2010年11月13日

失われた祭りをもとめて〜村上春樹『1973年のピンボール』

★なぜ村上春樹は消える女たちを探し求めるのか?

 村上春樹の小説では、短編長編問わず頻繁に女性が消える。妻だったり愛人だったり恋人だったり、また失踪だったり自殺だったりと色々だが、とにかく主人公の前からいなくなることが多い。それが村上文学の「喪失」を特徴づける大きなそして具体的な出来事のようにも見える。
 むろん「僕」は、消えた女性を探し求める。それが探求譚といわれる所以でもある。「シーク&ファインド」の物語だと。しかし「僕」が「喪失したもの」をただ奪還しようとしているのだとは思えない。かつて「失ったもの」をもう一度手に入れようとするだけの物語ではないはずだ。もちろん消えた女性だけのことではない。失われたのは、自分の前からいなくなった女の向こうにある何かだ。それは過去のある時まで確かにあったものだ。

 『1973年のピンボール』で、「僕」は消えた女性「直子」の話に出てきたある駅を、彼女の痕跡を求めるかのようにそれから四年後の1973年にひとりで訪れる。だが結局むなしく帰ることになり思い知らされる。

 
帰りの電車の中で何度も自分に言いきかせた。全ては終っちまったんだ、もう忘れろ、と。そのためにここまで来たんじゃないか、と。でも忘れることなんてできなかった。直子を愛していたことも。そして彼女がもう死んでしまったことも。結局のところ何ひとつ終ってはいなかったからだ。


 忘れるため、終わらせるために来たのに、「終っちまった」ことを受け入れられなかった。逆に「何ひとつ終ってはいなかった」ことを再確認しただけだった。「僕」のなかで「直子」という青春、そうした時間性は死んでいないし、終わっていないのである。

 「僕」は1970年の冬、すでに「直子」がいなくなった世界で、あるピンボール・マシーンの呪術性から抜け出せなくなっていた。「僕」はそのマシーンを「彼女」と呼び、「彼女」からの呼びかけに答えるように対話(プレイ)する。何度も何度も(リプレイ)ハイスコアを目指す。「彼女」は「あなたは悪くなんかないのよ、精いっぱいやったじゃない。」と言うが、「僕」は「違うんだ。僕は何ひとつ出来なかった。指一本動かせなかった。でも、やろうと思えばできたんだ。」という後悔の念から抜け出せない。「やろうと思えばできた」という思いが「僕」にピンボールを何度もやり直させているのだろう。しかし、それはいずれにしろ「終わっちまった」ことであり、「やろうと思えばできた」かどうか、そうした「過去」は不可知ゆえにどこまでいっても回収できないものだが、「でも何ひとつ終っちゃいない、いつまでもきっと同じなんだ」とひたすら得点を高めることを目指しつづける。「彼女」に「終ったのよ、何もかも」と告げられたとしても。
 だから「彼女」がお払い箱になり行方知れずになったあとも、「しかるべき時がやってきて、誰もがピンボールをやめる。ただそれだけのことだ」といいながら、1973年になってもそのピンボールを探し出すことになるのである。「しかるべき時」がやってきても「僕」は「彼女」との対話(プレイ)を求めていたのだ。

 だが、最後にいたって「僕」は「直子」(「古い夢の墓場」にあったかつて失われたピンボールの「彼女」=「僕」が失ったもの)と「再会」し、次のように感じる。

 
僕たちが共有しているものは、ずっと昔に死んでしまった時間の断片にすぎなかった。それでもその暖い想いの幾らかは、古い光のように僕の心の中を今も彷徨いつづけていた。そして死が僕を捉え、再び無の坩堝に放り込むまでの束の間の時を、僕はその光とともに歩むだろう。


 「僕」はここで、お互いの間に流れていた時間は、もうずっと前に死んで砕片となってしまったことを実感する。「終っちまった」ことを実感するがゆえに、そこで失われていったものが放つ「古い光」は、死ぬまで「僕の心の中」に生きつづけるだろうことも確認される。それでも「僕」は「終り」の方へ歩み出すのだ。「彼女」が「ゲームはやらないの?」と訊いても、「やらない」と答える。再びスコアを求めることはしないのだ。「ベストスコア」をそのままにしておくためにも。そうして「彼女」にはじめて「さようなら」を告げる。

