2010年08月28日

渋谷HMVが閉店してショックなのはあなただけではありません。

おととい渋谷のアトラクション居酒屋ロックアップへ向かうとき、センター街のHMVを通った。・・・閉まっている。本当に・・・。日曜に閉店ニュースを聞いたばかりだ。その日の僕は由比ヶ浜で浮かれていた。怪談スポットの小坪トンネルをドライブとかしていた。あとで「しまった」と思った。今日が閉店の日だったか・・・。

閉店のニュース自体は早くから伝えられていた。そのときは愕然としたものだ。と同時にもう一度行かねばならないと決意したのだが、かなわなかった、というか忘れていたのだから始末に負えない。HMV渋谷は僕の音楽的青春の中核をなす存在とも言えたのに。それにしても誰がこんな事態を予想できただろうか?ドッグイヤーとはいえこんなにも早くあっけない幕切れを。もちろん数あるHMVの中でよりによって一号店であり日本最大にして本店である渋谷店が他店舗を先んじて閉店したのは、一等地でのビジネスにおける費用対効果に鑑みて無理があるということだろうが、他店舗を全部潰しても世界的に有名な渋谷のランドマークを残して欲しかった。

いずれ街の本屋も同じ運命を辿るだろう。本屋の場合大型店と個人経営のどちらが先に終わるだろうか。電子書籍も進めば半減するかもしれない。ネット購入におおいに頼ってるところもあるが、いまだに書店に足を運ぶのを欠かせない身として一番危惧するのが、ふらっと立ち寄れる書店がなくなるかもしれないということだ。現在なら、このさき全国のどこに引っ越そうとも、だいたい都市部であれば半径数百メートル以内の歩ける近所に書店は存在しているだろう。帰り道に休日に買い物のついでに、あちこちの選択肢の中からいくつかの書店を利用しうる環境はやはり便利なのだ。これがやがて淘汰されれば定期的な書籍のフィジカル・チェックは車か電車をわざわざ利用して・・・ということになりかねない。そうなれば今より足は遠のくに決まっている。雑誌はコンビニに頼るとしても。

横浜のHMVとともに渋谷店を利用するようになったのは90年代後期からだ。いわゆる渋谷系のうっとおしい流行も一段落した頃からである。時代は世紀末の雰囲気と共に洋楽の色んな文脈・シーンが切迫感を伴って喧伝され消費されていた。まだネット文化より雑誌文化で、時代を語る言葉に効力も信憑性もあった。みんな足を使ってフィジカルに音楽を浴びた。やがてタワレコが全国的に下火になりHMV一人勝ちの様相を呈してきてからはCDの試聴と発掘作業は、HMVだった。そこから少し足を伸ばし、DMR周辺のレコード街を歩きアナログ・レコードを試聴・発掘しに行ったものである。まさに庭だった。

ミレニアムを越した頃から音楽シーンとその享受の仕方に変化が見られはじめ、音楽業界全体も変わっていった。だがHMVは店舗拡大を続けていた。個人的には「また作ったのか」という気がしていた。それがつい4年ほど前くらいまでのことだった気がするのに、この2,3年、YOUTUBEが広がりはじめた頃からの激変で一気にもってかれてしまった感がある。体制を整える暇もなかったのではないか。我々消費者とそんなに大差ない感覚で、気がついたら終わっていた、という感じなのではないか・・・。

去年だったか突然ネットでのダウンロード販売から撤退したのを不審に思っていたのだが、HMV自体が色々と危ういのだろう。HMVの店員になることは、あの制服をのぞけば一種のステータスでもあり安全保障でもあった気がしていた頃が近くて遠い過去になったのである。合掌。(R)
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2010年08月27日

アフター・カーニバル深夜便〜第20回生放送の告知:アニメ『イヴの時間』について語る〜

8月28日(土)夜24:00〜(29日(日)0:00〜)

