2010年12月11日

11月の読書メーターbyR

試しにやってみたのだが、こんな感じになるのか。
ここに挙げられた本は新刊以外はすでに読んであるものばかりなので「先月読んだ本」情報としては正しくないけど、読み返したりなんだりした備忘録としてはよさそうだ。(R)

11月の読書メーター
読んだ本の数:22冊
読んだページ数:4036ページ

音楽ノート (岩波文庫 青 501-2)音楽ノート (岩波文庫 青 501-2)
今日からお前は恥ずかしさなしであの家には行けない。こんな×××を欲求したからには!>・・・いったい何を欲求したんだ何を!
読了日:11月27日 著者:ベートーヴェン
1973年のピンボール (講談社文庫)1973年のピンボール (講談社文庫)
読了日:11月24日 著者:村上 春樹
1973年のピンボール (講談社文庫)1973年のピンボール (講談社文庫)
なぜ村上春樹は消える女たちを探し求めるのか?http://after-carnival.seesaa.net/article/169300604.html
読了日:11月24日 著者:村上 春樹
マイ・ロスト・シティー (村上春樹翻訳ライブラリー)マイ・ロスト・シティー (村上春樹翻訳ライブラリー)
読了日:11月24日 著者:フランシス・スコット フィッツジェラルド
おもひでぽろぽろ 2 (集英社文庫―コミック版)おもひでぽろぽろ 2 (集英社文庫―コミック版)
どうでもいいけど『おもひでぽろぽろ』でタエ子がやってる有名な分数の割り算ミスは、3分の2を4分の1で割るところを、4で割ってしまっている。だから×1分の4ではなく、×4分の1=6分の1という答えを出してしまう。4分の1で割るというのが4等分だと思っているからおかしいのだ。 いうまでもなく3分の2を4分の1で割るというのは、3等分したケーキの2つぶんを、同じくケーキを4等分したところの1つで割るということだ。。ところでなぜか石森章太郎が出てきてタエコにめんどくさそうにサインする。
読了日:11月19日 著者:刀根 夕子
おもひでぽろぽろ 1 (集英社文庫―コミック版)おもひでぽろぽろ 1 (集英社文庫―コミック版)
読了日:11月19日 著者:刀根 夕子
よそのねこ (アニメージュ文庫)よそのねこ (アニメージュ文庫)
読了日:11月19日 著者:岡本 蛍
音楽家訪問―ベートヴェンのヴァイオリンソナタ (岩波文庫 青 656-1)音楽家訪問―ベートヴェンのヴァイオリンソナタ (岩波文庫 青 656-1)
読了日:11月18日 著者:アラン
君と僕のアシアト〜タイムトラベル春日研究所〜 2 (ジャンプコミックスデラックス)君と僕のアシアト〜タイムトラベル春日研究所〜 2 (ジャンプコミックスデラックス)
読了日:11月15日 著者:よしづき くみち
江藤淳コレクション〈3〉文学論(1) (ちくま学芸文庫)江藤淳コレクション〈3〉文学論(1) (ちくま学芸文庫)
読了日:11月15日 著者:江藤 淳
機動戦士ガンダム ジオンの再興 (角川コミックス・エース 17-6)機動戦士ガンダム ジオンの再興 (角川コミックス・エース 17-6)
読了日:11月15日 著者:近藤 和久
オーミ先生の微熱 1 (ビッグコミックス)オーミ先生の微熱 1 (ビッグコミックス)
同業経験者としては主人公を蹴っ飛ばしたくなるが、面白い。同級生らしい?武嶌波も好きだけど河内遥も面白いな。
読了日:11月13日 著者:河内 遙
終わりなき日常を生きろ―オウム完全克服マニュアル (ちくま文庫)終わりなき日常を生きろ―オウム完全克服マニュアル (ちくま文庫)
読了日:11月09日 著者:宮台 真司
ゆるゆる (ヤングキングコミックス)ゆるゆる (ヤングキングコミックス)
読了日:11月09日 著者:たかみち
文壇アイドル論 (文春文庫)文壇アイドル論 (文春文庫)
読了日:11月07日 著者:斎藤 美奈子
夏と花火と私の死体 (集英社文庫)夏と花火と私の死体 (集英社文庫)
読了日:11月07日 著者:乙一
さみしさの周波数 (角川スニーカー文庫)さみしさの周波数 (角川スニーカー文庫)
読了日:11月04日 著者:乙一
めくりめくる 1 (GUM COMICS Plus)めくりめくる 1 (GUM COMICS Plus)
素晴らしい。日常系の中でも画力があるし切り取るものも好感が持てる。近藤勝也を思い出した。「よつばと」早く出ないかな。
読了日:11月03日 著者:
のりりん(1) (イブニングKC)のりりん(1) (イブニングKC)
読了日:11月02日 著者:鬼頭 莫宏
機動戦士ガンダム デイアフタートゥモロー ―カイ・シデンのメモリーより― (1) (角川コミックス・エース)機動戦士ガンダム デイアフタートゥモロー ―カイ・シデンのメモリーより― (1) (角川コミックス・エース)
一年戦争展を通してファーストという過去の歴史が通覧されたり回想されたり解釈されたりしていくことになるわけで、ある種メタ・ヒストリカルな視点を持つことになる。そしてそこには必然的に「記憶」の問題、「事実」と解釈・記述の問題、などといったような「歴史」をめぐるおなじみの問題群が孕まれてくるのである。http://after-carnival.seesaa.net/article/168585582.html
読了日:11月02日 著者:ことぶき つかさ
茶柱倶楽部 1 (芳文社コミックス)茶柱倶楽部 1 (芳文社コミックス)
読了日:11月02日 著者:青木 幸子
いもうとデイズ(3) (アフタヌーンKC)いもうとデイズ(3) (アフタヌーンKC)
読了日:11月02日 著者:田中 ユキ

読書メーター

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2010年10月15日

「さびしい来歴」(萩原朔太郎『青猫』)

 先日の中原中也の「いのちの声」も、例の「鉄橋のように生きている」あたり、何か現在的な呟きに感じられて記事にしたのだが、萩原朔太郎の詩は中也よりも今読んでも様々な意味で現在を感じる。

むくむくと肥えふとつて
白くくびれてゐるふしぎな球形の幻像よ
それは耳もない 顔もない つるつるとして空にのぼる野蔦のやうだ
夏雲よ なんたるとりとめのない寂しさだらう
どこにこれといふ信仰もなく たよりに思ふ恋人もありはしない

わたしは駱駝のやうによろめきながら
椰子の実の日にやけた核を噛みくだいた。
ああ こんな乞食みたいな生活から
もうなにもかもなくしてしまつた
たうとう風の死んでる野道へきて
もろこしの葉うらにからびてしまつた。
なんといふさびしい自分の来歴だらう。

 さびしさの瞳には夏雲が「信仰」も「恋愛」もない寂寞として立ちのぼってくる。風さえも死んだ荒れ野の道で何もかもをなくして干涸らびている。それが自らのたどり着いた場所だとすれば・・・
 未来は過去のさなかから生まれてくるとしても、これはあんまり「さびしい来歴」なのだ。(R) 
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2010年10月12日

『昼も夜も』久谷雉

 2003年に刊行された処女詩集。この高校時代の作品集で中也賞を受賞した。詩集としては次の『ふたつの祝婚歌のあいだに書いた二十四の詩』がいいので、ここでは両方からまた抜書きしてみたい。
 

 夕やみに
 くるまれた
 空気が 
 家路につく足の
 じゃまをする
 川べりの
 道に

 ぽわら
 ぽわら
 と
 きいろい口を
 ひらいてる
 窓の
 おくから

 肉を
 焦がす
 匂い
 がした

 じぶんの
 性器が
 昼も夜も
 たぶん
 一生
 あたたかいまま
 である
 こと

 に
 気がついた
 こども
 のように
 僕は
 さめざめと
 泣きだして
 しまいそうに
 なった
(「昼も夜も」)

 彼女たちのまわりに静かにのびてゆく
 夜のながい腕の群れは
 やさしい匂いの粒子をいっせいに
 世界へ解き放つ。
 ……
 夜とはこんなにも香ばしい時間だったのか。
 そのなかにつつみこまれた
 人々のかなしみとは
 無関係に
 (「閉店時間」)

 (ぶつかるように
  出会ったものには)
 (たとえばそれがひとすじの
  風であっても)
 (すぐにわかれの言葉を
  いうくせが)
 (未だに
  なおらないんだよね)
 (「ハロー・グッドバイ」)

 まだまだ蒼々しい叙情が紡がれている感がある。だが第二詩集でその口調と響きはいっきに成熟の刻印を受けだす。自らの叙情を熟視するかのように距離を取り始めている。
 

 ぼくの網膜のほろにがさを
 いつか
 ひきうけたこともあった風が
 ゆずの木の下に寝かされた梯子を
 かたかたと揺すっている

 ゆずの実の全身にめぐらされた
 あおくさい神経の糸を
 顔ぜんたいで受けとめてしまった慄きに
 胃袋を彩られていたころさえ
 すでに 懐かしい
 (「沈黙ではなく」)

 少なくともここでは「あおくさい神経の糸を/顔ぜんたいで受けとめてしまった慄き」があり、またそれが遠目に懐かしがられている。そして世界を眺める詩人の立ち位置は融通無碍に揺れている。それが繊細な心地よさを与えるのである。
 

