2010年09月24日

アフター・カーニバル深夜便〜第24回生放送の告知:今敏のアニメ作品について〜

9月25日(土)夜24:00〜(26日(日)0:00〜)

会場
http://www.ustream.tv/channel/siz-ashizu

アニメの週 担当:SIZ

第4回:今敏のアニメ作品について

先月の24日に亡くなった今敏監督のアニメ作品について語ります。
単なる追悼特集にはしたくはないと思っていて、今敏監督の作品が90年代からゼロ年代にかけてのアニメ状況の中でどのような位置を占めていたのか、というところまで話が進めばいいと思っています。(SIZ)
posted by SIZ at 16:53| Comment(0) | TrackBack(0) | 生放送の告知 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年09月17日

アフター・カーニバル深夜便〜第23回生放送の告知:村上春樹『東京奇譚集』から「偶然の旅人」を読む〜

日時:9月18日(土)24:30〜(19日(日)0:30〜)

会場
http://www.ustream.tv/channel/siz-ashizu

本の週 担当:イワン

第4回:村上春樹『東京奇譚集』から「偶然の旅人」を読む

『東京奇譚集』は、みなさんお持ちかと思います。
時間がなくてもこれくらいは読み返せるかなと思い、挙げた次第です。
いずれはきちんと読まなくてはならないとも思っていたこともあるので。

「さぁ読もーか」(イワン)
posted by SIZ at 15:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 生放送の告知 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年09月16日

ドビュッシーがベートヴェンを蹴落とした日

 以前書いた「ドーナッツのリング(川本真琴)」で、川本の気質として非和声音へはみ出ようとする傾向があることを指摘したのだが、調性からの逸脱ということに関して言えば、そもそもクラシック音楽史におけるその歩みを確認すべきだろう。いわゆる調性音楽とは古典派(モーツァルト・ベートーヴェン)を頂点とする西洋の音楽システムであり、現在の音楽までを支配している音楽概念だが、クラシック音楽史では20世紀付近になってそれが顧みられなくなるという状況が生まれていった。無調音楽もそのひとつである。

★調性音楽の呪縛

 ところで調性音楽を支えているのが機能和声と呼ばれる和声理論である。機能和声とは、その名の通り一つ一つの音の積み重ね方や連ね方に一定の役割・機能を持たせてシステム化したもので、この原理は現在でも我々が一般的に耳になじみやすいと感じられる全ての音楽を支えている土台である。なぜこの曲は哀しい響きがするのか?とか、なぜ緊張感がもたらされるのか? あるいは安心感・救済感や、曲が終結するときの終止感が何によってもたらされているのか、といったこと全てを説明づけている理屈であり方法論というわけである。主に主音(トニック=ハ長調ではC=ド・ミ・ソ)・属音(ドミナント=ハ長調ではG=ソ・シ・レ)・下属音(サブドミナント=ハ長調ではF=ファ・ラ・ド)という3種類の和音を用い、その組み合わせ方によって機能と役割を作りだしている。機能和声によって作られた多くの楽曲が、ドミナントからトニックに和音を変移させれば必ず最も安定感のある終止感をもたらす機能を果たしますよ、という約束のもとに作曲されている。

 そうしたルールに基づいた音楽作品は19世紀になる頃に頂点を迎える。逆にいえばそこで行き詰まりをも迎えてしまうことになる。主にドイツ音楽圏で強固に形成・継承された調性音楽は、ワーグナーら後期ロマン派を通過して、早く見れば19世紀には消滅しだす。よく言われるようにワーグナーじたい最も調性音楽を肥大させた音楽家であろうが、そのワーグナー作品の中に既に後の時代の音楽観が萌されている。ワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」、殊に有名な「愛と死」のテーマには、おびただしい転調や非和声音・ノンダイアトニックスケールの使用によって、異様な緊張感と高揚感と甘美さがもたらされている。だがにもかかわらずワーグナーにしろ、その弟子筋のリストにしろ、いわゆる20世紀の無調音楽とは異なり、基本的にはあくまで調性音楽の中で作曲されていたのである。時代は遡るがバッハの不協和音あるいは内声の複雑さも、あくまで調性のなかで緻密にカリキュレイトされたものであり、ポリフォニーを駆使した多声音楽の権化といっても、やはり20世紀的な文脈のそれとは別物であると言えるだろう。

★ドビュッシーの登場

ワーグナー以前の初期ロマン派にも脱調性の萌芽はあった。近代=ロマンの時代の個人意識に目覚めたヨーロッパ人にとっては、自己の内面は複雑にして多面性をもったものとして見つめられることとなった。それゆえか、そうした微妙さを凝視した作曲においては、古典派以前の特にベートーヴェンのようにゆるぎなく構築され組織化された調性音楽を、いくらかでも逸脱し言わば調性未然へと融解させなければ表現に不都合が感じられて来たかのように見える。シューベルトやシューマンらの初期ロマン派にややその傾向が見られるというわけである。

印象派音楽の代名詞であるフランスの作曲家ドビュッシーになると、音の一つ一つが古典的な調性音楽を解体したところで鳴らされるようになる。そのように自立した純粋な音の響きそのものの表現によって初めて描写されうる風景・情景が創出され、発見されることになるのである。

