2010年02月28日

余は如何にして…

(この記事は2005年3月29日に書かれました)

 もうすぐ3月も終わりになるが、3月と言えば卒業式のシーズンだ。そして、卒業式と言えば、ここ数年問題になっているのが、国旗・国歌である。

 自分が中高生のときはどうだったか、すっかり忘れてしまったが、今東京都では、国旗が掲揚され、国歌が斉唱され、国歌が斉唱されるときには出席者に起立が求められるそうだ。そして、起立をしなかった教員は処分されるらしい。ネットでニュースの記事を見る限りでは、一度目は戒告ぐらいで済み、二度目以降は減給などの実質的な処分を受けることになるという。

 僕はこの記事を読んでいて二つのことを連想した。ひとつは遠藤周作の小説『沈黙』である。江戸時代初期、来日した宣教師が踏絵を踏むに至るまでの経緯を描いた作品である。踏絵を踏むという行為には、キリシタンかそうでないかを見分ける以上の目的があることだろう。それは、水の中に押しこんで、もし死ななければそいつは魔女だ、という魔女の判定方法と似ているところがある。もし、水の中に押しこんだ結果、死んでしまったとすれば、その人物は魔女ではないことが分かるが、その人物はもう死んでしまっている。もし、水の中に押しこんでも生きていれば、魔女と判明し、殺されてしまうことだろう。つまり、どっちみち殺されてしまうのである。

 踏絵もそれと似たようなところがある。もし、踏絵を踏まなければ、その人物がキリスタンだと分かり、処罰を受ける。もし、踏んだとすれば、その人物はもはやキリシタンではない。踏む直前までキリシタンだったとしても、踏んでしまった以上、キリシタンから転向したことになる。その人は「転んでしまった」のである。

 国歌が斉唱されるときに起立を求められるというのも、まさに、同様の構造をなしていないだろうか? つまり、そこで教員は、選択を迫られるわけである。その選択は主体的な選択、実存的な選択である。自分が何者であるかをそこで示さなければならないのである。そして、この選択は、日の丸・君が代に対して疑問を持っている人物に対してだけ、問題となる。君が代を歌うことに対して誇りを持っている教員であれば、何の問題もないだろう。ここには選択はない。しかし、それに疑問を持っている人間であれば、二つの道のどちらかを選ばなければならない。自分の信念を貫き、社会的なリスクを負うか、それとも、生活のために自らの信念を曲げ、負い目を抱いたまま生きるか、である。

 もうひとつの例は、内村鑑三の不敬事件である。1891年(明治24年)、中学校の教員をしていた内村は、その前年に発布された教育勅語の捧読式の際、宸署(天皇の署名)に最敬礼を求められたが、敬礼しなかった。ここでもまた、問題になっているのは、公の場において、ある種の行為を行なうか行なわないかという選択の問題である。内村が敬礼しなかったのは、彼がキリスト教者だったから、つまり、社会的な規範の外で、別の規範に従っていたからである。

 国旗・国歌の問題は、単に、国旗・国歌に敬意を払うべきか否かという「べき論」に留まるものではないだろう。問題は、そこで、選別が行なわれているということである。左翼的な思想を持った教員は存在してはならない、と。このような前提を果たして受け入ることができるだろうか?(SIZ)
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2010年02月26日

格差社会考2

(この記事は2007年8月17日に書かれました)

8月15日、『東京新聞』社説。「終戦記念日に考える 極限からのメッセージ」なる記事。

 平和は未来を奪う。希望は戦争−。そんな過激な論文が若者の心をとらえ、共感を広げているといわれます。戦後六十二年、ちょっと悲しいものがあります。

 「『丸山真男』をひっぱたきたい」というのですから、タイトルからして刺激的でした。論座一月号に掲載された赤木智弘さんの論文です。

 丸山真男とは輝ける戦後知識人の時代を築いた東大教授。サブタイトルに「31歳フリーター。希望は、戦争。」とありました。参院選で自民党が歴史的大敗をした二〇〇七年のことしを象徴する論文となるかもしれません。

 希望は戦争に深い絶望
 論文での自己紹介によると、赤木さんは北関東の実家で暮らし、月給は十万円強。結婚もできず、親元に寄生するフリーター生活をもう十数年も余儀なくされ耐え難い屈辱を感じています。父親が働けなくなれば生活の保障はなくなります。

