2010年11月07日

『機動戦士ガンダム デイアフタートゥモロー カイ・シデンのメモリーより』

 ガンダム「30周年」企画で、『ガンダムUC』と平行するように、ファーストの歴史を非常に興味深い角度から扱っている。

 設定は一年戦争終結から約4半世紀たった時代。連邦管理下にあるかつてのジオンの拠点サイド3にて、何やら万博的なイベントを思わせる「一年戦争記念館」と大回顧展が開かれる。展示は主にMSやWB(の残骸)である。そこにオブザーバーとして往時を知るカイ・シデンが招聘される。われわれの現実で言うと今現在から湾岸戦争時代を振り返る距離感に近いだろうか。

 というわけで、一年戦争展を通してファーストという過去の歴史が通覧されたり回想されたり解釈されたりしていくことになるわけで、ある種メタ・ヒストリカルな視点を持つことになる。そしてそこには必然的に「記憶」の問題、「事実」と解釈・記述の問題、などといったような「歴史」をめぐるおなじみの問題群が孕まれてくるのである。そもそもファースト・ガンダムにはそれこそ30年の歴史の蓄積と補完があるわけで、ガンダム・シリーズそのものがある意味で歴史記述の営みなのである。ともかく、そうした視座がこの設定を意義深いものにしているし、また本作を批評性のあるものにしている。

 たとえばWB展に連邦のノーマル・スーツが展示されていて、そこにアムロと同じ白モデルがある。ナビゲーターは、これはアムロの「パーソナル・カラー」と説明するが、カイは首をかしげる。「白なんてたくさんあったじゃないか」と。だが「いや、たしかに戦時中はアムロくらしか見かけなかったかな・・・」と言い直すと、ナビゲーターは「では間違ってはいないということですね」と事実確定してしまう。カイは「そうは言わないが・・・」とさらに首肯しかねている。

 つまり、そこには「事実」と記述され解釈された「史実」に微差があるのだ。「間違ってはいない」と整理された「回顧展」は、カイ個人の記憶と微妙に齟齬するのである。そういう意味では「回顧展」によって確定される「パブリック・メモリー」は、間違ってはいないが、正しくもないのだ。だからこそ、「カイ・メモリー」によってそれは補正・補筆されるべきなのである。ちなみにWB展本部の「公式データ」ではスレッガー中尉は存在しないことになっているらしい(この辺りが今後の展開の鍵だろう)。また「ハロ」のオリジナルに関する記録はカイよりも、制作会社の公式情報が正確であることが判明したりもする。

 ともあれ、カイ・シデンの回想「カイ・メモリー」によって、アムロの白スーツが、ガンダム・パイロットのひいてはアムロの「パーソナル・カラー」として誕生したわけではない経緯の一端に触れることが出来る。結果的にそのように見えるだけで、「事実」の発生起源はそのようなアムロありきの文脈とは異なる要因・要素を持っていた。

 ガンダム・シリーズはたしかにトリビアルになりがちなのかもしれないが、このようなある意味では些末な細部を、いわば「集合的記憶」のあり方という視座において描くことが、むしろ戦争の「記憶」の重要な側面に光を当てている気がするのだ。というわけで今のところ注目している次第である。(R)
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2010年06月08日

アフター・カーニバル的『北斗の拳』のセリフ・ベスト10

 この前の土曜日に行なった放送で、『北斗の拳』のセリフのベスト10を決めました。結果は以下の通り。

1 ぱっびっぶっぺっぽおっ
2 愛ゆえに人は苦しまねばならぬ
3 我が生涯に一片の悔い無し!
4 ひ、退かぬ!媚びぬ!省みぬ!
5 お前はすでに死んでいる
6 ひでぶ
7 やめてとめてやめてとめて・・・とめった!!
8 天を見よ!見えるはずだ、あの死兆星が!
9 ラオウよ 天に帰るときがきたのだ!
10 あたたたたたたた

番外(放送後に出てきたもの)

ぼつぼつ死ぬか
ブタをかっているのか
おい、そこのハゲ
同じ女を愛した男だからだ
お師さん……ぬくもりを。


 なぜ、このような結果になったのかなどの経緯については、後日録音したものをアップする予定なので、それを聞いてみてください。(SIZ)
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2010年05月24日

Rさんの書いたマンガ記事まとめ

 この前、イワンさんの書いたマンガ記事のまとめを作ったが、同じ要領で、他のメンバーのマンガ記事もまとめてみたい。
 こんなふうに、ひとつのジャンルで記事をまとめてみると、それぞれのメンバーの特性が浮き出てくる。それぞれのメンバーが抱えている問題も見えてくる。
 今回、Rさんの記事をまとめてみて分かったことは、Rさんのマンガ記事は思っていたよりも数が少ないということ。それも2004年という時期に集中している。
 Rさんはもっといろいろとマンガの記事を書いているのではないかと思っていたのだが、そうでもなかったようだ。
 去年からの放送で、Rさんがマンガについて語った回が何回かあったので、その印象が強かったのかも知れない。(SIZ)


2004年2月23日、素晴らしい世界(浅野いにお)
http://after-carnival.seesaa.net/article/91819207.html

2004年2月25日、ササメケ(ゴツボリュウジ)
http://after-carnival.seesaa.net/article/66062571.html

2004年2月25日、6番目の世界(福島聡)
http://after-carnival.seesaa.net/article/66374896.html

2004年2月29日、自虐の詩(業田良家)
http://after-carnival.seesaa.net/article/72351592.html

2004年2月29日、塔の向こう(新海誠)
http://after-carnival.seesaa.net/article/72502173.html

2004年5月16日、ムカデ戦旗(森秀樹)
http://after-carnival.seesaa.net/article/88005609.html

2004年5月19日、墨攻(森秀樹、原作:酒見賢一)
http://after-carnival.seesaa.net/article/82972337.html

2004年6月5日、彼岸島(松本光司)
http://after-carnival.seesaa.net/article/66170419.html

2004年7月31日、あたしんち(けらえいこ)
http://after-carnival.seesaa.net/article/54129332.html

2004年8月1日、潜む声 鏡の中の遺書 その他の短編(松本充代)
http://after-carnival.seesaa.net/article/92083260.html

2004年8月1日、しあわせ(戸田誠二)
http://after-carnival.seesaa.net/article/92160234.html

2004年8月2日、しゃぼてん(野中英次)
http://after-carnival.seesaa.net/article/91932209.html

2005年8月29日、ドラゴン桜(三田紀房)
http://after-carnival.seesaa.net/article/109737976.html
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2010年05月13日

イワンさんの書いたマンガ記事まとめ

 「現代マンガの潮流」シリーズのまとめ記事との関連で、イワンさんの書いたマンガ記事をまとめてみた。
 こんなふうに人単位でまとめてみると、当然のことながら、趣味とかこだわりとか、いろいろと見えてくるものがある。
 それぞれのメンバーごとにまとめを作ってみてもいいかも知れない。(SIZ)


2004年6月29日、げんしけん 4巻(木尾士目)
http://after-carnival.seesaa.net/article/52136596.html

2004年8月10日、ベルセルク 27巻(三浦建太郎)
http://after-carnival.seesaa.net/article/54016000.html

2004年8月11日、ジョジョの奇妙な冒険 18〜27巻(荒木飛呂彦)
http://after-carnival.seesaa.net/article/54559978.html

2004年11月11日、餓狼伝BOY(板垣恵介)
http://after-carnival.seesaa.net/article/102847888.html

2004年11月30日、ICHIGO 二都物語(六田登)
http://after-carnival.seesaa.net/article/149621119.html

2005年3月3日、ベルセルク 28巻(三浦建太郎)
http://after-carnival.seesaa.net/article/54274458.html

2005年8月15日、G戦場ヘヴンズドア(日本橋ヨヲコ)
http://after-carnival.seesaa.net/article/110260050.html

2005年8月22日、バキ外伝 疵面―スカーフェイス―(板垣恵介)
http://after-carnival.seesaa.net/article/110369491.html

2005年8月29日、ドラゴン桜(三田紀房)
http://after-carnival.seesaa.net/article/109737976.html

2005年9月1日、極東学園天国(日本橋ヨヲコ)
http://after-carnival.seesaa.net/article/110973183.html

2005年9月23日、シグルイ(作:南條範夫、画:山口貴由)
http://after-carnival.seesaa.net/article/111084027.html

2006年1月29日、悪鬼御用ガラン(山口貴由)
http://after-carnival.seesaa.net/article/114919917.html

2006年4月13日、孤独のグルメ(久住昌之・谷口ジロー)
http://after-carnival.seesaa.net/article/53403062.html

2006年4月25日、シグルイ 6巻(原作:南條範夫、漫画:山口貴由)
http://after-carnival.seesaa.net/article/122228533.html

2006年5月5日、NANA(矢沢あい)
http://after-carnival.seesaa.net/article/123127858.html

2006年10月17日、コミック昭和史(水木しげる)
http://after-carnival.seesaa.net/article/124930974.html

2007年7月26日、ヒストリエ 4巻(岩明均)
http://after-carnival.seesaa.net/article/132746464.html
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2010年05月12日

ICHIGO 二都物語(六田登)

(この記事は2004年11月30日に書かれました)

 マンガ。作者は『F』の六田登。

 殺人鬼が主人公のマンガは他にどれくらいあるのだろうか。本作と同じく「ヤングサンデー」に連載されていた『ザ・ワールド・イズ・マイン』がすぐに思い浮かぶ、というかこちらのほうが有名だろうが、僕は読んでいない。

 高校生のときに読みふけっていた。

 主人公・梅川一期の一生を描いた作品なのだが、その生涯は戦後・昭和という時代の流れに重ねられている。物語は戦後すぐから始まる。父・源ニ郎は梅川建設の二代目。少々無茶なやり方で、戦後社会を土建屋としてのし上がっていく人物だ。源二郎はエネルギッシュな男で、ただ金が目当てというよりは、その根本に、戦後社会を建て直したいという大きな夢を抱いている。だが、その長男・一期は赤ん坊のころに病気で片方の肺を除去したことが遠因となって、おかしな風に成長してしまう。人殺しである。

