2010年04月30日

アフター・カーニバル深夜便〜第4回生放送の告知:村上春樹『1Q84』を読む〜

4月30日(金)深夜24:30時〜(5月1日(土)0:30〜)
テーマ:村上春樹『1Q84』について語る

会場はこちら
(終了しました)

春樹の『1Q84』について語るのはテスト放送の回も含めると、今回で4回目になる。先週の放送はこちらのミスで音声が流れなかったので、今回はある種リベンジ回と言える。というわけで、今回もまた3巻が話のメインになるところはあるでしょうが、しかし、もうすでに何回か話しているところもあるので、今回は『1Q84』を超えて大きく話が広がることになるかも知れません。

ゴールデンウィーク中にやる予定の放送一周年記念企画はまだ考え中。アフター・カーニバルの思い出話とかそういうのを語ってもあまり面白くないだろうから、それなりに内容のあるテーマを考えないと。(SIZ)
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2010年04月28日

アフター・カーニバル深夜便〜第3回生放送の告知:80年代を振り返る〜

4月28日(水)深夜24時〜(29日(木)0時〜)
放送一周年記念特集(その1):80年代のサブカルチャーを振り返る

会場はこちら
(終了しました)


深夜便の放送(生放送ではなく音声ファイル配信の放送)を始めてから一年が経ったので、それを記念して何かやろうと思い立ち、急遽考えついた企画。
 アフター・カーニバルというか、われわれの世代にとって80年代のサブカルチャーとの繋がりは非常に緊密である。80年代のサブカルチャーがわれわれの思考の土台を形成しているところがある。
 これを年代で分けずに、95年以前と以後というふうに分けるともっといいかも知れない。われわれにとって80年代から95年までのサブカルチャーについてどう考え、どう位置づけるのかは大きな課題である。
 下に示した過去の記事において、RさんもA.I.さんもそうした80年代のサブカルチャーの位置づけの必要性を認めてはいるものの、それをこのアフター・カーニバルという場でしっかりとやってこなかったという経緯がある。それを今回、その導入でもいいから、やってみようというふうに思ったわけだ。

この企画は、ゴールデンウィーク中に(場合によってはそれ以後も)何回かやりたいと思っているが、明日は本当にその導入として、下にリンクした記事を取り上げてその内容について語ろうかと思っている(単なる雑談回になる可能性もあり)。


(このあたりの記事を参照のこと)
The Best of Dreams(REBECCA)
http://after-carnival.seesaa.net/article/52374635.html
尾崎豊の死――『ろくでなしBLUES』『今日から俺は』『湘南純愛組』――(現代漫画の潮流C)
http://after-carnival.seesaa.net/article/52965933.html
きまぐれオレンジロード あの日にかえりたい(望月智充)
http://after-carnival.seesaa.net/article/119792637.html
マンガで文化研究〜概論編
http://after-carnival.seesaa.net/article/147999285.html
記号化された諸表象
http://after-carnival.seesaa.net/article/148000826.html


本当は一周年記念ということで、過去の放送の録音を流してそれについて話すというのでもいいのだが(それもやるかも知れない)、それはメンバーがそれなりに集まったときにやろうと思っている。(SIZ)
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2010年04月27日

記号化された諸表象

(この記事は2005年3月10日に書かれました)

3月8日の記事で、R氏が80年代の文化表象について述べているが、これを受けて、僕も、こうした文化表象について語ってみたい。僕が今回書いてみたいのは、80年代の表象そのものではなく、R氏が「記号化」してしまったと述べているような、現在においてはひとつの「お約束」でしかなくなってしまった表象についてである。とどのつまり、現在のアニメーションを中心にしたサブカルチャーにおいて、R氏が列挙したような表象がどのように継承されているか、ということを見ていきたいのである。

1、時代気分(純愛)
現在サブカルチャーを席巻している純愛ブームが、いったい、80年代からの流れとどのように結びつくのか、ということを考えていくのは重要なことだろう。おそらく、R氏が述べているのとは別の意味で、「純粋さ」というものは現在にも継承されている。とりわけ、90年代以降、恋愛シミュレーション・ゲームにおいて培われた物語は(80年代からの物語変遷を考えるにあたって)注目に値する。こうしたゲームは、もともとはエロゲーの一種だったにも関わらずに、エロの要素が希薄になり、それと同時に「泣き」の要素が入ってきた。こうした純愛ものでは泣けることが重要なのである。

2−1、場所(丘)
高いところから街の風景を見下ろすというシチュエーションは、R氏が指摘しているように、『耳をすませば』を(90年代の)代表格として、現在も数多く見受けられる。このシチュエーションを最も効果的に用いたのは、高橋しんのマンガ『最終兵器彼女』だろう。そこでは、主人公たちカップルにとっての「約束の場所」として、丘の上(展望台)が繰り返し登場する。その場所は、主人公たちが二人きりになれる唯一の場所であり、まさに「二人の場所」と言えるような場所である。

2−2、場所(屋上)
昼休みに屋上でみんなと食事、というのがサブカルの典型的なシチュエーションである。最近の作品では、『あずまんが大王』や『ブリーチ』に屋上が出てきた。多くの作品に共通するのは、主人公たちが屋上にやってきても、他の生徒はいないという状況である。つまり、屋上とは、学校という、人がいっぱいいる場所で、比較的、人があまり来ない場所、ということなのだろう(だから、屋上で、告白や喧嘩が行なわれる)。

2−3、場所(深夜のプール)
あと、R氏は指摘していないが、こうした一連の場所のひとつとして、「深夜のプール」というのもありはしないか? これはAI氏が映画レビューの欄で述べているシチュエーションでもある(『少年たちは花火を横から見たかった』)。最近の作品で言えば、『ベック』にそうしたシーンが出てくるし(男女が裸で深夜のプールに飛び込み、歌を歌い合う)、ライトノベル『イリヤの空、UFOの夏』の冒頭がまさにそのシーンだった(夏休み最後の日に学校に忍び込むと、プールに見知らぬ女の子がいる)。あと、ついでに言うと、鷺沢萠の小説にもそういうのがあった(10代の最後に久し振りに再会した高校時代の仲間たち数人が、学校に忍び込んで、プールに飛び込む。これは80年代の作品)。

3、メディア(ラジオ)
美少女がラジオに投稿するというシチュエーションは、現在のサブカル作品においても散見されるが、これはかなりノスタルジックなものだろう。とりわけ、受験生がラジオを聞いているという風景はノスタルジックなものだ。近年の作品で、それを最も効果的に用いていたのは、自称「お受験アニメ」の『七人のナナ』である(他にも、『あずまんが大王』や『ケロロ軍曹』にも、そういったシーンがある)。それから、R氏の指摘している高野文子のマンガは確か、田舎の少女が都会への憧れをときめかせる、その媒介となるメディアがラジオだった、という話だったように思うが、こうした田舎と都会とのギャップを主題にした作品は、最近あまり見かけないような気がする。

4−1、人種(不良)
サブカルチャーにおける不良の位置づけは、90年代以降、かなり大きく変わってきたように思われる。現在の作品でも不良は出てくるが、その役割は「いじめっ子」とほとんど同じではないのか(例えば『ベック』)。つまり、反抗する主体としての不良というものは、ほとんど見受けられなくなったのである(自分たちの行動に一本筋を通す不良たち)。この問題は、「番長」という存在がいつ頃からいなくなったか、ということと考え合わせてみると面白いかも知れない。番長の存在はすでに、80年代において、パロディの対象だった。

