2013年08月25日

桐島、桐島をやめるってばよ?〜『あずまんが大王』から『桐島、部活やめるってよ』へ

かつて『あずまんが大王』は学園生活を描きながら、時系列で進行する不可逆で一回的な日常性そのものを前景化し、四コマという仕方でその様々な場面を切り取ることで、彼らの日常世界を積分してみせた。
四コマ形式というライトで機動性に富む鋳型は、充溢する青春の日々を描くに及んで、いかなる停滞をも見せることなく、その終焉まで実に爽やかに物語を駆動させていた。

昨年度の映画として日本アカデミー賞グランプリとなった『桐島、部活やめるってよ』は、歴代受賞作とは種々の点で異なる異色作だが、その一つに、物語や文脈の語り方に極めて意識的・作為的なことが挙げられるだろう。

この作品では、高校生たちの何の変哲のないただの日常が、時系列・単一視点ではなく、並列性・複数性を軸に持つ語りによってなぞり返されていく。
金曜日から週末を挟んだ火曜日までの、学校生活全体のカレンダーからすればごく短い、その分濃密な時間がそこにはある。そして「金曜日」はループして描かれる。時間がループするのではなく、描写/語りがリピートされるのである。
例えばファーストターンで、ある人物らが放課後に話題にしていた「朝会でのエピソード」が、次のターンで今度は「朝会そのもの」が描写される、という具合に。
そのようにして視点を変えつつ、同じ(桐島が部活をやめた日であるらしい)「金曜日の出来事」が微妙に時間や位相をずらされながら何度もリロードされるうち、総体としての現実が一つ一つその差分をバックアップされていく。
気がつくと曖昧模糊とした視界が開けてきて、われわれは日常現実の奥行きある理解を得ることになり、日常些事のひだや手触りが立体視されてくる。こうした生々しい現実感にはぞくっとさせられた。

だから、学園生活における少年少女それぞれのいま・ここの生の現実を支配している文脈は、次第に明確になりそのつど強度を増してくる。
そして、カメラが追う舞台上に交錯する視線・まなざしによって、人々のあわいを隔たる見えない壁が可視化され、各人の座標が確定されるとともに各々の電位差も肌身に伝わってくる。

「日常」をまなざそうとする作品は、今そこにある「日常」を撃ち抜くための「語り」を持たねばならない。
手法としては『あずまんが大王』が日常世界を積分によって立像したのとある意味では相似するものの、『桐島』はむしろ、「金曜日」という言わば四コマに相当する制限フレームの設定によって、厚みのある「日常」を微分したのだ。だから、この「日常」の質量は、その微分(「金曜日」の細分化)の度合いに応じて逆算的に確かめられてくることだろう。

(部活をやめたらしい)桐島はついに舞台に現れず、作品内で直接的なアクセスを禁じられた存在となっている。対面せず、応答もせず、人々の問いかけだけが残される。
それゆえにベケット方式よろしく「不在の中心」を多声的に物語ることを通し、日常現実は幾層にも補完されあう。
不在でありながら日常の中心である(部活をやめたらしい)桐島をめぐる言説は、この不可解でままならない日常を生きるわれわれの、それへの無力な異議申し立てのようでもあり、あるいは果敢ない盲目の祈りであり、不断の問い立てにほかならないということになる。
(部活をやめたらしい)桐島に繋縛される彼らにとっての生のあり方とは、(部活をやめたらしい)桐島との距離をはかりつづけることなのだとすれば、桐島とは彼らの日常そのものを構成・組成している原理であり、日常そのものを賦活している何ものかであり、そして学校現場を支配している空気のような見えないレギュレーションであるのだろう。
そして桐島が桐島であることをやめた時、彼らはその世界から解放されると同時に彼らの中の日常を失うのだろう。


ところで、スクールカーストの最底辺がどこにあるかをきちんと抉っていて身震いさせられるのだが、逆に言うと中間層があまり描かれていないのは気になった。
また、ヒロキカップルは少々リアリティに欠けていた。あの組み合わせにするのであれば、現状どちらかの性格描写、人物把握に難があり、破綻をきたしているように思われる。


ちなみに、クライマックスを煽るワーグナーのエルザは吹奏楽の定番なのでフルートが構えた時に「来るな?」と思ったのだが、通常の吹奏楽アレンジではなくオリジナルアレンジだったのでこれは思わぬ拾い物だった。
(R)
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2010年11月02日

『夕映え少女』

 山田麻衣子の演技が見たかったのだが、高橋真唯もよかった。山田麻衣子ははかない演技をさせたら蒼井優や多部未華子やらに並ぶと思ってるのだけど、未だに一般受けはしない人だ。でも『青い鳥』の頃から傑出してたと思う。