 ひとつの花をはなれて
 もうひとつの花へ
 みつばちが一匹 飛びうつろうとするとき
 冬日をすかした障子のように
 まぶしいものが
 あなたたちのまわりを
 かけぬけてゆく
 ……
 あなたたちは ふたり
 目をいっぱいにあけて
 風にゆれる花々をみつめている
 ひなたのにおいのする
 すきとおったオカリナに
 今ならば すぐになれそうな
 からだをかかえて 
 (「――u夫妻に」)

 日常性のなかにまぶしく揺れるものを、素手で感じとろうとする詩人に導かれる安らぎ。これらはその柔らかなしぐさに充ちている。だからこれは光の所在を紡ぐ言祝ぎである。
最後にもうひとつの祝婚歌を引こう。
 

 あめあがりの川岸に
 しずかに息をするたましいに
 もうひとつのたましいが重ねられても
 簡単に 足し算は成り立たない
 ……
 そんな事実をつつみこむ焚火の奥から
 小石とも苺ともつかぬものを
 拾いあげながら
 ぼくらの一生は費やされてゆく
 ふたりであることに糧をもとめて
 熊笹の野を踏むあなたたちにあえて
 おおきな拍手をおくろう
 ぼくらの希望は
 ぼくらの限界のなかにしかない
 (「――s夫妻に」)


希望は断念に伏在し、祝福は有限の「ぼくら」に内在するのだ。(R)
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2010年10月08日

イギリスファンタジー童話「銀色の時」(ローレンス・ハウスマン作)再読

 以前「銀色の時―イギリスファンタジー童話傑作選(神宮輝夫)」という記事ですでに紹介している童話だが、改めて読み返したら改めて心揺さぶられるものがあったんである。
 
 最近『マイマイ新子と千年の魔法』という高樹のぶ子原作のアニメを見た。昭和30年頃の少女たちの物語と千年前の清少納言とおぼしき姫との物語が、かつての周防の地で千年の時を越えて不思議な交錯を見せるドラマだ。といっても直接の関係は描かれないし、主人公のマイマイによる想像の世界ともパラレルな平行世界とも取れるようになっており、淡泊さより劇的なものを期待する向きには一見、脚本の不備による煮え切らない物語に感じられることだろう。同じ監督の『アリーテ姫』からしてそういう「誤読」が多かったように思う。ジブリの『ゲド戦記』はたしかにそうした竜頭蛇尾の感を否定できない部分はあった。だが『アリーテ姫』やジブリスタッフの二木真樹子が書いたファンタジー『世界の真ん中の木』(『シュナの旅』と同じアニメージュ文庫シリーズ)、あるいは最近の『借り暮らしのアリエッティ』(『床下の小人たち』)などは、しずかな本当のファンタジー世界を丹念に築いているにすぎないのであって、何かわかりやすい「味」を求めたい人は、適当に「ハリポタ」か「トイ・ストーリー」でも見ていればいいのである。エリナー・ファージョンが読めるようになってから出直してこいと言いたい。

 「銀色の時」は孤独な老人ケイレブの物語である。彼はこの50年寝る前に家のドアに鍵をかけて眠りにつく。当然といえば当然だが、ある晩ふと「この家に盗られて困るものもないのになぜ毎晩鍵をかけていたのか?」と思い、鍵をかけずに寝た。それからというもの朝目が覚めると拾いに行ってない薪が足されている。誰が運んできているのか不思議に思い夜中暖炉の前に行くと、年老いた男が座っている。男はケイレブの分身だという。この50年毎晩開けようとしたがドアに鍵がかかっていて入れなかった、しかしようやくケイレブが鍵を開けたので入ってきたのだという。男は老人に「なぜ鍵をかけるのか」理由を尋ねる。ケイレブは「むかし大事にしていたものがドアから外に出て行った。そして二度と戻ってこなかった。それ以来いつもわしは鍵をかけた。」と答えた。もうこれ以上大事なものは何もなかったが、「もし前に鍵をかけていたら、たぶんあの大事なものをなくさずにすんだろう」と思うと鍵をかけずにいられなかったのだという。ケイレブの大事なものとは3歳の一人娘だった。分身の男は言う。「あの日、あんたは自分をなくした。心をなくし、希望をなくした。月の中に、ここの戸口までの道が見えた。わしは自分にこういった。『あそこがわしのいたところだ。あそこにもどろう』とな」
 それからもケイレブは鍵を開けて夜を過ごした。やがて毎晩、彼にとって50年来なかったあるすばらしい光景が訪れることになる。消えた娘があの日のまま銀色のウサギとなってやってくるのだ。それが「銀色の時」である。

 
これが夢か現かということは、もう彼にはどうでもよかった。ドアを開け放ったことで、ケイレブは自分の心をも開いたのだった。開かれた心におこることは、それが続くかぎり真実なのだから、夜毎このように美しい夢を、しかも、見ているかぎり真実以外のなにものでもない夢を見ること以上に、何を望むことがあろう?


 ここでは現と夢とは「主と奴」ではない。同等かその逆でもあり得る「真実」として生きられている。「開かれた心」が「真実」をあらわにし、むしろ「開かれた心」においてこそ「真実」と出合いそれをつかむことが出来るのである。それはとてもむずかしくまたじっさいのところ年月のかかることなのだ。(R)
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2010年08月22日

恐怖の構造――「夢十夜」の第三夜と「信号手」について

 昨日の夜に、深夜便の放送で、怪談小説やホラー小説を取り上げて、イワンさんと話をしたわけだが、僕は、事前の準備として、ディケンズの「信号手」、夏目漱石の「夢十夜」の第三夜、岡本綺堂の「白髪鬼」などを読んでおいた。これらの作品は、A.I.さんが怖いホラー短編小説として勧めていたものだ。

 僕は、これらの小説を読んで、そこに、ある似たような構造があることに気がついた。それがホラー小説特有の構造かどうかという点は難しいところだ。僕自身はホラー小説をあまり読んでいないし、ホラー小説以外にも同様の構造を持つ小説作品はありそうに思うからだ。しかし、少なくとも、この構造があるからこそ、恐怖が引き立たせられるということは言えるのではないかと思う。

 その構造とは、簡単に言ってしまうと、距離を取って見ていたのにその距離(自分と対象との距離)を一気に縮められてしまうということ、自分とは無関係だと思っていたものが自分と関わりにあることが分かるということ、相手の話だと思っていたことが自分の話だったと分かるということ、そのような構造である。

 よくよく考えれば、いわゆる怪談話においても、「それはお前だ!」とか「お前の背後にいる!」といったようなやり口で、語られていた出来事が、現在まさに語っているこの次元においても問題になっていることを指摘することで視点のシフトを引き起こすことがある。この視点の転換が、一気に距離を縮められることが、恐怖と何らかの関わりを持っていると言うことはできないだろうか。

 上に挙げた作品で言えば、まずは、「夢十夜」の第三夜。夢を見ている人が六歳になる自分の子供を背負っている。自分の子供という親しい存在であるにも関わらず、夢を見ている人はその子供に何かよそよそしいものを感じる。その子供は「何時の間にか眼が潰れて、青坊主になっている」。ここには親しさとよそよそしさとの同居がある。自分の子供のことなのだから、その子供については大抵のことを知っているはずだろうが、そこには何か未知のものがある。未知のところがあるが、それが自分の子供のことであるわけだから、完全によそよそしい存在であるわけではない。

 こうした不思議な存在が最終的に夢を見ている人に差し向ける言葉が「御前がおれを殺したのは今から丁度百年前だね」である。ここには視点の転換がある。この地点において、自分の子供に向けられていた距離が一挙に縮められる。ここに認められるのが罪責感の一種の喚起だとしたら、罪責感に関わらないもの(子供に関わること)だと思っていたのが、まさにその罪責感の中心だったという視点の大幅な転換が話のキモだと言えるだろう。

 こうした飛躍が恐怖を掻き立てるのは間違いないように思う。ディケンズの「信号手」の怖いところもそうした点ではないかと思う。この作品の語り手である私は、物語の中心にいる信号手とたまたま知り合いになっただけの関係である。にも関わらず、出来事は、語り手の私を必然的に、最初から考慮に入れていたような仕方で展開する。

 「信号手」の物語は語り手の視点が存在しないと完成しないことだろう。信号手が見た幽霊の動作と語り手が見た機関手の動作との同一性を認めることができるためには語り手の存在がどうしても必要である。信号手の語ることだけの次元においては、彼の話に現実的基盤を与えるようなもの(客観的な証拠)は存在しない。それが何らかの実質を持つためには、信号手が死に、語り手が頭の中で思いついた言葉(「危ないっ、どいてくれ」)と機関手が語る言葉との同一性を認めなければならない。そんなふうに出来事の実質を、蚊帳の外にいたはずの自分自身が用意するところに、この物語の恐怖の点があると言える。

 こんなふうに自分がその話の外にいる人物だと思っていたのが、自分自身こそが出来事の構成にあたって重要なパーツのひとつだったということが分かるということ。この発見が恐怖体験と何か関わっているように思える。それがどんなふうに関わっているのかという点についてはもう少しよく考えてみる必要があるだろうが、今回読んだ小説にはそのような共通した構造があったように思う。(SIZ)
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2010年01月30日