4−2、人種(先輩)
女子生徒が先輩に憧れを抱くというシチュエーションは少女マンガの王道だが、やはり、このシチュエーションも、現在の少女マンガに残っている(しかし、やはり、「お約束」としての色合いが強い)。アニメでは『ケロロ軍曹』『ふたりはプリキュア』がそうだ。

5、イベント(学校行事)
これは、学園もののサブカル作品においては、欠かせない要素である。作品の時間的な流れを区切るのがこうしたイベントだ。入学式、健康診断、体力測定、体育祭、定期テスト、夏休み、文化祭、修学旅行、卒業式。とりわけ、「文化祭」は、サブカル領域において、一種異様な情熱を持って、描かれ続けている(『うる星やつら2』を持ち出すまでもなく)。こうしたイベントをメインにした近年の作品として、『あずまんが大王』と『瓶詰妖精』の名前を上げることができるだろう(『げんしけん』はその(オタク)大学生バージョンだろう)。こうしたイベントの扱われ方を軸にして、いくつかの作品を比較検討してみるのも面白いだろう(例えば、『究極超人あ〜る』では京都・奈良に修学旅行に行ったが、『あずまんが大王』では沖縄に行った、など)。

6−1、コミュニケーション(相合傘)
これは現在の作品でも見られるが、それは、R氏が指摘するように、「冷やかしの対象」として、もはや記号化されたものとしてである(朝学校に来てみると、自分の名前と自分と何らかの関わりのあった異性の名前とが、黒板に書かれている)。90年代の作品では、『エヴァ』にそうした落書きがあったことが思い出される(机の落書き)。

6−2、コミュニケーション(回し手紙)
これもまた、現在の作品に見受けられる。R氏の言うように、確かに現在では携帯が普及しているが、携帯を作品で効果的に用いている作品では逆に、「使ってやるぞ」という作者の意気込みが垣間見られて、不自然さを感じる(例えば『ほしのこえ』)。むしろ、こうしたハイテクと「回し手紙」のようなローテクとが同居しているほうがリアルではないのか? そうした作品も現在、いくつか出ていることだろう。

7、ファッション(髪型・服装)
この点は、そこに注目して作品を見ることがほとんどないので、何とも言えないところがあるが、確かに変化はしていると言える。というよりも、ファッションほど変化の激しいものはないだろう。われわれが、写真などを見て時代特定できるのも、ファッションに寄っているところが大きいかも知れない。R氏の述べている不良のファッションに関して言えば、80年代初頭の「いかにも」という感じの不良ファッションは、サブカル作品においても、少なくなった(パロディとしては用いられるが)。とくに女子は大きく変わったような気がする(男子の場合は名残があるだろう。例えば『ベック』や『ごくせん』のような作品)。


 長々と書いてきたが、こうした文化表象を分析することによって導き出せるひとつの結論は、ネタかベタかという二つのカテゴリーの境界線が不明確になってきた、ということだろう。このことは、何よりも、ネットに見出すことができる問題である。ある書きこみがあったとして、その書きこみが本気でそれを述べたもの(ベタ)なのか、それとも単にその振りをしているだけ(ネタ)なのか、それを区別することは困難であるだろうし、無意味だとも言えるだろう。それゆえ、ネットを中心にした現在の文化表象には、極端なシニカルさと極端なナイーブさが同居している。現在の純愛ブームも、こうした文脈から捉える必要があるかも知れない。つまり、あらゆるものから距離を取るというシニカルな状態が、一転して、ある種の狂信状態に変わるのである。これはオウム真理教などの新興宗教の問題とも絡むだろうし、現在のわれわれがどれほど寄る辺ない存在か、ということを端的に示してもいるだろう。

 富野由悠季は、その作品の中で、しばしば、「重力に魂を奪われた人々」ということを語っているが、故郷喪失者にとって最も懐かしいものとは、この重力の重みなのだろう。自由と隷従の区分で言えば、自由になった奴隷は鎖の重みを懐かしむ、ということである。われわれが今日、耐えねばならないものとは、このシニカルな状況、あらゆる価値が相対化されたこの状況である。ノスタルジーの危険性はここにある。ノスタルジーによって、われわれは、最もナイーブなものを真理と見間違うのである。80年代を回顧するときにも、この罠にはまらないようにすべきだ。80年代を振り返るのは、現代を考察するため、さらには、未来を考察するためである。(SIZ)
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マンガで文化研究〜概論編

(この記事は2005年3月8日に書かれました)

 以前から、70年代後半に生まれ、80年代に少年期あるいは青年期を過ごした世代のマンガ体験の中から、「文化的表象」体験を振り返り、懐古しながらそれらの意味の問い直しを図ろうと考えていた。

 特に80年代のマンガ作品内に盛んに用いられた記号、それも今はもはや、まさに記号でしかなくなってしまった「文化的表象」にどのようなものがあり、なぜただの記号に衰退しあるいは消滅していったのか。そこを焦点化するのである。

 まず問題の俯瞰的概括をしておく必要があるので、今回は作品よりもキーワードとそれに関するメモを列挙してみようと思う。むろんそれは無限に並べられるのであり、あくまで個人的体験からの問題関心による、恣意的列挙に過ぎない。

 以下当時のマンガなどに好んでよく現れるモチーフや、また物語内の気分を反映し、読者の時代的琴線によく触れた表象を挙げたい。(その多くが今や漂白され脱色しているものである)

1.時代気分
バブル期の表層的な「浮かれ」の裏で、「純粋」「純情」などといった、ある種の「ピュアネス」「イノセンス」が信奉されていた。「トキメキ」などもそこと連関するものだろう。

2.場所
「丘」「砂浜」「屋上」など。
 丘。かつて未来を夢見る場所であり、希望の象徴でもあった場所。(そういえば村瀬学はなぜ丘が歌謡曲から消滅したのかと論じていた)希望を見ずとも丘で星空を恋人と見あげることが、ロマンス進展におけるひとつの重要なリアリティだったのである。「きまぐれオレンジロード」のラストのキスシーンは舞台が丘の上であり、極端な高低差のある視界を持つ、ファンタジーに典型的な街の眺望(「耳をすませば」など)が醸し出す情緒によって成り立っていた。「砂浜」「屋上」も同様である。
 音楽室なんかは別名「告白所」というくらい、誰もいない部屋(ということになっている)の定番である。僕はよく音楽室に入り浸っていたが、じっさいは放課後だけはだいたい部活で騒々しいのだが。

3.メディア
「ラジオ」「ラジカセ」
 TVや雑誌などもメディアだが、この二つは当時猛威を振るった。いまクラスの美少女が、深夜ラジオにはがきを出す熱心なリスナーである、というのは真実味がないが、「セカチュー」で回顧されたように当時は、人物像として充分ありえた。高野文子の短編には、田舎の少女のリスナー風景だけを切り取ったものがあるくらいである。