 学生監督が撮ったものだが、撮影監督がいいのか映像が素晴らしい。演出も繊細で心地よく時間が流れるように配慮されている。
 山田と高橋の二人が制服姿や着物姿で並びあうところを、ひたすら美しく撮ろうとしていて「ああ、短編映画はこうであってほしい」と思うところを、きちんと辿ってくれるので、見ていて好感しか持たなかった。特にしゃぼん玉のシーンが好きだ。
 川端の原作も川端らしい少女小説として味わい深い。(R)
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2010年10月31日

映画『時をかける少女』〜失われたどこにもない時間を駆けめぐる青春映画

 傑作。泣きそうになった。素晴らしすぎる。予告で仲里依紗が制服姿で走るスクロール・ショットの疾走感を目にしたときから予感はあったが、近年観た邦画では間違いなくベスト1にあがる。脚本も面白い。これだけ過去の作があるリメイクで、これだけのドラマを紡げたことに拍手を送りたい。

 まず昭和のはんぱないディテールの再現力は『三丁目の夕陽』を軽く凌駕している。いやぱっと見のゴージャスさCG力は向こうが上だろう。というかこちらはCG使用した痕跡すらあまり見あたらない。しかし『三丁目の夕陽』はあまりにもどこにもない「昭和空間」だったが、本作は確実に地続きだったかつての世界の肌ざわりをまとっている。単純に手腕があると言っていい。是非この監督を覚えとこうと思う。

 なんといっても仲里依紗がヒロインとしてこれ以上ないほどの存在感を放ち際だっている。涼太のバスが去ってゆく瞬間、まさにSF故のかなしみは頂点に達して、しかもこれぞ青春映画という痛みを彼女は体現していた。

 自主映画のラストに出てくる最後の桜のつぼみをひとつだけ咲かせないところとか、追加撮影したラストショットではヒロインが後ろ姿のみで出てくるので、何も知らない現代ではヒロインだと認識されないとか、とにかく色々と細かいところがこちらの内部を刺激しまくるのであっというまの2時間となる。いやぁ映画館で見るべきだった。

 ところでアニメ版にも「ゴールドベルグ」が主題的に使用されてたけど、今回も一部使用されたのは何かあるのだろうか?(R)
posted by R at 02:27| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年10月10日

浅野いにお『ソラニン』〜ムスタングが奏でる「祭りのあと」

 浅野いにおはかなり早い段階から取り上げてきたと思うが、2003年頃『素晴らしい世界』を読んだときから、同じ空気を吸って同じものを見て同じものを手にして同じようなところに拘ってきた作家だなと共感するところが多かった。そうした浅野いにお自身の趣味や価値観を最も出してきたなと思ったのは『ソラニン』だった。だから映画『ソラニン』でも種田の部屋にはVOXアンプにエレハモのエフェクターがあるしギターはフェンダーだ。そしてVESPAタイプのスクーターに乗り、スニーカーで舞台に立つのだ。同じ嗜好圏内の青春がそこにはあった。

 冒頭の音楽からすでにドラムの疾走感があり、そのリリシズムは『リンダリンダリンダ』のジェームズ・イハ(元スマパン)の仕事を思い出した。また種田のバンド曲は初期のゴーイング・アンダーグラウンドのような焦燥感があって好きだ。しかもリハやライブのシーンは臨場性に富み、驚くほどいい出来だと思う。長年読んできた『BECK』はまだ観ていないが、この手の作品が近年続いてるその数々を観てきたなかで、おそらく今のところ最も優れてライブバンド的な達成がある。本当のバンド好きはこのライブシーンを見て、『けいおん!!』なんかよりもバンドをやりたい気持ちに駆られるのではないかという喚起力・求心力があった。種田は、『BECK』などに見られるギター・ヒーローとかロック・アイコンのような存在からはほど遠い等身大のバンド野郎である。その音楽はスターダムにのし上がるためのツールでもなければ、何かを表現するための手段ですらなく、ただ自分が自分であることを生きのびるためにどうしても鳴らされなければならない音としてある。そこには肉体性のリアリティが不可欠だが、原作の種田よりは、こと音楽シーンにおいてそれが感じられた。
 それにしてもムスタングは色んな作品にひっぱりだこだ。『BECK』のコユキが手に入れる幻のムスタングは連載当時よりも更に時価が跳ね上がっている。『けいおん!!』でも中野梓が使っていて、確か「むったん」とか名づけてた気がする。