★印象派絵画への接近

 伝統的な機能和声では、不協和音は必ず解決されるべき一時的な「不安定要素」であった。バッハのあの重畳な不協和音でさえも、最終的な協和音への過渡的な夾雑物という側面が強い。むろん場面表現として不協和音そのものが強調されている部分も有れば、純粋に不協和音が悦楽されている様子があるにしてもである。ドビュッシーの音楽では不協和音はまさに不協和音として自立を果たし、それとして純粋に鳴らされる。したがって協和音へ解決して安心感をもたらすという役割を降りている。例えば属7和音から主和音へ向かうのでなく、無限に属7和音が横滑りしていくかのような抽象度の高い描写になる。そのことでどんな音響世界が現れたのか。それは、いわゆる印象派絵画のように、ゆらめく一瞬の光の陰影や刻々と移り変わる色のグラデーショナルな世界の多様性を奏でるものであった。色や輪郭のあいまいで不明瞭・不分明な外界の表情がもたらす「印象」を「ありのまま」に描出して見せる印象派のヴィジョンは、ドビュッシーによってそのつどの響きの一回性で点描される音のタペストリーへと転生したのである。あるいは年下のラヴェルにおいても「水の戯れ」などがそうした書法で作曲されていると言われている。

 こうした音楽によって初めて音楽表現が、世界の事象の微細な変移や、あるやなしや確定不可能の複雑性を獲得することになる。過去の標題音楽が言わば目に見える物体の輪郭をなぞり明確に跡付けるようなものであったとすれば、ドビュッシーの音楽世界は微粒子あるいは波動の世界のドラマをまさに劇的に描き出して見せたということになるだろうか。

 このあたりの文脈は現代ギター・ロックの世界では、ポスト・ロック系の音響派にも通じるところがあるように思う。シカゴ・アンダーグラウンド界隈やトリプル・ギターアンサンブルによるシリアス・ギター・オーケストレーションを標榜するモグワイ周辺のインディー系インスト・バンドに共通しているのも、コード進行による物語話法(ナラトロジー)より、どちらかと言えばそのような一つ一つの音響とその積分によって、まだ誰も見ぬ風景を現出して見せることを優先しているように思えるからである。
 
★五音音階の摂取

 ドビュッシーの和声進行は、古典派とはプライオリティに変位があるのであって、必ずしも調性に準拠した進行を命題としていない。それゆえに単純なダイアトニック・コードの陳列に見えて、機能和声的には不可思議な動きを見せることが多い。
 それでもドビュッシーの代表曲「月の光」「二つのアラベスク」「亜麻色の髪の乙女」など、多くの作品に調性音楽の名残が強く、これが例えばベートーヴェンのソナタ「月光」第一楽章などと実際のところどう違うのかという問題は残る。ベートーヴェンの話型の特徴は、和声進行によって全てを物語ろうとする造作にあるだろう。極端に言えば主要三和音の構成音を分散和音として組み合わせて行くだけで成立する。あとはその礎石に知的な仕掛けを装飾していくことで大味になるのを抑制してみせるのである。「二つのアラベスク」などにも似たところがあるが、ここには異文化の音階(またはガムラン音楽などのリズム)との出会いが加えられている。ジャポニズムなどのオリエンタリズムは当時の流行であったろうが、行き詰まりを迎えた西洋音楽は全音階から民族音階、とりわけペンタトニック・スケールと呼ばれる五音音階を手にしようとする。五音音階についてはまた別に書こうと思うが、簡単に言えば西洋が編み出した全音階の七音の内、特定の五音のみを選んで使用することで特徴的な旋律の調子を得られることになる、ある意味では便利で使い勝手のいい枠組みである。旋律を機能和声から発想していくというより、スケールによる旋法から作れるため、あまり機能和声に縛られずに自由なフレージングが可能となる。後代マイルス・デイビスらJAZZ界がモード・システムを採用したのと似たような理由と言えるだろう。

 五音音階では原理的に旋律に半音関係が生じない。つまりどの音からどの音に進んでも全音関係となる。それが民謡的な旋律に聴こえる理由である。アーメン終止にもドミナント終止にも和声的に半音進行が含まれてくるが、それによって終止感や到達感が生じている。単音でも長調のスケールでは7度から8度の半音進行に至るとき登頂感を感じるのである。逆に言えば半音進行がなければ辿り着くべき地点は永遠に現れない。
 例えば「君が代」は概してつかみどころのない曲だと言われ、まったく琴線に触れないまま、どこにたどり着くこともなく気付いたら終わってしまうような曲だという感想を持たれることが多いが、それは「君が代」のなかに緊迫や情緒をもたらすような一切の半音使いも登場しないことによる。ドビュッシーはホール・トーンスケール(全音音階)と呼ばれる半音関係を全く含まないスケールを使用しているが、「亜麻色の髪の乙女」などではスコットランド系の音階からヒントを得て、それより一音少ない五音音階によって作曲している。そして基本的にはこの五音音階を使いながらも、時に応じて6音目や7音目を使って半音階の抒情を紡いでみせるのである。そのようにして旧来の調性音楽からの脱却を図ろうとしたのであった。その後シェーンベルクの十二音技法によっていよいよ調性の文脈・伝統は解体されて行くのである。(R)
posted by R at 21:03| Comment(0) | TrackBack(0) | 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年09月15日

J・S・BACHは職人か芸術家か?


