2010年12月15日

失われた祭りをもとめて〜伊東静雄『夏の終わり』

 以下は、詩誌「四季」や日本浪曼派の代表的な詩人である伊東静雄の代表作である。

 
夜来の颱風にひとりはぐれた白い雲が
 気のとほくなるほど澄みに澄んだ
 かぐはしい大気の空をながれてゆく
 太陽の燃えかがやく野の景観に
 それがおほきく落す静かな翳は
 ……さよなら……さやうなら……
 ……さよなら……さやうなら……
 いちいちさう頷く眼差のやうに
 一筋ひかる街道をよこぎり
 あざやかな暗緑の水田の面を移り
 ちひさく動く行人をおひ越して
 しづかにしづかに村落の屋根屋根や
 樹上にかげり
 ……さよなら……さやうなら……
 ……さよなら……さやうなら……
 ずつとこの会釈をつづけながら
 やがて優しくわが視野から遠ざかる 
                   伊東静雄「夏の終わり」


 文芸評論家の江藤淳は、かつて敗戦後まもない頃の虚脱感と喪失感のなかで伊東静雄の詩「夏の終わり」を収めた詩集『反響』に出会い、非常に慰められたという。江藤によれば伊東は「なにか大きなものを喪いつつ、それに耐えている人」であり、「むしろその喪失を創造の出発点に据えて、〈明るくかし処を彩〉ろうとして来た人」であった。江藤は「もし、このとき、『反響』にめぐりあわなければ、私は文学を仕事とするようになっていただろうか?」という感懐を吐露していた。彼がこの「夏の終わり」に慰撫された理由は、「自分がいまなによりも、この「……さよなら……さやうなら……」とこだまする歌を必要としていることに、気がつかざるを得なかった」からであり、「さまざまなものに〈……さよなら……さやうなら……〉をいわなければならなかった」からであった。その「さまざまなもの」とは、住み慣れた「鎌倉」や「幼いころから親しんで来た生活の様式」、敗戦に至る前の「それを成り立たせていた時代」としての「少年時代」であり、また「敗戦」という「汚辱から自由だった日本」である。そして、できれば手放したくなかったであろうそれらを喪う悲哀に耐えることを、「夏の終わり」の「……さよなら……さやうなら……」という「反響」(リフレイン)が可能にしていたというのである。

 「白い雲」が「落す静かな翳」は「……さよなら……さやうなら……」と「いちいち頷く」ように、「街道」や「水田」や「行人」「屋根屋根」そして「樹上」に呼びかけ、遠ざかっていく。その「反響」は、それを聴く江藤の喪失感や別離それじたいを歌いあげるものとして響く。そのとき「……さよなら……さやうなら……」というこだまは、「街道」や「水田」や「行人」「屋根屋根」そして「樹上」それぞれの一つひとつに、「いちいち頷く」ように「反響」していくのである。そしてそれら個々の「反響」が、ひいては「夏の終わり」という、別離の全体性へと高次化されていく。

 われわれはすでに打ち上げ花火が発光とともに必滅するものであることを見知っている。そこには打ち上がる一発ごとに「さようなら」がある。ところで日本語において、移りゆく「こと」の世界を言葉に表すことによって、一つひとつの個々の事象(たまさか・偶然性・一回性のできごと)を「さようならば」と確認し、その場、その場を成就させていこうとするのが「さらば」という仕方での別離のいとなみである。そしてまた、みずからに起きた一回性の「こと」を「さようであるならば」と、そのつどそれぞれに確認・総括することを介して、むしろ「さようであらねばならないならば」という、有為転変する無常の普遍原理が承認可能となってくる。ならばここでの「夏の終わり」の「終わり」の営みとは、「……さよなら……さやうなら……」によって「眼差」され、総括されていく個々の景物――それはむしろ詩人の心象としての内景だが――をそのように一つひとつ歌いあげ、余さず数えあげていくことによって、「夏の終わり」そのものを成就せしめんとする心的態度にほかならないだろう。なおかつそのことは、終わりゆくものが、「夏」、あるいは「少年時代」や「汚辱から自由だった日本」が、まさに終わらなければならないものとして感得されている(「さようならば」と受けとめられている)からこそ、そうした「反響」が別離の承認・成就として響いてくるのだろう。

 以上のことは、まどみちおの詩「さようなら」においても想起される。

 
子供よ、あの赤い夕焼けは、一日が「さようなら」っ
て言ってるのだ。
 子供よ、今落ちた木の葉の、あのしずかな音も、
やはりあの木の葉の「さようなら」だ。
 子供よ、お前の持っている鉛筆でさえ短くなる
たびに、「さようなら」「さようなら」って書いて
いる。
 ああ、子供よ、耳をすましてみると、なにもか
にもみんながみんな、「さようなら」「さようなら」っ
て言ってるではないか。


 ここでは、自己が自己の前に立ち現れる個々の現象なり、自己を包む万象のそれぞれから、「さようなら」と常にすでに呼びかけられているありようが提示されている。いわばわれわれは、万象それぞれからの無限の「さようなら」に出会うかたちで、その総体としてのこの世界に立ち会っている。そのような「さようなら」を聞く者として、それに一つひとつ応答する仕方で、われわれは世界全体を常にすでに「諦めている(別れている)」とも言えるとすれば、万象の「さようなら」の声を一つひとつ余さず「聞いている(聞き取る)私」という詩人のありようが逆に浮かび上がってこよう。
 つまり世界をそうした見立てにおいて見る詩人の感受性こそ、むしろわれわれが一つひとつの事象をそのように丁寧かつ十全に愛でることにおいて、なおそれと分かたれてくるという別れのあり方と可能性を逆証しているからである。(R)
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