会場
http://www.ustream.tv/channel/siz-ashizu

アニメの週 担当:SIZ

第3回:『イヴの時間』について語る

最近のアニメというわけではないですが、近年のアニメの中でもかなり重要な作品、少なくとも非常に特異な作品だと言える『イヴの時間』について話します。
ロボット(アンドロイド)を基本的なモチーフにしているという点で非常に古典的なテーマ設定を持ち出してきていると言えますが(少なくともアニメにおいては『鉄腕アトム』以後の問題設定)、そうした古いテーマがどのように現代的にアレンジされているのかという点がこの作品の注目的ではないかと僕は思っています。(SIZ)
posted by SIZ at 13:27| Comment(0) | TrackBack(0) | 生放送の告知 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年08月25日

不毛、断念、無意味――祭りの後の新しい価値観

 今月の半ばにアフター・カーニバルの会合が久し振りに行なわれた。僕は事情があって参加しなかったのだが、今回のテーマは、若松孝二の映画『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』を見てそれについて語ること、連合赤軍事件について問題化することであった。誰かメンバーの人で、この日に話されたことをまとめてくれるとありがたいのだが。

 なぜ今回連合赤軍事件を取り上げたのかという点については、アフター・カーニバルでこれまで語ってきたことの文脈から言えば、それなりに理解できることである。つまり、アフター・カーニバルは、これまで常に、時代の節目を問題にしてきた。戦前/戦後というのが大きな節目であるし、昭和/平成というのも大きな節目である。連合赤軍事件は60年代から70年代にかけての節目において問題になった出来事である。

 アフター・カーニバルではこれまで村上春樹の小説をずっと問題にしてきたが、春樹が初期の小説において問題にしていたのも、60年代から70年代にかけての時代の節目である。僕たちにとって、この時代の節目が問題になりうるのは、そうした節目の出来事を僕たちの時代の節目の出来事と重ね合わせて考えることができるからである。

 アフター・カーニバルという活動組織名の由来を振り返ってみれば、そこで強調点を置いていたのは、大きな出来事の後をどのように生きるのか、僕たちの生というものはまさに大きな出来事の不在によって規定されているのではないか、という問題意識に基づいてのものである。大きな出来事が存在しない、ビッグネームが不在である、こうした状況において生きることとはどのようなことなのかということをこれまで問うてきたと言えるが、こんなふうに大きな出来事が存在しないという状況にあっては、アフター・カーニバルという活動組織においても、いろいろと支障をきたすことになる。端的に言えば、共通言語の不在、共通の話題の不在として、問題が浮上している。

 連合赤軍について語るというテーマ選択に関しても、それは僕たちの弱点が浮かび上がった選択だったと言えるだろう。つまり、連合赤軍という出来事は、それが祭りの後を象徴するような出来事であったとしても、そんなふうに終わりを象徴できるくらいには大きな出来事であり、僕たちの活動に何らかのまとまりを与えるためには、こんなふうに、少しばかり大きなものが必要になってくるのである。

 では、連合赤軍という今回のテーマが適切だったかと言えば、僕にはあまりそうとは思えない。僕自身も他に代替案を提出できなかったわけだからこの選択には責任があるわけだが、今日的なテーマ設定に根差した選択だとは思えないし、アフター・カーニバルの活動においても面白いテーマ設定だとは思えなかった。

 会合で何が話されたのか、会合の感想はどうだったのかということについて、Rさんとイワンさんから少し感想を聞いたのだが、二人とも、何かポジティヴな意見、何か生産的な意見が出たというふうには言っていなかった。イワンさんは、連合赤軍の活動に関して「不毛」という言葉を用いていたが、しかしながら、まさに、この不毛というものに焦点を合わせることこそ、祭りの後にあっては、重要なことではないのか。

 大きな出来事が起こらない世界において、何も生産的なものを生み出すことができないからこそ、生産性の見かけとでも言うようなものを演出しようとするのではないだろうか。連合赤軍の行動にもそのようなものを見出すことはできないだろうか。つまり、そこにおいては、意味のある活動(革命に向けた活動)を装うことによって、日々の生活を、共同生活をやりすごすことが問題になっていたのではないだろうか。