 映画『ソラニン』では、意外にも原作が秘めているものが形象化されていて、原作を読んだとき以来あらためて伝わってくるものがあった。浅野いにおのマンガは淡々とした表現の中に絶望が深く刻まれるので必ずしも人物造形のそれぞれがはっきりしているわけではないが、初のメジャー連載だった『ソラニン』は比較的その辺が整理されていた。そのこともあってか、映画化において浅野いにおという作家のなかで断念されているものが、それぞれの人物において上手く象られて浮かび上がってきているように思える。ただ花火のシーンなど、やや演出やテンポ感が易き定型に流れたりするところがあって第一級には届いていない。しかしそれも近年の邦画ではましな方ではあると思う。

 浅野いにおは「祭りのあと」を描く作家である。「祭りのあと」とどのように付き合うのかということ。もっと言えば「祭り」をいかに終らせ、それと訣別して生きていくのかという問題に照準している。モラトリアム終焉後になお残るモラトリアムという圧制から、いかにして飛翔するかの煮え切らない模索をありのままに綴っていくのである。
 『ソラニン』では、それは解決されないまま種田が死に、遺された者に手渡される。そして種田が死んだあとでも、時間は過ぎていくのだということをどのように受け入れていくかという問題へと繋がってゆく。芽衣子は種田の歌を歌い継ぐ。そこには遺された者が死者を鎮魂することによって死者と訣別し、「祭りのあと」を生きてゆくことへの静かな歩み寄りがあるのだ。(R)
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2010年03月18日

『サマーウォーズ』

 『サマーウォーズ』(細田守監督)を観た。

 田舎の風景とヴァーチャルリアリティ、一人っ子で核家族の主人公といかにも田舎的な大家族のナツキ一族、という具合な対比構造があり、その見せ方が上手い。私自身ナツキんとこよりはむろん小規模ではあるが、田舎にいくと基本あんな感じなのでずいぶん懐かしい気持ちになったものである(まあ武田家の…ってとこも同じだし)。
 そしてその対比構造が後半色々なかたちで絡み合ってきて、そのあたりの話の運び方はかなり興味をひく。ばーちゃんの弔い合戦を行おうという男性陣にたいして、葬式の準備をすべきだろうという女性陣の考え方は私に言わせればずっと健康的でまともであるが、作品上ではむしろそちらのほうが愚鈍であるような描かれ方になる。男性陣は屋敷をぶっ壊しながら巨大なスーパーコンピュータやら自家発電機を乗せた船を運び込み、ヴァーチャルな世界で格闘ゲームを行う。現実的に考えれば正気の沙汰ではないが、それが世界を救うことと同義となってしまい、最終的にはそのスパコンを駆使して世界を滅ぼそうという悪の権化と花札勝負を行うという訳のわからなさ。前半で社会のインフラが混乱に陥っているときにばーちゃんがいちいち知り合いに電話を掛けまくってその混乱を収拾しようとしたのとは対比的に、後半ではかなり短絡的、あるいは分かりやすく「悪」を倒すことで平和はもたらされる。
 簡単に言ってしまえば、この作品では既に現実社会よりもヴァーチャルな世界のほうが優位なのであり、そしてそのヴァーチャルな世界ではある意味で極めてたやすく「世界」へ接続できるため、カズマやナツキのような個人(それも子ども)がたやすく世界全体を見渡すことを夢想するのであろう。
 別の言い方をするならば、これまでも「世界を救う」物語は無数に描かれてきたわけだけど、これほどまで容易に世界が危機に陥って、これほどまで容易に救われてしまうということはなかったということである。(A.I.)
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2010年02月19日

『嫌われ松子の一生』

(この記事は2007年1月2日に書かれました)


『嫌われ松子の一生』

 中島哲也監督の前作『下妻物語』はすっごい好きな映画である。本作は典型的な女の転落物語ということなので、ちょっと観たくなかったのだが(こういう暗いのは好きじゃない)、とにかく評判が良いので観ました。

 泣けました。泣かされたよ。
 ある人物の死をきっかけに、その人物の生涯が複数の人物の回想によって浮かび上がってくるという形式は、オーソン・ウェルズの『市民ケーン』に似ていると言えるかもしれない。ただし、『市民ケーン』は大富豪となった人物の物語であるが、こちらは落ちに落ちた良いことなしの人生の物語。どちらがどうというわけじゃないけど、あまりに悲惨すぎて中島哲也のコミカルな演出じゃなかったらとても正視できなかっただろう。
 この作品はフィクションだが、実際に松子のような人生を歩んだ人もけっこういるんだろうなと思う。不器用で人の心に鈍感で信念もなく嫉妬深く善意の忠告は聞かずダメ人間にばかり惚れて自ら悪いほうばかり選択し、人生を転落してゆく。結局は自業自得なんだけど、それでも私はこうして転落してゆく松子をバカにしたりはできない。松子のように人との接し方や愛情の注ぎ方が下手で、それでいて寂しがり屋な女性はたくさんいるだろう。哀れだとも思わないけど、しかし自分もこういう人生を歩む可能性があるのではないかと微かに思う。