4.人種
「不良」「先輩」(以上はA.I.氏が思い入れしているものである。)「マネージャー」「暴力教師」など
 あだち充『H2』くらいまでは、マネージャーに格別なヒロインとしての人格が与えられていたかもしれないが、例えば森田まさのり「ルーキーズ」のマネージャーは、だいぶその役割において後退している。「中心」はチームと監督であり、彼女はいわば「木星」ぐらいの位置にいる。
 
5.イベント及びコミュニケーション
「卒業式」
 むろんこれは、今でもある程度通用する。しかし、桜が散る湿っぽさなどといったイメージや情緒も、まんま感受していた時代と比べたら、だいぶ記号化したのではないか。今の当事者たちは、すでにサブカルその他で消費されつくしたイメージを、追体験しているような感覚のほうが強いのではないだろうか。僕の時代からしてそうであった。「卒業」あるいは「卒業式」というモチーフが入学したときから念頭にあって、思い入れが強い奴はどうかすると、「卒業式」のために3年間通った、と言っても過言ではないようだ。
 しかし第二ボタンのイベントは、今どれくらい真剣味を帯びているのか。むろん現場では、いつだってそれなりにリアルになるものがあろう。しかし、あくまでも表象の場に持ち出すこととしていまだ「リアル」でありうるかという問題であるので、その点になると疑わしい。

6.コミュニケーション
「2人乗り」「落書き」「回し手紙」
 バイクよりも、自転車が個人的には想起される。
 「落書き」は、子供が地べたにやるやつでも、もはやアートのグラフィティでもなく、黒板や机やノートの隅、はては歩道橋の欄干などにするような、ちょっとした「思い出作り」の痕跡のことである。相合傘はすでに冷やかしでしかなかったが、隣の机の女の子と机やノートに、イタズラ書きしあうのは授業中の至福であろう。また「回し手紙」はより広範な、コミュニケーション・ツールであり、まだあるかもしれないが、今の少女マンガなどでよく見るのはもう携帯メールである。

7.ファッション
「ポニーテール」
 いわゆるヒロインたるものの所以であり至上価値だった「清純」と不可分の髪型だったろう。
「ロング・スカート」
 それの対称をになったのがこちら。「清純」を引き立てる「不良少女」役のアイテムだ。しかし、「ボンタン」を履く「不良男子」は、むしろ「ポニーテール」側とカップリングできる存在だったように思われる。


 ところで、「文化研究」というような題目を立て批評・研究めいた事をしようとするとき、ある問題がある。

 つまり、このようなやや個人的でもあり、趣味的な回顧に堅苦しい「文化研究」という態度は必要か、という問題である。

 軽やかに読ませるものとして書き、面白ければいいとするような、やや刹那的な「面白味」至上主義が最近の、あらゆる論評態度の主流に見える。どうかするとアカデミズムですら、それに侵食されてきているようだ。

 しかしそれは必要条件であっても充分条件ではないのではないか。

 80年代のオタク世代が、あるいはその世代のアカデミズムが、何でもかんでも批評の場に持ち込もうとし、しかも強迫的なまでの該博さと学究的な体質・性格で問題の批評的消費を繰り返していったことに対する、倦厭・食傷あるいは嫌悪から、そういった志向にアンチを唱え相対化しようという反動的試みが後代に起こっていったこと、それは現象として首肯できるものではある。少なくともそのような批評が趣向として飽和状態なのは疑えない。

 しかし、それに異を唱えるとして、それは我々の世代の選び取った価値観かもしれないが、そうであってもその欠落や狭さに無自覚であるべきではない。きちっと踏まえる問題である。つまりそこには批評への良心がかかわってくるのである。

 つねに良質な「批評」「作品」を目指すことは、80年代の特権でも価値観でも無論ない。また「書くこと」の倫理・誠実さをどう自らに問い踏まえるかということ抜きに、当代の価値観のみを主張するべきでもないだろう。そしてそのような態度を安易にあるいはポレミックに括弧の中に入れて判断停止(エポケー)してしまうなら、おそらく何かを問う基礎体力じたい低下していかざるをえなくなるだろう。(R)
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2010年04月26日

アフター・カーニバル深夜便(緊急特別企画)〜村上春樹『1Q84』BOOK3を読む〜

 4月16日に発売された村上春樹の『1Q84』のBOOK3を読んで、それについて語る企画。ネタバレありです。
 冒頭で「第47回」と言っていますが、「緊急特別企画」として繰り上げてアップします。
 この回は4月23日の深夜に収録したもので、生放送としてustで配信もしていたのですが、僕の手違いで音声が流れないまま終わってしまいました。告知した時間に来られた方には申し訳ありませんでした。
 『1Q84』を読む企画については今週の金曜日の深夜にも行なう予定です。(SIZ)



(関連する過去の深夜便の回)
第八回:今こそ村上春樹を読み返すとき
http://after-carnival.seesaa.net/article/121508196.html
第四十一回:「かえるくん、東京を救う」と「蜂蜜パイ」を読む
http://after-carnival.seesaa.net/article/144125750.html
第四十二回:神の子どもたちはみな踊る」と「アイロンのある風景」を読む
http://after-carnival.seesaa.net/article/145005622.html

2010年04月25日

期待される野球マンガ像――ひぐちアサ『おおきく振りかぶって』――(現代マンガの潮流K)

(この記事は2007年1月30日に書かれました)

 野球マンガの定型というべきものがあるならば、以下のようになるのだろうか。

@ずば抜けた才能を持ったピッチャーが主人公である。
A主役チームがごく普通の公立高校である。
Bチームメイトは初め、半ば寄せ集めである。

 この条件でスタートし、才能と努力と団結で甲子園に出場する。おそらく僕自身、あだち充、原秀則らの諸作品から受けたイメージの枠組みに縛られているのだろうが、おおよその野球マンガは、この枠組みを踏襲しており、この条件下から、いかに主人公たちの成功と成長を描けるかに力点が置かれ、また読者においても、初期条件はこうでなければ共感できないのではないだろうか。当然、作家の力量如何によってはこの条件下で十分に楽しめる作品ができあがるのであって、そこを否定するつもりはない。

 だが、今日の我々が野球マンガにおいて読みたいと思うポイントは、この条件を満たしたものからは幾分ずれてきているのではないだろうか。以前A.I.氏が以下のように述べていたと思う。おおむねの野球マンガにはリアリティがなく、面白味が感じられない。この場合のリアリティのなさとは、それらの作品において、そもそも野球を成り立たせる環境というものがないがしろにされていることだ。野球には金がかかる。バット、グローブ、ユニフォームといった道具、ピッチングマシーン、照明、グラウンド等の設備(なぜ校庭で野球部しか練習していないのか)。メンバーにしても、ピッチャーは最低3人は必要であり、選抜した選手を入学させられる学校が有利である。優秀な選手は、当然よりよい環境を選択する。また、コーチも複数必要だろうし、強化合宿、遠征等で使用する車両も必要だろう。そして、これらの条件を満たせるのは、普通、財力のある私立高校である、と。