 定職に就こうにもまともな就職口は新卒に限られ、ハローワークの求人は安定した職業にはほど遠いものばかり。「マトモな仕事につけなくて」の愚痴には「努力が足りないから」の嘲笑が浴びせられます。事態好転の可能性は低く「希望を持って生きられる人間などいない」と書いています。

 今日と明日とで変わらない生活が続くのが平和な社会なら、赤木さんにとって「平和な社会はロクなものじゃない」ことになります。

 ポストバブル世代に属する赤木さんの怒りは、安定した職業へのチャンスさえ与えられなかった不平等感に発し、怒りの矛先はリストラ阻止のため新規採用削減で企業と共犯関係を結んだ労働組合や中高年の経済成長世代に向けられていきます。

 赤木さんにとって戦争は社会の閉塞状態を打破し、流動性を生み出してくれるかもしれない可能性の一つです。さすがに「私を戦争に向かわせないでほしい」と踏みとどまっていますが、「希望は戦争」のスローガンには多くの若者たちの絶望が隠れています。



 件の赤木智弘の文章には注目していたけど、新聞にまで取り上げられるとは、驚きである。確か鈴木謙介やら大塚英志やら内田樹やらがそれぞれ赤木の文章に感想を述べていたから、赤木の『希望は戦争。』というやつはよっぽどの衝撃だったのかもしれない。ちなみに、この社説は痛いニュースで取り上げられていて、私はそこで2chの反応を知ったのだけど、ネット右翼と親和性の高そうな赤木の主張がかなり冷淡な目で見られていて、これはちょっとショックだった。別に2chが右曲がりな一枚岩だとは思わないけど、そうか2chみたいな場所でも格差問題は「努力不足」の問題として片づけられてしまうのか。
 戦争という言葉にに対してこれほどの拒否反応が示されるというのはある意味で健全なのかもしれないが、しかし我々の世代に通底しているかと思われた「絶望の感覚」は意外に共有されていないのかもしれない。
 以下、超長文。


 赤木智弘が『論座』に書いた「「丸山眞男」をひっぱたきたい 31歳フリーター。希望は、戦争。」(ついでにその続編であるこちらも)を私は比較的高く評価しているが、どうも彼の真意を正確に捉えている人は少ないように思える。その理由はひとつにはタイトルが「希望は、戦争。」となかなかにキャッチーだったことで、そのために多くの論者が「戦争はイカン! そゆこと言うお前もケシカラン!」とヒステリックに反応してしまっているためだが、そうやって戦争の是非を問うよりも、まず彼が何故「希望は、就職。」でも「希望は、社会的不平等が是正されること。」でもなく、「希望は、戦争。」と書いたのか、その点を考えた方が議論は建設的だと思う。
 ことの本質は格差・雇用・フリーター問題であったはずだ。これまで、これらの問題下にあって虐げられ苦しんできた弱者の救済を謳い、弱者を生み出す社会構造の変革を掲げてきた左翼系言論人が、赤木の絶望的な文章に触れた途端、「お前よりもひどい目にあっている人もたくさんいる」とか「それならお前が頑張ればイイジャン」とかそういうどこかで聞いたような「自己責任論」へと先祖返りしてしまうのを見ていると、ずいぶんと左翼思想家というのは軟弱なんだなあという感想を抱いてしまう。一介のフリーターの一突きで化けの皮が剥がれてしまう左翼系言論の思想的脆弱さこそが、下流にある若者達を右へと走らせているのではないだろうか。


 ただし、左翼にも同情の余地はある。
 これまでも左翼系運動の多くはその目標に社会的マイノリティの救済を掲げていたわけだけれども、現在出現しつつあるマイノリティ(弱者)は、これまでの社会的弱者であった「在日」「女性」「被差別部落」「障害者」などとは明らかに一線を画している。これまでの弱者は、彼らが属するカテゴリは生得的なもの(あるいは不可避なもの)であり、そのカテゴリから抜け出すことができないという事情があった。日本人でないから、女性だから、障害者だから差別されるということが不当なのは誰もが同意できる。なぜならそのように生まれついたのは当人の責任ではないからだ。だからこそ彼らは問題を共有し、彼らの置かれている立場が不当であると訴え、社会的に認知されることができた。だが、フリーターであることは生得的ではないし、そこから脱却することも不可能ではない。そのことが問題を一層深刻にし、この問題の理解と共有を妨げている。左翼連中はおそらくこの新しいマイノリティの出現を理論的に把捉できないでいるのだと思う。それ故に、彼らは「君たちは頑張れば現状から脱却できるんじゃないのかね?」と無思慮に言えてしまうのだ。