 そして若干考え込んでしまうのは、この物語が昭和を中心に繰り広げられていること。どんなに松子が転落人生を歩んでいるとしても、それを受け入れる受け皿が昭和の時代にはあった。だが、松子がテレビで小渕官房長官の掲げる「平成」と書かれた紙を観ているとき、彼女を受け入れる者は誰もいないのだ。松子は光GENJIの内海に夢中になるがその想いはこれまでと違い一方通行で、松子を受け入れるものは既にない。
 一度転落したらやり直すことのできない社会。われわれはそのようなリスキーでストレスフルな社会に生きているのだろうか。いかに転落してもせめて生きてゆくことは出来る、やり直すチャンスはある。そういう時代はもう来ないのだろうか。(A.I.)
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2010年02月10日

『最終兵器彼女』

『最終兵器彼女』(実写のほう)を観た。高橋しんの原作は未読。

 『男たちの大和』よりはましだけど、最後まで観るのはやっぱり忍耐が必要。


 戦闘シーンや半壊したビルなどのVFXはある程度の水準に達している一方で、逃げまどう群衆やそこに落下するビルの破片などを描かせると途端に高校生が文化祭で作ったようなレベルにまで降下する。
 おそらくはVFXを担当した東映アニメーションと実写部分を担当した東映でかなりの温度差があったのだと思う(『デビルマン』もそうだった)。
 演出はほとんどクソで、役者は揃いも揃って「私…実は…」みたいに文節ごとに一呼吸置きながらしゃべっているし、包帯を巻いている奴はいても腕が吹っ飛んでしまった奴はいない。血糊は血糊以外の何物にも見えない。
 つまり記号が示されているだけで、何も「描かれて」はいない。


 『最終兵器彼女』は、可愛い女子高生の選択に世界の運命が託されているという点で、例えば『ほしのこえ』なんかと共通するものを持っているが(いわゆるセカイ系)、この点について私は今回改めて、要するに、これはみんなの願望なのだと感じた。
 つまりそもそも女子高生である「ちせ」を兵器にしてしまう積極的な理由がどこかにあるわけではなく、単に戦争する女子高生というイメージに萌えているだけなのであり(だから「ほしのこえ」の女子高生は最後まで制服を脱がないし、兵器となった「ちせ」も最後まで女の子のフォルムだけは変化しない)、そして結局のところ、枯れたジジイの政治家なんかよりも、そうした可愛くてピュアな女子高生に、世界の運命やこの国の運命を託したいというのが本音であって、おそらくこの国の20〜30代くらいのキモイ野郎どもにとって、「可愛い女子高生の命」と「世界の運命」は大体同じくらいの重みなのである。
 でなければ、例えばこの作品は『最終兵器コギャル』であっても『最終兵器お父さん』であっても『最終兵器ブス』であっても構わないはずだけど、実際のところは可愛い女子高生であることだけは譲れない一線になっているように見える。可愛い女の子の選択によって滅ぶんなら、まあしょうがないよねと納得してしまうのが、おそらくはこの国なのだろう。
 そうして、おとなしくてピュアで可愛い彼女を犠牲にし、彼女を失った悲しみと自分だけ生き残ってしまったという罪の意識が微妙に心地よい陶酔感となり、で、鳥取砂丘あたりまでのこのこ出かけて(まさかアレをどこぞの砂漠だとは称しはしまい。砂漠ならひとりであんな軽装じゃあ3日ももたない)、「僕たちは恋していく」んである。どうにかしてくれ。

 つまりこの作品ではまず政治が放棄され、その政治に関するつけを全て弱い人間に押しつけ、悲劇的状況を自ら作ったうえで、悲劇だ悲劇だと騒いで見せ、最後にはその悲劇に酔っぱらい、最後の最後まで崩壊した世界を顧みることはないのである。困ったもんである。(A.I.)
posted by A.I. at 18:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年02月06日

『男たちの大和』

(この記事は2006年9月14日に書かれました)

 事情があって『男たちの大和』を観ました。以下、感想。


 一言で言って、クズ。

 2時間半弱の映画だけど、最後まで観るのは苦痛を要す。こういう映画にはR−18とかPG−12といったレイティングシステムと同様に、「要忍耐」とかそういう注意書きがあったほうが良いと思う。こんなクズ映画が「CinemaScape−映画批評空間−」みたいなサイトでけっこう高評価を得ているという事実が私には理解できない。