 つまり財力を備えた学校の野球部は、主人公たちが高校一年生になった段階で、すでに個人の努力では埋めがたい戦力を備えていることになる。これは有利だとか不利だとかいう前に、学歴面で言い換えれば、中学入試で超進学校に入り、そのまま国立大に現役合格するいわゆる〈勝ち組〉と、公立中・高校に通っているうちに退学し、ネットカフェ難民にでもなってしまう〈負け組〉にも似た、歴然たる社会的格差の問題である。当のスポーツでいえば、たとえば僕はサッカーの中村俊輔が通っていた私立高校を知っているが、これはメンバーを完全に特待生で入学させ(内申点の基準はオール3程度)、授業もそこそこに切り上げ、早い時間から部活を始めたりする。選抜メンバーは、小・中では当然クラブチームに通っていた高所得層の子弟だろう。特に部活動の時間制限が厳しく施設が整っていない首都圏の公立中学校では、まともなものが提供できるはずもない。ちなみにその私立高校自体でも、中学部でのサッカー部員はほぼ高校のサッカー部には入れず、同好会のようなものに移される。

 このような状況下で、冒頭に述べた条件下で始まる野球マンガもまた、読者の共感を呼ばなくなってきているのではないだろうか。

 ひぐちアサ『おおきく振りかぶって』(講談社)は、魔球、秘打、人間離れした才能・努力を抜きにした、リアリティを追求した野球マンガとして評価されているようだ。だが、これは格差社会という状況下にある我々が真に注目すべき作品なのだろうか。冒頭の定型に照らし合わせてみると、@三橋という、ストライクゾーンを9分割して投げられるピッチャーがいる。Aまさにごく普通の公立高校野球部である。B優秀な選手が揃っているが、それぞれに事情を抱えて半ば偶然にも似た形で集まっている。よって、@〜Bの全てを満たしている。そして、A.I.氏の述べていた資金面の問題については、監督がバイトで部費を賄っているということでクリアしている。だが、これこそがまさに個人の超人的努力にあたるのではないだろうか。

 他にも問題はある。スポーツ特待生でもない『おおきく振りかぶって』の野球部員たちは、野球だけしていればいいということは、絶対にない。勉強はしないでいいのか。これについては、勉強をしないと赤点を取ってしまい、野球ができなくなるというふうにして勉強もこなしているとしている。また、照明のない状態で、練習時間はどうやって確保するのか。これは、朝5時から朝練を開始するということで説明している。

 このように、『おおきく振りかぶって』は、ひとつひとつの問題に説明を加えてはいるが、まず作品の前提において、野球マンガの定型をふまえていることは間違いない。定型を踏んだうえで、どうすればそのような物語が可能になるのかという後付けの説明を加えているにすぎない。作品の前提において、その根本においてあだち充らの野球マンガの定型を一歩も踏み出すものではない。『起動警察パトレイバー』が、前提として〈電線がない〉というフィクションを措くことによって、その詳細なリアリティを駆動したように。それが、僕自身がこの作品を読みながら感じていたある種の虚しさの正体であろう。我々が求めるべきなのは、そのような前提を踏まないとすれば、今日においてどのような野球マンガが可能なのかということなのではないだろうか。普通に考えれば、それはひどく退屈で爽快感の欠片もない野球マンガとなるだろう。だが、どこかで描かれなければならないのは、@〜Bの条件を満たした野球部の敗北であることは間違いない。これこそが注目すべきリアルであり、この条件の敗北を描いた地点からでないと、作中でたとえどのような心理戦が描かれようとも、どのような創意工夫がなされようとも、真に我々の心を揺さぶる何かは見出せないだろう。(イワン)
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2010年04月22日

アフター・カーニバル深夜便〜第2回生放送の告知〜

4月23日(金)夜24:30〜(24日(土)0:30〜)
テーマ:村上春樹の『1Q84』について語る(とりわけ3巻を中心に)

先週は『1Q84』の1巻と2巻の内容について語ったので、今度は第3巻を中心に語ります。1巻と2巻について語ったと言っても、まだまだ語り残しているところはたくさんあるので、もちろん『1Q84』という作品をトータルに問題にしたいと思います。どこまでネタバレしていいのか難しいところですが、基本的にネタバレありで語りたいと思っています。

会場
(終了しました。こちらの手違いで前半音声が流れなくて申し訳ありませんでした。原因が判明しましたので、明日の放送は問題なくできると思います。前半の放送は録音したので、近日中にブログにアップします)


4月24日(土)夜23:30〜
テーマ:『第9地区』を中心に去年末から今年にかけての映画の話など

クヌギさんが『第9地区』を見たということなので、先週に引き続いてまたゲストとして語ってもらいます。ちなみに、僕(SIZ)はこの映画を見ていないので、クヌギさんに全部語ってもらいます。しかし、それだと話が続かない可能性もあるので、昨年末から今年にかけて公開された映画についてもいくつか語る予定です。『フォース・カインド』、『パラノーマル・アクティビティ』、『東のエデン劇場版』、『機動戦士ガンダムUC』などについて語る予定。余裕があったら、クヌギさんに最近のゲームについての話もしてもらおうと思っています。

会場
(終了しました)


4月25日(日)午後2:00〜
公開読書会:東浩紀「情報自由論」を読む(『情報環境論集』所収)

いつもナリチカさんと行なっている読書会を試しに公開で行ってみることにしました。それなりに長時間やる予定なので、かなりダラダラした感じになると思います。今回は第1章から第7章までを問題にする予定。

会場
(終了しました)

こんな感じで3日連続やるのは、我ながら、いかがなものかと思っているのですが、ustを導入したばかりなので、いろいろと試してみたいという思いがあります。来週は落ち着くと思います。(SIZ)
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2010年04月21日

我々の住む世界では……――木尾士目『げんしけん』(5巻、6巻特装版およびOFFICIAL BOOK)――(現代マンガの潮流I)

(この記事は2005年10月25日に書かれました)

 月に一本もエッセイがないのも寂しいのでここらでひとつ。

 えらく以前に発売されたもので、しかもマンガ喫茶で読了しているのだが、久しぶりに『四年生』『五年生』を読み返したのがきっかけで『げんしけん』(5巻、6巻特装版およびOFFICIAL BOOK)を購入した。

 特典物関係について。『OFFICIAL BOOK』はTVアニメ化記念で刊行されたものだが、くじアン特製トレカ(切り取り式)、大野さん三つ折りカラーポスターなど、『げんしけん』紹介本としてはよくがんばっていると思う。他にも赤松健インタビューや作者によるネタばらしなど、興味深い企画が盛り込まれている。

 6巻特装版には『げんしけん』の同人誌がついており、原典に同人誌をセットでつけるという前衛的な試みがなされていて、面白い。同人メンバーも、あさりよしとおはじめ、そうそうたるメンバーだ。表紙の大野さん(副会長コス)、荻上(上石神井コス)、咲(会長コス拒否)もカラフルで楽しい。

 5巻については新キャラクターの荻上と大野の確執?が面白いし、「げんしけん」のコミフェス参加の話はなかなか感動的だ。

 しかしやはりグッときたのは6巻である。笹原の妹の受験エピソードもよかったが、6巻の主役は斑目であろう。

 新宿で偶然咲と会い、一緒に回転寿司を食べるシーンにはほとんど泣きそうになった。咲が高坂と一緒にゲームをやったという話を聞いた次の場面。

「やっぱ春日部さんにはそうゆうのやってほしくなかったかも……」「高坂とつき合うのは全然OKなんだけど何つーか」「茨の道を歩いてほしかった」「いやもういっその事」「別の星の人でいてほしかった」
「何それ?」 だからこそ
「いや」 あきらめつくんだし
「ちょっとした希望」 許せる
「ははっ…… むしろ針のムシロ」 これじゃ茨の道は俺の方だ……
「?」