 言い換えれば、ここで問題になっているのは、無意味なものに対する試練といったものである。こうした試練に現代のわれわれもさらされているだろうし、われわれはこの無意味なものをどのように取り扱っているのか、また、どのように取り扱っていくべきなのか、という点は大きな問題であるだろう。

 しかし、こんなふうに現代の課題を明確化できたとしても、アフター・カーニバル内において、またその外においても、共通言語を確立できないという問題は厄介である。ある種、それぞれがバラバラであるというところに今日的なリアリティがあると言えばあるわけだから、やはり、そこに根差して何とかやっていくしかないのだろう。この断絶それ自体を問題化していくしかないのかも知れない。

 しかし、アフター・カーニバルという基本的なコンセプトは決して悪いものではないかも知れない。そこには明確な断念があり、この断念は、言い換えるならば、これまでの価値観に対する切断をも意味していると言えるかも知れないからだ。

 不毛にしろ断念にしろ無意味にしろ、こうした言葉から否定的なニュアンスを取り去る必要がある。現在が過渡期であるとすれば、これまでの価値基準からするならば否定的に捉えられがちなものにもっと注意を向けるべきだろう。(SIZ)
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2010年08月22日

恐怖の構造――「夢十夜」の第三夜と「信号手」について

 昨日の夜に、深夜便の放送で、怪談小説やホラー小説を取り上げて、イワンさんと話をしたわけだが、僕は、事前の準備として、ディケンズの「信号手」、夏目漱石の「夢十夜」の第三夜、岡本綺堂の「白髪鬼」などを読んでおいた。これらの作品は、A.I.さんが怖いホラー短編小説として勧めていたものだ。

 僕は、これらの小説を読んで、そこに、ある似たような構造があることに気がついた。それがホラー小説特有の構造かどうかという点は難しいところだ。僕自身はホラー小説をあまり読んでいないし、ホラー小説以外にも同様の構造を持つ小説作品はありそうに思うからだ。しかし、少なくとも、この構造があるからこそ、恐怖が引き立たせられるということは言えるのではないかと思う。

 その構造とは、簡単に言ってしまうと、距離を取って見ていたのにその距離(自分と対象との距離)を一気に縮められてしまうということ、自分とは無関係だと思っていたものが自分と関わりにあることが分かるということ、相手の話だと思っていたことが自分の話だったと分かるということ、そのような構造である。

 よくよく考えれば、いわゆる怪談話においても、「それはお前だ!」とか「お前の背後にいる!」といったようなやり口で、語られていた出来事が、現在まさに語っているこの次元においても問題になっていることを指摘することで視点のシフトを引き起こすことがある。この視点の転換が、一気に距離を縮められることが、恐怖と何らかの関わりを持っていると言うことはできないだろうか。

 上に挙げた作品で言えば、まずは、「夢十夜」の第三夜。夢を見ている人が六歳になる自分の子供を背負っている。自分の子供という親しい存在であるにも関わらず、夢を見ている人はその子供に何かよそよそしいものを感じる。その子供は「何時の間にか眼が潰れて、青坊主になっている」。ここには親しさとよそよそしさとの同居がある。自分の子供のことなのだから、その子供については大抵のことを知っているはずだろうが、そこには何か未知のものがある。未知のところがあるが、それが自分の子供のことであるわけだから、完全によそよそしい存在であるわけではない。

 こうした不思議な存在が最終的に夢を見ている人に差し向ける言葉が「御前がおれを殺したのは今から丁度百年前だね」である。ここには視点の転換がある。この地点において、自分の子供に向けられていた距離が一挙に縮められる。ここに認められるのが罪責感の一種の喚起だとしたら、罪責感に関わらないもの(子供に関わること)だと思っていたのが、まさにその罪責感の中心だったという視点の大幅な転換が話のキモだと言えるだろう。