 大和は竣工したて、服は全ておろしたて、髪はみんな梳かしたて、顔も洗いたてにしか見えない。つまりどれも真新しくて嘘くさい(茶碗まで漂白剤を使ったかのように真っ白)。おまけに照明を昼のシーンだろうと夜のシーンだろうと全方向からまんべんなく当てているから、いつでものっぺり明るいし、ますます嘘くささを際だたせている。

 戦闘機の機銃掃射を、ばあちゃんが身を挺して女の子をかばうシーンは大爆笑。アンタ、拳銃じゃあるまいし、戦闘機の機銃で撃たれたら、ばあちゃんもかばってもらった女の子もバラバラだろう。

 大和に乗り込む兵隊を見送る人々が手を振るシーン。誰も日の丸を振っていない。天皇陛下バンザイと言わない。お国のため、天皇陛下のために死んでこいと言わない。何故だ? 代わりに誰もが「生きろ」と言っている。いつの間に太平洋戦争はそういうことになったんだ? 60年経ったらもうみんなどうでも良くなったんだろうか。

 どいつもこいつも演技は過剰。中村獅童の演技は直視できないくらいにひどい。鈴木京香は『サトラレ』もそうだったけど、見ているとイライラしてくる。まともなのは(演技のうまさもふくめ)蒼井優くらい。

 それにしても中村獅童はどうやって生き残ったんだろうか。特にそういう場面はなかったような気がするのだが。(A.I.)
posted by A.I. at 16:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年01月07日

トランスフォーマー(マイケル・ベイ)

(この記事は2007年8月6日に書かれました)

(ストーリー)
機械が変形したりする。


 ガチャガチャ変形するシーンが楽しそうだったので見に行ったら、どうでもいい人間のつまらんやりとりがかなり多くて、いらいらした。

 監督が監督なので登場人物は揃いもそろって異常事態かと思うほど頭が悪いし、脚本は本当に存在していたのか疑わしく、放射能がどうとかハッキングがどうとかは結局どうなったのか全然分からない。あのメガネだって重要そうに見せといて結局特になくても構わなかったんじゃなかろうか。

 つまりストーリーなどあってないようなものなので、だったらいちいち恋愛だとか国家の危機だとかそういうところに踏み込まなければ良いと思う。

 それと、敵のボスは最後倒したけど、まだ結構ザコが残ってた気がするんだが、あれはどうなったんだろうか。(A.I.)
posted by SIZ at 21:03| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年01月06日

墨攻(ジェイコブ・チャン)

(この記事は2007年8月4日に書かれました)

(ストーリー)
梁が趙に攻められ、それを一人の墨家が防ぐ。


 駄作でしょう、これは。

 攻城戦に特化したような話なのだし、主人公は防御戦のプロという設定なのだから、そのように描けば良いだろうに、どうでも良いところにこだわったせいでみんながみんな自滅していく。とても戦場の話とは思えなくて、自分たちの命よりとりあえずその場その場の感情を優先させているので、そんなんだったら死んでもしょうがないと思う。

 その意味では

 酒見賢一の小説→森秀樹の漫画→映画

の順番でダメになって行っている。(A.I.)
posted by SIZ at 21:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年01月04日

どろろ(塩田明彦)

(この記事は2007年8月4日に書かれました)

(ストーリー)
百鬼丸が自分の体を取り戻すため、妖怪みたいなのを倒す。


 面白いような面白くないような。

 昨今の似たタイプの邦画の中ではかなり頑張っているほうだと思う。

 オープニングのHuun-Huur-Tuの唄も良いし、アクションもさすがにチン・シウトンなので悪くない。化け物どもの造形は実に馬鹿っぽいけど、主役二人は良い演技をしている。

 しかし全体としては「ふ〜ん、それで?」という感じではある。

 手塚の原作は読んでいないんだが、印象としては白土三平っぽい。どうせならカムイ伝も映画化してくれないかなあ。(A.I.)
posted by SIZ at 20:09| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年12月26日

ダイハード4.0(レン・ワイズマン)

(この記事は2007年8月7日に書かれました)

(ストーリー)
マクレーン刑事がテロ事件に巻き込まれ英雄神話的な活躍をする。


 なんだろうこの異様なテンションは。とにかくすごいことになっている。

 普通は期待されない続編でまさかこんなにもやる気を出されるとは思わなかった。とても4とは思えない。

 全編通して飽きさせないし一気に見せる。最後のほうはおなかいっぱいである。

 『アンダーワールド』ってそんなに一般受けしてないし、アクション評価もどれくらい高いのかしらないけど、ちょっとこれはすごすぎて笑いましたよ。とりあえずF−35のパイロットにあんな無謀なやついないって(笑)。