 図式的な作品ではあると思う。図式的というのは、作品がたんなる作者の思想伝達の道具になってしまっている状態であろう。

 殺人鬼と化していく一期と対比させて、梅川建設は順調に成長を続けていく。

 一期は「生きている実感がない」と漏らし、殺人を重ねることで生の実感を得ようとする。梅川建設を継ぐのは弟・利行だが、彼はガラス張りの都市・アメニティシティの建設に取りかかる。源二郎が良かれと思って取り組んできた戦後社会の構築の行き着く果ては、その後に生まれてきて、そこで生き始める者にとっては、実感が湧かない、空虚な空間にすぎなかったということだろう。物語の終わりも昭和の終わりと重ねられている。

 「一回壊れたものは、簡単には元に戻らない」と言う一期の身体と、戦争に負けた日本のあり方も重ねられている。また、影の主役はやはり源二郎で、一期は彼の負の部分を背負い、利行は正の部分を担おうとしている、というところも、容易に見て取れる。

 そして一期は世話になったヤクザの組長さえも殺し、「俺は俺の都をつくる」と言い、アメニティシティ爆破に臨むのである。

 この作品を換言するとこうなるだろう。

 戦後社会の発展は空虚なものでしかなかった。そこでは生の実感は得られない。

 このように作者のメッセージが作品の後ろ側に明確に見えてしまうのがこの作品の弱みだろう。一流の作品とはいえない。つまりわざわざマンガにしなくてもいいということだ。


 ……しかしそれがなんだというのか。

 この作品は1990年から1994年、いわゆる〈失われた10年〉のなかで書き継がれた。それまでの社会の流れの到達点、それが〈失われた10年〉だったとすれば、この作品は戦後史を描くことが目的なのではなく、それをとおして源二郎も一期も利行もいなくなった〈失われた10年〉の姿を見通そうとしているのだ。

 前述したように物語は昭和が終わり、平成を迎えるところで幕を閉じる。「平成」。この年号を初めて聞いたときの僕は小学生だったが、「ああ、これから世の中ずっと平和なんだな」という感想を抱いたのを覚えている。しかしそれは当然、それだけに留まらなかった。留まってはくれなかった。何も問題がない、ということは、以前A.I.氏も述べていたように、問題がないことが問題となって立ち現れてくるということだと、のちに実感することになる。

 そして少なくとも僕にとっては、どんな価値観も空虚なものと化し、どんな問題も相対化され、自分自身、生きている実感がもてないまま『ICHIGO』を読みふけっていた高校時代そのものが〈失われた10年〉だといえるのだし、それが今も僕を大きく規定しつづけているのだ。(イワン)
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「現代マンガの潮流」について

 「現代マンガの潮流」シリーズを並べて思ったことは、僕の好きな『ベルセルク』や『ジョジョ』がなくて、意外にスポーツマンガが多いことです。
 だからなのか、勝ち負けにこだわった内容が多いですね。

 人は、何らかの形で自分の中に、あるいは外に価値を見出していかなければなりません。そのままの自分でいることはできない。
 芸術なり、スポーツなり、その他の仕事なりの、何らかの手段を媒介してしか、人と交われないし、自分の中に価値を見出せない。
 そして、それが端的に表れる場面が、自分が賭けたものの成否がはっきりと判定される、スポーツなのかもしれません。

 そこで勝つことはもちろん大事です。それそのものに価値がある。
 しかし、では、負けてしまった者は? また、勝ち続けた先に何がある? その勝利に意味があるのか?といったように、価値観が相対化されてしまっているのが現在です。
 さらに、勝負のルールそのものという前提にすら疑いが生じる、何と戦えばいいのかがそもそも分からない、といった状況に、身動きがとれなくなるといったこともあるのではないでしょうか。

 このようなことから、この頃考えていたのは、月並みな問いですが、この判然としない世界の中で、人は、自分は、いかに生きるべきかといったことだったのかもしれません。
 よって、僕の中の源泉としては、いつか、ただマンガに関しての記事として書いた、六田登『ICHIGO 二都物語』が、「現代マンガの潮流0」としてあるのかもしれません。


 また、一つ心がけていたのは、とりあげるマンガは、「知る人ぞ知る」マニアックなマンガではなく、なるべく誰もが週刊誌(月間誌もありますが)で普段目にするようなマンガにしようということでした。
 マニアックなものでもいいのかもしれませんが、俗塵にまみれて、深く主題を掘り下げることが困難であるような種類のマンガの中にこそ、我々の現在を明らかにする何ががあるような気がしたからです。

 今は、時間がなくてあまりマンガを読めないということもあるのですが、ピンとくるものはありません。
 面白いものはあるのでしょうが、僕にとって切実な問題を描いたものは見当たりません。
 ただ、森田まさのりの『ろくでなし』から『べしゃり暮らし』までを一つの流れとして見てみるのはいいかもしれません。(イワン)
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2010年05月11日

「現代マンガの潮流」シリーズをまとめてみた

 昨日アップした過去記事「負けしか見えない――日向武史『あひるの空』」で「現代マンガの潮流」シリーズの過去記事は打ち止めになったので、この一連のシリーズをここにまとめてみたいと思う。記事を書いているのはイワンさんで、一部A.I.さんも書いている(しかし、日付をコピペしていて気づいたのだが、シリーズの第5回と第6回は同じ日に書かれているのか。当時のA.I.さんはすごいパワーだなあ…)。
 この一連のシリーズの続きというか現在についてイワンさんがどう思っているのか、ぜひ聞いてみたいところである。今度放送のテーマとして取り上げてみよう。(SIZ)


1、木尾士目『四年生』『五年生』『げんしけん』を読む(2004年5月25日、イワン)
http://after-carnival.seesaa.net/article/52134999.html

2、テーマを挟み撃ちする――井上雄彦『バガボンド』『リアル』(2004年5月29日、イワン)
http://after-carnival.seesaa.net/article/52513407.html

3、〈その他大勢〉のスポーツ選手たち――山田芳裕『デカスロン』から『ジャイアント』(2004年6月5日、イワン)
http://after-carnival.seesaa.net/article/52845756.html

4、尾崎豊の死――『ろくでなしBLUES』『今日から俺は』『湘南純愛組』(2004年6月6日、A.I.)
http://after-carnival.seesaa.net/article/52965933.html

5、ファンタジー3原則について(2004年8月11日、A.I.)
http://after-carnival.seesaa.net/article/54801689.html

6、愛ゆえに人は苦しまねばならぬのか?(2004年8月11日、A.I.)
http://after-carnival.seesaa.net/article/111799390.html

7、カート・コバーンの影――ハロルド作石『BECK』(2005年4月14日、イワン)
http://after-carnival.seesaa.net/article/122087705.html

8、ルキア解体――『武装練金』『BLEACH』『アイシールド21』(2005年6月23日、イワン)
http://after-carnival.seesaa.net/article/144642163.html

9、仕事で、死にたい―― ――安野モヨコ『働きマン』(2005年8月22日、イワン)
http://after-carnival.seesaa.net/article/146931442.html

10、我々の住む世界では……――木尾士目『げんしけん』(5巻、6巻特装版およびOFFICIAL BOOK)(2005年10月25日、イワン)
http://after-carnival.seesaa.net/article/147193053.html

11、見ることの欲望/欲望を見ること――山本英夫『のぞき屋』『殺し屋1』『ホムンクルス』(2006年5月11日、イワン)
http://after-carnival.seesaa.net/article/145923938.html

12、期待される野球マンガ像――ひぐちアサ『おおきく振りかぶって』(2007年1月30日、イワン)
http://after-carnival.seesaa.net/article/147756479.html

13、負けしか見えない――日向武史『あひるの空』(2007年4月18日、イワン)
http://after-carnival.seesaa.net/article/149408323.html
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2010年05月10日

負けしか見えない――日向武史『あひるの空』――(現代マンガの潮流L)

(この記事は2007年4月18日に書かれました)

 日向武史『あひるの空』で特筆すべきなのは一点である。それは、この作品が敗北しか描かないということである。

 主人公・車谷空の属する九頭龍高校のバスケットボール部は、発売されている単行本で見るかぎり、一勝もしていない。かつて、このようなスポーツ漫画があり得、また存在しただろうか? しかも「週刊少年マガジン」というメジャー少年向け漫画週刊誌において。主人公のチームが一勝もしない。これは少年マンガのセオリーを覆す行為で、ある意味では暴挙ですらある。常識から言うと、すぐに打ち切りになって当然だとも言える。それがここまで人気を博しているというのには当然、この作品の単体での面白さがあるのだが、ある文脈においてみるとその意義は一層明確になるようである。

 端的に言うと、その意義は、『あひるの空』が、井上雄彦『スラムダンク』後の流れにおいて生み出されたスポーツマンガの一つの到達点であるというところにある。『スラムダンク』では、桜木花道属する湘北バスケ部は、最強といわれる山王高校に勝利するのだが、その次の試合で負けてしまう。そこで井上が志向したものとは、敗北を描くことであり、それはいわゆる〈敗者の栄光〉を描きたいということとは異なることは、現在連載中の『バガボンド』『リアル』をみれば明瞭である。敗北、あるいは断念された勝利への道、それでもそのあとに残るものがあるのなら、井上はそれに目を向けようとしたのではないだろうか。これは当然、〈結果よりも過程が大事〉などという生やさしいものではない。なぜなら、勝利も敗北も、結果も過程も、お互いを存在証明の手段としているからだ。勝利ではないから敗北である、または敗北ではないから勝利であるというように。勝利がなければ敗北もなく、敗北がなければ勝利もない。井上の作品にも、『あひるの空』にも、勝利の喜びと敗北の悔しさは痛いほど描き込まれている。しかしそれでも、その先を見ようとしているのが、井上や日向ではないだろうか。