 ここ最近のブログの一連の議論からは離れるのですが、関連した問題をさらに考えてみようと思います。

 タイトルに掲げた命題は結論から言うと、そのようなナンセンスな二者択一はバッハ像の精確な理解から遠ざかるものだと言えます。
 もちろんここで言う「職人」にしろ「芸術家」にしろ、バッハの時代における文脈の中で理解する必要があります。

 当時の「職業」とは、それがどんなものであれ、単なる生活労働などではなく神から与えられた使命でした。だからこそ、バッハは毎週の仕事に忙殺されながらも、一音一音祈りながら作曲していったという挿話に表れているように、授けられた才能の能うる限り「良心的」に受注仕事を献呈していたわけです。請け負った仕事に応じる形での、音楽的に最良の作品を作り続けたという意味では、まさに「職人」的と言えます。「芸術家」として地位を築こうという作曲姿勢からは程遠いわけです。言ってみれば『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』にあるような「職務遂行の精神」があったということかもしれません。バッハのこうした側面からは、創作がすなわち自己同一性の模索・希求であるといったような様相は見られないわけです。「職務」を離れた芸術創作やモチーフの探求、あるいは人生観の仮託などといったものは希薄です。

 ではバッハが単なる「仕事人」に止まる存在でしかなかったかと言えばそうでもありません。晩年のバッハが「職務」を離れてなお自分の音楽を「職人」として培った技量と鑑識をもって総決算しようとしていたことに鑑みれば、そこにおのずと「芸術家」としてのバッハ像をもうかがえるのです。もちろん「芸術家」と言っても、専門家が集う制度化されたコミュニティに参加したり、その偶像性を大衆に消費されたりといったようなモダンな「芸術家」像とは違います。ベートーヴェンはそうした「芸術家」だったかもしれませんが、バッハは神を中心とした同心円の共同体や社会を最後まで離れたわけではないからです。神を超えて自己の芸術業を営もうとしたわけでもありません。逆に言えば、むしろ神によって自己の存在理由が確保され続けていたことで、そうした「芸術的な営み」が可能であったという自明の逆説が読み取れるのです。
 
 ところで話は変わりますが、AKB48の作曲者は近年珍しいタイプと言えます。全て同一人物なのか分かりませんが、名前が一般的に無名だからです。過去10年以上、ヒットした現代アイドル・グループの作曲者・プロデューサーは小室哲哉でもつんくでも、良い悪いはともかく個性を持った「作家」でした。量産体制に入ると本当に本人が作ったのか疑わしいくらいの粗雑な楽曲も有りますが、おおむね作風には刻印があります。それに比べてAKB48の曲はどれも作家的な特徴に乏しいが、職人的に一定水準の仕事をし続けているという印象があります。とてつもなく良くできた曲でもないし、王道を外れない代わりに真新しい挑戦が見られるわけでもありませんが、アイドル・ポップスとしては常に一定の工夫が施され、才能も垣間見られます。中途半端に才能を有した「作家」が無頓着にそれを消費していくよりは、こうした「職人」のほうが幾らかましにも思えます。

 それに比べれば秋元康はまともな歌詞を書いているとはとうてい思えませんが、かつてまがりなりにも美空ひばりに「川の流れのように」を提供した作詞家なわけですから、本気で「詞」を書こうと思えばできなくはないでしょう。もちろんAKBに「川の流れのように」のような達観した境地を歌われても困るわけですから、あくまでGIRLS POPSとしての歌詞を作っているわけですが、それにしても中身のない記号の羅列になっているかのようで、ほとんどの人が歌詞を顧慮しません。そうした事態は少なくとも小室哲哉の頃にはアイドル歌謡の「常識」になっていたように、秋元もそもそも歌詞を歌詞として書くことを念頭から除外しているかのように見えます。それはそれで一つの戦略ですが、ただ秋元のそうしたAKB楽曲に対するぞんざいさは信用できない所があります。作品=商品に対してキャッチーであることケレン味のあること、つまりは「売れる」ことが第一義の目的になっているように見えるからです。あまりにもリスナー市場を低く見積もりすぎて、できる限り最良の商品に仕上げようという丁寧さに欠けている気がするのです。(R)
posted by R at 18:54| Comment(0) | TrackBack(0) | エッセイ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年09月11日

アフター・カーニバル深夜便〜第22回生放送の告知:映画のジャンルについて〜

9月11日(土)深夜24:00〜(12日(日)0:00〜)

会場
http://www.ustream.tv/channel/siz-ashizu

映画の週 担当:A.I.

第4回:映画のジャンルについて

 (A.I.さんが忙しいということなので、SIZが代筆しています)
 映画には、ホラー、ミステリー、SF、コメディ、ミュージカル、アクションなどいろいろなジャンルがあります。そのようなジャンル分けにどれだけ意味があるのか分かりませんが、レンタルショップなんかで映画を探すときには良い手がかりになることは間違いない。
 既存の映画ジャンルに捕らわれず、自分だけの「俺ジャンル」みたいなものについて語るのも面白いかも知れない。
 他に、ここ最近に見た映画についての話もする予定。
posted by SIZ at 12:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 生放送の告知 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年09月08日

ニヒリズムの徹底はいかにして可能か〜外在の否定ではなく内在する倫理に向かっていくこと


一連の問題に関して問題の糸口が見いだせなかったんですが、AI氏の第三者的整理によって何となく見通しが出てきてだいぶ書きやすくなったのでアップします。バッハの記事はバッハの格闘について書きたかっただけの書き殴りで、別の時に書いてた怪談記事の方が本旨だったんですが・・・。

日本ではいわゆる「武士道」というものが江戸期になって確立し、『葉隠』なんかで顕著なように、「主君」と「家臣」というのが、我々にとっての「神」と「子」にあたるかもしれません。むろん我々は武士ではないですが、現代に至るまでの様々な制度は、家父長制にしろ会社組織にしろそうした価値規範に基づいて形作られてきたわけですからその延長線上にあると見て良いでしょう。