 赤木のようなフリーターは経済が要求するところにより生産されている。彼のようなマイノリティは社会が構造的に生み出しているのである。だが増えすぎたフリーターやニートは社会のお荷物である。引き取り手のいないお荷物となった彼ら(いや、我々か)を、社会はリサイクルすることよりもゴミとして捨ててしまうことを選んだ。利用価値のないゴミとなったのは我々の努力不足が主因である、というのが、奴らの主張である。
 もし、彼らが「君たちにはすまないけれど、我々の老後と若い世代のために死んでくれ」と言うのならば、我々の世代の苦痛はいくらか和らいだかもしれない。我々の痛みに対し、ねぎらいといたわりの言葉があったのならば、社会の犠牲となって「戦死」することにも意味を見いだすことは可能だ。しかし彼らは我々の犠牲は「自業自得」だと言う。
 赤木の「希望は、戦争。」はこのような無理解を背景にして出てきた言葉である。


 赤木が求めているのは、既に「救済」ではない。救済されること就職し安定した生活をすることが目的であるならば、「希望は、戦争。」とは書かない。仮に赤木が安定した仕事に就き、それなりに社会的地位を得たとしても彼が社会的に虐げられていたという事実は変わるわけではないし、またそのような人がいる現状が変わるわけでもない。むしろそのことによって問題の本質が隠蔽されることの危険を赤木は十分に理解しているだろう。
 また赤木の要求は「社会構造の変革」でもない。現状が構造的に赤木のような社会的経済的弱者を生産していることは確かだが、その構造改革を促すことは赤木の目的ではない。改革は行われるべきだろうが、それはそもそも赤木のすることではない。


 赤木のあの文章の目的は、サイレントマイノリティとなった我々の声を届かせること、透明な我々の存在を可視化することにあると、私は見ている。我々の世代は単に不可視なだけではない。不可視なままゆっくりと死に追いやられている。我々が払った犠牲に一顧も与えず、そこを通り過ぎようとしている。このままでは、同じ死ぬにせよ、本当に無駄死にになる可能性が高い。
 それならば、はっきりとわかりやすく犠牲が出る戦争のほうがまだマシだと彼は言おうとしているのだろう。
 我々の社会は一人の人間を戦争待望論へ向かわせるほどの犠牲を払っているのだ、という認識を持つことは可能だろうか。「戦争で死ぬこと」と「このまま生きること」が一人の人間の中で等価となっていること、その問題の大きさを我々は認めるべきではないだろうか。赤木の議論に賛成するにせよ反対するにせよ、まずそこが出発点になるのではないだろうか。(A.I.)
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2010年02月24日

我が夢は星の彼方

(この記事は2005年3月30日に書かれました)

 今、松本零士のマンガ『宇宙海賊キャプテンハーロック』を読んでいる。

 宇宙というものがどのように描かれているのかが戦後のサブカルチャーを測るためのひとつの指針になる、というのが僕の持論である。

 松本零士の宇宙観は実に興味深い。この作品が描かれたのは70年代後半だが、その時点ではまだ、宇宙というものが様々な可能性を秘めたものとして描かれている。つまり、松本零士にとって、宇宙とは大洋であり、地球とはひとつの島あるいは大陸にすぎないのである。

 このように宇宙に進出していくことを大航海時代の冒険に比して語るところは、富野由悠季にも見出せるところである。「地球の重力に魂を引かれた」云々の発言はそのようなことを示唆しているだろう。

 こうした宇宙の可能性が徐々に縮小していったのが80年代であり、それに反比例するような形で頭をもたげてきたのが終末思想である。未知なるものを求める大冒険が退屈な日常生活の拒絶であるとすれば、終末思想もまた日常生活の拒絶である。

 こうした視点は現代の宇宙ものにも残っている。宇宙での日常生活を描いた『プラネテス』でも木星への旅が未知への冒険の旅(前人未到の場所への旅)として描かれていた。こうしたロマンティックな要素は宇宙ものには欠かすことができない。