 切ない。

 マンガという表現方法のひとつの特質が、人物の言動と内面を同時に表出しうる点にあるとすれば、これはその技法による表現の最上のもののひとつであると思う。

 「だからこそ」「あきらめつく」というのは当然、斑目に、咲に引かれる気持ちがあったとしても、咲がオタクにまったく理解を示さない異人種であれば、はじめから自分とは全く理解し合えない存在として咲を諦めることができるということだし、「許せる」というのは、自分には得難い優れた容姿、つまりオタク以外の人種との共通項をもつ高坂が、まさにそれによってのみ咲とつながっていた〈であろう〉ことを許せるのである。しかし今や「オタク」「一般人」両方の回路で高坂と咲がつながってしまったとすれば、自分は「オタク」としても高坂に負けてしまった、つまり勝つ可能性のある部分においても敗北を認めざるを得ないということであり、それが斑目にとっての「茨の道」なのである。

 そして淡々と卒業の日は迫り、特に感動的な出来事もないまま斑目たちは卒業していく。むしろ感動的な出来事が起こっているのは「くじアン」の中だけというのが皮肉であるが、卒業式当日も斑目たちは自分たちの話はそっちのけで「くじアン」の話に興じている。非日常に憧れ、やはり何事も起こりはしない毎日、これが日常である。このあたり、いくらでも叙情的になれそうなところを、作者はかなり抑制して描いている。それがたまらない。それがかえって斑目の、言葉にならない思いを、さまざまに想像させるのである。

 『げんしけん』には確固たるストーリーがあるわけではなく、各エピソードはいつも唐突な感じで始まる。卒業エピソードもそうである。寸断された毎日、それが今日の我々がもつ現実の手応えだろう。そういう点では、なにか物語が生起しそうになるとそれを失効させるという手口のメタ・フィクションの仕組みをもっているともいえそうだ。しかしこの作品は物語の否定を繰り返し、世界や人生の無意味性を嘯いていた一時期のメタ・フィクション作品群とは異なるものだと感じる。それは、木尾が必ず作品内の時間を進めるという点によるところが大きいだろう。時が過ぎゆく。その中で確実に何かが進んでいる。進まないわけにはいかない。進んでいるのだから。

 我々の住む世界では、何も起こらない。何も起こらない、ようで何かが起こっている。確かに何かが起こっている。その何かのために、我々は涙を流すのだろう。(イワン)
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2010年04月19日

アフター・カーニバル深夜便(第四十四回)〜フォーマットとしてのAKB48〜

 「AKB48について語りたい」というRさんの言葉から立ち上がった企画。それに追随するようにイワンさんもこの放送でAKBについて熱く語り始める。
 アイドル文化にそれほど熱を入れているわけではないメンバーたちがその重要性に着目せざるをえないAKBのフォーマットとは何か?
 僕もまたAKBのPVを見て、何か新しいもの、熱いものを感じました。(SIZ)



(参考動画)
大声ダイヤモンド
http://www.youtube.com/watch?v=ER9uD327bsM

(参考)
秋元康が語るAKB48への思い(MSN産経ニュース)
http://sankei.jp.msn.com/entertainments/entertainers/100111/tnr1001111801005-n1.htm

2010年04月18日

仕事で、死にたい―― ――安野モヨコ『働きマン』――(現代マンガの潮流H)

(この記事は2005年8月22日に書かれました)

「オレは『仕事しかない人生だった』」「そんなふうに思って死ぬのはごめんですね」

 それもある それも多分あって 確かにそのとおり でも

「あたしは仕事したな――って思って」「死にたい」

 第1話から方向性は明確であるように思われるかもしれない。ほどほどに仕事をこなす新人と、仕事に没頭する主人公・松方弘子の対比は、仕事をする人間にとっての古典的なテーマであるようにも思われる。仕事か、プライヴェート(家庭・恋)かという問いかけは、昔から考えられてきた、社会人にとっての永遠のジレンマだからだ。

 だが、この作品はきわめて今日的な問題をはらんでいるように思われる。

 まず、作品の手法について、この作品は、仕事そのものについてのマンガである、ということがいえる。ふつうの話であれば、主人公は何か具体的に仕事をしていて――たとえば料理人であるとか警察官であるとか――その職業において活躍していくことに主眼がおかれるところだし、冒頭に挙げたジレンマは、主人公が仕事に励むさいの、副次的な問いとして、ストーリーを盛り上げるための障害として取り上げられるのみであろう。

 ぱっと例が思い浮かばないのだが、とりあえず言うならば、『はじめの一歩』で母が倒れたときに一歩がボクサーをとるか家族の安泰をとるかを悩む、といったような話は、作劇上の常套手段だろう。

 もちろん弘子についても、編集者としての具体的な仕事内容は描き込まれる、というより彼女は仕事一色の生活をしている。だが、ほとんどの場合彼女は仕事を優先するし、恋人もやはり仕事優先である。

 ではやはりこのマンガは、一人の女性が編集者として困難を乗り越えて成長し、本当の自分に出会っていく話ではないか、と思われるかもしれない。だが彼女の場合、仕事に没入する自分そのものに疑いをもっている。仕事は当然、仕事であるから、自分のやりたいことだけに熱中して、そこで生じる困難をクリアしていくというだけにはいかない。その時々のやりがいや達成感はあるが、イヤな部分も多いわけであるし、それを十分に自覚している。だがそれでも弘子は仕事に没頭していく。故意に没頭しようとしている。仕事への没頭に〈故意〉が含まれてる状況そのものが、彼女が自身に疑いをもっている証拠であろう。

 こういった理由で、この作品は、けっして編集者という職業についてのマンガではなく、仕事そのものについてのマンガだといえる。

 実のところ、仕事か、プライヴェートかという古典的な葛藤は、弘子にはほとんどないといえる。彼女は常に仕事優先であり、恋人も基本的にそうである。過酷な労働条件下におかれながら、常に仕事優先というムードが彼らの基調低音なのである。だが、くりかえすが、彼女をいわゆる〈キャリア・ウーマン〉や〈負け犬〉の枠にはめることはできない。注意すべき点は、彼女は全面的に率先して仕事をしているわけでもなく、いやいやながら独身に甘んじているわけでもないというところだ。この作品のポイントは、全面的に楽しいわけではなく、むしろ辛くてイヤなことも多い仕事に、故意に没入しようとしている弘子の姿勢にある。

 これはおそらく時代的な状況のなかで生まれる姿勢であろう。長引く不況で、単純に労働時間が増大した、生活のなかで労働の占める割合が増えた、その過酷な状況のなかで働かなければならない。収入は当然だが、自らの存在条件も定めていかなければならない。それは何によってなされるか。仕事をしている時間が長いのだから、仕事によってなされるしかない。つまり、この作品においては、働くということへの動機づけが、さまざまなかたちで、さまざまな登場人物と自分を照らし合わせることによって、彼女のなかでつねになされているように思われるのである。