底辺女子高生(豊島ミホ)

(この記事は2007年8月23日に書かれました)

 なんだか一高校教員として、いや元高校生として、というかダメ人間として妙に感情移入して読んでしまった。

 著者は数年前まで秋田県立の進学校に保健室登校していた高校生で、現在は「底辺女子高生」を微妙に?卒業して売れっ子作家になっている。しかし豊島自身の自意識としてはいまだに「底辺女子」なのではないかとも思わせる。

 入学と同時に1人称問題(「オラ」と「あたし」)で挫折し、もうその後は底辺街道を基本的には進んでいく。美術室でのひとときなど青春時代を思わせるシーンもあるが、やはり深刻なのは次のようなエピソードだ。

 彼女は23になった今も同級生に向かって「お前らなんか大っ嫌いだああ!」と絶叫する夢を見たりするというのだ。そしてなぜそうなのか、何に対して怒りや恨みを抱いているのか、当時はおろかいまだにうまく説明できないという。それは適切な言語化ができないということで、自己消化しきれていないということである。うかつに口にすれば、複雑な当時の感情が定型化された陳腐なものになってしまうことが分かっているので、そんなことならたやすく人の理解を求めるより、口を噤んでしまおうということなのだろう。「怒りや恨み」と書いたが、そういった言葉で括ること自体、ことの本質から遠ざかる気がしないでもない。

 当時の親友が慎重かつ気軽に「なんで教室に来なくなったの?」と聞いてくれたのに対して、彼女は赤面するばかりだ。

「みんな、私のことバカにしてる」
言葉にすると、その程度にしかならない。

 たしかにこれではまるで分かり易いいじめを受けている者のような発言に聞こえてしまう。彼女はクラスメイトに何をされたのかというと、ひとつひとつの事柄としてはさして取りざたするほどでもないと「周囲」や「大人」たち、あるいは「社会」といったようなものに片付けられてしまいそうなものではある。しかしそのように感じる立場の者にとっては、それはそれだけの根拠を微細なレベルで日常的に感受しているのである。それは絶対に彼女の心に突き刺さっていくのであるし、他人には(いじめのような行為として)見えにくいだけにタチが悪いだろう。細かいことの積み重ねで日々自分が「若干オモチャだけど、ま、基本的にどうでもいい存在」として不当な扱いをされている、そのように見られているということが許せなかったということである。その結果「誰に」というわけではなく、「ひとりひとりとして憎たらしいのではなく、カタマリとしてのみんなが憎たらしかった」のだ。

 これはやっかいである。憎むべき対象を特定できなければ感情の行き場は内側へこもることになりかねない。自分が何に対して怒りを感じているのか気づくことすら出来ないでいるという、最も哀れな状態に陥ってしまう危険がある。

 クラスのマジョリティたちは教室掃除も、「どうでもいい存在」に、自分たちが悪気もなくサボることで「間接的」に押し付けている。しかしその行為は、「どうでもいい存在」が何のリアクションも起こさないだろうという判断に基づいてなされている。その手前勝手な「判断」が、じっさい抵抗できない「底辺」の者をひどく内的に苦しめているように思われるのである。「こいつには何をしたっていいのだ、こいつがどう考えようと関係ない」という、自分を不当に扱う側の裏にある意識を、当のそいつらよりも敏感に感じ取ってしまうからだろう。

 そして「底辺」の者はたいていの場合、自分をうまく社会(学校、教室、クラスメイト)に流通させる術としての「ことば」を持っていない(それゆえに底辺を脱却できないとも言える)。そのような目にあっている自分を、その事態に気づいたとしても説明できない。豊島自身も、もし同級生を殺した高校生が理由を問われて「あいつが掃除をサボったから」と言ったら、「最近の高校生は怖いね」と月並みな反応をしてしまうだろうと言っている。

 最も救われないのは、人生の常態ともいえるが、そのような無邪気な虐げをする者たちが、とくに人間的欠陥者というわけではないということである。もしそうなら、自分が悪いのではない、絶対に向こうが悪いのだと確信できるのだろう。いまだにそんな夢を見ることもないだろう。これは仮にも進学校のなかで起きていたことでもある。先生たちには気に入られているような者もいるだろうし、親や友人思いの者もいるだろうし、将来は成長して何事もなかったように話の分かる「いいひと」になっていたりするのだろう。そのことを言い当てた次のくだりがこのエッセイの最も感動的で的確な叫びだった。

 また、いま高校生間の様々な騒動に身近に触れている者として実感するところが多かったのである。

 そういう人たちが特別冷血漢で想像力がないというわけではなく、きっと自分らの中ではいろいろ
 精一杯で、付き合ってる人とうまくいかなくて切なかったり、部活の人間関係に悩んだりしている
 だろうことが、お喋りの端に透けて見えるのがまた、憎らしかった。
 ――人のこと踏みつけといて、でもそれと全然別なとこで青春謳歌して、そっちだけが将来「高校時代の思い出」になるんだな。

 泣ける。

 何が悲しいって、「そういう人たち」が「付き合ってる人とうまくいかなくて切なかったり、部活の人間関係に悩んだりしているだろう」などというそんなことを、虐げられている者の方がデリケートにも想像してしまっているということだ。この逆はありえないだろう。そして「そういう人たち」が彼らは彼らなりの苦悩を抱えながら、(それを彼女自身認めながら)それでもなんだかんだ青春を「謳歌」していると見えてしまうことの悲劇である。じっさい謳歌してるのだろうが、これは程度問題になりかねない。豊島自身も「謳歌」はともかく「青春」はしていたことを今は当人が自認している。とすればここには「青春」というものに対する高校生の病的なまでの「飢え」が問題の根源にあるのかもしれない。

 ところで彼女よりも哀れだと思うのは、「バカにされても涼しい顔でいられる」ような「賢い」男子なのではないかと思う。「休み時間にじっと机を見ているだけのような男子」は学校も休まず皆勤で卒業していく。こちらは自分たちが虐げられていたことに対して(自覚はあったにしても)、どの程度リアルに捉えることが出来ていたか少々疑わしい。自分の人生におけるシビアな状況認識も、高校生としての「カタチ」もない男子の方がより惨めだろう。(R)
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2009年12月22日

砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない(桜庭一樹)

(この記事は2007年8月13日に書かれました)

 どんでん返しがない。よって、一定以上の面白さを期待してしまうと拍子抜けしてしまうだろう。まあそれはいいとして、ちょっとあらすじを。

 鳥取県境港市。二学期の初めに、山田なぎさのクラスに海野藻屑という美少女が転校してくる。昔流行ったミュージシャンの娘である藻屑は、自分は人魚だと言い張るぶっとんだ少女で、なにかとなぎさに絡んでくる。なぎさの家庭は母子家庭であり、兄は美少年だがひきこもりである。貧しい自分には生きていくための「実弾」しか必要ないと考えるなぎさは、嘘=「砂糖菓子の弾丸」をばらまく藻屑に嫌悪感を示すが、しだいに引かれていく。

 こう書くと、はじめは反発しあっていた二人のあいだに友情が芽生えていく、爽やかな青春ものを想像するが、初めから嫌な予感が満々としている。つまりこれは青春暗黒小説である。

 クソみたいな世界である。海野藻屑というふざけた名前にも、彼女の引きずるような歩き方(人魚姫は歩くと脚に激痛が走るというが)にも、クソみたいな意味がある。クソみたいな、というのは、何か驚くべき理由で彼女がスポイルされているというわけではなくて、極めて散文的な理由で、あるいはだからこそ抜き差しならない状況に追い込まれているということである。

 このどうしようもない現実を前にして、藻屑はたとえそれが砂糖菓子でできたものであっても「弾丸」を撃つ、抵抗しなければならなかったのである。

 全体としては、子供が抱える無力感や焦燥感がひしひしと伝わってきて、好感の持てる作品である。なによりいいのは、登場人物が皆、どうしようもなく普通の人間であるということである。彼らの突飛な言動も、すべて現実的な状況をもとに生まれている。登場人物が普通の人間であるということが、読者との共通の基盤となり、地に足の着いた作品となっている。よって、桜庭一樹の作品はいまいち突き抜けないところがあるが、安定して読ませるものとなっている。(イワン)
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2009年12月17日

藤井誠二著『17歳の殺人者』を巡って(その3)

(前回の続き:今回で終わり)

 A.I.氏の書いたことに対して、返答をしてみたい。

 まず、女子高校生コンクリート詰め殺人事件についての「悪質さ」についてだが、A.I.氏は、この事件に関して、「質が悪く救いがたい」と言っているが、その点は基本的に同感である。しかし、この事件を形容する言葉としては、僕は、「悪質」というよりも「陰湿」と言ったほうが適当ではないかと思っている。

