2010年10月10日

浅野いにお『ソラニン』〜ムスタングが奏でる「祭りのあと」

 浅野いにおはかなり早い段階から取り上げてきたと思うが、2003年頃『素晴らしい世界』を読んだときから、同じ空気を吸って同じものを見て同じものを手にして同じようなところに拘ってきた作家だなと共感するところが多かった。そうした浅野いにお自身の趣味や価値観を最も出してきたなと思ったのは『ソラニン』だった。だから映画『ソラニン』でも種田の部屋にはVOXアンプにエレハモのエフェクターがあるしギターはフェンダーだ。そしてVESPAタイプのスクーターに乗り、スニーカーで舞台に立つのだ。同じ嗜好圏内の青春がそこにはあった。

 冒頭の音楽からすでにドラムの疾走感があり、そのリリシズムは『リンダリンダリンダ』のジェームズ・イハ(元スマパン)の仕事を思い出した。また種田のバンド曲は初期のゴーイング・アンダーグラウンドのような焦燥感があって好きだ。しかもリハやライブのシーンは臨場性に富み、驚くほどいい出来だと思う。長年読んできた『BECK』はまだ観ていないが、この手の作品が近年続いてるその数々を観てきたなかで、おそらく今のところ最も優れてライブバンド的な達成がある。本当のバンド好きはこのライブシーンを見て、『けいおん!!』なんかよりもバンドをやりたい気持ちに駆られるのではないかという喚起力・求心力があった。種田は、『BECK』などに見られるギター・ヒーローとかロック・アイコンのような存在からはほど遠い等身大のバンド野郎である。その音楽はスターダムにのし上がるためのツールでもなければ、何かを表現するための手段ですらなく、ただ自分が自分であることを生きのびるためにどうしても鳴らされなければならない音としてある。そこには肉体性のリアリティが不可欠だが、原作の種田よりは、こと音楽シーンにおいてそれが感じられた。
 それにしてもムスタングは色んな作品にひっぱりだこだ。『BECK』のコユキが手に入れる幻のムスタングは連載当時よりも更に時価が跳ね上がっている。『けいおん!!』でも中野梓が使っていて、確か「むったん」とか名づけてた気がする。

 映画『ソラニン』では、意外にも原作が秘めているものが形象化されていて、原作を読んだとき以来あらためて伝わってくるものがあった。浅野いにおのマンガは淡々とした表現の中に絶望が深く刻まれるので必ずしも人物造形のそれぞれがはっきりしているわけではないが、初のメジャー連載だった『ソラニン』は比較的その辺が整理されていた。そのこともあってか、映画化において浅野いにおという作家のなかで断念されているものが、それぞれの人物において上手く象られて浮かび上がってきているように思える。ただ花火のシーンなど、やや演出やテンポ感が易き定型に流れたりするところがあって第一級には届いていない。しかしそれも近年の邦画ではましな方ではあると思う。

 浅野いにおは「祭りのあと」を描く作家である。「祭りのあと」とどのように付き合うのかということ。もっと言えば「祭り」をいかに終らせ、それと訣別して生きていくのかという問題に照準している。モラトリアム終焉後になお残るモラトリアムという圧制から、いかにして飛翔するかの煮え切らない模索をありのままに綴っていくのである。
 『ソラニン』では、それは解決されないまま種田が死に、遺された者に手渡される。そして種田が死んだあとでも、時間は過ぎていくのだということをどのように受け入れていくかという問題へと繋がってゆく。芽衣子は種田の歌を歌い継ぐ。そこには遺された者が死者を鎮魂することによって死者と訣別し、「祭りのあと」を生きてゆくことへの静かな歩み寄りがあるのだ。(R)
posted by R at 00:12| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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