 しかし、『スラムダンク』の連載終了が示したものは、湘北の敗北という作品内の出来事であるというよりも、勝利と敗北の先にあるものに目を向けようとする姿勢そのものの敗北だったのではないか。また、もっともメジャーな少年向け漫画雑誌において、そのような姿勢は追究するべからずという教訓、時代の潮流だったのではないか。だからこそ、『バガボンド』は「週刊モーニング」で、『リアル』は「週刊ヤングジャンプ」で連載せざるを得なかったのではないか。

 この流れのなかで『あひるの空』を読むなら、それは『スラムダンク』を読んで描かれたマンガだということができる(ある登場人物が、『スラムダンク』を読んでバスケを始めたと言うシーンもあるが)。『あひるの空』は、勝利と敗北の先にあるものの追究と、それを追究する姿勢そのものを時代へ問うことの、二重の命題を背負って描かれている作品なのである。だから九頭龍高は勝ってはならないし、連載は「週刊ヤングマガジン」ではなく、「週刊少年マガジン」でなければならないのである。そしてそれはなによりも読者がそう望んでいるのである。『あひるの空』そのものの展開と同時に、敗北しか描かないスタンスの行き着く先を見たいという読者たちの願いが、この作品を支えているのである。

 また、この作品も平均的な公立高校のバスケ部を主人公チームに据えているが、そのリアリティについてはどうだろうか。他のスポーツマンガ同様、逸材が集まってきて、たった5人で全国制覇に向かうという構造をもつものだろうか。確かに、主人公の空の3ポイントシュートは抜群の精度を誇り、ドライブも秀逸であり、トビは天才プレイヤーである。しかし、当然体力は続かないので交代はするし、交代要員のメンバーがダメなら試合もダメである。体育館は他の部が使っているので毎日使えないし、合宿は学校でするしかない。顧問の先生はバスケなどとは縁のない生活指導の教員である。このあたり、既存のスポーツマンガで我々が醒めてしまう要素を排除しているようだが、これでもまだ嘘くさい部分、つまりそれでも奇蹟は起こるんでしょう?という突っ込みを入れる余地は残るだろう。しかし、そういう突っ込みを一蹴するのが、空の身長が著しく低い(150pに満たない)ことと、なによりこれだけ勝てる材料が少ないのだから、やっぱり負けるというところである。ここにおいて、我々は本当にこの作品の先を期待することになる。それは、いつかくる主人公の勝利ではない。勝利も敗北も問題ではない。この作品がいったい我々をどこへ連れて行くのか? その先に期待するとき、我々はまだこの世界に、自分自身に、期待する部分がわずかにでも残されているのではないかという予感をもつのである。(イワン)
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2010年05月05日

「負け」の彼方

(この記事は2007年2月1日に書かれました)

 イワン氏の書いたエッセイ「期待される野球マンガ像」を読んで思ったことを少し書いてみたい。イワン氏の主張には大筋のところでは賛成するが、部分的には異論があるので、そのことについて書いてみたい。

 イワン氏は、今日の典型的な野球マンガと「今日の我々が野球マンガにおいて読みたいと思うポイント」との間のズレを指摘しているが、このズレというものはそれほど顕著には見出せないのではないだろうか? つまり、イワン氏が指摘する典型的な野球マンガの「リアリティのなさ」というところが、多くの読者にとって、果たして、そのマンガの欠点として立ち現われているのかどうか、というところに僕は疑問を持ったわけである。もっと言えば、果たして、われわれは、マンガというメディアのうちに、何かリアルなものを読み取りたいと思っているのだろうか、ということである。

 例えば、いわゆる「負け組」として自分のことを自覚している人が、そうした自覚をさらに強めることになるような作品を読みたがるだろうか? もちろん、そうした人はたくさんいるだろうし、そうした用途に合ったマンガもたくさんあることだろう。しかし、他方で、それ以上に、マンガという世界のうちに、リアリティのほとんどない夢物語を読みたい、という人もたくさんいるのではないだろうか?

 野球マンガにしろ、スポーツマンガにしろ、格闘マンガにしろ、そこにわれわれが読み取りたいことは、ある矛盾した、二つの欲望ではないだろうか? それは、自分の共感できるような平凡な人間がそこにいてほしいということと、その人間が特殊な人間であってほしい、というものである。どこにでもいる人間が唯一無二の才能を持っている人間であるというこの矛盾。この矛盾を解消してくれるのが、一連のマンガ作品ではないだろうか?

 僕は、こうした作品を読むときには、一定の距離を取って読んでいるが(こうした作品を楽しんで読んでいる一方で、それを分析して位置づけているという点で)、しかし、これらの作品を完全に否定する気にはならない。というのも、大まかに見れば、確かに似たような形式を持つ作品ではあっても、細かく見ていくと、個々の作品ではやはり大きく性質が異なる、ということが言えるからである。

 イワン氏の観点では、「負け」を描くということが、「勝つか負けるか」という枠組の中から外に出ることを意味しないように思える。枠組から外に出ないと、一度負けた者が再び勝利を目指して努力するというような、すでにいくつかある物語を生み出すことにしかならないのではないか? 「負け」を描くことは重要であるだろうが、さらに重要なことは、その先に進んでいき、別の問題の枠組を提示することではないだろうか?

 例えば、松本大洋の『ピンポン』には、確かに才能豊かな選手たちが登場するが、しかし、彼らを超人化していない点で(様々な葛藤を描き出している点で)、単に、「勝つ/負ける」という枠組以上のことを提示していないだろうか? さらに、ちばあきおの『プレイボール』は(この作品を僕はアニメで見たのだが)、確かに、イワン氏の提示する野球マンガの定型に当てはまる作品であるが、努力しても突き抜けられない壁を描いている点で、「負け」の彼方を描いていないだろうか?

 イワン氏の基本的な方向性には賛成するが、ある種の戦略としては、これまで行なわれていたのとは異なる作品の読み方をするということが、(新しい作品が出現するのと同等に)作品の方向性それ自体をも変えるということがありうると思うのだが、どうだろうか?(SIZ)
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2010年04月27日

記号化された諸表象

(この記事は2005年3月10日に書かれました)

3月8日の記事で、R氏が80年代の文化表象について述べているが、これを受けて、僕も、こうした文化表象について語ってみたい。僕が今回書いてみたいのは、80年代の表象そのものではなく、R氏が「記号化」してしまったと述べているような、現在においてはひとつの「お約束」でしかなくなってしまった表象についてである。とどのつまり、現在のアニメーションを中心にしたサブカルチャーにおいて、R氏が列挙したような表象がどのように継承されているか、ということを見ていきたいのである。

1、時代気分(純愛)
現在サブカルチャーを席巻している純愛ブームが、いったい、80年代からの流れとどのように結びつくのか、ということを考えていくのは重要なことだろう。おそらく、R氏が述べているのとは別の意味で、「純粋さ」というものは現在にも継承されている。とりわけ、90年代以降、恋愛シミュレーション・ゲームにおいて培われた物語は(80年代からの物語変遷を考えるにあたって)注目に値する。こうしたゲームは、もともとはエロゲーの一種だったにも関わらずに、エロの要素が希薄になり、それと同時に「泣き」の要素が入ってきた。こうした純愛ものでは泣けることが重要なのである。

2−1、場所(丘)
高いところから街の風景を見下ろすというシチュエーションは、R氏が指摘しているように、『耳をすませば』を(90年代の)代表格として、現在も数多く見受けられる。このシチュエーションを最も効果的に用いたのは、高橋しんのマンガ『最終兵器彼女』だろう。そこでは、主人公たちカップルにとっての「約束の場所」として、丘の上(展望台)が繰り返し登場する。その場所は、主人公たちが二人きりになれる唯一の場所であり、まさに「二人の場所」と言えるような場所である。

2−2、場所(屋上)
昼休みに屋上でみんなと食事、というのがサブカルの典型的なシチュエーションである。最近の作品では、『あずまんが大王』や『ブリーチ』に屋上が出てきた。多くの作品に共通するのは、主人公たちが屋上にやってきても、他の生徒はいないという状況である。つまり、屋上とは、学校という、人がいっぱいいる場所で、比較的、人があまり来ない場所、ということなのだろう(だから、屋上で、告白や喧嘩が行なわれる)。

2−3、場所(深夜のプール)
あと、R氏は指摘していないが、こうした一連の場所のひとつとして、「深夜のプール」というのもありはしないか? これはAI氏が映画レビューの欄で述べているシチュエーションでもある(『少年たちは花火を横から見たかった』)。最近の作品で言えば、『ベック』にそうしたシーンが出てくるし(男女が裸で深夜のプールに飛び込み、歌を歌い合う)、ライトノベル『イリヤの空、UFOの夏』の冒頭がまさにそのシーンだった(夏休み最後の日に学校に忍び込むと、プールに見知らぬ女の子がいる)。あと、ついでに言うと、鷺沢萠の小説にもそういうのがあった(10代の最後に久し振りに再会した高校時代の仲間たち数人が、学校に忍び込んで、プールに飛び込む。これは80年代の作品)。

3、メディア(ラジオ)
美少女がラジオに投稿するというシチュエーションは、現在のサブカル作品においても散見されるが、これはかなりノスタルジックなものだろう。とりわけ、受験生がラジオを聞いているという風景はノスタルジックなものだ。近年の作品で、それを最も効果的に用いていたのは、自称「お受験アニメ」の『七人のナナ』である(他にも、『あずまんが大王』や『ケロロ軍曹』にも、そういったシーンがある)。それから、R氏の指摘している高野文子のマンガは確か、田舎の少女が都会への憧れをときめかせる、その媒介となるメディアがラジオだった、という話だったように思うが、こうした田舎と都会とのギャップを主題にした作品は、最近あまり見かけないような気がする。