 しかし、年代を経るに従って、サブカル作品に描かれる宇宙が徐々に大きくなっていったのも事実である(何万光年も先にある惑星にワープして行ける宇宙と木星に行くのさえも厄介なことである宇宙とを比較してほしい)。宇宙はロマンを投影できる場所としては徐々に魅力を失い始めている。こうした点に現代の宇宙ものはどのように応えているのか? 『ふたつのスピカ』などの作品には要注目である。(SIZ)
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2010年02月22日

アフター・カーニバル深夜便(プロレス特集その1)〜90年代のプロレスを思い出す〜

 プロレスについて語る連続企画の第一弾。
 これまでアフター・カーニバルでは物語との関連でプロレスの重要性を指摘してきましたが、この問題をもっと深く掘り下げるために、連続企画を立ち上げることにしました。今回がその第一弾です。
 この連続企画に参加するのは、メンバーからはA.I.さん、ゲストとしてはナリチカさん。二人はほとんど同じ世代で同じ時期にプロレスを見ていたということもあるので、共通した問題意識を持っているところがあります。
 今回の放送では、ひとまず導入として、90年代のプロレスについて二人の思い出を語ってもらいました。また現在のプロレスの状況についても少し語っています。
 今後の放送ではもっとテーマを絞っていこうと思っています。今のところ、深夜便の本放送枠とは別に、隔週でこのプロレス特集を配信していく予定です。(SIZ)



(関連する過去の深夜便の回)
第三十四回:大晦日の格闘技番組について
http://after-carnival.seesaa.net/article/138732723.html

(関連する過去の記事)
K−1とPRIDE
http://after-carnival.seesaa.net/article/102689939.html
悪役レスラーは笑う―「卑劣なジャップ」グレート東郷(森達也)
http://after-carnival.seesaa.net/article/120423350.html

2010年02月19日

『嫌われ松子の一生』

(この記事は2007年1月2日に書かれました)


『嫌われ松子の一生』

 中島哲也監督の前作『下妻物語』はすっごい好きな映画である。本作は典型的な女の転落物語ということなので、ちょっと観たくなかったのだが(こういう暗いのは好きじゃない)、とにかく評判が良いので観ました。

 泣けました。泣かされたよ。
 ある人物の死をきっかけに、その人物の生涯が複数の人物の回想によって浮かび上がってくるという形式は、オーソン・ウェルズの『市民ケーン』に似ていると言えるかもしれない。ただし、『市民ケーン』は大富豪となった人物の物語であるが、こちらは落ちに落ちた良いことなしの人生の物語。どちらがどうというわけじゃないけど、あまりに悲惨すぎて中島哲也のコミカルな演出じゃなかったらとても正視できなかっただろう。
 この作品はフィクションだが、実際に松子のような人生を歩んだ人もけっこういるんだろうなと思う。不器用で人の心に鈍感で信念もなく嫉妬深く善意の忠告は聞かずダメ人間にばかり惚れて自ら悪いほうばかり選択し、人生を転落してゆく。結局は自業自得なんだけど、それでも私はこうして転落してゆく松子をバカにしたりはできない。松子のように人との接し方や愛情の注ぎ方が下手で、それでいて寂しがり屋な女性はたくさんいるだろう。哀れだとも思わないけど、しかし自分もこういう人生を歩む可能性があるのではないかと微かに思う。

 そして若干考え込んでしまうのは、この物語が昭和を中心に繰り広げられていること。どんなに松子が転落人生を歩んでいるとしても、それを受け入れる受け皿が昭和の時代にはあった。だが、松子がテレビで小渕官房長官の掲げる「平成」と書かれた紙を観ているとき、彼女を受け入れる者は誰もいないのだ。松子は光GENJIの内海に夢中になるがその想いはこれまでと違い一方通行で、松子を受け入れるものは既にない。
 一度転落したらやり直すことのできない社会。われわれはそのようなリスキーでストレスフルな社会に生きているのだろうか。いかに転落してもせめて生きてゆくことは出来る、やり直すチャンスはある。そういう時代はもう来ないのだろうか。(A.I.)
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2010年02月17日

なぜ若者は働きたくないのか

(この記事は2006年12月26日に書かれました)