ところで、前記事における「神」の捉え方ですが、たしかにどちらかというと単なる価値観としての絶対公準という規範性より、機能面での問題として、AI氏の言うように「いかに自己と自己格闘しうるか」かつ「いかに自己を滅私しうるか」という命題を保障し可能にするための根拠となるシステムのようなもの、ということでした。それは夏目漱石で言えば、個人が「自己本位」(人為)と「則天去私」(天然自然)とのあわいをせめぎ合うような格闘なわけですが、そのような激越な営みをしようと思わせる「源泉」について思い巡らすささやかな論考だったわけです。また神を媒介項とすることではじめて自己と、もっと言えば自己の有限さと真に向き合いうるということも問題にしたかったのだと思います。バッハにも外的な圧力はありました。締め切りはもちろん無理解な聴衆の耳とも闘わなければならなかった中で、それでも己の「私闘」を「誠実」に闘っていたわけです。有名な「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」も念頭にありましたが、これはあまり展開できなかったので触れませんでした。「職務遂行の精神」の由来についてでしたが。

ただ地理的な「地方」と実存的な「地方」性は、現代まで反響しうる問題として考えていました。今まで自分が「世界の中心」にいる気がしたことは一度もありませんが、世界の果てか片隅にいる気がしたことはよくあります。じっさい今日もありました。この一隅性をどう捉えるか、また現代ではこの「一隅」はある面では他の「一隅」と地続きではあります。ニコ動的制作環境では「一隅」から容易にパブリックへ行ける気がするからです。

ただしニコ動的な創造環境・新たな公共性と、近代的な創造プロセス・作家性とを二者択一させるような単純化された構図を布置することは性急だろうという感想を持っていて、たとえばある意味ではニコ動の中にも古来の職人性みたいなものもあるだろうし、職人としての「良心」というのも存在しうるでしょう。バッハにおいても「職人的良心」という面と、神に対する「個人」としての「良心」とが表裏一体に生きられているということに注目したかったわけです。

さて、「神」が死んで以来じつは「神の復権」はすでに起き(続け)ていると言えます。「神なき時代」にも、じっさいはそれぞれに正しいと主張される、まがい物の「神」(としか部外者には見えない)が跋扈しているわけです。坂口安吾の有名な『堕落論』にもあるように、人は自ら堕ちきることの出来ない脆弱さを一種の「カラクリ」によって自己欺瞞しようと常に企む存在だからです。だからこそ、そうした「神」との、狂信でも不信でも無関心でもない、ニュートラルな交際リテラシーが要請されてくるのでしょう。

僕にとっての「神」についてあえて言うなら、僕の魂を揺さぶったたくさんの「偉大な先達」です。むろんバッハや漱石もその一人です。たとえ作られた文脈によって「選ばされた」のだったとしても(多くのバッハ好きがそうであるように僕も初めてバッハに感動したのは5歳くらいの物心つき始めた頃でしたが)、自分の中に生まれた「偉大な先達」に対する尊敬の念を信じないわけには行きません。もちろん神格化されたとたん、その権威を失墜させようという動きは常に出てきます。外在する権威の否定は誰にでも出来ることだからです。またそれが許されています。だから外在を否定し続けているだけではニヒリズムはまさに「虚無主義」であって、それは「虚無」に搦め捕られたままそれに耽溺しているにすぎません。ニヒリズムがニヒリズムのままになおかつ超克されるとすれば、早い話「問題にならなくなる」とすれば、それは「内在的超越」しかないでしょう。先の夏目漱石で言えば「自己本位」において「則天去私」するということですが、たいへん難しくなってきたのでやめませう。

SIZさんの疑問で「明確な正しさが存在し、人々はその正しさに従うべき」か、というのがありましたが、むろんそうした問い方をすれば答えは自ずと否定的なものになります。本当の信仰は「従う」というのとは異なるものでしょう。バッハは「キリスト教」という枠組みにおける精神の奴隷ではなく創作主体でもあるわけです。私生活はともかく少なくとも音楽家としてのバッハの営為には、バッハという個人主体が能動し問い続けた絶えざる「私闘」があったわけですから。(R)
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2010年09月05日

孤独という擬制

SIZさんの「祭りの後の時代の孤独な生」とRさんの「神なき時代の「良心」の可能性〜現代作家の本当の孤独とは」を読み比べました。

いや最近、Rさんのおかげでブログに久方ぶりにまともな記事が出てきて、いいなあと思いますね。 やはりこうでなくてはならない。一つのブログを4人で共有する意味があるとすれば、このように誰かの記事に対して周囲が反応することによって議論が盛り上がるという効果でしょう。
現在あふたーかーにばるは盛り上がりを欠いて、後退戦を強いられてきているわけですが、だからこそこういうやりとりが必要なんだなあと思わされました。
とはいえ、なかなか私も書くことができないでいるわけですが。

さて、お二人の記事についてなんですが、私が読んだ感じ、お二人が問題にしようとしていることには、そもそも最初からずれがあるように感じられます。おそらくはSIZさんが意図的にずらしたんではないかと思うのですが、「神」の捉え方がふたりの間では異なっているように感じられる。SIZさんはここで「神」を「人間の行動に一定の方向づけを与える考え」つまり「普遍的価値観」と言えるようなものを保証する存在と定義しているようですが、私の読む限り、Rさんのいう「神」にはもう少し「信仰」という問題が含まれているように思うのです。
SIZさんの定義であれば、我々の「神」は我々が意識するとしないとに関わらず我々の行動や思考を規制する存在としてあり、現代においては肝心の神様はお留守なのにそのことを知ってか知らずか、神の名を騙って我々の行動を支配しようとする言説がはびこっていると議論を進めているようです。
しかしRさんがここで言っているのは、色々とSIZさんの定義とかぶるところはあるにせよ、信仰が問題になっているという点で大きく違っています。Rさんは次のように言います。