 こうした飛躍が恐怖を掻き立てるのは間違いないように思う。ディケンズの「信号手」の怖いところもそうした点ではないかと思う。この作品の語り手である私は、物語の中心にいる信号手とたまたま知り合いになっただけの関係である。にも関わらず、出来事は、語り手の私を必然的に、最初から考慮に入れていたような仕方で展開する。

 「信号手」の物語は語り手の視点が存在しないと完成しないことだろう。信号手が見た幽霊の動作と語り手が見た機関手の動作との同一性を認めることができるためには語り手の存在がどうしても必要である。信号手の語ることだけの次元においては、彼の話に現実的基盤を与えるようなもの(客観的な証拠)は存在しない。それが何らかの実質を持つためには、信号手が死に、語り手が頭の中で思いついた言葉(「危ないっ、どいてくれ」)と機関手が語る言葉との同一性を認めなければならない。そんなふうに出来事の実質を、蚊帳の外にいたはずの自分自身が用意するところに、この物語の恐怖の点があると言える。

 こんなふうに自分がその話の外にいる人物だと思っていたのが、自分自身こそが出来事の構成にあたって重要なパーツのひとつだったということが分かるということ。この発見が恐怖体験と何か関わっているように思える。それがどんなふうに関わっているのかという点についてはもう少しよく考えてみる必要があるだろうが、今回読んだ小説にはそのような共通した構造があったように思う。(SIZ)
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2010年08月20日

アフター・カーニバル深夜便〜第19回生放送の告知:納涼!恐怖・ホラー小説を語る〜

日時:8月21日(土)24:00〜(22日(日)0:00〜)

会場
http://www.ustream.tv/channel/siz-ashizu

本の週 担当:イワン

第3回:納涼!恐怖・ホラー小説を語る

残暑とはいえないほどの猛暑が続く今日この頃。
古典的なホラーから、現在のホラー小説まで、ぞっとする怖い小説を語り合い、涼をとろうという企画です。
あなたの知らない世界が開けるよ!(イワン)

(関連する過去記事)
夢十夜(夏目漱石)
http://after-carnival.seesaa.net/article/80220703.html
信号手(ディケンズ)
http://after-carnival.seesaa.net/article/80301568.html
七番目の男(村上春樹)
http://after-carnival.seesaa.net/article/80455370.html

(関連する過去の放送(録音))
第二十三回:「コトリバコ」と現代の怪談
http://after-carnival.seesaa.net/article/130531386.html
http://after-carnival.seesaa.net/article/130581862.html
http://after-carnival.seesaa.net/article/130581990.html
http://after-carnival.seesaa.net/article/130627635.html
posted by SIZ at 06:31| Comment(0) | TrackBack(0) | 生放送の告知 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年08月19日

現在と切り結ぶために過去を利用するということ

宮沢りえと「少年時代」の終わるとき――80年代バブルJAPANの少年だったあの頃
http://after-carnival.seesaa.net/article/157667401.html

 先月末にRさんが書いたこの記事を読んで、僕は深い感銘を受けた。この文章では、アフター・カーニバルの活動の根本にあるものが示されているように思う。それは、ある種の世代的な問題に関わることだが、そうした問題意識を、僕たちアフター・カーニバルのメンバー全員に見出すことができる。各メンバーがこれまでに書いてきた記事に見出すことができる。

 しかし、これは、本当に世代的な問題なのだろうか、というふうに疑問を提示することもできるだろう。それは世代的な問題というよりも、ある種の問題を世代に仮託しているのが僕たちのやり方なのではないだろうか。僕たちが実感しているのは、様々な意味での切断であり、以前と以後であり、現在が過去とは異なるという印象、何かを喪失してしまったという思いなどである(こうした喪失感は村上春樹の作品に顕著に見出されるものであり、春樹がどのようにそうした喪失感を取り扱っているのかというところに、僕たちの春樹への根本的な関心がある)。

