2010年11月24日

『ノルウェイの森』〜ジョニー・グリーンウッドの音響世界

 最近、映画『ノルウェイの森』のサントラを繰り返し聴いている。本当に素晴らしい出来だ。ジョニー・グリーンウッドは今まで『BODY SONG』とポール・トーマス・アンダーソンの『There Will Be Blood』の二作を手がけてきた。後者は高く評価されグラミー候補にもなったが、この『ノルウェイの森』が最も琴線に触れる傑作だと思う。つい先日の発売だったがマスタリング終了が先月というのが信じられない。いわゆる「完パケから3ヶ月」という流れはいよいよ崩されたのだろうか?

 ジョニーは登場人物たちが抱える「宙ぶらりんの状況」や「大人になれずにいる宙吊りの青春期」を表現しようとしたと発言している。精緻に組まれたオーケストレーションと和声はまさにそうした位相で鳴らされている。そこには、弦楽隊が鳴らすいびつで不穏なコード・ボイシングから静寂のなか薄明の光を感じさせるユニゾンへと揺らぎたゆたうような、孤独な物思いの世界が広がっている。

 RADIOHEADにしろジョニー自身にしろ日本贔屓とはいえ、このアルバムが曲タイトルも含めて総「日本仕様」というか、日本発のアイテムとして届けられていることが日本のファンとしては嬉しい限りだ。
 おまけに全部持っているとはいえCANが3曲も入っている。CANはいわゆる60〜70年代のジャーマン・プログレッシブ・ロック=通称「クラウト・ロック」においてFAUSTやNEU!と並び称されるバンドだ。現代ロックその他に与え続けている影響は計り知れないものがある。ある意味(奇跡的にこの映画の主題歌にも使用許可された)ビートルズ以上かもしれない。少なくとも僕自身はそうだ。
 収録された3曲はどれもA級作品ばかりで、個人的にはCANの中でも最も好きな曲の一つ「Mary, Mary, So Contrary」が入っていて浮かれてしまった。これらの楽曲は60年代末期を象徴する音楽としてビートルズの代りに使用されているようだ。
 
 オリジナル・スコアを担当したジョニー・グリーンウッドは言うまでもなく、金字塔となったアルバム『ok computer』以降、名実共に現代ロックの先端と頂点に君臨し続けているRADIOHEADのメンバーであり、豊富な音楽知識とロックの枠組みを問い直し押し広げる実験精神と、唯一無二の独創的なアイデアでサウンドのまさに中核を担ってきたマルチ・ミュージシャンである。独自の奏法でギターからギターでないもののような音響を出し、異様な音階でリフを編み上げ、オンド・マルトノやアナログ・シンセをエフェクティブに駆使し、フェンダー・ローズピアノやグロッケンで叙情的なカウンター・パートを紡ぎ出す。バンドは常に「現代ロック」とそのあり方を決定づけてきたゆえに、世界中の音楽家たちが注目し続けてきた。当然このサントラも各方面から注目されているわけである。

 僕自身にとっては村上春樹より重要な存在だが、いまや春樹もRADIOHEADと同じくらい世界的存在であって、その両者が出会って作品が生まれるというのは一つの事件だった。と同時にこの10年においては必然だったとも言える。春樹はエッセイでビョークとともにRADIOHEADを語り、『海辺のカフカ』には、日米でもチャート一位となり一躍一般にも愛聴者を増やした『kid A』を主人公のフェイバリットに出すようになった。だがそれ以前に、バンドのフロントマンで現代を生きのびているカリスマと言われる天才トム・ヨークが、おそらく日本の知人(雑誌スヌーザー編集長だったような気もする)の薦めで『ねじ巻鳥クロニクル』を読んで共感と感銘を受けたことが話題になっていた。まあ欧米圏の本屋の日本文学コーナーには春樹作品がどこも充実しているので、読書家のトムがガルシア・マルケスなどとともに愛読するようになるのも時間の問題だったかもしれない。
 そして確かにトムが『ねじ巻鳥クロニクル』を読んだと聞いた頃、RADIOHEADと春樹の時代に対する問題意識は近親性を持っていた。悪とは何か? 我々の精神を著しく圧迫する暴力性はどこからやってくるのか? 我々はそうした緊迫感をもって両者を受けとめたのである。

 映画本編については公開前だが、トラン・アン・ユンらしい映像美にこだわられた画面作りや美意識が感じられるものの、日本映画としての出来、そもそも村上春樹『ノルウェイの森』の映画化としては不安を感じている。クライマックスが直子との別離にワタナベが海辺で泣くシーンらしいが、それが文学ではない「映画」ゆえに成立するとしても、またこの映画の必須要件だったとしても、少々心配になってくる。
 春樹の初期作品をハードボイルド的と見る者や安手のセンチメンタリズムと批判する者など評価は分かれているが、それは単純な二項対立などではない。原作の雨後の竹の子族はセンチメンタリズムだけに流れていったようだが、『ノルウェイの森』じたいは自己の物語を物語る叙述に意識的であり、そこには「直子との別離」という出来事に対しての相対距離が測られている。視点は現在時制での記述でなく、過去時制の記述としてある。そのようなナラトロジーの問題が「文学」だけのものとは必ずしも思わない。(R)
posted by R at 22:56| Comment(0) | TrackBack(0) | エッセイ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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