2010年12月21日

失われた祭りをもとめて〜日常性への着陸

 宮台真司は『終わりなき日常を生きろ オウム完全克服マニュアル』で、80年代前半に主流だった終末観を分析して、それは女の子を中心とした「終わらない日常」という終末観だったとしている。「輝かしい進歩」も「おぞましい破滅」もない、学校的な日常性のなかで永遠に戯れつづけることだと。高橋留美子のコメディーマンガ『うる星やつら』に代表されるような、ご町内で延々と繰り広げられる日常的なドタバタ劇の流行は、同人誌におけるパロディ作品においてもスタンダードであったと。
 いうまでもなく「学校的日常」はじっさいには終わりが来るものであり、主にサブカルを中心とした文化領域ないし精神風土において、それをまさに終わらないものであるかのように取り扱ってきたところに「終わり」の忌避と隠蔽という事態は淵源している。それが終わらないというかぎりにおいて「学校的日常」は「祭り」として機能するし、一種のパラダイス=非日常でありつづける。サブカルチャーという消費物における「終わらない日常との戯れ」という処方の選択が、むしろ「終わりなき非日常」に貪欲であることを増進させたのである。
 大澤真幸が指摘したように、近年の「昭和ノスタルジー」趣味の隆盛が、時に臆面もなく礼賛や美化をもって迎えられるのも、「昭和」という「祭り」のその後である現在においては、人々に見失われてしまった「希望の目線」が、まだあった時代への憧れに由来しているだろう。しかし言うまでもなく、「昭和」も「高度経済成長期」もその頃の「夢」も終わったのだ。終わっていないのは、人々のなかにある残像としての栄光の影である。

 『不可能性の時代』で大澤真幸は、「戦後の精神史は、『理想の時代』から『虚構の時代』へと転換してきており、オウム真理教事件は、『虚構の時代』の限界・終焉を徴づける出来事ではないか」と述べ、「『虚構の時代の後』が、つまり現在が、どのような時代なのか」という論題に取り組んでいる。ここでは大澤の議論に沿っていくことにする。大澤は東浩紀の『ゲーム的リアリズムの誕生』の論述を下敷きにしながら以下のような直感を述べる。

 (オタクたちを生み出した)現代社会は、終わることの困難に直面し、もがいているのではないかということ、これだ。ゲームや、ライトノベル、アニメの中で、「反復」という主題がやたらと反復されているのである。反復する時間の中に閉じこめられ、そこから抜け出すことができない、という主題が、作品横断的に、あまりにも頻繁に登場するのだ。ゲームにおいては、この反復を何とか切り抜け、真の終わりをもたらすことが、目標となる。つまり、終わらない、終わりたくても終わることができない、真の終わりを容易にもたらすことができない、このような困難に、われわれの社会は直面しているのではないか。(『不可能性の時代』)