 藤井誠二のこの本を読むまで、僕は、この事件の詳細についてはほとんど何も知らなかった。知っていたのは、高校生たちが、女子高生を長期間にわたって監禁し、輪姦し、最終的には殺してしまった、ということぐらいである。こうした事実を知ったときには、「そんな残忍なことができるなんて、よほど残忍な人たちなのだろう」と思っていた。しかし、今回、この本を読んでみて、加害者の高校生たちに対する印象がかなり変わった。それで彼らのやったことが許されるわけではまったくないのだが、「なるほど、こういう状況ならば、彼らの犯行も理解できるかも知れない」と妙に納得するところがあったのだ。それは、つまり、彼らが子供であり、子供だからこそ、あんなにひどいことができた、ということである。A.I.氏が具体的にその犯行を書いているところからも推測できるように、この犯行はいじめによく似ている。目的があって何かをしているわけではなく、遊び感覚で人をなぶっているのである。これが、この事件の「陰湿」なところである。

 主犯格のAを始めとする少年たちが女子高生を監禁したのは、まずは、レイプ目的だった。そして、それを成就したあと、Aは、この女子高生を持て余してしまったのだと思う。つまり、もし彼女を家に返せば警察に通報されるかも知れないというただそれだけの理由から、彼らは女子高生を監禁し続けたわけである。彼女に対してなされた数々の暴行は、それゆえ、彼女に対してそうした暴行を行ないたいからそういうことをした、というよりも、彼女をどうにかしたいがどうにもできないというその苛立ちが彼女に対する暴行という形に現われたのだと考えられる。そうした彼らの締まりのなさが、最悪の結果を招いてしまったと考えられるのである。

 このような犯罪過程を読んで、僕は、子供の犯罪ということを考えたわけである。何らかの明確な目的の下に行なわれた大人の犯罪ではなく、小さなことから始まって(今回の事件のレイプという端緒はかなり大きなものであるが、そこに至るまでの過程も含めて)、それがずるずると長続きした結果、非常に大きなものになってしまったという子供の犯罪。この子供の犯罪は、その途中で大人が介入すれば、すぐにでも足元から崩壊してしまう非常に脆いものだ、という印象を持った。そこから、僕は、大人が介入するチャンスが何度もあったにも関わらず、なぜ大人が介入できなかったのか、という問題を提起したわけである。

 加えて、なぜ彼らがそのような陰湿な暴力を長々と続けることができたのかと言えば、それが、まさに、一種のいじめの構造をなしているからだと考えられる。つまり、いじめというのは、決して、一対一で行なわれるものではなく、集団対個人で行なわれる。いじめは常に何らかの形で集団が関わっており、この集団性が個人の罪意識を曇らせると考えられるのである。

 女子高校生コンクリート詰め殺人事件に見出すことができる集団とは、単に、A、B、C、Dという実行犯に留まるものではなく、その周辺にいたすべての人がそこに入る。僕は、こうした点からも、この事件を理解するには、学校の一教室におけるいじめのことを考えるのが一番いいのではないかと思っている。いじめは、少数のいじめっ子といじめられっ子だけの間で起こっているわけではなく、常に、それを知っている多くの人がいる。この事件に関しても、実行犯たちの友人・知人の間で、女子高校生が監禁されているという事実は知れ渡っていた(それほど明確でなくても、あそこで何かが行なわれているということは感じ取られていた)。それに、そもそも、その監禁の場所というのが、普通の一軒家(Cの家)の二階であるわけなのだから、Cの両親も、明確にその事実を知らないとしても、何か変なことが行なわれているという雰囲気は感じ取っていたことだろう。しかし、これは、まさに、いじめに関して言えることであるが、そのように漠然と感じ取られた雰囲気が公にされない限り、それは、存在しないも同然になってしまうのである。

 こうしたいじめの構造が加害者高校生たちの意識にも影響を与えていたと考えられる。つまり、自分がそうした犯罪をなしているという意識を軽減させるような機能がいじめの構造にはあるように思われるのである。いじめに関してよく言われる「いじめられるほうにも非がある」という発言は、その発言の前提となっていることを無視することによって初めて可能となるような発言である。つまり、それは、その集団が共通に持っている規則から逸脱してはならない、という前提である。そして、往々にして、その規則は(いじめられっ子の目立つ特性から)事後的に作られるものなのである。

 話を元に戻すと、加害者高校生の発言に見出すことができるのも、こうした罪意識の薄さである。Aという人物が主犯格とされているが、この主犯というニュアンスも、この事件に関しては、かなり異なるものだろう。Aという人物が力を持ち、他のB、C、Dはそれに従っているという構図が見出せるが、おそらく、A自身も、上に立って何かをやっている意識が非常に薄かったことだろう。こうした、なあなあな人間関係は、やはり、いじめに顕著に見出すことができる人間関係ではないだろうか?

 こうした事件の詳細を読んで、僕が思ったのは、何度も言うが、これは、本当に、子供の行為であり、未成年の犯罪だから云々という以前に、やはり、何らかの形で大人のほうも責任を取るべきではないか、ということである。身近なところでは、加害者の親も、何らかの形で、処罰されるべきではないか、と思ったのである。

 僕は、法律的な側面についてはほとんど何も知らないので、詳しいことはよく分からないが、こうした事件で子供を厳罰に処するのは、大人の責任を棚上げする部分がかなりあると思ったのである。少年犯罪の厳罰化という流れも、確かに、大人の責任のひとつの取り方なのかも知れないが、「われわれ大人が作ってきた社会の中からこうした子供たちが出てきた」という視点からの反省の声があまり聞こえてこないのが僕の不満なところであり、そうした視点から、僕は、この事件について語っているのである。


 さて、次に、加害者中心の視点/被害者中心の視点ということに話を移りたい。「加害者中心か被害者中心か」という犯罪事件に関する議論によく出てくるこの論点に、僕はそもそも疑いを持っている。藤井誠二も、やはり、この論点のことを非常に気にしていて、この本に被害者の視点が欠けていることに対して反省的なことを述べているが、もしそうした反省があるのなら、改めて一冊その視点から本を書けばよいのではないか、と思う。つまるところ、被害者の視点も加害者の視点も両方入れるべきだという折衷案は、ある意味で、本質的な問題点を無視するのに役立っているのではないか? つまり、こうした観点は、犯罪事件を「いったい誰が悪いのか」という問題に回収してしまうことになるのではないのか?

 被害者中心の視点と加害者中心の視点とは、ある意味で、そこで問題になっていることはまったく別のことだと言っていいだろう。そう単純には分けられないかも知れないが、加害者の側のほうでは特に原因についての話が問題となっており、被害者の側のほうは特に結果についての話が問題となっている。藤井が問題としたいことは、「なぜこうした少年犯罪が起きるのか」ということであり、つまるところ、その視点は原因のほうに注がれている。結果、被害者への視点が薄くなるというのは当然だろう。もし、被害者への視点も重要であると考えるのであれば、結果の観点から、まったく別種の問題設定を立てるべきではないのか?

 被害者中心の視点において、特に重要な問題提起があるとすれば、それは、被害者の側と加害者の側との間にコミュニケーションが構造的に取れなくなっている、ということにあるだろう。この点は、武孝和君殺人事件に関連して藤井も述べていることだが、被害者の側が加害者の側に何かを言いたくても言えない状態があるという。つまり、少年犯罪の場合、事件の処理が被害者の側を抜きにして行なわれているという構造があるというのだ。

 僕が、犯罪事件の厳罰化に少々疑問を抱いているのは、いったい、誰がそれを望んでいるのか、ということに絡んでいる。A.I.氏は、刑罰に関して、「社会的制裁」という言葉を用いているが、もっと言えば、それは、国家による制裁であるだろう。つまり、多くの犯罪事件は、当事者でのやり取りを離れて、国家が間に入ってそれを処理している。おそらく、被害者側における問題というのは、刑罰が軽いか重いかということではなく、国家が事件をすべて決定づけてしまい、被害者と加害者との間で直接的なコミュニケーションが取れないことであるように思う(「刑罰をもっと重くしてほしい」というのは、そのように国家が下した裁定に対する不満であるだろう)。

 僕が「知る/知らない」ということを語ったのも、この点に関わっている。つまり、被害者の側も、単に加害者が死ねばいいとは思っていないだろう。加害者が死刑になるにしても、その死刑の意味を理解して死んで欲しいと思うのではないのか? 最終的に、加害者が自分の罪を理解するかどうかは分からないが、被害者の側が何かを言いたいときにそれを言う機会が奪われているところに様々な憤懣が出てくるのではないだろうか?