 仏文学者の内田樹が、創造的労働者の悲哀というエントリのなかで、次のようなことを述べている。

「働きたいけれど働く先がないのだ。これは個人の決断や趣味嗜好の問題ではなく、アンフェアな社会構造のもたらす問題である」というのがニート・フリーター問題における「政治的に正しい」回答である。
申し訳ないけれど、私はこの考え方の「働きたいけれど」という部分に実は留保を加えている。
働きたいのになかなか仕事に就けない若者は「自分に向いた仕事、自分の適性や能力を発揮できる、クリエイティブで、見栄えがよくて、できれば賃金の高い仕事で」働きたいという条件に呪縛されているからである。
残念ながら、若い人に提供される就職口の中で、そのような条件を満たすものは1%もない。



 要するに内田は「高望みするから就職先がないのだ、自分の就きたい職業に就けるやつなんてそもそも大していないのだ」と、そんなことを述べている。まあ、内田が言っているのは「28.3%の東大生がいずれニートかフリーターになる可能性を感じている」という調査結果に対してだから、このような苦言は東大生のみに向けられたものなのかもしれない。

 しかしそれでも何となく私が違和感を感じてしまうのは、私自身就職氷河期に就職活動をして、そのあまりの過酷さを身に沁みて感じているからだ。
 別に大して選り好みしたわけではない。それでも、募集若干名のところに数千人規模で学生が集まり(しかも私は聞いたことない企業だった)、腱鞘炎になるほど履歴書を書き、会社説明会では「明るい人じゃないと社会人としてやっていけない」などと言われて凹み、次から次へと面接で落とされ、交通費もバカにならず、周囲は就職活動中に鬱病を発症した人間でごった返していたくらいだ。悪いけど「自分に向いた仕事、自分の適性や能力を発揮できる、クリエイティブで、見栄えがよくて、できれば賃金の高い仕事で」などという分不相応な希望なぞ、就活の始まった2月の時点で疾うに打ち砕かれていた。残っていたのは、「残業代が無理なら、せめて週1日の休みくらいほしい」という程度の希望だ。それとも、それすら高望みだと言うのか?
 どうも内田樹は労働に関する惨状をよく分かっていないように思う。

 今日(12月26日)の毎日新聞には「労働の尊厳奪う格差社会」という低所得層がどれほど悲惨な労働条件で働いているかをレポートした記事が載っていた。引用しよう。

「奴隷ですから……」
 この1年、労働現場を取材する中で、派遣労働者や携帯電話で日々の仕事の紹介を受けるフリーターからたびたびこの言葉を聞き、ドキリとした。憤り、恨み、あきらめ……。ニュアンスこそ違え、そこには「人として扱ってくれ」という強烈な思いが感じられた。

 神奈川県内に住む男性(42)は、携帯電話で日々の仕事の紹介を受けて生計を立てている。今年2月、大手人材派遣会社に解体現場での仕事を紹介された。「マスクを買って行って」と指示があった。もちろん自前だ。100円マスクを手に、着いた現場で派遣先の社員は防毒マスクのようないかめしいマスクをつけていた。アスベスト(石綿)を使っていた施設の解体現場だ。作業が始まると、ほこりで1メートル先も見えない。派遣のバイト4人はせき込みながら貧弱なマスクで作業をした。これで交通費1000円込みの日給は8000円。マスク代や税金などを差し引くと手取りは6000円程度だ。
 「安い命でしょ。僕らには何をしてもいいんですかね」。働く喜びや誇りはどこにもない。

 長時間労働もそうだ。厚生労働省の調査でも30代、40代前半の男性労働者の4人に1人は週60時間以上働いている。これは月にすれば80時間以上残業していることになり、過労死の危険性を指摘されるラインに達する。夫を過労死で亡くした遺族はこう言った。「残された子供は『一生懸命まじめに働いたってお父さんは死んじゃったじゃないか』と言いました」。別の遺族は「人間として生きていけるような労働の在り方を実現してほしい」と訴えた。



 私は働くことに対して高望みはしない。しかしせめて人間として扱ってほしいと思う。せめて人間らしく仕事をしたいのだ。
 働け働けと若者の背中をせっつく人々には、現在の社会では、人間らしい条件で働くことさえも困難になっているのだということを認識してほしいと思う。自己実現がどうとかそういう話ではないのだ。ある程度まともな仕事に就かない限り、生きてゆくことにすら希望を描けないという未来が待っている。奴隷として搾取され続ける人生を歩まなくてはならないという未来がすぐそこに待ち受けている。そのことを若者達は感じているのだし、私もリアルに感じていた。(A.I.)
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2010年02月15日