バッハはプロテスタントと言いましたが、いわゆる宗教改革後、信仰において(カトリックのような)教会との関係性・帰属性よりも、個人と神との垂直の、かつ純粋な「信心」がスポットライトを浴びることになります。まさにまごころを持って神と「直面」することが至上となってきます。


ここでRさんは、「我々が何事かを為すさいに、誠実であることははたして可能か」と問うているようです。簡単に言えば、「神」などと言うものは我々が自分自身と向き合うための方便に過ぎません。我々に常に自省を促す監視者としての「神」を想定することで、我々はようやく自分自身と巡り会える。だからこそ教会との関係性や帰属性はここでは夾雑物とされているのでしょう。
そのように考えたとき、確かに我々は何よりも自己と向き合うのが難しい時代にあると言えるでしょう。何を作るにせよ、何を為すにせよ、自分自身の欲望と他者の欲望は見分けがつかないし、読者だとか市場だとかニコ動のコメだとかを意識せずに何かを作ったりそれを発表することはできそうにありません。その意味で現代の創造性というのは半ば自動化しているのであって、我々は何かを創造しているのか消費しているのかさえ判断しにくいわけです。
このように我々と神との間に、多くの夾雑物が挟まっており、ついに我々は神=自身に巡り会うことができない。そのような時代にあって誠実であることは可能なのか、あるいは誠実である必要はあるのかとRさんは問うているのではないでしょうか。

しかし、むろんここには難しい問題が最初から横たわっているように見えます。
もし私のRさんに対する理解が正しいとしても、そもそもでは「神」と垂直に対話するということが果たして本当に可能なのか、バッハに可能に見えた誠実さは真に誠実なものだったのかという疑問は残ります。
私はバッハは全然知りませんが、『のだめカンタービレ』で得た知識によると、バッハは「正しすぎる」らしい。そのような正しさ、つくりの美しさ自体、キリスト教的システムの効果によるものでしかないという可能性はないのでしょうか。我々が向き合っているのはいつだって読者やら市場やらニコ動のコメやら2chでの反応やらでしかないのではないでしょうか。
確かに我々はシステムによって疲弊させられています。現代のシステムがあまりにも複雑で手触りがなくその割に高く厚く我々の前に立ちはだかって見えるからです。たとえば音楽ひとつとってもいったいどんなものが「良い」ものなのか、どうすれば「売れる」のか、さっぱりわかりません。
だから、我々に必要なのは、「誠実に己と向き合うこと」ではなく、「己と向き合っているように感じさせてくれるシステム」なのではないでしょうか。システムによる疲弊を避けつつ我々が自己を再発見するためには、そのような擬制が必要なのではないでしょうか。(A.I.)
posted by A.I. at 12:56| Comment(0) | TrackBack(0) | エッセイ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年09月04日

アフター・カーニバル深夜便〜第21回生放送の告知:続・試験に出ないマンガ史!〜

9月4日(土)夜24:00〜(5日(日)0:00〜)

会場
(今日の放送は諸事情により中止になりました。申し訳ありません)

マンガの週 担当:R

第4回:続・試験に出ないマンガ史!〜アフター・カーニバルの個人的マンガ体験

・いつどんなマンガ雑誌から読み出したのか?
・周りは読んでいなかったが自分だけは読んでいたマンガは?
・はじめてエッチなシーンに衝撃を受けたマンガは?
・はじめて感動して人知れず泣いたマンガは?
・怖くてトラウマになったマンガは?
・実際に訪れたことのあるマンガの舞台は?

先月の続きです。われわれは青年期に移行します。(R)
posted by SIZ at 00:09| Comment(0) | TrackBack(0) | 生放送の告知 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年09月02日

祭りの後の時代の孤独な生

神なき時代の「良心」の可能性〜現代作家の本当の孤独とは
http://after-carnival.seesaa.net/article/161178961.html

 Rさんのこの記事を読んで、いくつか疑問に思ったことがあるので、そのことについてちょっと書いてみたい。

 まず、Rさんは、この記事で、「神」というものを持ち出す。「この世に神がいなければ万事窮するのです」と。Rさんは現代を「神なき時代」として規定する(「われわれはいかにして「良心的」であることが可能でしょうか? もはや神がいないこの世界の片隅で」)。ここで言う「神」とは何を意味しているのだろうか。

 この記事で問題になっている「現代社会」を日本の現代社会のことだと限定して考えてみるのならば、果たして、日本において、神という存在がどれほど重要視されているのか、という疑問が生じてくる。日本においても神が問題になるとしても、それは、バッハがそれに属していたようなキリスト教圏における神とはその意味合いが大きく異なることだろう。つまり、日本において、一神教の神がどれほど問題になるのだろうか、という疑問が生じてくる。

 神という言葉の意味づけを脇に置けば、ここでRさんの言いたいことはよく理解できる。Rさんは、ある種の方向づけが見失われた時代を「神なき時代」と呼んでいて、そうした時代においては、何が良いことで何が悪いことなのか判明ではない、ということを言っているように思われるからだ。

 日本において、一神教の神が機能していなくても、世界の法則、あるいは、少なくとも、社会の法則といったものについての一般的な考えのようなものは存在していることだろう。それは、世の中はこうなっているという考え、例えば、「努力すれば必ず報われる」とか、「良いことをすれば良いことが、悪いことをすれば悪いことが自分に返ってくる」といったような因果応報的な価値観などといったもののことである。そうした法則を裏で支えている存在、そうした法則を最後のところで保証している存在を、日本においても、神と呼ぶことはある。