 敵の忍者女が車に引かれても体当たりされても骨ひとつ折れてなさそうだとか(マクレーンも同じだが)、勇んで犯人のところへヘリで急行したはず(ただし当初向かった目的地はアバウト)の副局長が一向にたどり着かないとか(徒歩のマクレーンが先に着くし)?なところもあるけど、終始息を呑むアクションとカメラワークは劇場効果を伴って、至上の二時間を提供してくれたのである。(R)

*

 ブルース・ウィリスがかったるそうに活躍すると、どういうわけかそれなりに説得力を持ってしまうから不思議だ。

 これがアーノルド・シュワルツェネッガーだったら、超人が超人的活躍をするという、それだけの凡作になっていたと思う。

 サイバーテロの方法には何となく説得されるものがあったけど、機能の麻痺した街がどんだけの混乱に陥っているかをちゃんと描いてくれればもっと良かったと思う。でも面白かったです。(A.I.)
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2009年12月11日

unknown(サイモン・ブランド)

(この記事は2007年7月16日に書かれました)

(ストーリー)
ある男が目を覚ますとそこは外から鍵のかけられた廃倉庫。周りには自分も含めて5人の男がいるが、誰もが記憶を失っている。どうやら5人のうち3人は誘拐犯で2人はその人質らしいことが判明するが、誰が誘拐犯で誰が人質なのかは本人にも分からない。あと数時間で誘拐犯の仲間が戻ってきてしまうが…。


 シチュエーション・スリラーというのだろうか。

 誰が敵で誰が味方なのか分からないというタイプの作品は結構あるが、そこから一歩進めて、自分自身さえも誘拐犯なのか人質なのか分からない、自分が悪者なのか善人なのか分からないという設定にしたあたりは良いと思う。が、そのことにあんまりこだわりすぎると、結局みんなで「おまえは信用できん」「おまえこそ信用できん」「いや、俺は俺が一番信用できん」というようなやりとりだけで2時間終わってしまうことになるので、そこら辺は適当に切り上げてストーリーの展開を優先させている。この「考えてもわかんねえことは考えてもわかんねえんだし、それよか先に進もうぜ」という脳天気さは嫌いじゃない。建設的だし、考えていてもどうしようもないことに拘泥しすぎて自滅するような話よりも好感が持てる。

 ただし、そのせいでせっかくの状況物なのに、状況物としての特性は放棄されている。謎は誰かが発見したり考えたりすることで解決されるわけではなく、記憶喪失によって忘れていたことを、手っ取り早くみんなが「思い出す」ことで解かれてゆくし、そういう安直な解決法が採られているので、伏線もないまますごい大どんでん返しを「思い出し」たりする。

 というわけで、テンポを重視して物語を犠牲にしたという好例。謎解きものでは致命的な傷だけど、とりあえず退屈はしないので、細かいことに拘泥しなければ見ていられる。(A.I.)
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2009年12月10日

CHAOS カオス(トニー・ジグリオ)

(この記事は2007年8月3日に書かれました)

(ストーリー)
銀行強盗犯を追う。


 強盗が銀行に立てこもって、無理な突入をしてみたら大爆発が起きて、銀行強盗は爆破に紛れて逃げたけど、盗まれたものはひとつもない。いったい犯人の目的は何だと思っていると、そこにはカオス理論がかかわっているという。

 テンポが良いので、見ているときはあまり気にならないけど、あとで思い出すとかなり適当なプロットである。いちいち指摘するのは馬鹿馬鹿しいけど、思いつくことをいくつか並べてみよう。

1 まず強盗に対する対処が、銀行とは思えないくらいにずさんである。
2 いくら犯人側の要求とは言え、停職中の刑事を復帰させるのみならず、現場の指揮(SWATの指揮も含め)まで任せる警察などあり得るのだろうか。
3 銀行内の状況が分からないまま、SWATが突入するなどあり得ない。
4 突入中止の命令が出ていながら、命令を無視して突入するSWATはもっとあり得ないだろう。
5 人質を窓際にロープでぶら下げる犯人の意図が分からない。
6 他にも色々あるけど、カオス理論の説明がおかしいのは致命的だと思う。てゆうかカオス理論全然関係なかったし。

 ただし、劇中起こるどんでん返しの数々には一応伏線が張られていて、伏線自体がチープであるという傷はあるものの、唐突ではない。その点では結構見られる。(A.I.)



