カット割やショットのつなぎも鮮やかで、浮遊感と慣性の心地好さは宮崎駿にも近づいている。

 例によって引用は多い。(「天井」はここでも見上げられているし)キーワードもいかにも散りばめられている。春樹の「アフターダーク」(パイロット版では「海辺のカフカ」)も早速出てくる。さゆりは「眠り姫」になる。冒頭には美少女が賢治の「永訣の朝」を読んでいる。ただ本屋を含め文庫本と活字のCG描写はすばらしい。活字は「エヴァ後」という文脈だろうか。文庫にはくらっときた。

 また教室で賢治を読み上げてる少女が、耳にかかった髪をかきあげるのだが、その少し耳をなでる感じのところを後ろから(主人公の目線)撮っているところも、やはりツボを押さえたシーンだ。前からでもなく横からでもなく、後ろからというのが「学校時代」というか「教室時代」の主観である。その価値観には共鳴できる。「雲の向こう」で光蠢く雷も、やや「やりやがったな」という気もするが、良くできている。動画がすこしぎこちないが。

 つまりあいかわらずのキャラ絵の拙さも含めて、音楽もそれらの品質は低いと言わざるを得ない。才能がないわけでもなく、素材はいいのに「品質」が悪いのだ。天門の音楽も高度な音楽性ではないが、いいものはある。しかしバイオリンひとつとってもインディーズの音、録音が悪いなど惜しいのである。全てが自主制作のレベルをやはり感じる。(じっさいそうなのだが)もっとメジャー資本だったらなあ、と思うゆえんである。しかしそうなったらそうなったで、漫画版にもあったあの素朴なタッチや手書きの良さみたいなものはなくなり、ある種の整理という名の「洗練」に変わってしまうかもしれない。

 ところでこれはファンタジーでありSFである。そこらへんはなかなかよくできている。少なくとも面白い。

 拓也は中学生なのに「量子論」を読んでいる。さゆりの祖父は塔を作った物理学者だ。

 北海道が分断統治され、日米連合と北海道を支配するユニオンとの南北問題が発生した架空戦後ものでもある。74年に独立というのもそれらしい。佐藤亜紀「戦争の法」みたいだ。南北に分かれてしまった家族もいる。そしてそれを知らない世代がいる。

 つまりパラレルワールドとしての異世界なのだが、物語の中でも「平行世界」がテーマになっている。意味深な二重構造ともいえる。それは「分岐宇宙」とも呼ばれ、人が夢を見るように宇宙も可能世界としての、「もうひとつの世界」を無数に夢見ている。「分岐夢」である。塔はそれを観測するための観測塔である。しかし塔は量子兵器でもある。これには感心した。今まで(つまりいろんな意味で主人公たちの少年時代では)塔は手の届かない「あちら側」にある、憧れの対象としてあった。それが後半では、SF的な実態と様相で、主人公たちと観客の情感を裏切ってゆく。可能世界を「位相変換」によって、実世界に置換してしまうのが「塔」だったのである。それをくいとめるのがさゆりの「夢見」であった。このことに意味はない。エヴァ以降の「最終兵器彼女」「ほしのこえ」「なるたる」などに共通するものだが、敵は何であるか描かれず、理由もなく少年少女が「選ばれる」し、戦争状況は主題ですらなく、日常風景であってまさに背景でしかない。

 個人の夢がシンクロするところがあるが、何やら「人類補完計画」の影も見える。

 可能世界を自由に位相変換しうるのなら、当然それは政治の無力化を意味する。それは未来予測の絶対化に他ならないのである。いや、ここらへん大変面白い。もっと展開してもよかったと思う。

 壮大さと日常性、遠景と近景、大状況と小状況を非常にテンポよくそして構成力を持って描いた、正統的なファンタジーであった。

 藤沢が後半バイオリンを弾くシーンは、ぐっとくるものがある。そして怒涛のクライマックスと、静かなラスト。言うことがなかった。久しぶりに拍手したくなった。お見事。

 ただ、「きみのこえ」という主題歌に象徴的なのだが、記号でしかない「きみとぼく」的テキストの陳腐さ。絶望的な言語表現の脆弱さ。スニーカー文庫あたりのフォーマットなんだろうが、しかし陳腐と言ってみても、始まらない気がするのも確かで、感覚の共有装置としてツール化したものとしてみるべきなのだろうか。例によって親たちは排除されているし。(R)