 こんなふうに人間の行動に一定の方向づけを与える考えをイデオロギーと呼ぶこともできるだろうが、こうしたイデオロギーがここ最近になって揺らいできた、少なくとも変化の兆しを見せ始めているのは間違いないように思える。

 例えば、戦後日本において、人々の行動に一定の方向づけを与えていた考えとはどのようなものだったのか。それはまず生活が豊かになることだったと思われる。それでは次に、生活が豊かになった後に出てきた価値観とはどのようなものか。それは、個人の夢の実現こそが人生の幸福だ、という考えではなかったか。やりたいことをやること、夢の実現に向けて努力することが善だ、という考えである。

 そして、現代という時代は、この夢の実現という考えが崩壊してきた時代ではないかと思われるのだ。夢の実現のためには社会に一定の豊かさが必要であるが、その豊かさの担保が揺らいできた時代が現代ではないのか。努力しても必ずしも報われることはないということが明らかになった時代が現代ではないのか。そうした意味で、夢の実現に価値を置くことが困難になってきたのが現代という気がするのだ。

 未来の豊かさのために、未来の幸福のために、現在の労苦を感受するというのが旧来の価値観だったとすれば、未来の豊かさが担保されないという事態、希望をもはや見出すことができないという事態にあっては、そこでの価値観が大きく揺らぐことになるのも当然であるだろう。

 それでは、現代において、夢の実現に代わる価値観が何か出てきているのか、という点が問題になりうる。新しい価値観の芽はいくつか出ているのかも知れないが、僕の見たところ、現代においても支配的なのは、旧来の価値観であるように思える。旧来の価値観を支える制度にほころびが見出されるのに旧来の価値観がそのまま存続しているというのが現代という時代ではないのか(意識と社会関係とのこうしたギャップを見事に描いているマンガ家が浅野いにおだと僕は思っている)。

 もし仮にRさんがこのような時代状況を「神なき時代」と呼んでいるとすれば、その次に問題になりうることは、Rさんは果たして神の復権を望んでいるのかどうか、ということである。それは、つまり、何か明確な正しさが存在し、人々はその正しさに従うべきだ、ということを主張したいのかどうか、ということである。「精神的な囲い込みに対抗する」という村上春樹の言葉に支持を表明していたRさんならば、当然のことながら、そのような主張をすることはないだろう。アフター・カーニバル(祭りの後)的な考えからしても、神なき時代からこそわれわれの時代が始まる、神なき時代こそわれわれの時代だ、と言うべきであろう。

 アフター・カーニバルは、全共闘の運動に対する村上春樹の違和感から出発したところがあるわけだが、全共闘の運動が父なき時代に父との闘争を捏造しようとしていたところがあったとすれば、そうした闘争の構図からの離脱を志向した村上春樹の方向性にわれわれも従うべきではないだろうか。

 僕たちの世代は、オウム事件を経験しているわけだが、この事件においても同種のことが問題になっているように思える。つまり、この事件には自作自演的なところ(未知の敵からのサリン攻撃を受けていたはずのオウム教団が、人々の敵となり、サリンを自ら撒くようになる)があるわけだが、こうした虚構のシナリオを自作自演せざるをえないのも、僕たちの時代が「神なき時代」、父なき時代、祭りの後の時代だからであるだろう。

 そうした意味では、現代において、良心という言葉に疑問符が付かざるをえないのは当然だと言える。良心の見かけだけが存在し、そうした良心の見かけを偽善という言葉によって攻撃するのが容易なのが現代という時代だろう。偽善よりも露悪のほうが誠実に見えるのが現代という時代だろう。

 Rさんは「何か生産的な仕事をする上でこのシステムは実に疲弊させられます」と言う。しかし、そもそも、生産性についての考えを改める必要があるのではないだろうか。そうしたことを考えて、僕は、この前、「不毛、断念、無意味――祭りの後の新しい価値観」という記事を書いた。

 Rさんはバッハの名前を持ち出してきたが、バッハがある種の芸術家像として持ち上げられるようになったのは、近代的な芸術観があってのことではないだろうか。つまり、作品なり作家なり芸術なりといった言葉に込められた意味合いや価値観の多くは、近代という時代がもたらしたものであるように思われる。そうした時代性のことを考慮に入れるとすれば、生産性についての考え方も検討し直す必要があるように思われる。

 僕は別にニヒリズムを推奨しようと思っているわけではない。ニヒリズムに対抗するにしても、神を持ち出すには限界があると思うのだ。信仰や信念、真理への意志といったものが重要であるとしても、何か外的なものを持ち出してくることによって、それらのものを支えようとすることに限界があるように思うのだ。

 そういう意味では、Rさんが記事のタイトルに入れた「孤独」という立場こそが現代において(も)本質的なのかも知れない。孤独とはまさに外的な支えが何もない状態を意味するのだろう。思うにバッハもやはり孤独だったのではないだろうか。バッハにおいて神が問題になりうるとしても、それは、そうした孤独な地点から見出された神であったことだろう。

 コミュニケーションというものが重視される現代にあって、依って立つところを見出すことができない現代にあって、孤独というものは行き止まりのようにも見える。しかしながら、Rさんがしばしば重視する「個」という立場からするならば、われわれは、やっとのことで、孤独の重要性を知ることのできる地点にたどり着いたと言うこともできるだろう。(SIZ)
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2010年09月01日