4−1、人種(不良)
サブカルチャーにおける不良の位置づけは、90年代以降、かなり大きく変わってきたように思われる。現在の作品でも不良は出てくるが、その役割は「いじめっ子」とほとんど同じではないのか(例えば『ベック』)。つまり、反抗する主体としての不良というものは、ほとんど見受けられなくなったのである(自分たちの行動に一本筋を通す不良たち)。この問題は、「番長」という存在がいつ頃からいなくなったか、ということと考え合わせてみると面白いかも知れない。番長の存在はすでに、80年代において、パロディの対象だった。

4−2、人種(先輩)
女子生徒が先輩に憧れを抱くというシチュエーションは少女マンガの王道だが、やはり、このシチュエーションも、現在の少女マンガに残っている(しかし、やはり、「お約束」としての色合いが強い)。アニメでは『ケロロ軍曹』『ふたりはプリキュア』がそうだ。

5、イベント(学校行事)
これは、学園もののサブカル作品においては、欠かせない要素である。作品の時間的な流れを区切るのがこうしたイベントだ。入学式、健康診断、体力測定、体育祭、定期テスト、夏休み、文化祭、修学旅行、卒業式。とりわけ、「文化祭」は、サブカル領域において、一種異様な情熱を持って、描かれ続けている(『うる星やつら2』を持ち出すまでもなく)。こうしたイベントをメインにした近年の作品として、『あずまんが大王』と『瓶詰妖精』の名前を上げることができるだろう(『げんしけん』はその(オタク)大学生バージョンだろう)。こうしたイベントの扱われ方を軸にして、いくつかの作品を比較検討してみるのも面白いだろう(例えば、『究極超人あ〜る』では京都・奈良に修学旅行に行ったが、『あずまんが大王』では沖縄に行った、など)。

6−1、コミュニケーション(相合傘)
これは現在の作品でも見られるが、それは、R氏が指摘するように、「冷やかしの対象」として、もはや記号化されたものとしてである(朝学校に来てみると、自分の名前と自分と何らかの関わりのあった異性の名前とが、黒板に書かれている)。90年代の作品では、『エヴァ』にそうした落書きがあったことが思い出される(机の落書き)。

6−2、コミュニケーション(回し手紙)
これもまた、現在の作品に見受けられる。R氏の言うように、確かに現在では携帯が普及しているが、携帯を作品で効果的に用いている作品では逆に、「使ってやるぞ」という作者の意気込みが垣間見られて、不自然さを感じる(例えば『ほしのこえ』)。むしろ、こうしたハイテクと「回し手紙」のようなローテクとが同居しているほうがリアルではないのか? そうした作品も現在、いくつか出ていることだろう。

7、ファッション(髪型・服装)
この点は、そこに注目して作品を見ることがほとんどないので、何とも言えないところがあるが、確かに変化はしていると言える。というよりも、ファッションほど変化の激しいものはないだろう。われわれが、写真などを見て時代特定できるのも、ファッションに寄っているところが大きいかも知れない。R氏の述べている不良のファッションに関して言えば、80年代初頭の「いかにも」という感じの不良ファッションは、サブカル作品においても、少なくなった(パロディとしては用いられるが)。とくに女子は大きく変わったような気がする(男子の場合は名残があるだろう。例えば『ベック』や『ごくせん』のような作品)。


 長々と書いてきたが、こうした文化表象を分析することによって導き出せるひとつの結論は、ネタかベタかという二つのカテゴリーの境界線が不明確になってきた、ということだろう。このことは、何よりも、ネットに見出すことができる問題である。ある書きこみがあったとして、その書きこみが本気でそれを述べたもの(ベタ)なのか、それとも単にその振りをしているだけ(ネタ)なのか、それを区別することは困難であるだろうし、無意味だとも言えるだろう。それゆえ、ネットを中心にした現在の文化表象には、極端なシニカルさと極端なナイーブさが同居している。現在の純愛ブームも、こうした文脈から捉える必要があるかも知れない。つまり、あらゆるものから距離を取るというシニカルな状態が、一転して、ある種の狂信状態に変わるのである。これはオウム真理教などの新興宗教の問題とも絡むだろうし、現在のわれわれがどれほど寄る辺ない存在か、ということを端的に示してもいるだろう。

 富野由悠季は、その作品の中で、しばしば、「重力に魂を奪われた人々」ということを語っているが、故郷喪失者にとって最も懐かしいものとは、この重力の重みなのだろう。自由と隷従の区分で言えば、自由になった奴隷は鎖の重みを懐かしむ、ということである。われわれが今日、耐えねばならないものとは、このシニカルな状況、あらゆる価値が相対化されたこの状況である。ノスタルジーの危険性はここにある。ノスタルジーによって、われわれは、最もナイーブなものを真理と見間違うのである。80年代を回顧するときにも、この罠にはまらないようにすべきだ。80年代を振り返るのは、現代を考察するため、さらには、未来を考察するためである。(SIZ)
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マンガで文化研究〜概論編

(この記事は2005年3月8日に書かれました)

 以前から、70年代後半に生まれ、80年代に少年期あるいは青年期を過ごした世代のマンガ体験の中から、「文化的表象」体験を振り返り、懐古しながらそれらの意味の問い直しを図ろうと考えていた。

 特に80年代のマンガ作品内に盛んに用いられた記号、それも今はもはや、まさに記号でしかなくなってしまった「文化的表象」にどのようなものがあり、なぜただの記号に衰退しあるいは消滅していったのか。そこを焦点化するのである。

 まず問題の俯瞰的概括をしておく必要があるので、今回は作品よりもキーワードとそれに関するメモを列挙してみようと思う。むろんそれは無限に並べられるのであり、あくまで個人的体験からの問題関心による、恣意的列挙に過ぎない。

 以下当時のマンガなどに好んでよく現れるモチーフや、また物語内の気分を反映し、読者の時代的琴線によく触れた表象を挙げたい。(その多くが今や漂白され脱色しているものである)

1.時代気分
バブル期の表層的な「浮かれ」の裏で、「純粋」「純情」などといった、ある種の「ピュアネス」「イノセンス」が信奉されていた。「トキメキ」などもそこと連関するものだろう。

2.場所
「丘」「砂浜」「屋上」など。
 丘。かつて未来を夢見る場所であり、希望の象徴でもあった場所。(そういえば村瀬学はなぜ丘が歌謡曲から消滅したのかと論じていた)希望を見ずとも丘で星空を恋人と見あげることが、ロマンス進展におけるひとつの重要なリアリティだったのである。「きまぐれオレンジロード」のラストのキスシーンは舞台が丘の上であり、極端な高低差のある視界を持つ、ファンタジーに典型的な街の眺望(「耳をすませば」など)が醸し出す情緒によって成り立っていた。「砂浜」「屋上」も同様である。
 音楽室なんかは別名「告白所」というくらい、誰もいない部屋(ということになっている)の定番である。僕はよく音楽室に入り浸っていたが、じっさいは放課後だけはだいたい部活で騒々しいのだが。

3.メディア
「ラジオ」「ラジカセ」
 TVや雑誌などもメディアだが、この二つは当時猛威を振るった。いまクラスの美少女が、深夜ラジオにはがきを出す熱心なリスナーである、というのは真実味がないが、「セカチュー」で回顧されたように当時は、人物像として充分ありえた。高野文子の短編には、田舎の少女のリスナー風景だけを切り取ったものがあるくらいである。

4.人種
「不良」「先輩」(以上はA.I.氏が思い入れしているものである。)「マネージャー」「暴力教師」など
 あだち充『H2』くらいまでは、マネージャーに格別なヒロインとしての人格が与えられていたかもしれないが、例えば森田まさのり「ルーキーズ」のマネージャーは、だいぶその役割において後退している。「中心」はチームと監督であり、彼女はいわば「木星」ぐらいの位置にいる。
 
5.イベント及びコミュニケーション
「卒業式」
 むろんこれは、今でもある程度通用する。しかし、桜が散る湿っぽさなどといったイメージや情緒も、まんま感受していた時代と比べたら、だいぶ記号化したのではないか。今の当事者たちは、すでにサブカルその他で消費されつくしたイメージを、追体験しているような感覚のほうが強いのではないだろうか。僕の時代からしてそうであった。「卒業」あるいは「卒業式」というモチーフが入学したときから念頭にあって、思い入れが強い奴はどうかすると、「卒業式」のために3年間通った、と言っても過言ではないようだ。
 しかし第二ボタンのイベントは、今どれくらい真剣味を帯びているのか。むろん現場では、いつだってそれなりにリアルになるものがあろう。しかし、あくまでも表象の場に持ち出すこととしていまだ「リアル」でありうるかという問題であるので、その点になると疑わしい。

6.コミュニケーション
「2人乗り」「落書き」「回し手紙」
 バイクよりも、自転車が個人的には想起される。
 「落書き」は、子供が地べたにやるやつでも、もはやアートのグラフィティでもなく、黒板や机やノートの隅、はては歩道橋の欄干などにするような、ちょっとした「思い出作り」の痕跡のことである。相合傘はすでに冷やかしでしかなかったが、隣の机の女の子と机やノートに、イタズラ書きしあうのは授業中の至福であろう。また「回し手紙」はより広範な、コミュニケーション・ツールであり、まだあるかもしれないが、今の少女マンガなどでよく見るのはもう携帯メールである。

7.ファッション
「ポニーテール」
 いわゆるヒロインたるものの所以であり至上価値だった「清純」と不可分の髪型だったろう。
「ロング・スカート」
 それの対称をになったのがこちら。「清純」を引き立てる「不良少女」役のアイテムだ。しかし、「ボンタン」を履く「不良男子」は、むしろ「ポニーテール」側とカップリングできる存在だったように思われる。