アフター・カーニバル深夜便(第三十八回)〜古谷実の『ヒメアノール』を読む〜

 今回はマンガ。古谷実の最新作、『ヒメアノール』を読みます。
 放送では、この作品だけでなく、古谷の過去の作品、『ヒミズ』、『シガテラ』、『わにとかげぎす』についても語っています。つまり、『ヒメアノール』がどういう作品であるかということだけでなく、古谷実がこれまでに問題にしてきたこととは何か、ということについても語っています。
 後半では途中から秋葉原事件が話題の中心になっています。Rさんの考えでは、秋葉原事件と古谷実とをパラレルに考えることができる。その図式の妥当性などについて、みんなで議論しています。
 あと、Rさんは放送内で『行け!稲中卓球部』は全18巻と言ってますが、実際は全13巻のようです。(SIZ)




(関連する過去記事)
ヒミズ(古谷実)
http://after-carnival.seesaa.net/article/107501987.html
アフター・カーニバル的マンガ案内
http://after-carnival.seesaa.net/article/119745014.html

(関連する過去の深夜便の放送)
第ニ回:「辺境」文学について(その2)・テイク2後半
http://after-carnival.seesaa.net/article/118565012.html

2010年02月12日

「希望格差社会とやる気の喪失」

(この記事は2005年3月27日に書かれました)

 『中央公論』4月号に載っている山田昌弘の論文「希望格差社会とやる気の喪失」を読んだ。

 ある行為の動機づけとして、その行為の結果どれだけの報酬が得られるか、ということは重要な基準である。というよりも、小学校以来、学校の勉強と言えば、そういう形での動機づけしかなかったように思える。テストで良い点数を取れば、ご褒美として親が何かを買ってくれるということに留まらず、そもそも良い点数それ自体がご褒美だったと言える。それは、ある一定の価値基準内において、承認を受けるということである。点数の低い者と比べて「よりよい」ものとして認められるわけである(親や先生から褒められる)。

 しかし、これは、一定の条件内でのことであって、あらゆる場合に当てはまるわけではない。ある行為の結果、何も得られないどころか、多くのものを失う場合だってあるだろう。それは当たり前のことだ。しかし、山田昌弘が提出した「希望格差」の問題は、「当たり前のことだ」と切って捨てられないところがある。

 重要な点は、努力しても報酬が得られないことそれ自体にあるのではなく、再挑戦することができないことにあるのではないか? あるいは、あるゲームから別のゲームに移ることが非常に困難なことにあるのではないか? こうした問題の背景には、既得権益を守ろうとする保守的な傾向が見え隠れするのだが、どうだろうか?(SIZ)
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2010年02月10日

『最終兵器彼女』

『最終兵器彼女』(実写のほう)を観た。高橋しんの原作は未読。

 『男たちの大和』よりはましだけど、最後まで観るのはやっぱり忍耐が必要。


 戦闘シーンや半壊したビルなどのVFXはある程度の水準に達している一方で、逃げまどう群衆やそこに落下するビルの破片などを描かせると途端に高校生が文化祭で作ったようなレベルにまで降下する。
 おそらくはVFXを担当した東映アニメーションと実写部分を担当した東映でかなりの温度差があったのだと思う(『デビルマン』もそうだった)。
 演出はほとんどクソで、役者は揃いも揃って「私…実は…」みたいに文節ごとに一呼吸置きながらしゃべっているし、包帯を巻いている奴はいても腕が吹っ飛んでしまった奴はいない。血糊は血糊以外の何物にも見えない。
 つまり記号が示されているだけで、何も「描かれて」はいない。