 厳罰化に関してもう少し言えば、昨今の議論において、この点は、犯罪の抑止ということにも絡んで出てくる話であるだろう。これは、明らかに、管理の強化という流れだが、この流れは、現代社会の諸状況ということから考えると、ある点では、やむをえない話かも知れない。しかし、もう一方で、犯罪事件が起きないことを望むのであれば、犯罪事件が起きる背景というものに、もう少し目を向けてもいいのではないか、と思う。この点は、A.I.氏と認識の異なる点かも知れないが、僕は、犯罪事件についての言説が、加害者側の視点と被害者側の視点との間で完全に閉じているように思える。つまり、その背景というものには、ほとんど目が向けられていないように思える。即効性という点で言えば、確かに、厳罰化のほうが有効だろうが、それは、現在の社会が不変であるということを前提にした上でのことである。短期的にではなく、長期的視点を持つのであれば、もっと積極的に、犯罪事件の社会的背景について言及すべきだと思っている。


 最後にいじめについて述べてみたい。僕が、いじめの話を持ち出してきたのは、上に書いた通りであるが、いじめと学校との関係は、かなり本質的なものだと思っている。もちろん、いじめは、別の場所でも見られるが、その閉塞さ(逃げ道のなさ)という点では、学校ほど典型的なものはないだろう。

 僕は、いじめという行為は、二次的な派生物だと思っている。つまり、いじめは、それを目的に行なわれることはなく、何かに附随して常に行なわれるのではないのか? 極端なことを言えば、学校に誰も行かなければいじめが起こることはないわけである。僕が「いじめをなくす」という話をしたときに念頭に置いているのは、こうした発生条件の問題である。

 今日において、いじめの問題が深刻なのは、学校文化が学校外においても力を持っている、というところにあるだろう。学校の力が相対的に弱ければ、学校にこだわることもないだろうが、学校と同じくらいに力を持つ場所が相対的に他にないので、結果、学校の力が強くなってしまっていると言える。みんな学校を軽んじているにも関わらず、学校に行くわけである(不登校の問題などは学校の力が強いからこそ起こっているとは言えないだろうか?)。

 いじめをする必要性というのは、上に書いたような、いじめの集団性に関わっている。つまり、いじめを行なう重要な理由として、クラス内での位置関係、友人グループ内での位置関係、そうした、いったい自分がどのような場所に位置しているのかという位置づけの問題があることだろう。「自分がいじめられないために他の人をいじめる」というのが典型的であるが、そのような位置取りに腐心した結果、いじめを行なうということが多々あるのではないか?

 「いじめをなくす」と言ったときに、まず考えるべきなのは、いじめの発生率の低下と、いじめが過度にひどくなることを回避することにあるだろう。いじめは基本的につまらないものであり、そうしたつまらないことにでも関わらざるをえないところに隠微な快楽があると思われる。僕が「魅力的な何か」と言ったのは、そうしたつまらなさの対極にあるようなポジティヴなものを提示すべきだと思ったからである。様々な形での否定性(不全感)がいじめを誘発していると考えられるからである。(SIZ)
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2009年12月16日

藤井誠二著『17歳の殺人者』を巡って(その2)

(前回の記事の続き)

 この本は読んだことがないのだけれど、女子高校生コンクリート詰め殺人事件についてのルポは昔読んだことがある。うちの父親が猟奇犯罪のノンフィクションを多数蔵書していて、子供だったぼくは書斎には入るなと言われていたものの、そこは子供だから父親がいない間にこっそり入り込んではそういったたぐいの本を読み漁っていた。だから宮崎勤もエド・ゲインもチャールズ・マンソンもアンドレイ・チカチーロも佐川一政もとりあえず知っているが、そういった数々の超有名犯罪者なんかよりも遙かにこの事件は質が悪く救いがたい。

 ぼくがこの事件について読んだのはずいぶん前だからほとんど内容は覚えていないけど、それでも座り込んで読みふけっていた父の書斎の床のひんやりした感触と、彼らが女子高生に対して行った暴行の数々は今でもけっこう覚えている。集団レイプをし、殴る蹴るを繰り返す。泣けばまた殴り、喉が渇いたと言えば牛乳1リットルをいっきのみさせてまた殴る。2キロもある鉄球を腹に落とす。ライターで足をあぶり火傷を化膿させる。自慰を強要しオロナミンCのビンを陰部に挿入させる。家には両親がいて一部始終を知っているはずなのに両親は無視を決め込み、被害者が死ぬと少年たちは死体をドラム缶にコンクリートで詰めて処分する。

 こんな奴らが(主犯一人以外)たかだか10年もしないで社会に復帰していること自体がぼくには到底信じられない。そのうちひとりは刑期が長すぎると控訴し(もちろん理由になっていないとして棄却された)、さらに一人は(Bと呼ばれた)出所後さっそく犯罪を犯している。はっきり言わせてもらうが、死んで貰いたい。死刑にして全然構わないと思う。

 むろん、社会の問題、家庭の問題、学校の問題、それぞれあるだろう。そういったことは議論され改善されてゆくべきものであることは間違いない。しかしだからといってそういった問題に責任を転嫁するべきではないとぼくは思う。結局現実には被害者がいて加害者がいるのだ。その加害者が(被害者がそうであるように)たまたま加害者という位置に置かれたに過ぎず、あるいは被害者と加害者の位置が置換可能なのであったとしてもそんなことは関係がない。問われるべきなのは彼らが自分たちの行為を知っているかではなく、その行為それ自体だ。殺人事件に限って言わせてもらうけど、加害者の心情なんて斟酌する必要はないと思う。少なくとも被害者の心情はひとかけらも斟酌されなかったのだ。こういった少年犯罪の「原因」探しが陥りがちなのは、そこで被害者への視点がほとんど欠けてしまっているということである。しかし現に明かな被害が出てそこで人の命が損なわれている以上、例え加害者を厳罰に処することでよりいっそう何かを損ない取り返しのつかない自体に陥らせるのだとしても、やはり厳罰に処することでしか贖えないことというものはある。刑罰というのは更生を促すためにあるのではなくて、社会的制裁なのだ。

 ちなみにいじめについてだけど、いじめには学校文化が大きく関与しているということについてはその通りだと思うが、だからと言って、大人たちが魅力的な何かを体現したとしてもいじめは無くならないだろうと思う。よく言われることだけど、別にいじめは学校文化特有のものではないし、人間社会のみに現われるものでもない。社会的な動物は必ずいじめを行っている。学校が変わることでいじめの質は変わるかもしれないけど、どちらにせよいじめというのは陰湿なものだし、行っている当人が天真爛漫である点でもさほど変わらないのではないだろうか。いじめは必要に迫られてするとは限らないし、あるいは快楽として行われるとも限らないのではないかとぼくは感じる。(A.I.)
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2009年12月14日

藤井誠二著『17歳の殺人者』を巡って(その1)

(この記事は2006年1月23日に書かれました)

 女子高校生コンクリート詰め殺人事件(1989年)、長野・宮田稔之君殺人事件(1994年)、大阪・武孝和君殺人事件(1996年)、佐賀バスジャック殺人事件(2000年)という四つの少年犯罪を扱ったルポルタージュ。この本の中で一番ページ数が割かれているのは、女子高校生コンクリート詰め殺人事件である(全体の三分の二くらい)。あとの事件については、短く概略を示す程度である。

 この本の著者の藤井誠二は、面白い経歴の持ち主である。巻末の「著者略歴」には、こうある。「高校在学中に「愛知の管理主義教育」を告発する社会運動に参加。その記録を卒業と同時に出版し、地元で大きな反響を呼ぶ」。つまるところ、藤井誠二は、学校というものが大嫌いなのだろう。

 この学校への嫌悪感が、自分の主観を極力抑えているはずのルポルタージュの文章にも、はっきりと滲み出ている。それは、学校そのものに対する嫌悪感というよりも、学校文化に対する嫌悪感と言ったほうが正確だろう。少年時代が学校を中心にして動くこと、学校的な価値観が何よりも優先すること。そうしたことに藤井は反発を持っているように思える。

 その点で、藤井の少年犯罪に対するまなざしは、どちらかと言えば、加害者のほうに向けられている。つまり、なぜ、加害者の少年たちのような人たちが生まれてきたのか、ということの背後に、学校文化というものを見出そうとしているのである(はっきりそのように言うことは決してないが)。

 女子高校生コンクリート詰め殺人事件のあらましを読めば、おそらく、誰もが理解するだろうが、そこにあるのは、学校特有の陰湿な雰囲気、つまり、いじめの雰囲気である。

 いじめにおいて重要なのは、いじめっ子といじめられっ子の二項対立ではないだろう。極端なことを言えば、いじめっ子など存在しない、ということが言えるかも知れない。ただ単に、いじめられっ子だけが存在し、そのように、いじめられっ子を生み出すような陰湿な雰囲気だけがあるのだ。

 コンクリート詰め殺人事件において、この事件を主導したのは、Aという人物だとされる。しかし、おそらく、Aは、自分のやったことの重大さなど、まったく、意識できていなかったことだろう。自分が人を殺したということすら自覚できていないかも知れない。これは、Aが残忍な人物だからではなく、Aをそのような行為に駆り立てさせた陰湿な雰囲気がそこにあったからである(雰囲気で人を殺したということ)。

 この点で、Aの罪とは、その無知にあったと言えるだろう。彼は、自分が、どのような状況において、何をしたのか、ということに無知だったのである。彼は、知ろうと思えば知ることができたことに、あえて目をつぶっていた。その結果が、殺人事件にまでなってしまったわけである。

 この本の中で紹介されている四つの事件に共通しているのは、どの犯罪も、加害者と被害者との間に偶然的な関係しかないことだ。別に、加害者は、その被害者を殺す必然性などまったくなかった。別の人を殺しても良かったし、別に殺さなくても良かった。こうした投げやりな感じがどの事件にも見出せるのである。

 それゆえ、これらの事件は、偶然、殺人にまで行き着いてしまった事件である。あたかも過失の如くに、人を殺してしまったわけである。その点で、これらの事件のどれもが、「子供」の犯罪だと言わざるをえない。人を殺す覚悟もなく(その結果を引き受ける覚悟もなく)人を殺しているのである。