 だいぶ前に見たので良く覚えてないが、とにかくジェイソン・ステイサムのファンなのでそれ自体は楽しめた気がする。(R)
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2009年12月04日

007 カジノ・ロワイヤル(マーティン・キャンベル)

(この記事は2007年8月3日に書かれました)

(ストーリー)
ジェームズ・ボンドが悪いやつを懲らしめる。


 意外、と言っては悪いかもしれないが、意外なくらい面白かったです。

 まず、話の規模が小さいのが良い。ぼくは007シリーズはほとんど見ていないので確たることは言えないけど、今回の敵は結構みみっちく金を稼ごうとしている小悪党で、世界征服を企んだり核兵器をテロ組織に売りつけようとしたりといった大それたことを考えないのが偉い。MI6も相手が小さくなったせいか資金不足らしいし、新兵器も出てこなかった。Mも「冷戦のころは良かった」などとぼやいているし、派手派手しいスパイ活動をする時代ではなくなったということだろうか。

 そのせいか、ボンドのやることもスマートさに欠けていて、何となく体力としつこさで勝負しているように見えるし、ピアーズ・ブロスナンがボンドを演じていたころよりもだいぶ人間くさくなっている。犯人を追って血だらけになるし、女に惚れ込んで引退を考えるしで、色々突き抜けたことをやっていても、自分の仕事に一生懸命な普通の親父なのである。そして普通の親父のくせに職業がスパイだから絶対に自分の感情を表情に出さないのである。泣きたいときにも涼しく笑って「ボンド。ジェームズ・ボンド」なのである。

 いや、かっこよかったです。(A.I.)



 一作目をリメイクということで、ボンドもまだまだあらあらしく、迷いやミスのあるところが新鮮だ。

 しかしいまいちポーカー勝負がカタルシス不足だった気もする。

 リメイク元は駄作のようだが、キャストが豪華なのでちょっと見てみたい。(R)
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2009年12月03日

大日本人(松本人志)

(この記事は2007年6月12日に書かれました)

(ストーリー)
巨大化して、代々巨大生物「獣」と戦ってきた「大日本人」の六代目である大佐藤。だが、人気は低迷し、元妻と娘は離れていく。その傍ら、四代目である祖父の介護に明け暮れる日々である。


 映画とは呼べないかもしれない。

 とりたてて優れた映像効果、演出は見られないし、全体的な印象を述べるなら、テレビドラマの手法で撮られており、そもそもこの作品は映画の文法に沿って作られてはいないのではないか。何をもって映画と呼ぶのかは不明確だが、たとえば同じお笑い芸人である北野武の作品と比べると、映画としての出来は明らかに劣ると言わざるをえない。映画として成立しているのかどうかも疑わしい。物語は、テレビ局のスタッフによるインタヴュー形式(一人称小説のようなもの)で進んでいくが、インタヴュアーが知り得ないようなことまで平気で挿入していて、その辺りからしてすでに映画としての手法は破綻しているように思えるのだ。

 かといって、これによってお笑い芸人としての松本人志の名誉が傷つけられたとは、露ほども思えない。先ほど、テレビドラマと言ったが、これはテレビドラマではなく、壮大なコントであろう。

 松本人志は、あくまでお笑いに立脚している。その軸とは、最後のほうで、特撮から実写に切り替わる場面そのものである。あの「ごっつええ感じ」を思わせるチープな着ぐるみの実写がこの作品の核なのであり、それが、それまでのCGを多用した特撮映像全体の物々しさを、逆に笑い飛ばしているのである。

 当然、最後までCGで撮ろうと思えば撮れただろう。しかし松本の根幹をなすものは、あくまであのチープで胡散臭い着ぐるみコントの世界、奇妙で不可解な、笑いの世界である。だから、あの実写のシーンによる終幕は松本自身の信念を示している。

 これは映画ではない。これは、松本が、映画であれ何であれ、どんな場所に置かれても自分は一人のお笑い芸人でしかないという信念を、自分のあり方を貫いた結果、生み出された何物かである。以上。

……としたいところだが、これだけでは僕がこの作品を面白いと感じたかどうかが分からないだろう。映画か否かという判断を保留すれば、僕自身は十分に楽しかった。そもそも大佐藤の喋る微妙な標準語からして可笑しい。UAとのスポンサーをめぐる言い争いや、娘の反応、「獣」たちの造形も面白い。笑いの観点からすれば、ほとんど全編笑える。しかもその笑いは、大佐藤の抱える屈託や孤独と切っても切り離せない状況から生み出されている。こみ上げるほどの笑い、そしてそれと混ざり合った松本人志という人間の人柄。『大日本人』とは、まさにそれそのものなのである。

 結局、僕は松本人志がますます好きになった。(イワン)
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2009年11月21日

300(ザック・スナイダー)

(この記事は2007年6月24日に書かれました)