 ところで、「文化研究」というような題目を立て批評・研究めいた事をしようとするとき、ある問題がある。

 つまり、このようなやや個人的でもあり、趣味的な回顧に堅苦しい「文化研究」という態度は必要か、という問題である。

 軽やかに読ませるものとして書き、面白ければいいとするような、やや刹那的な「面白味」至上主義が最近の、あらゆる論評態度の主流に見える。どうかするとアカデミズムですら、それに侵食されてきているようだ。

 しかしそれは必要条件であっても充分条件ではないのではないか。

 80年代のオタク世代が、あるいはその世代のアカデミズムが、何でもかんでも批評の場に持ち込もうとし、しかも強迫的なまでの該博さと学究的な体質・性格で問題の批評的消費を繰り返していったことに対する、倦厭・食傷あるいは嫌悪から、そういった志向にアンチを唱え相対化しようという反動的試みが後代に起こっていったこと、それは現象として首肯できるものではある。少なくともそのような批評が趣向として飽和状態なのは疑えない。

 しかし、それに異を唱えるとして、それは我々の世代の選び取った価値観かもしれないが、そうであってもその欠落や狭さに無自覚であるべきではない。きちっと踏まえる問題である。つまりそこには批評への良心がかかわってくるのである。

 つねに良質な「批評」「作品」を目指すことは、80年代の特権でも価値観でも無論ない。また「書くこと」の倫理・誠実さをどう自らに問い踏まえるかということ抜きに、当代の価値観のみを主張するべきでもないだろう。そしてそのような態度を安易にあるいはポレミックに括弧の中に入れて判断停止(エポケー)してしまうなら、おそらく何かを問う基礎体力じたい低下していかざるをえなくなるだろう。(R)
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2010年04月25日

期待される野球マンガ像――ひぐちアサ『おおきく振りかぶって』――(現代マンガの潮流K)

(この記事は2007年1月30日に書かれました)

 野球マンガの定型というべきものがあるならば、以下のようになるのだろうか。

@ずば抜けた才能を持ったピッチャーが主人公である。
A主役チームがごく普通の公立高校である。
Bチームメイトは初め、半ば寄せ集めである。

 この条件でスタートし、才能と努力と団結で甲子園に出場する。おそらく僕自身、あだち充、原秀則らの諸作品から受けたイメージの枠組みに縛られているのだろうが、おおよその野球マンガは、この枠組みを踏襲しており、この条件下から、いかに主人公たちの成功と成長を描けるかに力点が置かれ、また読者においても、初期条件はこうでなければ共感できないのではないだろうか。当然、作家の力量如何によってはこの条件下で十分に楽しめる作品ができあがるのであって、そこを否定するつもりはない。

 だが、今日の我々が野球マンガにおいて読みたいと思うポイントは、この条件を満たしたものからは幾分ずれてきているのではないだろうか。以前A.I.氏が以下のように述べていたと思う。おおむねの野球マンガにはリアリティがなく、面白味が感じられない。この場合のリアリティのなさとは、それらの作品において、そもそも野球を成り立たせる環境というものがないがしろにされていることだ。野球には金がかかる。バット、グローブ、ユニフォームといった道具、ピッチングマシーン、照明、グラウンド等の設備(なぜ校庭で野球部しか練習していないのか)。メンバーにしても、ピッチャーは最低3人は必要であり、選抜した選手を入学させられる学校が有利である。優秀な選手は、当然よりよい環境を選択する。また、コーチも複数必要だろうし、強化合宿、遠征等で使用する車両も必要だろう。そして、これらの条件を満たせるのは、普通、財力のある私立高校である、と。

 つまり財力を備えた学校の野球部は、主人公たちが高校一年生になった段階で、すでに個人の努力では埋めがたい戦力を備えていることになる。これは有利だとか不利だとかいう前に、学歴面で言い換えれば、中学入試で超進学校に入り、そのまま国立大に現役合格するいわゆる〈勝ち組〉と、公立中・高校に通っているうちに退学し、ネットカフェ難民にでもなってしまう〈負け組〉にも似た、歴然たる社会的格差の問題である。当のスポーツでいえば、たとえば僕はサッカーの中村俊輔が通っていた私立高校を知っているが、これはメンバーを完全に特待生で入学させ(内申点の基準はオール3程度)、授業もそこそこに切り上げ、早い時間から部活を始めたりする。選抜メンバーは、小・中では当然クラブチームに通っていた高所得層の子弟だろう。特に部活動の時間制限が厳しく施設が整っていない首都圏の公立中学校では、まともなものが提供できるはずもない。ちなみにその私立高校自体でも、中学部でのサッカー部員はほぼ高校のサッカー部には入れず、同好会のようなものに移される。

 このような状況下で、冒頭に述べた条件下で始まる野球マンガもまた、読者の共感を呼ばなくなってきているのではないだろうか。

 ひぐちアサ『おおきく振りかぶって』(講談社)は、魔球、秘打、人間離れした才能・努力を抜きにした、リアリティを追求した野球マンガとして評価されているようだ。だが、これは格差社会という状況下にある我々が真に注目すべき作品なのだろうか。冒頭の定型に照らし合わせてみると、@三橋という、ストライクゾーンを9分割して投げられるピッチャーがいる。Aまさにごく普通の公立高校野球部である。B優秀な選手が揃っているが、それぞれに事情を抱えて半ば偶然にも似た形で集まっている。よって、@〜Bの全てを満たしている。そして、A.I.氏の述べていた資金面の問題については、監督がバイトで部費を賄っているということでクリアしている。だが、これこそがまさに個人の超人的努力にあたるのではないだろうか。

 他にも問題はある。スポーツ特待生でもない『おおきく振りかぶって』の野球部員たちは、野球だけしていればいいということは、絶対にない。勉強はしないでいいのか。これについては、勉強をしないと赤点を取ってしまい、野球ができなくなるというふうにして勉強もこなしているとしている。また、照明のない状態で、練習時間はどうやって確保するのか。これは、朝5時から朝練を開始するということで説明している。

 このように、『おおきく振りかぶって』は、ひとつひとつの問題に説明を加えてはいるが、まず作品の前提において、野球マンガの定型をふまえていることは間違いない。定型を踏んだうえで、どうすればそのような物語が可能になるのかという後付けの説明を加えているにすぎない。作品の前提において、その根本においてあだち充らの野球マンガの定型を一歩も踏み出すものではない。『起動警察パトレイバー』が、前提として〈電線がない〉というフィクションを措くことによって、その詳細なリアリティを駆動したように。それが、僕自身がこの作品を読みながら感じていたある種の虚しさの正体であろう。我々が求めるべきなのは、そのような前提を踏まないとすれば、今日においてどのような野球マンガが可能なのかということなのではないだろうか。普通に考えれば、それはひどく退屈で爽快感の欠片もない野球マンガとなるだろう。だが、どこかで描かれなければならないのは、@〜Bの条件を満たした野球部の敗北であることは間違いない。これこそが注目すべきリアルであり、この条件の敗北を描いた地点からでないと、作中でたとえどのような心理戦が描かれようとも、どのような創意工夫がなされようとも、真に我々の心を揺さぶる何かは見出せないだろう。(イワン)
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2010年04月21日

我々の住む世界では……――木尾士目『げんしけん』(5巻、6巻特装版およびOFFICIAL BOOK)――(現代マンガの潮流I)

(この記事は2005年10月25日に書かれました)

 月に一本もエッセイがないのも寂しいのでここらでひとつ。

 えらく以前に発売されたもので、しかもマンガ喫茶で読了しているのだが、久しぶりに『四年生』『五年生』を読み返したのがきっかけで『げんしけん』(5巻、6巻特装版およびOFFICIAL BOOK)を購入した。

 特典物関係について。『OFFICIAL BOOK』はTVアニメ化記念で刊行されたものだが、くじアン特製トレカ(切り取り式)、大野さん三つ折りカラーポスターなど、『げんしけん』紹介本としてはよくがんばっていると思う。他にも赤松健インタビューや作者によるネタばらしなど、興味深い企画が盛り込まれている。

 6巻特装版には『げんしけん』の同人誌がついており、原典に同人誌をセットでつけるという前衛的な試みがなされていて、面白い。同人メンバーも、あさりよしとおはじめ、そうそうたるメンバーだ。表紙の大野さん(副会長コス)、荻上(上石神井コス)、咲(会長コス拒否)もカラフルで楽しい。

 5巻については新キャラクターの荻上と大野の確執?が面白いし、「げんしけん」のコミフェス参加の話はなかなか感動的だ。

 しかしやはりグッときたのは6巻である。笹原の妹の受験エピソードもよかったが、6巻の主役は斑目であろう。

 新宿で偶然咲と会い、一緒に回転寿司を食べるシーンにはほとんど泣きそうになった。咲が高坂と一緒にゲームをやったという話を聞いた次の場面。

「やっぱ春日部さんにはそうゆうのやってほしくなかったかも……」「高坂とつき合うのは全然OKなんだけど何つーか」「茨の道を歩いてほしかった」「いやもういっその事」「別の星の人でいてほしかった」
「何それ?」 だからこそ
「いや」 あきらめつくんだし
「ちょっとした希望」 許せる
「ははっ…… むしろ針のムシロ」 これじゃ茨の道は俺の方だ……
「?」

 切ない。

 マンガという表現方法のひとつの特質が、人物の言動と内面を同時に表出しうる点にあるとすれば、これはその技法による表現の最上のもののひとつであると思う。

 「だからこそ」「あきらめつく」というのは当然、斑目に、咲に引かれる気持ちがあったとしても、咲がオタクにまったく理解を示さない異人種であれば、はじめから自分とは全く理解し合えない存在として咲を諦めることができるということだし、「許せる」というのは、自分には得難い優れた容姿、つまりオタク以外の人種との共通項をもつ高坂が、まさにそれによってのみ咲とつながっていた〈であろう〉ことを許せるのである。しかし今や「オタク」「一般人」両方の回路で高坂と咲がつながってしまったとすれば、自分は「オタク」としても高坂に負けてしまった、つまり勝つ可能性のある部分においても敗北を認めざるを得ないということであり、それが斑目にとっての「茨の道」なのである。