 これらの事件が提起している問題とは、子供の世界に大人が介入していくことの困難さだろう。学校文化に思いを馳せてみれば、そこに見出すことができるのは単なる欺瞞だけである。いじめというのは常に陰で行なわれるものであり、この陰というのは、欺瞞によって生じる陰だと言える。

 学校内における登場人物とは、大人を抜かせば、優等生と劣等生だけが存在しているわけではない(そのように綺麗に二分されるわけではない)。教師の存在とは、ひとつの灯台のようなものであり、その光に当てられた生徒は、みな、優等生の振りをする。積極的に優等生を振る舞うことは、みんなから倦厭されるので、みんな一緒に優等生を振る舞う必要がある(場合によっては、みんな一緒に、劣等生を振る舞うこともあるだろう)。

 かくして、生徒の内に、奇妙な二重性が生じるわけである。表の顔と裏の顔という言い方をすれば、至極単純であるが、事態はもっと複雑だろう。表の顔が偽の顔であり、裏の顔が本当の顔であるわけではない。両方ともが偽の顔であり、偽の顔でもって、人はいじめをするのである。

 つまるところ、この本に登場する何人かの人たちは、偽の顔で人を殺してしまったわけだ。こうした子供たちを厳罰に処すというのは、やはり、何か間違っているような気がする。彼らに必要なことは、自分たちの無知を知ることだろう。加えて、もっと考えるべきなのは、いかに、子供たちの間に大人たちが介入するかということである。ある意味で、子供たちは、大人たちがやってくることを待望している。いじめなど、やらないで済むのであれば、やりたくないと思っていることだろう。いじめで得られる卑猥な快楽よりももっと魅力的な何かを大人たちが体現していれば、いじめをする必要などなくなるのではないか?(SIZ)
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2009年11月27日

ドクター・ハンナ(戸梶圭太)

(この記事は2007年7月29日に書かれました)

 美貌の外科医である石月畔奈は、性的サディストでオペで患者の内臓を切ったり繋いだりすることに快感を覚える。セックスも大体そんな感じで、内視鏡を男の口に突っ込みながらハメたりする。畔奈は外科医なので内科医と仲が悪く、患者の取り合いをして藤井という内科医の恨みを買い、医療機器に細工され事故を起こしてしまう。畔奈は復讐のためトラックで藤井を追い回したり、金に釣られて藤井に荷担したかわいそうな看護婦を拷問して(電気ドリルで額に穴を開けたりする)殺したりする。

 戸梶圭太という作家は噂には聞いていたが、確かにすごい。

 まず登場人物はクズ人間以外出てこない。

 基本的に人命は紙っぺらのように安い。外科手術も要するに快感だからやるのであって、それによって患者が生きるか死ぬかはどうでも良いようだ。

 畔奈によって拷問されて殺される看護婦も特に悪いやつというわけでもなく、また殺す畔奈もそのことによって批判的に描かれるというわけでもない。

 最後に畔奈は罪を逃れ、敵である藤井を(直接の描写はないものの)拷問して殺して、あ〜面白かった、で終わる。

 伊坂幸太郎がどうにもかんに障るので、ストレートにクズな小説を読もうと思って手にとった。戸梶はかんには障らない。ただただ呆れた。(A.I.)
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2009年11月26日

グラスホッパー(伊坂幸太郎)

(この記事は2007年7月29日に書かれました)

 人の背中を押して車に轢かせる殺し屋の「押し屋」、自殺させることを専門とする殺し屋の「鯨」、老人だろうが子どもだろうが容赦せず一家皆殺しを得意とする「蝉」、妻を殺した犯人に復讐するためそんな危ない業界に足を踏み入れた元教師の「鈴木」。

 それぞれの視点が交錯し、次第に大きな物語を形成してゆくという手法は『ラッシュライフ』以降全く変わっていない。

 話はうまいし、構成も巧みだし、会話はしゃれているしで、いちいち感心するのだけど、出てくる人間が総じてかんに障るのはこちらの問題なのだろうか。

 保身しか考えない政治家や身勝手な若者など、うんざりするくらいステレオタイプな人間ばかりなのもさることながら、それら登場人物が皆ぼくの目からは「健全」に見えてしまう。よけいなお世話かもしれないけど、小説がそんなことで良いのだろうか。

 かつては乱歩、夢野久作といった大衆小説作家こそ、不健全な魂を描いていたように思うのだけど。(A.I.)
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2009年11月17日

高校の頃に読んだ本を思い出す(その2)―マイクル・クライトン『北人伝説』

 「高校の頃に読んだ本を思い出す」シリーズ第二弾。
 『ジュラシック・パーク』を読んでマイクル・クライトンをいたく気に入った私は早速書店で、ハヤカワ文庫のクライトン作品を物色することにしたわけだが、そこでまず買ってみたのが、この『北人伝説』である。クライトンは大まかに分けると、科学系(『緊急の場合は』『アンドロメダ病原体』など)と歴史系(『大列車強盗』『失われた黄金都市』など)のふたつのジャンルで書いているのだが、『北人伝説』はいわゆる「ヴァイキング」(ずいぶん不正確な語だと思うけど、まあ分かりやすいのでこう書いとく)を題材に扱った歴史系のフィクションと言えると思う。当時の私は「ヴァイキング」に興味があったうえ、クライトンの小説にしては比較的短いので手にとってみたわけだが、とにかくやたら面白く、心底感動してしまった。今でも個人的にはこの作品がクライトンのベストだと思っている。後に作家の佐藤哲也が「クライトンの最高傑作は『北人伝説』だと思う」というような発言をしていて、クライトン作品の中でもあまり注目されておらず不満だった私は驚喜した。

 十世紀のバグダッドのカリフの使節としてイブン・ファドランという人物が、サカリバ国へ行くことになる。が、あれやこれやあった末、彼はいわゆるヴァイキングに拉致られるかっこうでスカンジナビアでわけのわからん怪物と戦うはめになる。ファドランはその顛末を全て手記に記しており、この作品は数ある訳本や異本などを整理し、構成し直したものである。という体裁のフィクションである。つまりは十世紀に書かれた実在の旅行記を翻訳し、註をつけたもので、「実在の人物・事件・団体とは一切関係あります」的な体裁をとった作品なのである。
 その後、似たような体裁をとった作品として、平野啓一郎『日蝕』、古川日出男『アラビアの夜の種族』などを読んだが、その細部の描き込み、リアリティの与え方などについて言えば、本作品はほとんど別格的である。ヴァイキングの不潔な洗顔方法や死者の埋葬法などファドランの記述は文化的な違いに対する驚きや軽蔑がはっきりと現れており、高校生であった当時の私は「マジにこういう本があるんだ。すげー、歴史すげー。おもしれー」とすっかりはまり込んだものである。こういう感動によって人は歴史学者を目指したり、文化人類学にはまり込んだりするんだろう。まあ私は結局国文学に行ってしまったが。
 しかし、むろん大人になった私は高校生のころのようなウブさはなく、まあ創作なんだけどね、みたいな感じで改めてこの間本作を読み直してみたのだが、やはりあまりにリアリティが有りすぎるので(特に前半)気になってネットで調べてみたところ、『イブン・ファドラーンのヴォルガ・ブルガール旅行記』(家島彦一・訳注 東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所)なるものがあることを発見。マジかよ……。
 いや、確かに改めて読み返してみると、参考文献に『ネクロノミコン』があったりして、明らかに変なんですけどね(周知のごとく『ネクロノミコン』は実在しない)。ちなみに作家の仁木稔が、このファドランの『旅行記』と『北人伝説』の読み比べをしていて、一読の価値はある。(http://niqui.cocolog-nifty.com/blog/2009/04/post-f641.html
 またこの小説はアントニオ・バンデラス主演『13ウォーリアーズ』として映画化されているが、こちらはかなり駄作だった。
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2009年11月16日

「ヴィヨンの妻」について

今回の放送にイワン氏は参加していませんが、掲示板のほうに「ヴィヨンの妻」についてコメントを書いています。そこで、せっかくなので、イワン氏のコメントをここに転載することにします。


(イワン氏のコメント)
僕が「ヴィヨンの妻」を十何年ぶりに読んで気になったのは、大谷と妻の関係の二重性と、「神」という観点でした。

 それに基づいて、三つの段階で整理してみました。

@それまで破綻していた大谷と妻の関係が、「椿屋」で「さっちゃん」と「客の詩人」として会うようになってから、回復するようになる。

 これは、大谷と妻が、ある種の設定、仮面を介して夫婦関係を再構築している状態です。倦怠期の夫婦の「○○プレイ」とでもいえるでしょうか。

 仮に区分するなら、「大谷:真=夫・偽=詩人、妻:真=妻・偽=さっちゃん」という図式が成り立ちます。真の関係性は、偽の回路の存在によって保たれているといっていいでしょう。

Aここで注目したのは、大谷が「神」の存在を恐れているということです。大谷は、自分の作品への世間の評価は気にならないが、どこかに神が存在していることをおそれている。

 これは、神によって自分が本物の詩人か、偽者の詩人かを審判されることを恐れているのだといえるのではないかと思います。大谷が酒に溺れるのは、おそらくはこの葛藤からきているものなのではないでしょうか。