 ようやく観た。

 まあ、それなりに楽しめたけど、しかし良かったと思うよりまず反感のほうが先に来る。パイロット版と予告編の出来が大変良かったのでかなり楽しみにしていたのだが、本編まで予告編みたいな出来なのには参った。カットのつなぎ方は荒っぽいし、場面転換も唐突(そういう演出なのだとしても)。ショットのひとつひとつは一枚絵として完成されているものの、一方ではその絵が基本的に物語に関与していかないので、場面を繋ぐのはモノローグに頼りっぱなし。網棚から見下ろすショットなど不必要に凝ったカメラワークが多い一方、物語を掘り下げようという意志は感じられず、何かのダイジェスト版という印象は最後まで拭えなかった。

 おそらくそういうことと関係あるのだと思うけど、「塔の秘密」がどのように解き明かされるのだろうと思っていたら、ものの見事に登場人物に全部解説させていたし、そういうかなりの機密事項と思われる事柄を町の工場の社長に喋ったり、そこらの居酒屋でもらしている研究所の所員というのはどうなのか。相変わらず陽の光は柔らかで実に幻想的だが、それにしてもさゆりが「永訣の朝」を読むシーンはやり過ぎだと思う。まず教室の電灯を点けたほうがいいと思うし(黒板見えないし、目悪くするぞ)、あんな風に読んでいる最中に髪をかき上げる女の子がいたらかなりやな感じだと思うわけで(しかもつっかえないし)、そういうあたりがどうもねえ。駅のプラットホームでふたりが同時に喋ろうとして気まずくなるあたりにはさすがに笑いましたよ。

 物語は要するに津軽海峡を境に分断統治されている日本という並行世界を扱ったもので(片方がアメリカなのはわかるが、もう片方がソ連でなく「ユニオン」だというのは何故なんだろうか)、このネタ自体は別に新しくもない。ヤルタ会談以降の流れによってはこういう状況もあり得たかもしれないわけだけど、それにしても事実朝鮮やベトナムのように分断された国があって、何度かの戦争と現在まで続く民族分断がありながら、こういうふうに幻想的に(何やら良さげな世界として)描くというのも、少々不謹慎な気もするわけである。おまけにその世界の問題が実に個人的な問題と連続していたりして、「世界を救うのか、さゆりを救うのか」などと言われると、そんな二者択一があるかと怒鳴りたくなる。

 並行世界に量子論を持ち出したこともあまり感心できなかった。これはおそらく多世界解釈から持ってきたのだろうけど、多世界解釈の捉え方が変なのはまあ良いとしても、「並行世界を観測」するというのはどういうことなのか。観測されたらその時点で波動関数が収縮してしまうのではないのか。ある世界が選択されたとしても、その選択は事後的にしか捉えられないのが量子論的世界観なのではないのか。夢から目覚めたさゆりが自分の気持ちを思い出せず涙を流す場面などあり得るはずがないわけで、そうするくらいなら最初から量子論など持ち出す必要もなかったと思う。

 要するに最初から最後まで「なんかそういう感じ」だけで持ってきた作品で、その力業というか、とりあえず最後まで見せてしまう体力には感心するけど、やっぱりこれで良いのかという気はする。何かからの引用だけで成立させた感じが漂っていて、創ったというよりは消費したという感じのこの作品をどう評価していいのかぼくにはよくわからない。何となく大塚英志あたりは高く評価しそうな作品である。(A.I.)
posted by SIZ at 20:46| Comment(0) | TrackBack(0) | アニメ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年03月22日

好きなものは好きだからしょうがない!!(二宮ハルカ)

(この記事は2005年3月27日に書かれました)

(ストーリー)
羽柴空と藤森直は幼馴染。しかし、空は転落事故で記憶を失ってしまい、直と久しぶりに再会したにも関わらず、そのことが分からない。二人の共通の幼馴染である本城祭は、二人の仲を取り持つために、彼らを寮の中の同じ部屋に住まわせる。空と直はいつも言い争いばかりしているが、彼らは二重人格で、もうひとつの人格「夜」と「らん」はお互いのことを愛し合っている。


