2010年12月10日

「ニッコ」とさせる仕事〜海老蔵問題から思う役者の日常

 すぐそばの半島で緊迫した有事が続くなかで、こちらでは毎日のTVで非常にどうでもいい平和ボケした事件が取りざたされている。公人の有事における評価の激しい暴落ぶりは、良くも悪くも近年のドッグイヤー社会の特徴だろう。
 
 こうした事件の是非や真偽に対して、現時点で当事者でも関係者でもない者が口を挟む資格はないのであって、ことの真偽や是非に関しては何も言う気もないし興味もないが、ふと思い出したのは大昔の役者のことだ。
 そもそも、たとえば19世紀前半の天保年間に希代の千両役者として活躍した成田屋、七代目市川団十郎は教養人でもあった。表芸のみならず詩歌、骨董などにも通じていたという。が、思い出したのは能の完成者である世阿弥の言葉である。『申楽談儀』からだが、白州正子の意訳がいいのでそれをあげておこう。世阿弥が当節の役者の身の処し方について具体的に論評するくだりである。

 
・・・・・・他座の者と同席した時は注意が大切である。一緒にひかえているにしろ、席をはずすにしろ、その場の空気を察して動く必要がある。役者ともあろうものが、そのくらいの察しがつかないようでは話にならない。
 ・・・・・・小さな日常の行いこそ大切なのだ。この芸道は、礼楽二つの道にとれば「楽」である。人にたのしみを与えるのがつとめなのだから、舞台の上ばかりでなく、日常のことごとに心を配って、人と人との間柄を「ニッコ」とさせるのが我々の仕事なのである。


 「ニッコ」は原文でも「につこ」だ。
 まず身近な日常現場から空気を察して果断かつ的確に動けるよう準備し、心を十分に配ってゆくこと。こうしたことは芸道に携わる者ならずとも、常日頃から念頭に抱いていきたいものだ。

 佐藤浩市の父である三国連太郎が親鸞の歎異抄を繰り返し読み続けては書き写しているとか、緒方拳などもそうしたエピソードに事欠かなかったが、大事なのはそうした教養が前面に出てこないくらい役者は素手でいることである。
 そういう意味で先年ついに鬼籍に入った森繁久彌という大役者は、その内に深く豊かな淵を湛えていた。これもわりと有名な逸話だが、彼が贈った向田邦子の墓碑銘の言葉は老境などというものを超えて、彼岸の域に届いている。

 花開き 花香る 花こぼれ なお薫る

 真宗大谷派の僧侶であった金子大栄が般若心経の「色即是空 空即是色」を翻訳して「花びらは散っても花は散らない」としたのを個人的には、空海が(伝説上)「色即是空」を「色は匂へど散りぬるを」とした以上に腑に落ちる言葉として聞いたのだが、この森繁の言葉を知ったときは、それと同じくらいの衝撃を受けた。「かおる」の文字が繊細に使い分けられている。後者の「薫る」こそ、「散らない花」としての「空即是色」のありようだろう。そのような「花」といえばまた、世阿弥の「物数を極めて、工夫を尽して後、花の失せぬところを知るべし」という至言が想い合わされるのだが、森繁のすごいところはこれがおそらく素手で発せられた言葉のように感じられるところだ。現代の役者に、したり顔で生半可な「情報」にたよらずとも、生身の体験知で勝負できるような存在感を持てるような者が出てきてほしいと思う。そういえば近年の蒼井優はそうした雰囲気をやや感じさせている。ともかく「役者」になるとは「人間」になることだと思う。あるいは「人間」になることに有り金全部を賭けている人のことだと思う。(R)
posted by R at 00:30| Comment(0) | TrackBack(0) | エッセイ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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