2010年12月12日

失われた祭りをもとめて〜一期一会のふたゝたびかへらざる事

★井伊直弼『茶湯一会集』

 「安政の大獄」で有名な幕末の大老井伊直弼は、千利休以降の重要な茶人に数え上げられる当代きっての文化人であり教養人であった。利休に由来する「一期一会」という茶湯用語とその極意を世に伝え広めた人でもある。

 『茶湯一会集』に、「茶湯の交会は、一期一会といひて、たとへば幾度おなじ主客交会するとも、今日の会にふたたびかへらざる事を思へば、実に我一世一度の会也」とある。それは、主人が客人をもてなすという形で主客が交会する「茶湯」という営みにおいて、何度同じ交会がありうるとしても、それら一つひとつが「一世一度」の出会いであり交会であって、その一つひとつのできごと(一会)のそのつどの成就を本意とするものである。もてなす主人ももてなしを受ける客人も、互いに「此会に又逢ひがたき事を弁へ」て、「深切実意」をもって交わるべきであるとされる。しかもそのことは、茶湯において「強ち品を取かへ飾り・手前等かはらざれば茶湯の趣向ならずといふ謂、曾て無き事也」(そのつど客の目を引くような飾りや茶器等を用意していなければ良い茶湯とは言えないなどということはない)のであって、利休が「呉々相替る事なく、日々同事斗の内、心の働は引替へ引替へ如何様にも可有候」(そうした品々を替えることもなく、毎日同じことばかりのうちに、なお心の働きはいかようにも引き替え改めてもてなすことができる)としたところこそ、「茶道の大本」であるとされるなかで述べられている。つまりそれは、毎日が「茶湯」という現場であり、まさに取り立てて新奇な起伏もない「つれづれ」としての日常の些事一つひとつが「深切実意」に取り扱われることなくしてありえないだろう。だから「一期一会」こそが「茶湯」の極意なのである。

 ところで「一期一会」を観念するということは、すなわち「一会」を連続する時間の無差別・等価値な一瞬から屹立させ、「一会」をまさに代替不可能な「一会」としてそのつど区切ってゆくことで、以前の「一会」および後続する「一会」との截然たる意義をもうけ成就せしめんとすることであろう。そうであってみれば「一期一会」においては、「一会」はあくまでもそのつどにおいて全き成就を見るものであって、すでに終りを見た「一会」をもういちど再現しようとすること(「一期」のものではなくすること)、あるいは過ぎ去った「祭り」をもういちど求めることとは真逆の心意である。以前に述べた花火の例で言えば、「たまさか」の打ち上げ花火こそが「一期一会」であって、再び同じものを求めて「一期一会」を復興可能なもののように扱うことは、どの「一会」をも質的に等価に付すことであり、「又逢ひがたき事を弁へ」ない心得違いのふるまいということになろう。

 『茶湯一会集』の「暇乞い」について手引きしたくだりでは、主客が「共々に残心をのこして、わかるべき也」とある。別れの場面に際し、なお今日の「交会」に心ひかれるものを「余情残心」としてこよなく感受しながらも、充分に別れよということである。さらに言えば相手とはむろんのこと、おそらくは「この一期一会」それじたいとの別れについてをも指したものだろう。それは、客が帰ったあとも決して片付けを急いだりせず、静かに茶席に戻り炉前に独座して「一期一会」を観念する(一心に「一期一会」を想念する)ことが極意だという次の箇所からもうかがえる。

 
炉前に独座して、今暫く御咄も有べきに、もはや何方まで可被参哉、今日、一期一会済て、ふたゝたびかへらざる事を観念し、或は独服をもいたす事、是、一会極意の習なり。此時、寂寞として打語ふものとては釜一口のみにして外に物なし、誠に自得せざればいたりがたき境界なり。


 炉前に独り座り直って、客人は今もうどこまで帰られたであろうかなどと思いやり、今日のこの一期一会が済んでは二度と現れないのだということをよく観念し、あるいは独り茶を一服するのが、一期一会の極意である。このとき己独りの茶の湯であることの物寂しさを全的に味わうには、その極意を自得していなければならない――と。
 「自得」するとはいかなることか。その中身が問われようが、いずれにせよ今日のこの「一期一会」が、いかにも「ふたゝたびかへらざる事」であるのを観念しえたとき、この「一会」との別れが成就するということである。(R)
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