(ストーリー)
乙一の短編小説集の映画化。映画化されたのは『カザリとヨーコ』『SEVEN ROOMS』『SO-far(そ・ふぁー)』『陽だまりの詩』『ZOO』の五作品(『陽だまりの詩』はオールCGのアニメ)。
要するに「世にも奇妙な物語」みたいなもんか。
オムニバスということだが全て原作は乙一の小説なので、内容自体はどれもしょうもない。あとは脚本と演出でどこまで見せるかというところなのだろう。
一本目『カザリとヨーコ』
駄作。顔は全く同じの双子だがカザリは可愛くて親にも可愛がられ、一方のヨーコは醜くて親に疎まれるという状況がよく分からない。矛盾しすぎである。双子が生まれたとき蛙みたいと言われたとか母親が言っていたが、いくら何でも双子に失礼だし、双子くらいでビビるような親がいるか? だいいち、蛙はもっとたくさん産むだろが。リアリティがなさ過ぎだし、頭ぼさぼさなヨーコのキャラも不自然すぎ。ギャグにしか見えないが、どうも制作側はマジメにやっているつもりらしいので、笑っていいものかどうか迷うところ。
二本目『SEVEN ROOMS』
まあまあ。いきなり監禁されているところから始まるのは『CUBE』みたいだが、内容自体は遙かに下。しかし下水の汚い感じはよく出ていたと思う。身勝手だった姉ちゃんの勇気ある行動がもっとぐっとくる感じで表現できていたら良かったのだが。
三本目『SO-far(そ・ふぁー)』
全体を通じて固定カメラを使い、アングルや照明など細かいところまでよく演出されている。ソファーがやけに赤いところや、父親が妙にでかく見えるところや、セリフの全くないところでカットを三つに分けていたりするところなど、作りはとても丁寧。悪く言えば凡庸なのかもしれないが、他の作品が妙に才気走ったり、雑になったりするのに対してとにかく丁寧に作っているので好感が持てる。
四本目『陽だまりの詩』
アニメ。結構好き。何となく『風の名はアムネジア』を思い出す。こういう「その後」を描いたSFは好き。
五本目『ZOO』
五本中最も退屈。これはいらない。もういい加減に気怠い雰囲気だけで実は別に何も考えていない人物が出てきてうじうじしている話などを撮るべきではないと思う。死体の特殊メイク以外、特に見るべきところはない。(A.I.)
個別化の問題。われわれは、自分の立っている場所からしか、ものを見ることができない。この限定された認識(パースペクティヴ)の中で、いかにしてその認識を拡張することができるのか? そんなことを考えさせられた映画だった。とりわけ、それは、『SEVEN ROOMS』を見て、そう思ったことだ。
この作品のテーマとは、端的に言って、「超越すること」だろう。つまり、個別の条件、個別の認識を超えて、いかにして超越的な視点を確保できるか、という問題である。なぜ、このようなことが問題なのか? それは、まさに、『SEVEN ROOMS』において、主人公たち姉弟が課題としていたように、行き詰まりを打開するためである。
行き詰まり。その原因のひとつは、われわれの認識の限界にある。われわれは、自分の立っている場所からしか、物を見ることができない。それゆえ、認識を何らかの形で拡張するためには、横に繋がっていくことが必要である。つまり、必要なのは、他者とのコミュニケーションである。
自分自身がどこにいるかを知るために他者とコミュニケートする。(仮に)他者の場所に立つことによって、それまで自分がいた場所を振りかえる。行き詰まりを打開するためには、このような作業が必要なのではないか?
同様の問題は『SO-far(そ・ふぁー)』でも描かれている。問題は、いかにして、メタレベルに立つことなしに、自分のいる場所を位置づけるか、ということである。
超越的な場所、すべてを見渡せるような場所に立っている人間など、果たして存在するだろうか? 今日の社会は、とりわけ、見通しが悪いのではないか? 自分と家族、自分と友人、自分と恋人、自分と隣人、その間の距離はますます広がっているのではないか? 「私」の視点というものは、横と繋がることもなく、孤立してしまっているのではないか?
こうした時代背景のためか、乙一の作品は、メタレベルを拒絶することによって物語を展開させる。ある視点から別の視点へと視点の移動があったとしても、それは、メタレベル(メタな視点)への移行ではなく、横並びになった複数の視点のひとつへと移行したにすぎない。つまり、無限に別の視点へと移動することが可能である反面、どこにも特権的な視点というものは存在しないのである。
このことはネットの言説に顕著に現われているかも知れない。本気でその発言をしたのか冗談でそれを言ったのか、それを判別する決定的な手段は存在しない。すべては横並びであり、ひとつひとつの価値はみな同じである。しかし、すべてがネタだったとしても(あるいは、すべてがネタであるからこそ)、逆にそこから、ベタなものが浮かび上がってくる場合がある。これがネットの不思議なところである(『電車男』についても、こうした視点から分析することができるかも知れない)。
乙一の作品は、「あらゆるものは計算可能だ」というデジタルな思考に促されている。しかし、その目的は、デジタルでは捉えきれないアナログなものを拒絶するためではなく、デジタルな思考を徹底的に推し進めることによってだけアナログなものを示すことができる、ということを言いたいがためではないのか(このことを描いた作品が『陽だまりの詩』である)。
われわれは、もはや、ベタなメッセージに心を動かされることはないだろう(「愛はお金では買えない」など)。われわれは、あらゆるものから距離を取ることに慣れてしまっている。しかし、だからといって、完全にシニカルなわけでもない。あらゆるものから距離を取るのは、逆に、決して疑うことのできない絶対的な真理を求めているからとも言えるのである。何かを信じたいがために、まずは疑っているだけなのである。
乙一が示していること、それは、絶対的な真理は存在しない、だが、すべてが嘘であるわけではない、ということではないか? 「絶対的に正しいものは存在しない」と「すべてのものが嘘であるわけではない」との間。この微妙な一線を、彼は描き出そうと苦心しているように見える。
ネタバレを避けるために話が抽象的になったが、この映画を見れば、こうした抽象的な問題が、非常に巧妙に、具体的な物語によって提示されていることが分かることだろう。(SIZ)
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