 そして淡々と卒業の日は迫り、特に感動的な出来事もないまま斑目たちは卒業していく。むしろ感動的な出来事が起こっているのは「くじアン」の中だけというのが皮肉であるが、卒業式当日も斑目たちは自分たちの話はそっちのけで「くじアン」の話に興じている。非日常に憧れ、やはり何事も起こりはしない毎日、これが日常である。このあたり、いくらでも叙情的になれそうなところを、作者はかなり抑制して描いている。それがたまらない。それがかえって斑目の、言葉にならない思いを、さまざまに想像させるのである。

 『げんしけん』には確固たるストーリーがあるわけではなく、各エピソードはいつも唐突な感じで始まる。卒業エピソードもそうである。寸断された毎日、それが今日の我々がもつ現実の手応えだろう。そういう点では、なにか物語が生起しそうになるとそれを失効させるという手口のメタ・フィクションの仕組みをもっているともいえそうだ。しかしこの作品は物語の否定を繰り返し、世界や人生の無意味性を嘯いていた一時期のメタ・フィクション作品群とは異なるものだと感じる。それは、木尾が必ず作品内の時間を進めるという点によるところが大きいだろう。時が過ぎゆく。その中で確実に何かが進んでいる。進まないわけにはいかない。進んでいるのだから。

 我々の住む世界では、何も起こらない。何も起こらない、ようで何かが起こっている。確かに何かが起こっている。その何かのために、我々は涙を流すのだろう。(イワン)
posted by SIZ at 01:01| Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年04月18日

仕事で、死にたい―― ――安野モヨコ『働きマン』――(現代マンガの潮流H)

(この記事は2005年8月22日に書かれました)

「オレは『仕事しかない人生だった』」「そんなふうに思って死ぬのはごめんですね」

 それもある それも多分あって 確かにそのとおり でも

「あたしは仕事したな――って思って」「死にたい」

 第1話から方向性は明確であるように思われるかもしれない。ほどほどに仕事をこなす新人と、仕事に没頭する主人公・松方弘子の対比は、仕事をする人間にとっての古典的なテーマであるようにも思われる。仕事か、プライヴェート(家庭・恋)かという問いかけは、昔から考えられてきた、社会人にとっての永遠のジレンマだからだ。

 だが、この作品はきわめて今日的な問題をはらんでいるように思われる。

 まず、作品の手法について、この作品は、仕事そのものについてのマンガである、ということがいえる。ふつうの話であれば、主人公は何か具体的に仕事をしていて――たとえば料理人であるとか警察官であるとか――その職業において活躍していくことに主眼がおかれるところだし、冒頭に挙げたジレンマは、主人公が仕事に励むさいの、副次的な問いとして、ストーリーを盛り上げるための障害として取り上げられるのみであろう。

 ぱっと例が思い浮かばないのだが、とりあえず言うならば、『はじめの一歩』で母が倒れたときに一歩がボクサーをとるか家族の安泰をとるかを悩む、といったような話は、作劇上の常套手段だろう。

 もちろん弘子についても、編集者としての具体的な仕事内容は描き込まれる、というより彼女は仕事一色の生活をしている。だが、ほとんどの場合彼女は仕事を優先するし、恋人もやはり仕事優先である。

 ではやはりこのマンガは、一人の女性が編集者として困難を乗り越えて成長し、本当の自分に出会っていく話ではないか、と思われるかもしれない。だが彼女の場合、仕事に没入する自分そのものに疑いをもっている。仕事は当然、仕事であるから、自分のやりたいことだけに熱中して、そこで生じる困難をクリアしていくというだけにはいかない。その時々のやりがいや達成感はあるが、イヤな部分も多いわけであるし、それを十分に自覚している。だがそれでも弘子は仕事に没頭していく。故意に没頭しようとしている。仕事への没頭に〈故意〉が含まれてる状況そのものが、彼女が自身に疑いをもっている証拠であろう。

 こういった理由で、この作品は、けっして編集者という職業についてのマンガではなく、仕事そのものについてのマンガだといえる。

 実のところ、仕事か、プライヴェートかという古典的な葛藤は、弘子にはほとんどないといえる。彼女は常に仕事優先であり、恋人も基本的にそうである。過酷な労働条件下におかれながら、常に仕事優先というムードが彼らの基調低音なのである。だが、くりかえすが、彼女をいわゆる〈キャリア・ウーマン〉や〈負け犬〉の枠にはめることはできない。注意すべき点は、彼女は全面的に率先して仕事をしているわけでもなく、いやいやながら独身に甘んじているわけでもないというところだ。この作品のポイントは、全面的に楽しいわけではなく、むしろ辛くてイヤなことも多い仕事に、故意に没入しようとしている弘子の姿勢にある。

 これはおそらく時代的な状況のなかで生まれる姿勢であろう。長引く不況で、単純に労働時間が増大した、生活のなかで労働の占める割合が増えた、その過酷な状況のなかで働かなければならない。収入は当然だが、自らの存在条件も定めていかなければならない。それは何によってなされるか。仕事をしている時間が長いのだから、仕事によってなされるしかない。つまり、この作品においては、働くということへの動機づけが、さまざまなかたちで、さまざまな登場人物と自分を照らし合わせることによって、彼女のなかでつねになされているように思われるのである。

 そして弘子は自分の全存在を、仕事というものと一対のものと〈しよう〉としているように見受けられる。それが彼女の、仕事への没入を生んでいるのではないか。だが残念ながらそれらは完全に一対にはならないだろう。仕事という枠からはみだしてしまう自分の部分は多分にある。大多数のサラリーマンは、たとえばボクシングの亀田興毅のように、100%何かと自分を一致させるわけにはいかない。それもわかっている。わかっているが弘子は自分=仕事という試みを実践するのである。なぜか、それはとりあえず、とりあえずそのように生きるしかないからだ。

 また、弘子お気に入りのセラピスト、白川緑子は、多忙や売り上げのために納得のいく仕事ができなくなり、店を移る。移転先でも同じような状況は続いてしまうのだが、彼女は言う。

「『気持ちよかった』」「と言ってもらえるのが一番うれしいですし、そこでしか報われない仕事です」「本当に大切なのはその一点で条件ではない」

 ここには働くということの動機づけを、〈うれしさ〉〈楽しさ〉に求める人の姿がある。弘子の姿勢も、緑子の姿勢に近いところがあるように思える。確かに、緑子の言葉には感動させられる。しかしそのようなスタンスも、すぐに相対化されてしまうものでしかない。なぜか。それは緑子が、弘子が、そして我々が、仕事への動機づけを求めている、という、同じタイプの人間であるからにほかならない。

 最後に冒頭の引用に戻るが、第一話での新人と弘子の対比で気になる点は、どちらの考えにも、「死」という言葉が出てくるところである。仕事を語るときに「死」が出てくる。普通、「仕事」と「死」は結びつけられる言葉なのか? 分からない。おそらく他の時代・場所から見れば不自然なことなのではないか。いや、視野狭窄に陥っているだろう僕には断定できない。

 しかし言い得ることは、両者とも、真逆のスタンスをとりながら、いや、だからこそなのか、仕事を「死」と同じくらい重大――それはあまりにも重大だ――な事柄としてとらえているということだ。

 これだけは、我々の現在にとって確かなことなのである。(イワン)
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2010年04月08日

見ることの欲望/欲望を見ること――山本英夫『のぞき屋』『殺し屋1』『ホムンクルス』――(現代マンガの潮流J)

(この記事は2006年5月11日に書かれました)

 山本英夫の描く主題は、作品が変わっても一貫している。というより、山本はただひとつの主題に、作品を変えるごとにぶつかり、深化させているように思える。それは〈見ること〉であり、また〈欲望〉である。山本の作品においては〈見ること〉はそのまま〈欲望〉であり、〈欲望〉とは〈見ること〉そのものなのである。山本の作品で登場人物が〈欲望〉するのは、他者の〈欲望〉を〈見ること〉である。〈見ること〉を通じて他者の〈欲望〉を生きること、すなわち他者の中に自分を見ることである。

 『のぞき屋』において、探偵、すなわち見ることに徹しなければならないはずの見(ケン)は、聴(チョウ)の「のぞきに徹しろ!」という声を振り切って、必ず対象に介入してしまう。彼は明らかに「のぞく」対象に自己を見出しており、それを、すなわち自己を改変しようとしているのである。彼が「のぞき屋」を選んだのは、けっして無傷なままで他者を自分のまなざしの下において優越感を得たいためではない。それは他者の中に自己を見出し、それに働きかけることで、自己を変えていこうという試みなのである。ここで、自己を変えるという言い方は適切ではないかもしれない。彼は「のぞく」対象人物が心の奥底で抱える〈欲望〉を暴き出し、それを外側にぶちまけさせる。その行為は一見すれば嗜虐的というか、相手にしてみれば大きなお世話だというか、眉をひそめたくなるような嗜好であろう。が、彼にとっては、他者の奥底でくすぶる欲望を解放させていくことは、それを続けていけば自分自身の〈欲望〉をも解放できるかもしれないという地点に向けてのリハビリ、代償行為なのである。明確には描かれないが、見はどうやら過去に何かを「のぞいて」しまっているようである(時折、大量に出血した男女が交わっているという光景が見のなかにフラッシュバックする)。それがトラウマとなって彼の深奥に留まっているのだが、それを解放したい、というのが彼の欲望なのだろうか。いや、僕はのちの『殺し屋1』『ホムンクルス』と併せて考えたとき、このトラウマは作者のエクスキューズだと捉える。どのような口実か。それは己の〈欲望〉が何であるかを確定できない見に、〈トラウマを解放したい〉という〈欲望〉を与えるためのエクスキューズである。おそらく彼は、自分が何をしたいのか、明確に掴んではいない。その証拠に、見は自己の〈欲望〉(〜したい)という部分を他人に見せるのが、極端に嫌いである。彼はスマイルとともに、根っからのソープ好きを自認しているが、それは〈欲望〉のあるふりをしているだけであり、自分の〈欲望〉の欠如をそれによってカムフラージュしているに過ぎないのだ。

