2008年12月27日

愛ゆえに人は苦しまねばならぬのか?(現代マンガの潮流E)

(この記事は2004年8月11日に書かれました)

 南斗鳳凰拳の使い手、聖帝サウザーは「愛ゆえに人は苦しまねばならぬ」として愛を捨てるに至った。サウザーの言葉を借りれば「こんなに苦しいのなら悲しいのなら……愛などいらぬ」のである。だが、最後には自らの手で殺してしまった師への愛を再確認し、サウザーは安らぎと温もりのうちに死んでゆくことになる。また北斗神拳最強の男と目された拳王・ラオウは修業時代に、ユリアを手に入れることも自分の野望のひとつだと豪語したが、実弟・トキに「それは野望ではない 愛だ」と指摘されうろたえる。ラオウは天を目指すがゆえに愛を捨てようと試みるが果たされず、ユリアへの愛を自ら受け止め北斗神拳究極奥義・無想転生を纏うことになった。ラオウと北斗神拳伝承者のケンシロウは共にユリアを愛し、共に無想転生を纏った。ラオウはケンシロウに敗れたが「わが生涯に一片の悔いなし」と言って雄々しい最期を遂げるのだった。

 すべては愛ゆえに、であった。

 ごく冷静に考えて、命のやりとりをしている最中に愛がどうしたなどと言うのだから、ずいぶん歪んだ人間性だと言わざるを得ないが、それはともかくとして、「お前はもう死んでいる」「ひでぶ!」「あべし!」というグロ表現で当時PTAからクレームがついた少年誌最強の格闘マンガ(とぼくは思っている)が、常に謳いつづけていたのは愛の尊さについてなのであった。尤も北斗神拳究極奥義が愛と悲しみを知らなければ体得できないものなのだとすれば、これまでの伝承者がひとりとして無想転生を纏えなかったという事実は、歴代の伝承者が嫌な性格の持ち主ばかりであったことを証明しているようにも思える。が、まあそれは不問に付すとしよう。

 しかし、一言に愛と言ってもこれはなかなかに難しいものがあって、映画を観ても音楽を聞いても愛という言葉はそこらじゅうに氾濫しているが、イマイチぼくにはぴんとこないし、自分自身を振り返ってもこれまで付き合ってきた彼女を一度でも愛したことがあるかと言えば、これもだいぶ疑わしいものがある。「好き」ではあっても「愛」であったとは思わない。そう言えば、そこらへんの気持ちが自分でも不思議で、前に一度試しに彼女に向かって「愛してるよ」と言ってみたら、露骨にイヤそうな顔をされたことがあって、これはまずいところに触れてしまったらしいと思ったことがある。実際ぼくの周りのカップルを見ても自分の彼氏彼女に対する感情を愛という言葉で表現した人間はひとりもいなくて、まあふたりのときには「愛しているよ」「ええ、私も」とか言い合っているのかもしれないが、正直に言えばこれはかなり気持ち悪いと思うし、それ以上にどこか不健康に見えるのだがどうだろうか。

 少なくともぼくが自分の付き合っている彼女に対して感じる感情は、愛という高みあってきらびやかに輝くようなものではなく、同胞意識や友情や義務感といったどちらかと言えば手触りのある身近な感覚だ。これは単にぼくの中で恋愛というものの比重が著しく軽くなっているせいかもしれないが、しかしそうとばかりは言えないだろう。

 先に挙げた『北斗の拳』は長いあいだぼくの生き方の教科書であったが(例によって何ひとつ学びはしなかったが)、それにしても愛を至上の価値とする価値観は一体いつ頃からできあがったのだろうか。

 室町時代にキリスト教が日本に入ってきたとき、伴天連たちがキリスト教の教えを翻訳する際苦労したのが、「愛」という概念だったという話をどこかで聞いたことがある。当時日本語に「愛」に相当する言葉はなかったから、伴天連たちはこれを「おたいせつ」と訳したという。つまり「神の愛」は「神様のおたいせつ」と言ったわけだ。

 これが明治以降の小説を読むとここかしこに「愛」が溢れるようになっていて、江戸時代に恋愛小説があったのかなかったのかぼくは専門ではないので知らないが、漱石の『こころ』や鴎外の『舞姫』のような恋愛小説が「近代的自我」というキーワードで語られるところからすれば、やはり愛というのは近代の産物だったのだろうと思う、たぶん。

 ここらへんは小谷野敦の『恋愛の超克』あたりを読めば分かるのだろうが、むろんぼくは未読である。

 さて、近代に至って生まれた(らしい)愛が、まず最初に立ち向かわなければならなかったのは、家父長制などの制度であった(ようだ)。もうここら辺になると無学なぼくは断定的なことは何一つ言えなくなるのだが、例えば鴎外の『舞姫』はやはりお家のためにエリスを諦めるという愛vs制度の物語だった(そして愛が敗れる)し、昭和七年に起きた慶応大学学生と資本家の令嬢が童貞・処女のまま心中した坂田山心中事件も、その動機は2人の仲を親に許されなかったところにある。この事件は映画化され当時大ヒットし、これを真似た心中事件が何十件も発生したらしいが、これなどは愛vs制度の典型的な例であると思われる。