 
僕はピンボールの列を抜けて階段を上がり、レバー・スイッチを切った。まるで空気が抜けるようにピンボールの電気が消え、完全な沈黙と眠りがあたりを被った。再び倉庫を横切り、階段を上がり、電灯のスイッチを切って扉を後手に閉めるまでの長い時間、僕は後を振り向かなかった。一度も振り向かなかった。


 「僕」はもう「後を振り向かなかった。一度も振り向かなかった」のだ。「終っちまった」そのあとで、なお終れなかった「僕」は、ようやくその「終り」をみずから終えたのである。

 一方で対照的なのは、「僕」と同じように「直子」のことを引きずっていると思われる「鼠」の存在である。彼の心は短い夏が消えた後も、「僅かばかりの夏の名残りの中に留まっていた」し、「鼠にとっての時の流れは、まるでどこかでプツンと断ち切られてしまったように見える」のだ。そのようにしてすでに「死んだロープ」を手にしながら、導かれることもなくどこにもたどり着けないでいる。

 
ひとつの季節がドアを開けて去り、もうひとつの季節がもうひとつのドアからやってくる。人は慌ててドアを開け、おい、ちょっと待ってくれ、ひとつだけ言い忘れたことがあるんだ、と叫ぶ。でもそこにはもう誰もいない。……部屋の中には既にもうひとつの季節が椅子に腰を下ろし、マッチを擦って煙草に火を点けている。


 「ひとつの季節」が終わったなら、当然そこから抜け出さねばならないはずである。しかしそれは唐突に、あまりにも唐突にやってくるために俄かに受け入れて何もいわずにそこを出てゆくことは難しい。そうしたことに自覚的でなければ、いつも何か「言い忘れたことがある」気がするし、言い得なかったものを感じてしまうだろう。そうして「鼠」はついにそのまま何かを言わずに立ち去ることはできなかったということだ。
 そのことは冒頭で語られる「僕」の逸話に象徴的に示されている。たいていの物事には「入口があって出口がある」が、そうでないものもあるとして「鼠取り」を例に出すところである。ある時「出口」のない鼠取りを仕掛けた結果、当然のこととして若い鼠を死なせてしまうのだが、「僕」はそのことの悔恨から「物事には必ず入口と出口がなくてはならない」ことを考える。そして「出口」を抜け出せず死んだ若い鼠のように、この物語の中で「鼠」には「出口」は見出せない。
 むろんピンボールの呪術に入り込んで出られなくなった「僕」も同様ではあった。「孤独な消耗」をつづけ、「取り返すことのできぬ貴重な時間」を失った。「僕」は「これはピンボールについての小説である」と言い、あるピンボール研究書の序文を引いている。

 
ピンボール・マシーンはあなたを何処にも連れて行きはしない。リプレイ(再試合)のランプを灯すだけだ。リプレイ、リプレイ、リプレイ……、まるでピンボール・ゲームそのものがある永劫性を目指しているようにさえ思える。


 「ピンボール・マシーン」は「ある永劫性」を目指すものであり、「ひとつの季節」から抜け出すものではなく、むしろそれを阻害する呪術装置としてある。
 これが「ピンボールについての小説である」のもそのためである。この『1973年のピンボール』という小説について「僕」は、そうした「ひとつの季節」の終焉を確実に抜け出るために書かれるのだとその意義を述べている。「一九七三年九月、この小説はそこから始まる。それが入口だ。出口があればいいと思う。もしなければ、文章を書く意味なんて何もない」と。
 だからこそ「僕」が「僕は後ろを振り向かなかった。一度も振り向かなかった」と言うとき、「僕」はもうピンボールのリプレイをすることはないのである。そうして「僕」は「ひとつの季節」を出て行ったのだから。「1973年のピンボール」という「永劫性」からの「出口」を。
 それは「僕」の「祭りのあと」の、「僕」みずからによる鎮魂の物語なのである。(R)
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