 ラストシーンは決定的である。車内でレイカと対峙する見(セリフは僕が覚えているかぎりで再現する)。見はレイカに「あなたがあたしの目の前にいるのに、私にはあなたが見えないのよ!」と言われる。作画のうえでは、本当に見は透明人間である。レイカは明らかに見のことが好きなのであるが、見はそれに応えられない。自らの〈欲望〉を確定できず、さらけ出すことができない見には、自分もレイカを欲している、と言うことはためらわれるのである。が、最後に見はレイカの手を握り、(冗談で見が「遊園地にでも行くか」と言う伏線が張られていたのだが)、「一緒に遊園地に行こうぜ」と言う。この時、辛うじて見の半身が浮き出る。すなわち、見が何らかのかたちで自らの〈欲望〉を見出し、解放できた、というところで、『のぞき屋』は幕を閉じるのである。

 『のぞき屋』において残された問題は、〈欲望〉の不在、いや、むしろ〈欲望〉、自分が本当に欲することなど今日において存在しうるのか?ということである。それに何らかの決着をつけようとしたのが『殺し屋1』であろう。

 『殺し屋1』において『のぞき屋』の見の位置に置かれているのは「ジジイ」である。彼はイチや垣原を操作し、観察する(のぞく)。なぜジジイに注目するのか。彼は〈欲望〉に極めて敏感な者だからである。通行者が通り過ぎたコンビニのかわいい店員を見に戻るというような、ちょっとした〈欲望〉のざわめきも見逃さず、温かい眼差しを注ぐ。そして何よりもジジイは痛烈に自己の欲望の不在を感じている人物であるだからである。ジジイにたいしてイチや垣原は、とりあえず(といってもものすごく強烈なものだが)〈欲望〉を抱えている人物である。イチにおいては過去にいじめられた自己が心の奥底でくすぶっており、それを〈仕返し〉というかたちで解放・昇華させたいという〈欲望〉である。垣原は熱烈に〈愛〉を欲しており、その究極のかたちは、他者から、相手のことなど一切思いやらないほどの強烈な〈欲望〉をぶつけられたいという「M」の極北に表れる。そして、ジジイはといえば、この最高に相性のいい2人の〈欲望〉のぶつかり合いを見たい、ということももちろんあるだろうが、最終的には彼らの〈欲望〉を引きずり出し、ぶつけ合い、消滅させ、終わらせようとしているのだと言える。ジジイは、ヤクザマンションでイチと垣原をぶつけることでヤクザの抗争を終息させ、マンションを平凡な家族達の巣に変える。そしてこれを「墓」だと言う。何の「墓」なのかといえば、〈欲望〉の墓場、〈欲望〉を昇華させてしまった者らの墓場、そしてついに自らの〈欲望〉を確定できなかった自分の墓場なのである。ジジイにとってみれば、イチのトラウマも、ただのいじめられっ子が仕返しをしたいというちっぽけな〈欲望〉でしかなく、垣原のマゾヒズムも、性を痛みにおきかえて楽しんでいるだけのものでしかなかった。それらは〈欲望〉の墓場を作るための手段でしかなく、本当にジジイを満足させるものではなかったのだ。この点で、ジジイは大変なニヒリストである。本当の〈欲望〉など今日においては存在しない。それならばあとは夢見られ、成就しえなかった〈欲望〉の墓場を作るしかない。〈欲望〉の不在証明を見たいという否定的な意味でのそれがジジイの〈欲望〉であり、そのまま『殺し屋1』において山本が意図したものではなかろうか。

 だが、山本の挑戦はまだ続く。『ホムンクルス』は『殺し屋1』の〈欲望〉へのニヒリズムを超え、もう一度『のぞき屋』の地点に立ち戻り、〈欲望〉の所在を探究しようとする試みである。

 『ホムンクルス』では何もかもが『のぞき屋』のエッセンスを明確化するかたちで描かれている。名越は〈車上生活者〉になるまえは一流企業に勤めるエリートサラリーマンだった。が、そこで自己の〈欲望〉の所在を掴みあぐねていたのは明確である。彼が仕事を抜け出し、自分の精液を自ら飲むという行為は、〈欲望〉の不在のなかで自分の生の実感を確かめたいという危機感からくるものであろうし、〈車上生活者〉となり、勤め人の世界にも、かといって浮浪者達の世界にも身を置かず、どのような共同体からもドロップアウトして人々を観察するのも、やはり『のぞき屋』の見と同じく徹底的に〈見ること〉をつうじて自己の〈欲望〉の所在を明らかにしたいからであろう。そしてやはり最も特徴的なのは、名越がトーパレーション手術によって、タイトルにもなっている「ホムンクスル」が見えるようになるという設定である。「ホムンクルス」というのは、名越の脳内で、他者の〈欲望〉がかたちになって形成された姿であるが、ホムンクルスになって見える人間と、そうでない人間がいる。つまり、名越には、自分が〈見たい〉ホムンクスルしか見えず、名越は自分自身の〈欲望〉が見たいのであり、ひいては自分自身と対峙しているということになろう。これが、名越が抑えがたくホムンクスルに引かれ、彼らを〈見〉ようとする所以である。補足だが、見の義眼と同じように、名越は左眼という特殊な器官を使うことによって〈欲望〉を見るという点でも『のぞき屋』と『ホムンクルス』は一致している。

 さらに山本が『ホムンクルス』を発展的に描こうとしていることは、名越が対峙するホムンクスルを解放していく度に、自分自身の身体の一部が、解放したホムンクスルになっていくという点に表れている。これは、名越が、他者の〈欲望〉を〈見ること〉によって、自分自身の〈欲望〉として生き始めたということを表しているのであろう。ヤクザの指詰め組長のホムンクルスと対峙したあとには、自分自身の過去の罪悪感が刻みつけられ、マニュアルを参照してしか生きられない女子高生と対峙したあとには、やはり同じようにマニュアルの中でしか生きられなかったサラリーマンの自分の手応えのなさが刻みつけられている。これは自分が化け物になっていくという恐れとともに受け止められるべきことだが、己の〈欲望〉をあますことなく見つめていくという点から見れば、〈欲望〉の所在を明らかにしていくステップとして解釈するのが妥当である。まだホムンクスルになっていない部位が頭部、胴体、右腕、両脚だとすれば、完全な自己の欲望を見出すために(つまり完全なホムンクルスになるために)、名越は少なくともあと5人のホムンクルスに出会わなければならないだろう。

 このように、山本の作品群においては、自らの〈欲望〉を確定するために、つねに〈見ること〉をつうじて他者を参照せねばならず、むしろ〈見ること〉が〈欲望〉に先行し、喚起するという状況が生まれている。そして、つねに相対性の網の目の中に組み込まれてい、自分が抱いた〈欲望〉が自分だけのものなのか、本当の〈欲望〉なのかを確定できない状態にある我々自身も、山本の作品に見出される〈欲望〉を〈見ること〉によって、自らの〈欲望〉の所在を探し求めていくことになるのだろう。(イワン)
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2010年03月25日

ルキア解体――『武装練金』『BLEACH』『アイシールド21』――(現代マンガの潮流G)

(この記事は2005年6月23日に書かれました)

(はじめに)
A.I.氏およびブラッドに捧ぐ


 僕もブラッドに負けじと、『BLEACH』は全巻読破して連載に追いつき、現在『アイシールド21』を観賞中です。それにつけても思うのは、連載終了した『武装練金』の和月伸宏、つまり上記二作品よりも少し前の時代の作家との違いです。和月と新しい作家たちを比べたときに感じるのは、表現方法のちがいです。なにがどう違う、とはっきりは言えないのですが、新しい作家たちのものでは、とにかくキャラがよく動く。コマ割、アングル等のなせる業だとおもうのですが、新しい作家たちに比べて、和月マンガはキャラの動きが「固い」。

 決定的なのは、主人公が大槍を振り回す『武装練金』で、「エモノが大きすぎるのでコマに収まりきらない」と苦心していた(そして実際見せづらそうだった)和月にたいし、同じ大剣を振り回す『BLEACH』では難なくそれを描いている、というところです。

 さらに、『武装練金』では必殺技の見せ方が、その名前を叫びながらキャラがポージングしているという、いわゆる『聖闘士星也』流なのにたいし、『BLEACH』ではそれがない、あったとしても心に残らないというところも決定的な違いです。ようするに『武装練金』の必殺技の描き方は「ダサイ」と思ってしまうのです。

 また、単行本でのファンサービスのあり方もかなり違います。『BLEACH』もいろいろと本編以外に単行本ならではのお楽しみを用意していますが、これが顕著なのは『アイシールド21』です。これは徹底的で、カバーを外したとき、表紙の絵がカバーとは違う点をはじめ、巻末でちょい役の脇役にいたるまで設定を紹介しています。さらに単行本での加筆訂正の多さ。しかもこれらを押しつけがましくなく、特に告知もせず、さらっとやってのけるところがすごい(原作者付きということから可能な部分もあるのでしょうか)。