(ストーリー)
スパルタ軍300人がペルシャ軍3万だかに挑む。


 事実としてスパルタがそういう国だったというのはあるにせよ、ここまで、健常じゃなきゃだめ、屈強じゃなきゃ生きる価値はないという物語を反復させられると、おいおいいいのかそれで、と言いたくなる。

 一方のペルシャ軍が完全にフリークスの巣窟みたいに描かれていて、しかもそれが「悪」に直結してるような描かれ方をすると(しかもその対立構造がそのまま西対東になっている)、監督のねらいがどこにあるにせよ、あまりに品がないという気がする。

 もっとも個人的にはパンツ一丁でウホウホうるさいスパルタよりは淫靡で妖しく病的なペルシャのほうがずっと魅力的に感じられてしまうが。(A.I.)
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2009年11月19日

パイレーツ・オブ・カリビアン ワールド・エンド(ゴア・ヴァービンスキー)

(この記事は2007年6月11日に書かれました)

(ストーリー)
覚えてません。


 個人的にはこれはこれで構わない。

 けど、自信を持って人に勧めるという感じでもない。充分売れたし、売れることは分かってるから好き放題やりました、見たけりゃ見てください、という感じがある。

 要するに作り手の趣味がかなり強くなっていて、誰もが楽しめるという感じではなくなっているのである。

 だから細部へのこだわりは相変わらず素晴らしいけど、ストーリーのほうは分かったようなわかんないような。キャラクターも一作目から見るとだいぶ変わっていて、ジャック・スパロウはかなり病的な人物になっているし(知性が後退しているのは残念)、エリザベス・スワンはいつの間に鍛えたのかしらないけど剣の達人になっている(でも魅力的)。オーランド・ブルームはだいぶでくの坊になってきた。最高なのはジェフリー・ラッシュで、この人のバルボッサ船長は最高。今回は完璧に他の役者を食っていた(一作目も良かったけど、ジョニー・デップには負けてた)。とても『シャイン』のあの人と同一人物とは信じられない。

 そんなわけで、個人的には好きだけど、という感じ。(A.I.)
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2009年11月18日

ある愛の詩(アーサー・ヒラー)

(この記事は2007年6月10日に書かれました)

(ストーリー)
原題通り。ラブストーリーです。


 この映画の最後で主人公のライアン・オニールが父親に向かって「愛とは決して後悔しないこと」と言い放つシーン。あの場面を父との和解ととるか、あるいは決別ととるか、人によってその解釈が分かれるのは、結局「愛とは決して後悔しないこと」という字幕の翻訳のされ方にあるのだと思う。

 本作の原題は「Love Story」でそれを「ある愛の詩」と訳すなど、配給会社なのか翻訳家なのか知らないけど、実にセンスがあると思う。しかし名ゼリフとされている「愛とは決して後悔しないこと」は原語では「Love means never having to say you're sorry 」であり、これがアリ・マッグローがライアン・オニールの言う「I'm sorry」という謝罪に対する返答であることを考えれば、意味としては「愛する仲に『ごめん』はいらない」くらいになるはずである。アリ・マッグローは作中で2回ほどこのセリフを吐くが、どちらもやはり二人の和解を意味している。

 だから「愛とは決して後悔しないこと」は確かにかっこいいセリフだけど、しかしこれだと最後にライアン・オニールが父親に向かって「親との仲よりも愛に生きたことを後悔しない」みたいに決別を宣言した感じになってしまい、変である。しかし謝る父にこのセリフを投げかけているのだから、やはり「愛しているのなら謝らないで」くらいが適当なはずだ。

 そもそもこの映画は70年に公開されていて、ときはアメリカンニューシネマ全盛時代である。ベトナム戦争にフリーセックスにマリファナという状況で、同時期の映画といえば、『イージー・ライダー』や『真夜中のカーボーイ』。

 だから、学生としてなにやらちまちました親への反抗を示しているライアン・オニールも、弁護士としてニューヨークの高層マンションに住まうようになったとき(後半の彼は完全にヤッピーである)、結局は「若者」「反抗」という文脈から抜け出さなくてはならなかったのである。(A.I.)
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2009年11月06日

スパイダーマン3(サム・ライミ)

(この記事は2007年6月11日に書かれました)

(ストーリー)
スパイダーマンが調子にのる。


 とにかくトビー・マグワイアのしまりのない面を見ていると、こんなやつに調子づかせるくらいなら、少しくらい犯罪が多いほうがまだマシだと思えてくる。

 そして、ぼくと同じようにスパイダーマンの活躍にいらだちを感じた人たちが、作中で悪役となってゆくわけで、だから要するにテメーのせいだろがとスパイダーマンを責めたくなるのも致し方ないところ。とにかく悪役の面々に感情移入しました。(A.I.)
posted by SIZ at 23:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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