 そして弘子は自分の全存在を、仕事というものと一対のものと〈しよう〉としているように見受けられる。それが彼女の、仕事への没入を生んでいるのではないか。だが残念ながらそれらは完全に一対にはならないだろう。仕事という枠からはみだしてしまう自分の部分は多分にある。大多数のサラリーマンは、たとえばボクシングの亀田興毅のように、100%何かと自分を一致させるわけにはいかない。それもわかっている。わかっているが弘子は自分=仕事という試みを実践するのである。なぜか、それはとりあえず、とりあえずそのように生きるしかないからだ。

 また、弘子お気に入りのセラピスト、白川緑子は、多忙や売り上げのために納得のいく仕事ができなくなり、店を移る。移転先でも同じような状況は続いてしまうのだが、彼女は言う。

「『気持ちよかった』」「と言ってもらえるのが一番うれしいですし、そこでしか報われない仕事です」「本当に大切なのはその一点で条件ではない」

 ここには働くということの動機づけを、〈うれしさ〉〈楽しさ〉に求める人の姿がある。弘子の姿勢も、緑子の姿勢に近いところがあるように思える。確かに、緑子の言葉には感動させられる。しかしそのようなスタンスも、すぐに相対化されてしまうものでしかない。なぜか。それは緑子が、弘子が、そして我々が、仕事への動機づけを求めている、という、同じタイプの人間であるからにほかならない。

 最後に冒頭の引用に戻るが、第一話での新人と弘子の対比で気になる点は、どちらの考えにも、「死」という言葉が出てくるところである。仕事を語るときに「死」が出てくる。普通、「仕事」と「死」は結びつけられる言葉なのか? 分からない。おそらく他の時代・場所から見れば不自然なことなのではないか。いや、視野狭窄に陥っているだろう僕には断定できない。

 しかし言い得ることは、両者とも、真逆のスタンスをとりながら、いや、だからこそなのか、仕事を「死」と同じくらい重大――それはあまりにも重大だ――な事柄としてとらえているということだ。

 これだけは、我々の現在にとって確かなことなのである。(イワン)
posted by SIZ at 19:56| Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年04月15日

アフター・カーニバル深夜便〜第1回生放送の告知〜

4月16日(金)深夜24時30分〜(17日0時30分〜)
テーマ:村上春樹『1Q84』の1巻と2巻を読む

第3巻の発売日ですが、当然その日のうちには読めないでしょうから、まずは、1巻と2巻を読んで復習したいと思います。第3巻については次の週くらいに取り上げたいところ。

会場はこちら
(終了しました)


続いて、その翌日


4月17日(土)夜23時30分〜
テーマ:浅野いにおの『ソラニン』について語る

先日から劇場で『ソラニン』の映画が公開されているのに合わせた企画。僕は映画を見ていないのですが、クヌギさんが見たということなので、クヌギさんをゲストに呼んで映画の話もしたいと思います。しかし、主にマンガの話をすることになると思います。

会場は同じくこちら
(終了しました)

http://30per.cocolog-nifty.com/blog/2010/04/post-5187.html
↑映画『ソラニン』についてのクヌギさんの感想です。話した内容の一部を録音しましたが、それは数週間後にアップする予定です。


都合により何か変更する場合は、ブログかツイッターでお知らせします。(SIZ)

posted by SIZ at 03:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 生放送の告知 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年04月14日

仕事で、死にたい――

(この記事は2005年8月7日に書かれました)

 ごぶさたしております。イワンです。この夏のコンセプトは〈自分をコロス〉です。頭痛と吐き気がします。イヤです。漫喫行きたい。というわけで、しばらく書き込まずにいて申し訳ありません。

 回覧板[※旧掲示板のこと]のほうに書こうと思ったのですが、長くなったのでこちらのほうに。

 会合の話が着々と進んでいるようですが、仕事の性質上、僕が一番皆さんとスケジュールを合わせづらいので、基本的に、できれば参加というかたちになってしまうかと思います。勝手を言って申し訳ありません。

 SIZさんのブログにリンクがはられてある「雑記、日記、悪知識。」を、たまに拝見しているのですが、書き手の方は半端ではない働きぶりですね。12時間授業を続けたぐらいで潰れている自分が器の小さい人間に思えます。張り合うことではないですが。

 それにしても、まさに「ハイテンションな自己啓発」でもおこなわないと乗り切れない今日この頃。いっそ「有用か無用か」で割り切ってモチヴェーションを高められれば楽かと思うのですが、その虚しさを知りつつ過酷な労働に従事していくのは辛いことです。

 ただ、最近発見したのですが、労働が過酷になればなるほど、その中に〈楽しさ〉を見出していけるようでなければ到底乗り切れるものではないようです。そうしなければすぐにでも膝をついてしまうことでしょう。

 あるいはこういう状況そのものを「ハイテンションな自己啓発」と呼ぶのかもしれませんが。そして仕事、ひいては世界の過酷さに怯える者の反感が、かえって仕事への没頭を生むのかもしれませんが。仕事が怖い、しかし逃れられない。よって仕事と中途半端な距離を保っているのが一番不安である。ならばいっそ一気に仕事との距離を詰めてしまったほうが安心できる、というように(これは妥協した安心に過ぎませんが)。

 また、〈楽しさ〉というものを有用のものと見るかどうかでも、話は変わってくるかもしれません。とくに現在の社会の特徴は、ただ労働環境が劣悪で、人々が嫌々ながら酷使されているというだけはないような気もします。むしろ、いっそのこと、という感じで、劣悪な労働環境、社会的地位の低い仕事にでも、過度の幻想を抱き、なんとかして〈楽しさ〉を見出し、それに自分の全存在を投入していくような型の労働者も存在しているような気がします。つまり前者では肉体は労働に奪われているが、心は奪われていない。後者では肉体と心をともに、積極的に仕事に捧げているという違いがあるのではないかと感じます。

 どうせ世界は過酷だ。ならばいっそその中にどっぷり漬かって、その中で地位や名声の獲得なり、自己実現なりを図ったほうがいい。仕事に没頭すればするほど、そのすべてが集まってくる。莫大な収入を得たり、有名人になったりと、決定的に今の状況を変えることは無理だ。だがそれが世界の過酷さだ。それに絶望し、今の仕事に没頭できなかったヤツが負けだ。何もかも忘れて、仕事に没頭することにこそ希望がある……。

「仕事で、死にたい――」

 労働環境が悪化するなか、いわゆる「希望格差社会」のなかで、上述した理由から、このような漠たる思いを抱いている孤独な労働者も少なからず存在しているのではないかと思います。そしてそれは、結局のところ、ひきこもりや、ニートと呼ばれる人たちの、やはり少なくはない部分の者と対をなしているようにも、思えるのです。(イワン)
posted by SIZ at 22:01| Comment(0) | TrackBack(0) | エッセイ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年04月13日

ツイッター始めてみました

 生放送を始めるとなると、告知などでツイッターも利用したほうが便利になるんじゃないかと思って、アフター・カーニバルのアカウントを作ってみました。

http://twitter.com/aftercarnival

 ブログの更新情報なり掲示板で話題にしたことなどをツイートしていくことになるかと思います。

 僕は個人的にツイッターのアカウントを持っているので、どんなふうに書き分けていけばいいのか、ちょっと悩むところです。誰か他のメンバーに書いてもらうか、アカウントを共有して使うか。そういうことも含めて、ちょっと試行錯誤してみようと思っています。(SIZ)