『ザ・リング』と『白髪鬼』と『夢十夜』とあと百閧ニ〜「越境してくるもの」のこと

先日のSIZさんの投稿記事「恐怖の構造――「夢十夜」の第三夜と「信号手」について」を読んでいてふと思ったことがある。かつて世間を賑わせた映画『リング』の有名なラストだ。中田秀夫が世間をあっといわせた最大の手柄である例のシーンである。都市伝説として広まった呪いのビデオの元凶となる怨霊・貞子が、主人公の鎮魂によって鎮まったかと思われた矢先にこの世に現れる。突然、和室のTVのブラウン管に貞子のいる森の中の井戸がなぜか映り出す。しだいに井戸から白い手が出てきて貞子が這い上がってくる。顔が長髪で覆われたままゆらゆらとこちらへ歩いてくる。あたりは森閑とした森の中である。やがて桂正和「電影少女」もかくやという感じにTVから貞子が出てくるのである。皆さんも一度は目にしたことがあるはずのあの度肝をぬく恐怖。僕はTVに井戸が映ったとき「これは出てくるな。出てきたら面白いな」と思ってじっさい予想通りだったわけだが、なおも快哉を叫んだのは表現の達成度が高かったからだ。出てくるまでの絶妙なテンポ感と四畳半(?)を這う「リアル貞子」の質感の生々しさ。動きの演出等々ディテールによく支えられていたと思う。しかしこのシーンをホラー映画史上に残る白眉とした最大の理由は「越境感」だと思うのである。「越境性」こそが人の恐怖の底にあって、人が自明に信頼している安定した地盤というものを揺さぶるのだ、と確認させられるのだ。森の中で「ホラー的な現象」が起きてもそれは依然として非日常の出来事であり、我々の実感から遠い。そのような「安心感」は貞子が画面を飛び出しこちらに越境し受肉したことで破られる。いつも居住している日常空間であるこの部屋に貞子が来ること、それもいきなりここに来るのではなく、わざわざ異世界から「越境してくること」。それこそが自らの日常性の基盤を恐怖の場面へと変質させるのだからただごとではないのだ。中田秀夫はそれをまざまざと見せつけたのである。

『白髪鬼』と『影を踏まれた女』を書店で見かけて買ったのは四年前だ。光文社の文庫版で、解題を去年ある会で少し絡んだことのある縄田一男氏がやっている。一読して好きな作品だった。これは誰かに語って聞かせたいと、ここの仲間AI氏をはじめ周りに恐怖を伝播させては自ら恐怖を募らせていった覚えがある。みんなの反応もよかった。綺堂は他にもどれも面白いのだが今たまたま記憶してる中では享保年間の怪談「西瓜」という話が印象に残っている、というか題名に期待してなかったぶん以外に怖かった。未読の人は読んでみよう。

高校の国語の授業展開でも一年間小説を取り上げ続けたとき、主なラインナップに『白髪鬼』などの怪談を多く採用したこともあった。手始めに『夢十夜』の第一夜と第三夜。第一夜は「伸び縮みする時間」についての解説が主だったが、第三夜は拠って立つべき「自己」の不確定性・無根拠さといった不安さを浮き彫りにして読み解き合う授業となった。このとき生徒達が書いたレポートは随分とフィードバックとして有益だったので今も取ってある。続いて漱石の弟子群。芥川『羅生門』の主人公も境界に立っているが、『夢十夜』の世界を受け継ぐ百閧フ『冥途』は「境界のあいまいさ」「あやふやの閾」自体が怪異としての骨格をなすものだ。百閧フ文章世界では現実と幻想の間が恍惚として確固としていない。世界の事象はあやふやな位置からあやふやな位置までをあやふやに測定・観測されるのみなのである。断絶してるはずのものが地続きになったり、地と図が反転したりというコペルニクス的転回は、かくして『白髪鬼』でも取り上げて、怪談の構造と特徴として確認した。それから川端の『無言』に出てくる有名な小坪トンネルの怪について話したのを機に実話怪談を一時間してみせたりもした。そしてティム・オブライエン・村上春樹訳の『待ち伏せ』を挟んだ後、春樹の短編『七番目の男』で締めくくった。

小松左京『くだんのはは』も有名だが、これは戦時もの、敗戦後ものに数えたい。石川淳の『焼け跡のイエス』などや、マンガなら『はだしのゲン』など名作が多いが、怪談や民話・因習ものと絡められた戦争ものが好きだ。吉屋信子「生霊」などもそうした怪談の一つだ。その『くだんのはは』には次のような描写がある。玉音放送を聴いても、初めて聴く天皇の妙に甲高い声が聞き取りづらいのが気になるだけで、誰もが事態を飲み込むまでに時間がかかっている。主人公は一応当時の軍国主義に飲み込まれている少年である。


午後の三時には一切の物音が絶え、みんな薄馬鹿のように天を仰ぎ、あちこちに固まって腰をおろし、手持ち無沙汰に欠伸したり、頭をごしごしかいたりした。僕もまた、ボケたようになって邸へ帰って来た。だが、離れに坐ると、突然わけのわからない憤懣がおこって来て、教練教科書をひきさき、帽子をなげつけた。何も彼もぶちこわしたかった。誰かをつかまえて、この何とも形容のしがたいやるせなさをぶちまけたかった。


なんだろうこの伝わってくるものは。そしてこの敗戦と戦時下を巡る様々な文脈や少年の状況が、彼の屈託をして怪物少女「くだん」を暴かせしめるのだ。ちなみに内田百閧フ『件』もこの怪物「くだん」をめぐる短編で、やはりこちらのほうが得体の知れなさというものがある。