 『最終兵器彼女』は、可愛い女子高生の選択に世界の運命が託されているという点で、例えば『ほしのこえ』なんかと共通するものを持っているが(いわゆるセカイ系)、この点について私は今回改めて、要するに、これはみんなの願望なのだと感じた。
 つまりそもそも女子高生である「ちせ」を兵器にしてしまう積極的な理由がどこかにあるわけではなく、単に戦争する女子高生というイメージに萌えているだけなのであり(だから「ほしのこえ」の女子高生は最後まで制服を脱がないし、兵器となった「ちせ」も最後まで女の子のフォルムだけは変化しない)、そして結局のところ、枯れたジジイの政治家なんかよりも、そうした可愛くてピュアな女子高生に、世界の運命やこの国の運命を託したいというのが本音であって、おそらくこの国の20〜30代くらいのキモイ野郎どもにとって、「可愛い女子高生の命」と「世界の運命」は大体同じくらいの重みなのである。
 でなければ、例えばこの作品は『最終兵器コギャル』であっても『最終兵器お父さん』であっても『最終兵器ブス』であっても構わないはずだけど、実際のところは可愛い女子高生であることだけは譲れない一線になっているように見える。可愛い女の子の選択によって滅ぶんなら、まあしょうがないよねと納得してしまうのが、おそらくはこの国なのだろう。
 そうして、おとなしくてピュアで可愛い彼女を犠牲にし、彼女を失った悲しみと自分だけ生き残ってしまったという罪の意識が微妙に心地よい陶酔感となり、で、鳥取砂丘あたりまでのこのこ出かけて(まさかアレをどこぞの砂漠だとは称しはしまい。砂漠ならひとりであんな軽装じゃあ3日ももたない)、「僕たちは恋していく」んである。どうにかしてくれ。

 つまりこの作品ではまず政治が放棄され、その政治に関するつけを全て弱い人間に押しつけ、悲劇的状況を自ら作ったうえで、悲劇だ悲劇だと騒いで見せ、最後にはその悲劇に酔っぱらい、最後の最後まで崩壊した世界を顧みることはないのである。困ったもんである。(A.I.)
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2010年02月09日

アフター・カーニバル深夜便(第三十七回)〜サリンジャー追悼:『キャッチャー・イン・ザ・ライ』を読む〜

 今回は、先月の27日に死去したサリンジャーを追悼するという名目の下、村上春樹訳の『キャッチャー・イン・ザ・ライ』を読みます。
 アフター・カーニバルでは、以前から村上春樹の作品をいろいろと読んできたわけですが、春樹の訳した作品を一緒に読むのは、フィッツジェラルドの『グレート・ギャツビー』に続いて二回目になるのではないかと思います。そういうわけで、今回の放送でも、『キャッチャー』を春樹の作品と比較しながら読んでいるところがあります。
 放送の収録が終わったあと、「参考」のところに上げている記事(村上春樹が柴田元幸と『キャッチャー』について話している記事)を見つけたのですが、これを事前に読んでおけば春樹との関連性をもっと上手く問題化できたのに、と思いました。
 春樹と海外作家との関わりについては、いずれまた何かの機会に検討してみたいと思ってます。
 あと、野崎孝の翻訳が出たのは、調べてみたら、1964年みたいですね。つまり、40年後ぐらいに春樹訳が出たことになります。(SIZ)



(参考)
村上春樹・柴田元幸『キャッチャー・イン・ザ・ライ』を語る
http://www.hakusuisha.co.jp/topics/rye1.php

(関連する過去の記事)
CARVER'S DOZEN(レイモンド・カーヴァー)
http://after-carnival.seesaa.net/article/79794310.html

(関連する過去の深夜便の回)
第十四回:村上春樹を再読する:『風の歌を聴け』
http://after-carnival.seesaa.net/article/124839409.html
http://after-carnival.seesaa.net/article/125312125.html

2010年02月06日

『男たちの大和』

(この記事は2006年9月14日に書かれました)

 事情があって『男たちの大和』を観ました。以下、感想。


 一言で言って、クズ。

 2時間半弱の映画だけど、最後まで観るのは苦痛を要す。こういう映画にはR−18とかPG−12といったレイティングシステムと同様に、「要忍耐」とかそういう注意書きがあったほうが良いと思う。こんなクズ映画が「CinemaScape−映画批評空間−」みたいなサイトでけっこう高評価を得ているという事実が私には理解できない。

 大和は竣工したて、服は全ておろしたて、髪はみんな梳かしたて、顔も洗いたてにしか見えない。つまりどれも真新しくて嘘くさい(茶碗まで漂白剤を使ったかのように真っ白)。おまけに照明を昼のシーンだろうと夜のシーンだろうと全方向からまんべんなく当てているから、いつでものっぺり明るいし、ますます嘘くささを際だたせている。