2010年04月12日

4月は1Q84月間

 今月の16日(次の金曜日)に村上春樹の『1Q84』の第3巻が発売されるわけですが、それに合わせて、アフター・カーニバルでは「1Q84月間」と題して、『1Q84』を集中的に問題にしていこうという企画を立ち上げています。

 昨年『1Q84』が発売されたときには、メンバーの中で読んでいた人もいたのですが、僕がちょっとぐずぐずしてしまったために、『1Q84』を問題にする機会を逃してしまいました。

 どんな形であれ、『1Q84』を取り上げるべきだった、という後悔があるので、今回は第3巻の発売に合わせて、『1Q84』を集中的に問題にしていきたいと思います。

 メインに行なおうと思っているのは放送ですが、今度からは音声ファイルを配信という形だけでなく、ustreamを使って生放送も行なおうと思っています。

 先日そのテスト放送を行なって、何とか声だけは上手く放送することができました。実際に聞いてくれる人がいるかどうか不安ですが、ひとまず試しにやってみたいと思っています。

 生放送を行なう場合は、遅くとも一日前に、このブログに告知します。(SIZ)

2010年04月11日

生放送テスト二回目

生放送のテスト二回目、今から始めます。
今回はゲストのナリチカさんとプロレスの異種格闘技戦について話します。(→終了しました)
posted by SIZ at 16:45| Comment(0) | TrackBack(0) | 生放送の告知 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

アフター・カーニバル生ラジオ・テスト放送

深夜ですが、ust使っての生放送のテストしています。興味のある人は聞きに来てください。(→終了しました)

(追記)
試しに40分ほど放送してみました。問題点としては、ustとスカイプを同時に立ち上げているとパソコンがかなり重くなること。この点を何とかすれば、今後も生放送ができるかも知れません。
 今回の放送は録音したので、それを後日何らかの形でアップするかもしれません。
 今後生放送を行なう場合は、このブログで事前に告知することになると思います。(SIZ)
posted by SIZ at 03:20| Comment(0) | TrackBack(0) | 生放送の告知 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年04月10日

アフター・カーニバル深夜便(第四十三回)〜テレビ・新聞・ネットの未来〜

 3月22日に放送されたNHKスペシャル「激震 マスメディア 〜テレビ・新聞の未来〜」を見て、新聞・テレビといったマスメディアの現状と未来について話す企画。基本的に佐々木俊尚の議論に寄り添って語っているところがあります。前半は主に新聞について、後半はテレビとネットについて語っています。
 よくよく考えてみれば、このアフター・カーニバルの活動もネット上で行なっているわけで、こんなふうにトークした内容を配信することで、一部の人の時間を奪っていることになる。つまり、テレビや新聞の衰退に一枚噛んでいると言える。
 だとすれば、この点で、やはり、ある種の自覚を持った上で活動を行なっていくべきではないか、僕たちはもうすでに当事者である、というようなことを考えさせられました。(SIZ)




(参考)
異常な鼎談 佐々木俊尚
http://www.youtube.com/watch?v=OVjB5B2uzX8
Togetter - まとめ「「激笑 裏マスメディア〜テレビ・新聞の過去〜」(二部)まとめ」
http://togetter.com/li/10623

2010年04月08日

見ることの欲望/欲望を見ること――山本英夫『のぞき屋』『殺し屋1』『ホムンクルス』――(現代マンガの潮流J)

(この記事は2006年5月11日に書かれました)

 山本英夫の描く主題は、作品が変わっても一貫している。というより、山本はただひとつの主題に、作品を変えるごとにぶつかり、深化させているように思える。それは〈見ること〉であり、また〈欲望〉である。山本の作品においては〈見ること〉はそのまま〈欲望〉であり、〈欲望〉とは〈見ること〉そのものなのである。山本の作品で登場人物が〈欲望〉するのは、他者の〈欲望〉を〈見ること〉である。〈見ること〉を通じて他者の〈欲望〉を生きること、すなわち他者の中に自分を見ることである。

 『のぞき屋』において、探偵、すなわち見ることに徹しなければならないはずの見(ケン)は、聴(チョウ)の「のぞきに徹しろ!」という声を振り切って、必ず対象に介入してしまう。彼は明らかに「のぞく」対象に自己を見出しており、それを、すなわち自己を改変しようとしているのである。彼が「のぞき屋」を選んだのは、けっして無傷なままで他者を自分のまなざしの下において優越感を得たいためではない。それは他者の中に自己を見出し、それに働きかけることで、自己を変えていこうという試みなのである。ここで、自己を変えるという言い方は適切ではないかもしれない。彼は「のぞく」対象人物が心の奥底で抱える〈欲望〉を暴き出し、それを外側にぶちまけさせる。その行為は一見すれば嗜虐的というか、相手にしてみれば大きなお世話だというか、眉をひそめたくなるような嗜好であろう。が、彼にとっては、他者の奥底でくすぶる欲望を解放させていくことは、それを続けていけば自分自身の〈欲望〉をも解放できるかもしれないという地点に向けてのリハビリ、代償行為なのである。明確には描かれないが、見はどうやら過去に何かを「のぞいて」しまっているようである(時折、大量に出血した男女が交わっているという光景が見のなかにフラッシュバックする)。それがトラウマとなって彼の深奥に留まっているのだが、それを解放したい、というのが彼の欲望なのだろうか。いや、僕はのちの『殺し屋1』『ホムンクルス』と併せて考えたとき、このトラウマは作者のエクスキューズだと捉える。どのような口実か。それは己の〈欲望〉が何であるかを確定できない見に、〈トラウマを解放したい〉という〈欲望〉を与えるためのエクスキューズである。おそらく彼は、自分が何をしたいのか、明確に掴んではいない。その証拠に、見は自己の〈欲望〉(〜したい)という部分を他人に見せるのが、極端に嫌いである。彼はスマイルとともに、根っからのソープ好きを自認しているが、それは〈欲望〉のあるふりをしているだけであり、自分の〈欲望〉の欠如をそれによってカムフラージュしているに過ぎないのだ。

 ラストシーンは決定的である。車内でレイカと対峙する見(セリフは僕が覚えているかぎりで再現する)。見はレイカに「あなたがあたしの目の前にいるのに、私にはあなたが見えないのよ!」と言われる。作画のうえでは、本当に見は透明人間である。レイカは明らかに見のことが好きなのであるが、見はそれに応えられない。自らの〈欲望〉を確定できず、さらけ出すことができない見には、自分もレイカを欲している、と言うことはためらわれるのである。が、最後に見はレイカの手を握り、(冗談で見が「遊園地にでも行くか」と言う伏線が張られていたのだが)、「一緒に遊園地に行こうぜ」と言う。この時、辛うじて見の半身が浮き出る。すなわち、見が何らかのかたちで自らの〈欲望〉を見出し、解放できた、というところで、『のぞき屋』は幕を閉じるのである。

 『のぞき屋』において残された問題は、〈欲望〉の不在、いや、むしろ〈欲望〉、自分が本当に欲することなど今日において存在しうるのか?ということである。それに何らかの決着をつけようとしたのが『殺し屋1』であろう。