 Rさんの記事において、こうした切断は、宮沢りえというひとりの人物に仮託されている。宮沢りえのうちに何か大きな変化が見出されるのであり、まさに時代の変わり目が象徴されているのだ。

 僕たちにとっての過去のものとは80年代的な何かだと言えるかも知れない。しかしながら、80年代というひとつの時代に特権的な価値を付与することは危険であるだろう。どの時代のどんな事象にも切断の兆候を見ることも可能だろう(95年にそれを見出すこともできるし、99年と2000年の間にそれを見出すこともできる)。しかし、とりわけ80年代と90年代との間に見出される切れ目は、輝かしい夢、実現が約束されているように見えた夢と、その夢が単なる夢にすぎなかったこと、それが時代の見ていた夢にすぎなかったことが明らかになったという、そうした切断を意味する。

 僕たちの世代は俗にロストジェネレーションと呼ばれるが、ここでの「ロスト」という言葉の意味合いは、そうした夢が見失われたことを意味する。だが、そんなふうに実現しなかった夢に対して、その代償を求めるというのは間違った対処の仕方であるだろう。時代がひとつの夢を見ていたことを責めることはできない。時代が夢を見なくなったら、もはや未来など存在しないも同然ではないのか。

 従って、実現しなかった夢に対するその最良の対処方法とは、その夢がどのような種類の夢であったのかということを精査すること、そうした夢を見ざるをえなかった時代の状況(あるいは社会の構造)というものを白日の下に曝し出すことである。これこそが時代と切り結ぶ最良のやり方、自分たちの時代を相対化するやり方であるだろう。

 問題にすべきなのは常に現在である。現在がどのような時代なのかということはまったく明らかではない。そうした現在と切り結ぶためにこそ過去を利用すべきである。単に思い出を語るのではなく、そうした思い出の限界を見定めること。過去の思い出に見出される何か過剰なものを適切に切除すること。そのような相対的な視点を獲得してこそ、現在に切り結ぶための視点を獲得することができるだろう。(SIZ)
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2010年08月13日

アフター・カーニバル深夜便〜第18回生放送の告知:この夏の映画について『トイストーリー3』『借りぐらしのアリエッティ』『インセプション』〜

8月13日(金)夜23:30〜

会場
http://www.ustream.tv/channel/siz-ashizu

映画の週 担当:A.I.

第3回:この夏の映画について〜『トイストーリー3』『借りぐらしのアリエッティ』『インセプション』〜

 最近マジ暑いっすね。コレ書いてる今現在、時刻は夜中の1時過ぎなんですが、気温は30度を超えてます。正直やってられない。
 お盆の時期になりましたが、今夏は映画観に行きましたかね。私は『トイストーリー3』と『インセプション』を観てきました。どうせならこれを話題にしようかなという感じです。
 でももし間が持たなかったらヤバイので、次のような企画も行う予定。

・10回以上観た映画
・トラウマになった映画
・周りは駄作だというけど、自分は好きな作品


2010年08月05日

アフター・カーニバル深夜便〜第17回生放送の告知:試験に出ないマンガ史!〜

8月6日(金)夜23:30〜

会場
http://www.ustream.tv/channel/siz-ashizu

マンガの週 担当:R

第3回:試験に出ないマンガ史!〜アフター・カーニバルの個人的マンガ体験

・いつどんなマンガ雑誌から読み出したのか?
・周りは読んでいなかったが自分だけは読んでいたマンガは?
・はじめてエッチなシーンに衝撃を受けたマンガは?
・はじめて感動して人知れず泣いたマンガは?
・怖くてトラウマになったマンガは?
・実際に訪れたことのあるマンガの舞台は?

など今週も盛りだくさんでお送りいたします。たぶん。(R)
posted by SIZ at 16:41| Comment(0) | TrackBack(0) | 生放送の告知 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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