2008年06月20日

熊の場所(舞城王太郎)

(この記事は2004年10月13日に書かれました)

 三島由紀夫賞候補作。舞城のエッセンスがつまった短編集らしい。

 帯に「最強の純文学!」と銘打ってあるが、これを純文学と呼べるんだろうか。やはりホラー、ミステリというようなジャンルに括られるべきものであるように思われる。べつに純文学でなくったっていいし、むしろ純文学というくくりにしてしまったがゆえに、作品の魅力が軽減してしまうような事態だってあると思うのだ。

 純文学というものは、ジャンルの制約をうけない。逆にいえばジャンルの培ってきた〈型〉に直接的に則ることができない。きわめて実験的な領域である。

 もちろん、ジャンル小説にはジャンル小説のよさがある。おのおのの作者は、〈型〉に則ることで、自分たちの個性の差異を際だたせることができる。〈型〉の追究がそのまま個性の追究につながっていくという両義性をはらむ。また、〈型〉はそのまま万人に共通なコミュニケーション手段であるから、〈型〉の実践をとおして、相互理解につとめることもできる。

 だから当然、凡人、というか普通の人間は、この〈型〉に則るべきである。普通の人がどんな手段にもよらずに発言しはじめたら、それはただの独り言、他者を想定しない自己満足に陥ってしまう。

 ジャンルというものは、自己満足に陥らないための、一種の安全装置であるともいえよう。

 それにたいし、定まった〈型〉をもたない純文学は、みずからで〈型〉をつくらなければならない。村上春樹は純文学作家だろうが、春樹が一度英文で書いてそれを日本語に直してみるなどして、文体に苦心したように、自前で一から〈型〉をつくらなければならない。大変だし、自己満足にも陥りやすい。

 しかしその分、それが達成された折には、安全装置をかけたままのジャンル小説ではえられない新しい表現世界をうむだろう。だから当然、我々は純文学に期待する。期待が裏切られようが裏切られまいが、それとは関係なく、理屈として期待するようになっている。

 これがジャンル小説と純文学のちがいであるといえそうだ。

 で、舞城だが、けっしてつまらないわけではない。というか面白い。伏線もちゃんとまとめているし、読ませる。題材も興味深い。テーマの表現も達成されている。しかし、純文学としてみるとどうか。猫殺しや浮浪者狩りという素材が今っぽい。一文が長いというのも、いかにも今っぽい。装幀もしゃれている。が、正直、「熊の場所」からは村上春樹の「七番目の男」を、「バット男」からは同じく春樹の「沈黙」が想起された。春樹は同じテーマを、特に流行・話題性・猟奇趣味・探偵趣味に拠らずに描いてみせた。というかすでにこの時点で舞城は新しくない。どうしても舞城は分が悪い。読者は純文学といわれれば期待してしまうので、損している。これがホラー、ミステリという括りだったら、「ホラーなのに、ジャンルに甘んじず、〈型〉に則ったうえで個性を表現できている」とかなんとか評価されただろうに。

 ということで、特にお薦めというわけでもなく、「読まないほうがいい」というわけでもない。(イワン)
posted by SIZ at 01:11| Comment(1) | TrackBack(1) | 読書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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Posted by 藍色 at 2010年10月27日 12:06
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熊の場所 舞城王太郎
Excerpt: 何が飛び出すか誰にもわからない最強の純文学。圧倒的文圧で疾走する表題作を含む全3編を収録。僕がまー君の猫殺しに気がついたのは僕とま
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Tracked: 2010-10-27 11:49
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