 そして、妻も、椿屋の客に汚されたことを語りだす際に、神がいるのなら出てきてくれと訴えています。神がいるのなら、汚されてしまった自分は妻としては失格でしょう。しかし、この事態を逆に見れば、汚されなかったはずの可能性としての自分、妻としての自分も担保されるわけです。

 大谷も妻も、ここまでは「真/偽」という枠組みの中で動いているといえます。

 しかし、「神がいるのなら出てきてくれ」と訴えているということ自体、妻の前には神は現れなかった、審判は下らなかったということを意味します。ここから、妻と大谷の道筋はずれていくように見えます。
 
B最後の大谷と妻のやりとりの中で、大谷は、依然、自分は人非人ではなく、夫としての務めを果たそうとしたからこそ、盗みを働いたのだと言います。やはり「真/偽」に拘ったあり方だといえるでしょう。

 しかし、妻にしてみれば、自分が真なのか偽なのか判断されえないというからには、判然としない現実の中で、妻としてというか、さっちゃんとしてというか、ただの生き物としてというか、とにかく「ただ生きて」いくしかないということになります。

 つまり、この小説は、妻が大谷との「真/偽」の回路から降りる、抜け出すというかたちで帰結をみているのだと思います。
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2009年11月11日

精霊の守り人(上橋菜穂子)

(この記事は2007年6月14日に書かれました)

 このあいだの『ユリイカ』の特集が上橋菜穂子で、どうもこの人は荻原規子と並んで和製ファンタジー小説の第一人者的位置づけになっているらしい。

 なにやらうちの高校の生徒なんかにも人気があるらしいし、ということで〈守り人シリーズ〉の第一作である本書を文庫化もされたことだし良い機会だと思って、読んでみた。

 作者の上橋菜穂子はアボリジニ研究などをしている文化人類学者らしい。

 そのせいか、出てくる国の民俗的様態はなかなか深みがありそうで面白い。ふたつの世界がパラレルに存在するという世界設定自体は目新しいとは思わないが、しかし魅力的ではある。とくに重なり合ったナユグという世界は確かにファンタジーを喚起する力を持っていると思う。

 しかしストーリーは非常にステレオタイプ。主要な登場人物の人物造形も同様にステレオタイプ。加えて、作家としてはやはり素人の域を脱しておらず、構成や視点のとりかたにかなり難があると思う。特に文章に魅力が感じられないのは致命的で、比べる相手が間違っているとは思うが、つい最近『グレート・ギャツビー』を読んだものだから、これが同じ小説かと思うほど本作の語りはつたない。

 ファンタジーは語りが重要だと思うわけで、だから続きを読もうという気にはならなかった。(A.I.)

余談。『ユリイカ』だけど、今月の臨時増刊号は「腐女子系マンガ」特集。ユリイカはどこに行くつもりなんだろうと若干心配。目指すは『文藝』か『クイックジャパン』か。と思っていたら執筆陣に「ながくぼようこ」が。肩書きは「やおい小説研究者」。いやはや。
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2009年11月09日

高校の頃に読んだ本を思い出す(その1)―マイクル・クライトン『ジュラシック・パーク』

 まあ、最近このブログもネタがほぼ尽き掛けているようなので、個人的企画として、高校の頃読んでいた本を思い出してみようかなと思った。
 考えてみると、十代の頃(さすがにずいぶん前のことのように思える)やたらと学校の先生なんかに「本をたくさん読みなさい」とか言われ、あるいは何かの本やら新聞のコラムやらで十代の読書体験の大きさとかが人生を左右するみたいなことを読まされて、で、まあ人並み以上には本を読んできたとは思うけど、だからと言って人生の座右の書にであったとか、この本にがつんとやられて人生が変わったとかそういう経験があるわけではない私としては、読書なんか別にしたってしなくたって……というクールな立場をとりあえずは採りたいと思っているのだが、ふと思い起こすと確かに高校の頃の読書体験がずいぶんと自分の中に深く根付いて私自身を根本的なところで規定していると、わずかながらに感じられるような気もしなくもないかもしれないような気がするかもしれない。


 そんなわけで、不定期連載シリーズ「高校の頃に読んだ本を思い出す」第一弾。今回はマイクル・クライトンの『ジュラシック・パーク』。
 おそらく私が高校生になってはじめて読んだ小説だと思う。まだスピルバーグによる映画化の話も知らなくて(同年の夏休み頃公開された)、既に読んでいたうちの親父がしきりに感心していたので、興味を持ったのである。ちなみに続編の『ロスト・ワールド』(ドイルではない)は高校最後に読んだ小説でもある。
 この小説のアイディアはむろんコナン・ドイルの『ロスト・ワールド』から着想したものだろうが、とにかく科学的に可能な手続きをきちんと踏むという点が何よりも面白かった。恐竜復活にも琥珀のなかに閉じ込められたン億万年前の蚊から血液を採りだし、そのDNAの欠損部分を蛙のもので埋め…というようなことを細かく描いているし、しかもその細部の描写が、逆に〈ジュラシック・パーク〉経営者側のある種のリアリズムの欠如を浮き彫りにしてゆくのである。つまり経営者ジョン・ハモンドはジュラ紀・白亜紀の自然に近く、同時に安全安心なテーマパークの創設を夢想するわけだが、そもそも「自然に近くかつ安全である」というのはほぼ語義矛盾なのであり、そのような矛盾こそがテーマパークとしての〈ジュラシック・パーク〉の崩壊を起こすという点を今度は数学のカオス理論を使って説明する。このあたりの蘊蓄はかなり面白くて何度も読み返した。〈パーク〉が一見何の滞りなく「自然に」動いているように見えるからこそ、それは既に崩壊していると言えるのだ。なぜなら〈パーク〉は本来何一つ「自然」ではないはずだからだ。というこの辺の数学者イアン・マルカムと経営者ジョン・ハモンドのやりとりはかなり読み応えがある。

 たぶん多くの人は『ジュラシック・パーク』というとまずあのスピルバーグの映画を思い起こして、原作をあまり重視しないように思えるが、個人的には映画よりもこちらの小説のほうがずっと面白いと思っている。(A.I.)
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2009年10月15日

街場の中国論(内田樹)

(この記事は2007年6月14日に書かれました)

 内田樹の中国論。一応『街場のアメリカ論』につづく、街場シリーズの第2弾だとか。

 大学院のゼミで院生が発表した内容を受けて、その場の思いつきでしゃべったことに多少の修正を加えて本にしてしまったという、「いい商売だねえ……」といやみのひとつも言いたくなるくらい、やくざな出自の本である。

 内田もゼミ生も中国についてはほとんどそこらの市井の人と変わらない程度の知識しかないということで、だからはっきり言ってこんなものを本にして売りつけていること自体ほとんど暴挙と言っても良いくらいだと思う。少なくとも他のやつが同じことをしたらまず、誰も買わないだろう。なのにどういうわけかこの人の本は売れるわけで、いやぼくも買ったわけだし、実際読んでみると面白い。なんなんだろうか、これは。

 読んでいるときはかなり面白く感じているし、ついつい最後まで一気に読んでしまう。が、別に本書を読んでも特に中国について詳しくなるというわけでもなく、読み終わった直後には、もうどんなことが書かれていたか忘れてしまっているという、ハリウッドの超大作映画みたいな評論である。

 この人は多作だし、やたら色んなことを論じているし、出せばかならず当たるわけで、これはもう「思想界のスティーブン・スピルバーグ」と言っても良いんじゃないだろうか。名誉と感じるか不名誉と感じるかは知らないが。(A.I.)
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2009年09月26日

ウミヒコ ヤマヒコ(山本有三)

(この記事は2007年5月23日に書かれました)

 山本有三『ウミヒコ ヤマヒコ』が時代を超えて読まれ続けなければならないのはなぜか。それを明らかにしたい。

 海で働く兄のウミヒコと、山で働く弟のヤマヒコが、ある時仕事を交換する。だが、ヤマヒコは針をなくしてしまう。ヤマヒコは意固地になって、新しく針を作ろうとしたり、探しに行こうとしたりする。そしてウミヒコはそんなヤマヒコに腹を立てる。

ウミヒコ きさまのようなやつは、こうしなくちゃわからないんだ。(弟を押さえつけてなぐる)
(中略)
ウミヒコ 強情なやつだな。なぐられたら、なぜ、泣かないんだ。なぜ、「わあっ」と泣かないんだ。そんなひねくれた根性だから、きさまにはすなおなことができないんだ。……ひとこと「すみません。」と言いさえすりゃ、なんでもないことじゃないか。……きさまには、どうしてそれが言えないのだ。
(中略)
おまえは、なんでもつぐないさえすれば、すむと思っているのか。しかし世の中にはな、返そうたって、返せないものがあるんだぞ。(41-43頁)

 弟を懲らしめ、道徳を説くウミヒコである。だが、ポイントはこの後である。

ウミヒコ いや、もうよそう。もうよそう。いくら言ったって、同じことだ。……さあ、いいから寝ろ。
(中略)
ウミヒコ (寝どこの中から眠そうな声で)どうした。どうしたんだ。ヤマヒコ。
ヤマヒコ なあに、なんでもないよ。火が消えそうになったから……
(中略)
 ウミヒコはそれなり、また、寝入ってしまう。
 ヤマヒコは炉の火の燃えついたのを見さだめると、しずかにひざまずいて、何ものかにいのりをささげる。
 それから、兄の寝ているそばに寄って、