 これにたいし、和月も和月なりに、ファンサービスは充実しているといえます。しかし、問題なのはそのあり方です。和月は単行本の巻末で「あの回のあの部分はこう書きたかった、こう苦しんだ」等、いわゆる〈楽屋オチ〉に走る傾向が顕著です。これはこれで非常に興味深く、好感ももてるのですが、多分に同人誌的です。作家自身と読者が一体化していこうという昔の「マンガを描くのが辛い、でもマンガが好き」といった、岡田あーみん的な作家像が横溢しています。

 『BLEACH』『アイシールド21』は、自身は同人誌的にならず、同人誌的な二次創作を誘発していく要素を、その徹底的な描き込みによって周囲に提供していくだけです。こういう読者に媚びないあり方のほうが、戦略としては優れていると言わざるをえません。

 ヒロインの描き方も対照的です。対照的というからには、類似点もあります。『武装練金』の斗貴子と『BLEACH』のルキアは、ともに異世界からやってきて、主人公に戦う力を与えるという点では同じです。が、そのぶん違いも目に付きます。

 造形についてですが、斗貴子は練金の戦士というだけあって、顔に真一文字の傷があります。思い切ったことをやったものだと思いますが、綾波レイ以降の、いわゆる〈傷ついた少女〉という流れからみれば、やはり技巧的というか、理屈で考えて生み出されたキャラだという限界を感じざるをえません。

 たいしてルキアは貧乳・やせっぽち、そしてなんだか目が暗そうで、これまでのヒロイン像には当てはまりません。また、主人公の部屋の押入に住んでいるあたり、ドラえもんスレスレのラインに立っています。井上織姫という準ヒロインもいるのですが、こちらは巨乳・天然ということで、徹底的にヒロインの王道を歩んでいますが、意図された対照でしょう。織姫も魅力的なキャラであるのにちがいはないのですが、不思議にルキアのほうが魅力的に思えてきます。これもおそらくは意図された対照であると思われます。

 そしてなにより明確にちがうと感じるのは、主人公との恋愛関係の結び方です。

 『武装練金』の斗貴子は、きりっとして厳しいキャラながらも、主人公と恋仲になっていくであろうことは、かなり序盤から要所で強調されています。つまり予定調和的で、その時点で読者は少し飽きてしまいます。が、『BLEACH』のルキアはそのおよそのヒロイン像からはほど遠い造形に加えて、主人公との恋愛関係への発展を、ぎりぎりのところで匂わせません。まったくない、というわけではなく、ほんとうにぎりぎりのところで、予定調和的なカップルになるのを回避させています。そして当然、『BLEACH』のほうがかえって読者は主人公との行く末が気になってしまうものでしょう。

 以上のように、旧時代の作家と新時代の作家の違いを痛感している今日このごろです。


(P・S)
どのへんが「ルキア解体」なのかよくわかりませんが、題名はノリです。(イワン)
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2009年11月28日

ハチワンダイバー(柴田ヨクサル)

(この記事は2007年8月4日に書かれました)

 マンガ。

 タイトルだけ見ると、潜水夫の話かと思うが、将棋マンガである。同時にメイドマンガでもあるかもしれない。

 いわゆる真剣師(賭け将棋を生業にする人)の物語である。

 実在した真剣師で最も有名なのは小池重明であろう。それから「東海の鬼」と呼ばれた真剣師でやたらと強かったため特例でプロ棋士になった花村元司という人もいた。しかし賭け将棋は現在では違法であり、おそらくそれを容認する町道場もないだろうから、このマンガのように真剣師があちらこちらにいるということは実際にはあり得ないと思う。

 また、このマンガの中核を担う、通称「アキバの受け師」のメイド真剣師は、10代の女の子でありながら、奨励会くずれに圧勝するほどの実力の持ち主という設定だけど、それだけの棋力があったらまず間違いなく初の女性プロ棋士になれると思う。

 しかし最近の将棋マンガではたぶん一番面白いんじゃないかと思う。オススメである。(A.I.)
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2009年11月12日

ヒストリエ 4巻(岩明均)

(この記事は2007年7月26日に書かれました)

 140、141ページが最高である。

 エウメネスの天才的な策略により、ボアの村とティオスは和解にむかおうとするが、すべては村が仕組んだことだとテレマコスにばれてしまうくだりである。

 エウメネスはすべての責任を自分自身で負う覚悟を決め、テレマコスの怒りをスキタイ人である自分に向けることに成功する。140、141ページの見開きでは、テレマコスのエウメネスへの怒りが頂点に達しているが、その後ろでは、エウメネスのとった行為にたいする、村人たちの、驚き、喜び、安堵、心配、悲しみ、承認、さまざまな表情が描かれているのである。それらを同時に表現しているこの図は、まさにマンガでしか描けないものだ。映画だとフレームにこれだけの細かい人物の表情は収まりきらないし、小説でもこれを同時的に描写するのは無理である。まことに傑出した構図というほかあるまい。

 そして142ページではサテュラの涙だけを分けて描くことにより、サテュラと村人たちとの反応の差異を大きく強調している。ヘレネとの愛を貫いた「愚かな王子」パリスよりも、「狡猾な英雄」オデュッセウスに自分たちをなぞらえるエウメネスとサテュラのやりとりも、彼ららしい賢明さと優しさ、いたわりに充ち満ちている。

 エウメネスはスキタイ人の残虐性、狡猾さをテレマコスに説いたが、当然彼は冷酷なわけではない。賢明なだけだ。そしてただ賢いだけではない。優しいから賢明なのであり、賢明であるからこそ優しいのである。

 賢明であることは、かくまでに辛く悲しく、孤独である。しかし優しい。優しくあれる術が、エウメネスの力、智恵なのである。

 そして……

そう あこがれの登場人物は もちろん 英雄 オデュッセウス

 みんなを守った結果、そして同時に自分自身のために旅だったエウメネスの姿は、何よりも眩しい。(イワン)
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2009年09月21日

システムツールとしての『NANA』

(この記事は2006年5月8日に書かれました)

 イワン氏が、マンガ欄で、矢沢あいの『NANA』について文章を書いている。僕は、このマンガを、まだ5巻までしか読んでいないのだが、イワン氏の書いたことと関連させて、ちょっと思ったことを書いてみたい。

 イワン氏の文章で興味深いところは、イワン氏が「メタ・フィクション的」と呼んでいる作品構造であるだろう。

 僕も、この『NANA』という作品が非常に魅力的であることの一因として、二人の主人公がいるという点を上げるのは正しいと思っている。二人の主人公がいることの利点とは、それらの登場人物を完全に相対化して描けるというところにあるだろう。つまり、常に比較される人物がいることで、その登場人物のやっていることが部分的なものであること、言ってみれば、その登場人物の強みと弱みとが明確になる、ということである。

 イワン氏は「メタ・フィクション」という言葉を出しながらも、この言葉の詳しい説明をしていないが、おそらく、イワン氏の言いたいこととは、作品の「語り」の部分が重層化している、ということなのだろう。つまり、イワン氏の言いたいことを積極的に解釈すれば、『NANA』という作品は、『NANA』について語ることもその作品の一部になっている、ということである。

 この点こそ、おそらく、イワン氏が「典型」という言葉で言いたかったことなのだろう。つまり、「あなたはナナ派? それとも、ハチ派?」みたいな感じで、この作品は、絶えず読者に、自身のライフスタイルを反省させるように促す。登場人物たちの星座のどこに自分が位置するのかを、それこそ、同性の友人同士で語り合う(もちろん、ここで想定されているのは、女性であるが)。この作品はそうした話題提供の装置となっていると考えられるのである。

 僕が『NANA』という作品を読んだとき、非常に気になったのは、そこで提示されているライフスタイルがあまりにもデジタル化されているところである。言ってみれば、『NANA』という作品は、極めてゲームに近い形で構造化されている。アドベンチャーゲームのように、そこには常に、いくつかの選択肢があり、その選択肢を選ぶことによって、新たなイベントが発生する。

 登場人物と世界との関係は、プレイヤーとゲームシステムとの関係そのものである。何かコマンドを入力すれば、それに見合っただけのレスポンスが即座に返ってくるわけである。

 僕は、リアルの世界は、やはり、そのようには出来上がってはいないと思う。限りなくデジタル化されているとしても、やはり、そこに回収されない要因はたくさんあることだろう。こうした世界の不可思議さに対する視野を欠いている点で、『NANA』は少々問題作だと言えるかも知れない。つまり、あまりに類型化しすぎているということである。

 『NANA』という作品で提起されている問題とは、端的に言って、われわれから「生活」が根こそぎ奪われてしまっている、ということなのかも知れない。その点で言えば、『NANA』という作品は、尾崎豊が歌ったような「街」を、現代の様相の下に、再び描いている、ということが言えるかも知れない。これは、二人のナナが共に、地方出身者であるという設定と相通じるところがあるだろう。『忘却の旋律』というアニメで描かれていたように、都市の魔力とは、環状線から降りられなくなることなのである。(SIZ)
posted by SIZ at 20:16| Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年08月19日

うつうつひでお日記(吾妻ひでお)

(この記事は2006年7月16日に書かれました)

 非常に楽しい本だった。僕は、このマンガは、「comic新現実」に連載されていたときから読んでいて、「新現実」での連載が終わったあとも、「コンプエース」を、このマンガを読むためだけに、少しだけ買っていた。

 今現在、僕にとって、この本は、文字通り「座右の書」になっている。ちょっと空いた時間にパラパラ読んだり、寝る前にパラパラ読んだりするのに最適な本だからだ。どこから読み始めてもいいし、どこで読み終えてもいいし、適当に眺めているだけでもいい。こういう本は、非常に重宝する本だと思う。

 これまで、僕にとっては、桜玉吉の『しあわせのかたち』がそのような本だった。それも、繰り返し読んでいたのは、日記形式になってからのもので、アスキームックの5巻はかなりの回数読んだ(4巻は友人に貸したままになっていて、ずっと読んでいない)。そういった種類の本が新たに手に入ったことは嬉しい限りである。(SIZ)
posted by SIZ at 22:27| Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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