 戦後になって近代的制度に対する批判が行われるようになって、こういう愛vs制度という構図は更に見えやすいものへと転じ、制度によって敗北する愛は、そうであるがゆえに尊いものであるという性格までも獲得するようだ。例えば伊勢正三の「22歳の別れ」というフォークソングは、顔も見たことない男の元へ嫁いで行かなければならず、五年同棲していた男と別れるという歌詞だったし(とは言え、こんな事情が当時でもあったとは到底思えないが)、尾崎豊の「I love you」だってやっぱり何かから逃れるようにして漸く成立する愛の歌だったわけで、ここにもほんとうの愛は、それに立ちはだかる制度という障壁の前に敗北を喫するという構図を見てとることができる。このように制度からの遁走が前提にあった愛は、『北斗の拳』においてはラオウがユリアへの愛を自覚し、サウザーが師への愛に再び目覚めるように、いつの頃からか「最後に愛は勝つ」(KAN)ものへと変化してゆく。長い間堅牢な壁として立ちはだかる制度の前に常に敗北を喫してきた愛は90年代を間近に控えて、ついに勝利をものにしたのであった。この、愛が制度に敗北するという構図から、「最後に愛は勝つ」という構図への変化は、

愛=民主主義的で自由で人間の本質的感情
制度=そのような人間の本質を抑圧し束縛し規制する仮構

というような認識に由来するのだろう。だが、先に述べたように愛という概念が近代に於いて生まれたものだとすれば、愛もまた近代自我などと同じように近代的制度の産物でしかあり得ない。だが愛は、自らが制度でしかないことを忘れ、人間が持って生まれた本質であるかのようなフリをすることによって、崇高さを手に入れた。愛は人間にとって最も重要で根源的な感情とされ、それゆえ愛は家父長制や社会の抑圧などといった制度という人工物に負けるはずがなく、どんなにその道のりは困難であっても最後に愛は勝つものとされるのである。愛は必ず勝つ。北斗神拳究極奥義・無想転生を纏うための要とされるようになったのも必然と言えよう。

 しかし愛が無想転生を纏うために必要とされるに及び、では無想転生を体得できなかった北斗神拳の歴代伝承者たちは「愛が足りなかった」のだと言い得ることになる。それではいったい「愛が足りない」とはどのような状態を指すのだろうか。

 そもそも愛などというものはもちろん小麦粉とは違って計量カップで100CCというように計ることのできるものではなく、だから「愛が足りない」などというものはほとんど独断と偏見に基づいた物言いであることは間違いない。ラオウはユリアに対する感情をトキに「それは野望ではない 愛だ」と肯定的にとってもらえたから良かったようなものの、これが逆で「それは愛ではない」だったらこれほど寂しい話はあるまい。自分が愛だと確信していたことを他人にあっさり否定されるのである。愛が本来そうであるべきなように、自らの心の中に発見するものに留まっていたら、良かったのにとぼくは思う。そのような愛は他人には見ることができず、自分の心の中にひっそりと育んでいくものだっただろう。それならば例え「愛ゆえに人は苦しまねばならぬ」ものだとしても、少なくとも自分自身の問題に留めておける。愛は制度と対峙する手段でも究極奥義を纏う手段でも最後に勝つものでもないはずだ。サウザーのように愛が苦しみに負け、それを捨てることになったとしてもそれを誰が責められようか。しかしいつの頃からか、愛は可視化していき、計量され、秤に掛けられ、交換するものへと変貌した。愛がないと責められ、「本当に私のこと愛しているの」と尋ねられ、「本当に愛している」と言い訳する。「でもそうは見えない。証拠を見せて」と彼女が言えば、彼は愛の証をどのようにかして「見せて」みせる。どういうわけかこのようなやりとりを行う彼らには愛が「見えて」いるのである。愛を幻視する彼らは、だから愛を計量することができる。愛を計量することができるから、その愛が「ほんとう」かどうかまでも判断できるのである。だが、「ほんとうの愛」を志向するということは、同時に「ほんとう」ではない愛は切り捨てられることが前提になっている。「ほんとうではない」として切り捨てられた愛は、「よりほんとう」である愛に取って代わられる。昨日まで仲睦まじかった夫婦も、その愛は「ほんとうではなかった」として今日にも別れることが「出来る」。

 かつての近代的家族制度は女性を抑圧し、疾うに愛の冷めた夫婦でも一緒にいることを半ば強要された。お見合いやら許嫁といった制度によって愛のない結婚を強いられることもあっただろう。しかし一方で様々の理由により(ごくオーソドックスな理由としてはブス・ブサイクであるとか金がないとか)愛を勝ち得ることのできない男女をすくい上げる機能を果たしていた部分もある。自由恋愛が一般になった今日、それはとりもなおさず愛までもが資本主義的な自由競争の波にさらされることを意味している。可視化し、計量することのできる愛は、換金され、交換することができるようになる。「ほんとうの愛」を手に入れることのできない恋愛弱者は仕方なく愛を「買う」一方で、それらは「ほんとう」の愛ではないとして一蹴される可能性を持つ。どれだけ長く寄り添ってきた夫婦であっても、その愛が「ほんとう」ではなかったと判断された瞬間、その愛は捨てられる契機を持つことになるのである。

 90年代のはじめ、KANは愛は勝つ、と歌った。だが、愛が勝つのだとしたら、そこでは愛によって負かされたものがあるということでもある。愛に負けたもの。それこそが90年代という「失われた10年」で失ったものではなかったか。(A.I.)
posted by SIZ at 20:05| Comment(1) | TrackBack(0) | マンガ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
深いですね。いろいろ考えさせられました。
Posted by 4leavescl0ver at 2011年05月13日 16:36
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