 近年のそうした作品として押井守『スカイ・クロラ』や細田守『時をかける少女』などのアニメ、竜騎士07『ひぐらしのなく頃に』などのゲームが挙げられよう。どれも「夏」という季節が選択されていることじたい示唆的だが、『ひぐらしのなく頃に』はさらに「バッドエンド」によって繰り返される「夏祭り」を、(どのような正しい選択と決定によって)いかに終わらせるかという物語とも取れるものである。大澤は「反復からの脱出」というモチーフが現代のサブカルに頻出するのは、「終わることが容易ならざること」の端的な現れであるともいう。
 大澤は「選挙結果」の公式発表があるまで本当には「終わった気がしない」ことに着目し、そこから、「偶有性の感覚――他でもありえたのではないかという感覚」を克服し、「必然性の感覚――これでよいのだ、これしかなかったのだという実感」を得るためには、終わりの公式な宣言が必要だとする。だが現代社会にはそうした公式宣言をしうる資格と権能を持った機能体系がもはや存在しないことで、「社会内のさまざまな領域で、さまざまな瞬間に、終わりが決定されなくてはならない」にもかかわらず、「決着を付けることに特別な困難を覚えている」というのである。またサブカル作品のパロディや二次創作物の蔓延も、そもそもの「正典」が「これ以外ありえない」という限界線を持ちえず、そうした「終わり」を宣言できないからだとする。
 現在「機動戦士ガンダム」シリーズが誕生からすでに30年を経て新たな「正史」を展開しているようだが、この「正史」の終了後もおそらくそうした限界線は引かれることがないだろう。またそうした公式宣言は、動画サイト「YOU TUBE」や匿名の巨大掲示板「2ch」におけるコメント「祭り」=話題・ネタの盛り上がりにも存在しないが、これらの「祭り」には比較的早い鎮静化が多く見られるのに対して、「ニコニコ動画」は「非同期ライブ」というシステムによって、ユーザーの任意でいつでもそこに「祭り」を見出すことができる。そうした点で「祭りのあと」の訪れが遅延的であるメディアとなっている。つまりやはり「終わりにくい」メディア空間と状況がそこにあると見て良い。「ニコニコ動画」がサブカル的文脈の上では「YOU TUBE」より優位に立てたのも、そのことが大きいであろう。
 いずれにせよ現代社会が「終わり」の厳然性を保てなくなったとき、われわれは必然的に「祭りのあと」を、「終わり」を隠蔽しながら生きてゆかざるをえない。そこでは「偶有性」の念が「後の祭り」としてつねに残り、「祭りのあと」を「祭りのあと」として引き受けることができないのである。

 大塚英志によれば、世紀末に自決した文芸批評家の江藤淳は、甘美な虚構ないし仮構に閉塞しようとする欺瞞を厳しく批判しまた拒否していたが、夫人に先立たれた孤独の時間を彼が耐えきれなかったのは、そうした潔癖さによるところがあるのではないかという。

 上手くはいえないんだけどそのままずるずるとだらしなく犬と暮らすようなところがあれば江藤淳は死ななかったんだろう、と思うと同時に、・・・・・・老犬と老いていくという人生はやはり江藤淳にはありえなかったのだろうなとも思う。(『江藤淳と少女フェミニズム的戦後 サブカルチャー文学論序章』)

 「そのままずるずるとだらしなく犬と暮らす」とはどのようなことか。大塚が「犬と暮らすセンチメンタリズム」というところのそれは、ある意味では江藤が忌避した「仮構」性(通俗的な物語)のうちに自閉するありようだが、言うなれば夫人亡きあとの「終わりなき日常」のだらりとした日常性そのもののなかに自足していく生き方でもあろう。大塚が言うように江藤はそれとは別種のセンチメンタリズムに崩れて自決したわけだが、それと対蹠的なサヴァイビングを見せたのが少女漫画家の大島弓子であったという。大島は独身を通しながらサバという愛猫と暮らしていたが、あるときサバについに先立たれてしまう。大塚は、サバに支えられているかのように見えた大島の世界がどうなってしまうのか心配だったものの、大島がエッセイマンガのなかで新しい飼い猫を、対話可能な人間の姿で描いていたサバとは異なり、ただの猫として描いていたことにほっとする。「その擬人化されていない猫の絵が大島弓子がサバの死を通して乗り越えたものが何だったかを物語っているように思えた」と。対する江藤は「犬をただありのままの犬として飼うこと」が受け入れられなかったというのである。漫画家である大島弓子はサバと訣別しえて、その生活の「終わり」を受け入れられたわけであり、逆に「仮構」を拒否していたはずの江藤が「犬をただありのままの犬として飼う」散文的な日常性に耐えかねたというある種の転倒性が見出されるのである。これは一見、先の宮台真司の議論に見られた「終わりなき日常との戯れ」が逆説的に可能にしたことのようにも思えるが、大島は「終わりなき非日常」を求めたのでなく、あくまでも「日常性」に軟着陸したのである。それは単なる個人の資質の問題なのかもしれないが、なおその理由が問われねばならないだろう。(R)
posted by R at 00:23| Comment(0) | TrackBack(0) | エッセイ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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