ヤマヒコ にいさん……

と、小ごえで呼ぶ。
(中略)
 もう一度、声をかけたけれど、兄はすやすやと眠っているので、ヤマヒコは兄の横にそっともぐりこむ。
 炉の火は、やみの中で美しい火ばなを散らしながら、勢いよく燃えさかる。――幕――(43-47頁)

 謝って、いない。

 ウミヒコは、世の中には返そうと思っても返せないものがあり、そういうものを損ねてしまったときには、意固地にならず、素直に謝るしかないと言った。そしておそらくこの時ヤマヒコは謝ろうとしているのだろう。しかし、ウミヒコは眠っている。ウミヒコはヤマヒコの謝罪を受け取らないまま、物語は終わってしまう。これが、この作品において決定的な部分なのである。

 ウミヒコは、寝ていない。寝たふりをしている。故意に、ヤマヒコの謝罪を受け取らないようにしている。それは二人が家族だからだ。家族の間に謝罪は必要ないからだ。あるいは、ヤマヒコは許してくれたことへの感謝の言葉を述べようとしていたのかもしれない。しかしそうであっても、それすらも必要ではない。それは二人が家族だからだ。

 ウミヒコがヤマヒコに教えたことは二つである。他者のかけがえのないものを損ねてしまった時には素直に謝るしかないということ。そして、家族の間には謝罪や感謝は必要ではなく、お互いの全てを受け入れるものだということである。

 家族に対して、「ごめんなさい」「ありがとう」は、ちょっと変である。これは、けっして僕が家族にありがたみを感じていないということではない。少なくとも、僕はこのような感覚において生きてきたし、生きていくだろう。

 『幸福な食卓』と同工異曲になってしまったが、以上。(イワン)
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2009年09月25日

スラムオンライン(桜坂洋)

(この記事は2007年5月14日に書かれました)

 この作品においても、主体は分裂している。それらは、リアルな世界の「坂上悦郎」と、MMOゲーム(オンライン格闘ゲーム)のキャラクター「テツオ」と、それらを往還する自己の、三つである。

 大学1年生の悦郎の生活は、「大学で知り合った布美子との仲は進展せず、無敵と噂される辻斬りジャックの探索に明け暮れる日々」(カバー裏)というものである。リアルな世界はいつも曇ったり雨降りだったりするのに対し、ゲームの中のバーサスタウンはいつも快晴である。リアルな世界はいつも憂鬱であり、また、バーチャルな世界は嘘くさいほどにクリアであるというわけだろうか。

 主体は、すでにゲーム的リアリズムというべきものの浸食を受けている。主体は、リアルな世界での物音を、たとえば「人の群れがアスファルトを踏みしめるSE」と語り、「リアルな世界は複雑で、男女が仲良くなるフラグをどこで立てればいいかはっきりわかるわけじゃない」と語る。だが主体は、バーチャルな世界の不毛さ、リアルな世界のくだらなさをともに認識している。リアルな世界にたいしても、バーチャルな世界にたいしても、相対的な立場をもっているということだろう。自己自身に、なんらかのわだかまりをもっているわけだ。そして、だからこそリアルな世界では布美子の青猫探しに、バーチャルな世界ではジャック探しに惹かれていくのである。

 リアルな世界にしろバーチャルな世界にしろ、ゲーム的リアリズムで世界を認識するということは、世界をコンテンツ化、データベース化し、無数の小さな物語群としてとらえるということである。それは0/1の世界であり、明確に割り切れるものである。それを志向すること、つまりクリアな世界でデータと戯れるだけの世界を目指すことは、ある意味では魅力的であろう。しかしそれにはある種の虚しさがつきまとう。バーサスタウンで何勝何敗だったか、あるいは青猫探しのために新宿の街をマッピングして塗りつぶした方眼紙のマス目の数をいくら積み上げても、それで世界の何事かを理解し実感したことにはならない。それだけでは、我々はどこにもいけない。これが、主体の抱いているわだかまりであろう。

 だから主体は、バーサスタウンにおいては武闘会での相対的評価を放棄してジャックとの戦いを選択するのだし、リアルな世界においては布美子との関係を押し進めることを選択するのである。相対的な数の世界から、絶対的な自己を立ち上げる過程が、この作品において表現されているのであろう。よって、「その日、ぼくは、何回勝ったかおぼえるのを忘れた」、つまり数を数えることをやめることで、主体は物語を終わらせるのである。これは〈癒し〉ではなく、すでにひとつの前進であろう。(イワン)
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2009年09月24日

All You Need Is Kill(桜坂洋)

(この記事は2007年5月13日に書かれました)

 現在の日本において、いわゆる〈主体の分裂〉というテーマは、このように描かれるべきものだという原型のような作品だと感じた。この作品は、ゲームを小説にしたかのような小説ではなく、ゲームによって構成された主体の描く作品である。つまり、これはまさに我々の時代の小説なのである。

 謎の生物「ギタイ」に侵攻される近未来の(おそらくは)日本での戦いに参加する初年兵のキリヤ・ケイジは、初めての戦闘で戦死する。しかし、気が付くと出撃前に戻っている。また出撃。戦死。それを繰り返すうち、自分が同じ日をループしていることを自覚する。肉体は変わらない。しかし意識は持ち越してループできる。ケイジに残された道は、ループの中で戦闘技術を身に付け、戦いに生き残り、ループから脱出することだけなのだ。

 時間のループという主題自体は、珍しいものではないだろう。だが、この作品の特色は、スペックが変化しない肉体=ゲームの使用キャラクターと、変化しうる自己=プレイヤーを峻別したところにある。ケイジにとっての一回の戦闘は、ゲームにおける1プレイに相当する。そして無数の戦闘回数はそのまま、無数の物語群だ。ケイジの意識=主体はそれらを、現在終了時点まで俯瞰して眺めることができる。前の戦闘に納得がいかなければ次の戦闘に臨むというように、ケイジが望めば、何度でもそれを繰り返すことはできる。しかし戦争である以上、というより原理的に、何度やってもリタ・ヴラタスキを含む人類全員を救うことは叶わない。どこかで戦闘を終わらせなければ時は動き始めない。こうなると、すでにケイジがどれだけ戦闘技術を身に付けるという意味で強くなっても関係ない。物語は、何かは守れるが、何かは切り捨てなければならない任意の1プレイを選び取るしかないというケイジの自覚とともに終了する。

 我々の世界に満ちあふれているのは、膨大な選択可能性である。バーチャル世代というのは、膨大な選択可能性と主体の乖離を実感している意識のことであろう。そのような状況は時として二つの不幸な事態を招く。選択可能性の前でためらい続けるか、選択にともなう痛みを引き受けるかという不幸である。これらは、前近代的な共同体においては、そもそも選択という概念すらないという意味で生じなかった不幸だろう。

 現代において、おそらく真に重要なのはインターネットをはじめとするメディアの発達ではない。それは我々自身なのだ。我々自身のなかにすでにメディアが繰り込まれており、主体との相互作用を起こしているのだ。メディアは膨大な選択可能性を示している。何を選択するのか。まずは情報といえるが、コンテンツのひとつひとつは今作で見たとおり、物語である。

 また、今作からは外れるが、メディアにおいて、情報とは消費される商品である。金で買えるものはせいぜい〈癒し〉しか自己にもたらさないだろう。それが今日の物語の役割なのである。〈癒し〉とは現状の緩和にすぎない。それによって自己は変革されない。だが本当にそれでいいのか。今日において、〈消費しつくせない物語〉とでもいうべきものが求められているのではないか。では資本主義の構造の外に立って物語を紡げばいいのか。それは不可能である。ならばその状況のなかにありつつ、メタレベルの視点を持ち合わせた物語、すなわち『All You Need Is Kill』のような作品が、現在渇望される物語なのである。

 ちなみに状況のメタレベルに立つとは、単に俯瞰的な三人称小説を書くことではない。かといって状況のみを描いていればいいというものではない。たとえば阿部和重は、その初期においては、今日の状況のなかで分裂せざるをえない主体というものを描いていた。しかしそれはそれだけのものだった。自己をそのようにし向ける状況への自意識を欠いていた。そして『シンセミア』以降になると、分裂は描かず、俯瞰的で安定した小説を書くようになる。阿部においては、状況と俯瞰が見事に乖離している。残念ながらこれが現在の阿部の到達点であろう。しかしその脇を、桜坂や、あるいは同じように主体の分裂に敏感な乙一などがすり抜けていく。もっと先を見たい。もっとその先を見たい。その先を見ることはきっと気持ちのいいものだろうから。

 ところで、僕がこの作品を読んだのは、東浩紀『ゲーム的リアリズムの誕生』を読んだことがきっかけであるが、正直な感想としては、「東って、こんなにすごかったんだ」というものである。『存在論的、郵便的』で示された大状況と個人の状況が短絡的に結びつくという世界認識には物足りなかったし、そのあとの、『自由を考える』なども、左翼的言説の同工異曲でしかないというふうにしかとらえられなかった。しかし『ゲーム的リアリズムの誕生』はどうだろう。ある種の清々しささえ感じた。このような清々しさの発見を他者にも、そして自己にも期待したいものである。(イワン)
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