 プラチナれーべるのゲームのアニメ化。2005年1月から3月まで放送(全12回)。

 美少年同士の恋愛を扱った、いわゆる「ボーイズラブ」もの。その点についても実に興味あるところだが、それはひとまず措くことにして、ここでは、この作品のセカイ系的なところを中心に問題とすることにしたい。

 多重人格。これはセカイ系作品の特徴的な要素であり、それが過去の記憶と関わるときにはなおさらである。この作品の主人公である羽柴空と藤森直は、幼い頃、精神的外傷(トラウマ)を受けたことがあり、そのショックを緩和するために別の人格を作り上げた、という設定になっている。つまり、二つの人格があるということは、その人物が二つの時間を生きているということである。現在と停止した過去の時間である。最終回において、二人は、トラウマ的な場面を反復するが、こうした反復によって、過去が現在という時間軸の中に蘇ってくるわけである。

 空と直の二重人格に対して、ボーイズラブ的なアプローチをすることはもちろん可能だろう。彼らの二重人格は、ボーイズラブ・カップルの典型的な関係、つまり、表面的にはお互いいがみ合っているが、その内面においては二人とも愛し合っているという関係に、説明を与えていないだろうか? つまり、それは、あたかも二重人格であるかのようだ、と。冷めているときには二人の間に一定の距離がある。しかし、ひとたび熱くなれば、二人の距離は縮まる。しかし、再び冷めれば、また距離を取ろうとする。この「近すぎもせず、遠すぎもしない」関係を二重人格という設定は上手く表現していないだろうか?

 さらに、この作品のセカイ系的なところを分析してみよう。

 この作品のセカイ系的なところは、そのオープニング・アニメに凝縮しているように思える。オープニング・アニメは二つの場面に分かれる。最初の場面は、夜の都会が舞台で雨が降っている。空が路地裏でうなだれて座っている。立ち上がって道を歩いていると、前のほうから直が走ってくる。二人はお互いのことを知らないが、二人がすれ違う瞬間、空のほうが何かを思い出し、直の腕を掴む。次に場面は一転する。空と直は子供になっていて、手を握りながら、霧に覆われた花園を走っている。カメラのアングルが変わり、二人を正面から捉えると、二人は一転、青年に変わる。そして、二人は裸になり、抱き合う。

 まず注目すべき点は、そこに対照的な二つの世界があるということだ。雨の降る夜の都会と霧の花園である。夜の都会は、空が初めひとりでいるところからも分かるとおり、孤独な状態、何かが失われた状態を指し示している。セカイ系の定型から言えば、この世界は第二の世界、転生した後の世界、カップルが別れ別れになった後の世界である。そして、この孤独な人物は、ある瞬間に、忘れられた記憶を取り戻す。深夜の都会ですれ違う人物、つまり、赤の他人であるはずの無数の人々の中から、自分のパートナーだった人物を瞬時に見出すわけである。

 第二の場面、霧の花園のほうは、むしろ、こちらのほうが第一の世界である。そこは、二人がカップルとして存在している永遠の場所である(それゆえ、この場所は、非現実的な印象を与える)。空と直の子供の姿は、過去という別の時間軸を指し示している。過去においては二人一緒だったが、ある瞬間から二人は別々になってしまった、そのような過去の時間である。そして、この過去が現在において想起され、過去と現在とが弁証法的に統合される(青年になった空と直が花園の中で抱き合う)。つまるところ、これら一連の過程は、弁証法の正・反・合の過程を正確になぞっている。初めに二人は一緒だったが(正)、その後別れ(反)、また再会する(合)のである。

 以上のことから考えると、『好きしょ』とは「再会」を扱った作品だと言えそうである。つまり、第1話において、空と直は再会したが、空のほうは以前の記憶を失っていて、二人が再会したことに気がつかない。もうひとつの人格である「夜」と「らん」は再会しているにも関わらずに、である。二人が真に再会するのは、二つの人格を統合し、二人が別れ別れになったトラウマ的な場面を反復し、その地点から再びやり直すときである。

 こうした諸点がこの作品において上手く描けていたとは残念ながら言えない。しかし、この作品が近年のセカイ作品(例えば『ファンタジック・チルドレン』など)とリンクしていることは間違いない。現代におけるわれわれの実存を考えるにあたって、示唆を与えてくれる作品である。(SIZ)
posted by SIZ at 06:59| Comment(0) | TrackBack(0) | アニメ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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