 『殺し屋1』において『のぞき屋』の見の位置に置かれているのは「ジジイ」である。彼はイチや垣原を操作し、観察する(のぞく)。なぜジジイに注目するのか。彼は〈欲望〉に極めて敏感な者だからである。通行者が通り過ぎたコンビニのかわいい店員を見に戻るというような、ちょっとした〈欲望〉のざわめきも見逃さず、温かい眼差しを注ぐ。そして何よりもジジイは痛烈に自己の欲望の不在を感じている人物であるだからである。ジジイにたいしてイチや垣原は、とりあえず(といってもものすごく強烈なものだが)〈欲望〉を抱えている人物である。イチにおいては過去にいじめられた自己が心の奥底でくすぶっており、それを〈仕返し〉というかたちで解放・昇華させたいという〈欲望〉である。垣原は熱烈に〈愛〉を欲しており、その究極のかたちは、他者から、相手のことなど一切思いやらないほどの強烈な〈欲望〉をぶつけられたいという「M」の極北に表れる。そして、ジジイはといえば、この最高に相性のいい2人の〈欲望〉のぶつかり合いを見たい、ということももちろんあるだろうが、最終的には彼らの〈欲望〉を引きずり出し、ぶつけ合い、消滅させ、終わらせようとしているのだと言える。ジジイは、ヤクザマンションでイチと垣原をぶつけることでヤクザの抗争を終息させ、マンションを平凡な家族達の巣に変える。そしてこれを「墓」だと言う。何の「墓」なのかといえば、〈欲望〉の墓場、〈欲望〉を昇華させてしまった者らの墓場、そしてついに自らの〈欲望〉を確定できなかった自分の墓場なのである。ジジイにとってみれば、イチのトラウマも、ただのいじめられっ子が仕返しをしたいというちっぽけな〈欲望〉でしかなく、垣原のマゾヒズムも、性を痛みにおきかえて楽しんでいるだけのものでしかなかった。それらは〈欲望〉の墓場を作るための手段でしかなく、本当にジジイを満足させるものではなかったのだ。この点で、ジジイは大変なニヒリストである。本当の〈欲望〉など今日においては存在しない。それならばあとは夢見られ、成就しえなかった〈欲望〉の墓場を作るしかない。〈欲望〉の不在証明を見たいという否定的な意味でのそれがジジイの〈欲望〉であり、そのまま『殺し屋1』において山本が意図したものではなかろうか。

 だが、山本の挑戦はまだ続く。『ホムンクルス』は『殺し屋1』の〈欲望〉へのニヒリズムを超え、もう一度『のぞき屋』の地点に立ち戻り、〈欲望〉の所在を探究しようとする試みである。

 『ホムンクルス』では何もかもが『のぞき屋』のエッセンスを明確化するかたちで描かれている。名越は〈車上生活者〉になるまえは一流企業に勤めるエリートサラリーマンだった。が、そこで自己の〈欲望〉の所在を掴みあぐねていたのは明確である。彼が仕事を抜け出し、自分の精液を自ら飲むという行為は、〈欲望〉の不在のなかで自分の生の実感を確かめたいという危機感からくるものであろうし、〈車上生活者〉となり、勤め人の世界にも、かといって浮浪者達の世界にも身を置かず、どのような共同体からもドロップアウトして人々を観察するのも、やはり『のぞき屋』の見と同じく徹底的に〈見ること〉をつうじて自己の〈欲望〉の所在を明らかにしたいからであろう。そしてやはり最も特徴的なのは、名越がトーパレーション手術によって、タイトルにもなっている「ホムンクスル」が見えるようになるという設定である。「ホムンクルス」というのは、名越の脳内で、他者の〈欲望〉がかたちになって形成された姿であるが、ホムンクルスになって見える人間と、そうでない人間がいる。つまり、名越には、自分が〈見たい〉ホムンクスルしか見えず、名越は自分自身の〈欲望〉が見たいのであり、ひいては自分自身と対峙しているということになろう。これが、名越が抑えがたくホムンクスルに引かれ、彼らを〈見〉ようとする所以である。補足だが、見の義眼と同じように、名越は左眼という特殊な器官を使うことによって〈欲望〉を見るという点でも『のぞき屋』と『ホムンクルス』は一致している。

 さらに山本が『ホムンクルス』を発展的に描こうとしていることは、名越が対峙するホムンクスルを解放していく度に、自分自身の身体の一部が、解放したホムンクスルになっていくという点に表れている。これは、名越が、他者の〈欲望〉を〈見ること〉によって、自分自身の〈欲望〉として生き始めたということを表しているのであろう。ヤクザの指詰め組長のホムンクルスと対峙したあとには、自分自身の過去の罪悪感が刻みつけられ、マニュアルを参照してしか生きられない女子高生と対峙したあとには、やはり同じようにマニュアルの中でしか生きられなかったサラリーマンの自分の手応えのなさが刻みつけられている。これは自分が化け物になっていくという恐れとともに受け止められるべきことだが、己の〈欲望〉をあますことなく見つめていくという点から見れば、〈欲望〉の所在を明らかにしていくステップとして解釈するのが妥当である。まだホムンクスルになっていない部位が頭部、胴体、右腕、両脚だとすれば、完全な自己の欲望を見出すために(つまり完全なホムンクルスになるために)、名越は少なくともあと5人のホムンクルスに出会わなければならないだろう。

 このように、山本の作品群においては、自らの〈欲望〉を確定するために、つねに〈見ること〉をつうじて他者を参照せねばならず、むしろ〈見ること〉が〈欲望〉に先行し、喚起するという状況が生まれている。そして、つねに相対性の網の目の中に組み込まれてい、自分が抱いた〈欲望〉が自分だけのものなのか、本当の〈欲望〉なのかを確定できない状態にある我々自身も、山本の作品に見出される〈欲望〉を〈見ること〉によって、自らの〈欲望〉の所在を探し求めていくことになるのだろう。(イワン)
posted by SIZ at 00:23| Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年04月04日

アフター・カーニバル深夜便(プロレス特集その3)〜映画『レスラー』を見る〜

 プロレス特集の第三弾、今回は昨年日本で公開された映画『レスラー』について語ります。
 もともとこのプロレス特集を始めようと思ったきっかけは、何度も書いているように、プロレスの衰退の問題と物語(とりわけ大きな物語)の衰退の問題とをパラレルに考えることができるのではないか、と思ったからです。そうした点では、この映画『レスラー』はプロレスの衰退の問題、少なくとも、何かが終わってしまったという感覚を如実に描いている作品だと言えます。
 個人的な感想を書けば、僕はこの映画を見て、仮面をかぶることの重要性ということを考えました。『レスラー』の主人公ランディは仮面をかぶり続けることに最後までこだわる。仮面の下の素顔を誰もが知っていたとしても、仮面をかぶり続けるということ。このことこそが物語という名の虚構が生き延び続ける最後の一線になりうるのではないかと思いました。(SIZ)



(関連する過去の深夜便の回)
プロレス特集その1:90年代のプロレスを思い出す
http://after-carnival.seesaa.net/article/141969826.html
第十回:プロレスの物語性とニコニコ動画の創造性・前半
http://after-carnival.seesaa.net/article/122926851.html

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