ところで落語にも色々と幽霊ものが多いが、僕の最近のお気に入りは桂三木助の『へっつい幽霊』である。これは怖くはない。粋な任侠と気弱な幽霊が博打で金を巡って対決する話である。ちょっと「聊斎志異」に似ているかもしれない。(R)

posted by R at 09:15| Comment(0) | TrackBack(0) | エッセイ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

神なき時代の「良心」の可能性〜現代作家の本当の孤独とは

人はトイレに紙がなかったら万事休するでしょう。それと同じくらいこの世に神がいなければ万事休するのです。のっけからふざけた話に怒りを覚える人もいるでしょうし、宗教じみた物言い(ほんとにそうか?)に首をひねる方もいると思います。でもこれはいたって真面目な話なのです。

現代社会において人々の心はすさんでいると方々で言われています。それと同じく、現代にもまだある美談を通じて人間の尊厳を確認したりすることもあります。人間は悪人であったり善人であったりしているようです。あなたの中にも善と悪とが毎日・毎秒ごとに行ったり来たりまさに去来しているでしょう。そんな中で、何かに夢中になってそれをやり遂げたとき、自分にとってか周りにとってか少なくとも「善いことをした」と感じることがないでしょうか。いったい人の「良心」というものはどこからやってくるのでしょう? どこで生まれて何に支えられて「良心」は人間を善へと導かせしめるのでしょうか。

「良心的」という言葉があります。「良心的な価格」「良心的なサービス」・・・的とつくと「良心」そのものではないということになりますが、まあおおむね「良心的」なわけです。何かものを「創る」ことにおいても「良心的な仕事」というのがあります。たいていの人々がそれを期待し「良心的な仕事」には敬意を表します。しかしながら「良心的な仕事」というものは、そうそうめったにお目にかかれるものではありません。残念ながら。なぜでしょう?

有名な音楽家にバッハという人がいます。そう、あの「音楽の父」と言われる人です。まあ「ウルトラの父」みたいな人ですね(?)。18世紀のドイツの片田舎ライプツィヒで活躍しました。だいたいずっとそこにいたので意外と地方発信だったわけですね。東国原知事と一緒ですね、はい。彼は聖トーマス教会の専属オルガニストでした。と同時に音楽監督でもありました。それはどういうことかというと教会というのは毎週日曜に典礼のミサがあるわけです。それ以外にも色々と教会というところはしょちゅうミサをやりますが、まあ週一のミサが本式です。ざっくりと言って、ミサは典礼文という儀式の言葉、基本的には神を賛美したりする詩句ですが、これを時には賛美歌として歌ったりします。バッハは毎週の礼拝ごとにこうした儀式に使用するための曲を作っていたのです。カンタータやコラールなど長短さまざまですが、このなかに有名な「主よ人の望みの喜びよ」や「G線上のアリア」なども入っています。こうしたバッハの曲はどれも精密に構築されていて、ひとつとして雑な作りをした、弛緩した作品はありません。高レベル高品位な作品が週一という驚異的なペースで量産されていったのです。つまり毎週慌ただしく過ぎてく中で、高密度な職人仕事をこなしていたということです。なぜこんなことが可能だったのでしょうか? そこにはバッハが天才だったからの一言では片付けられないものがあるはずです。教会から依頼されて作っていたわけですが、牧師(バッハはプロテスタントなので神父ではありません。また本当はミサではなく礼拝となります)や信徒のためだけに作っていたのでしょうか? 家庭のため? 単なる責任感? ではその責任感はどこからやってくるのでしょうか。

バッハはプロテスタントと言いましたが、いわゆる宗教改革後、信仰において(カトリックのような)教会との関係性・帰属性よりも、個人と神との垂直の、かつ純粋な「信心」がスポットライトを浴びることになります。まさにまごころを持って神と「直面」することが至上となってきます。神を崇める行為つまりバッハにおける宗教曲の作曲とは、最終的には、あるいはまずもって神に対するものでした。真面目で敬虔な信者であるバッハにとっては、一生懸命に作品を仕上げることがすなわち神と向き合う信心深さの表れだったというわけです。だからバッハの作曲家としての、作り手としての「良心」は、神と信仰に支えられたものだったということなのです。中央から離れた地方にいてもどこにいても、神に対して恥じない仕事をする職業精神がバッハのいたドイツの時代精神だったのかもしれません。だからこそ有名な「マタイ受難曲」のような大曲を、あの過密スケジュール下で生み出すことが可能だったのでしょう。この3時間もある宗教曲は、クラシックを知るものなら誰しも頂点に掲げるものですが、音楽史のみならず人類史上の遺産といっても過言ではありません。これに並ぶ曲はあっても、これを越えるものはないからです。その作曲過程と現場を知ると、普通はやっつけ仕事の環境だとしか思えないくらい時間的にも切迫しています。にもかかわらず、そこにはバッハの魂が込められています。

われわれは「ビジネス社会」というものを生きています。「忙しい社会」のことです。「時は金なり」が至上命題になっています。人々は少々値段が高くても遠いスーパーより近くのコンビニですませたりします。誰もが「どこでもドア」や「タイムマシーン」を夢想したりもするでしょう。科学技術が問題なのではありません。それを裏支えしている社会意識の構造的な不備によるものでしょう。何か生産的な仕事をする上でこのシステムは実に疲弊させられます。そんな過酷な無数の「現場」で、われわれはいかにして「良心的」であることが可能でしょうか? もはや神がいないこの世界の片隅で。(R)
posted by R at 05:53| Comment(0) | TrackBack(0) | エッセイ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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