 戦闘機の機銃掃射を、ばあちゃんが身を挺して女の子をかばうシーンは大爆笑。アンタ、拳銃じゃあるまいし、戦闘機の機銃で撃たれたら、ばあちゃんもかばってもらった女の子もバラバラだろう。

 大和に乗り込む兵隊を見送る人々が手を振るシーン。誰も日の丸を振っていない。天皇陛下バンザイと言わない。お国のため、天皇陛下のために死んでこいと言わない。何故だ? 代わりに誰もが「生きろ」と言っている。いつの間に太平洋戦争はそういうことになったんだ? 60年経ったらもうみんなどうでも良くなったんだろうか。

 どいつもこいつも演技は過剰。中村獅童の演技は直視できないくらいにひどい。鈴木京香は『サトラレ』もそうだったけど、見ているとイライラしてくる。まともなのは(演技のうまさもふくめ)蒼井優くらい。

 それにしても中村獅童はどうやって生き残ったんだろうか。特にそういう場面はなかったような気がするのだが。(A.I.)
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2010年02月04日

高校生クイズを見ました。

(この記事は2006年9月2日に書かれました)

 とある事情により高校生クイズを見てました。

 本来なら高校生が青春している姿なんざ、嫉妬を催すばかりで見たかないんですが、やむを得なかったんです。

 で、やむを得ず見ていたんですが、やっぱり若者が頑張る姿はいいですね。香川県高松高校の二川さんに萌えましたよ。

 全国大会一回戦の敗者復活戦はチームの三人が同じ答えを書けば正解という問題。高松高校に出された問題は「優勝したら誰のおかげ?」というものでした。

 こういうときは誰もが予想できる答えを書くのが基本です。例えば、「みんなのおかげ」とかあるいは司会進行役を務めた「オリエンタルラジオのおかげ」とかね。そうすれば他の二人も同じ答えを書いている可能性が高まるわけです。間違っても「オレの彼女」とか「幸せを呼び込むパワーストーンのおかげ」とか書いちゃいけません。

 高松高のリーダー・二川さんの答えは「チームのみんな」。まあ穏当です。たぶん二川さんは事実としてそう感じていたのでしょうし、他の二人もそう書くだろうと思ったのでしょう。戦略的に言っても妥当な解答です。しかし二人の答えは違いました。

 二川さんの答えに対して、他の二人の答えはどちらも「二川さん」でした。

 いくら二川さんのワンマンチームだとしても、「優勝したら誰のおかげ?」という質問に、二川さんが自分の名前を書くはずないことは明かです。自分で自分のおかげなんて、例えそう思っていても書けるもんじゃありません。これはチームの二人がよく考えて、二川さんが書きそうな答えを推測するべきなのです。二川さんは何て書くだろうと予想して、その上で解答を導き出すべきなのです。明らかに二人の思慮が足りなかったと言うべきでしょう。

 しかしそれでもなお、二人は「優勝したら誰のおかげ?」という質問には「二川さん」という答えしか思い浮かばなかったのでしょう。本心からそう感じ、そう書くことが二人にとっては間違いない「正答」だったのでしょう。二川さんのおかげでここまで来れたんだという、二人の嘘偽りない気持ちが、その答え以外を書かせなかったのでしょう。自分の気持ちに正直であろうとしたという点において、高松高校の三人は他のどの高校よりも私の心を強く捉えました。


 そして二人の解答を見た二川さんは、言葉もなくただただ涙を流しました。チームはその時点で敗北しましたが、高松高校の二人は勝つことよりも二川さんへの感謝の気持ちを表すことを優先したのでした。そして二人の素直で暖かい気持ちに触れた二川さんは、ただ涙をこぼすことしかできなかったのです。それはどんな勝利をもってしても贖うことのできない、かけがえのない敗北の瞬間でした。そしてそれをテレビで見ていた私は、二川さんに萌えました。高校生は良いなあと思いました。ああやって泣いたり笑ったり友達と喧嘩したり肩を抱き合ったりしている姿を見ると、今の若い世代が羨ましく感じられます。クイズなんざいくら出来たところで将来クソの役にも立ちはしませんが、そういうことに青春を賭ける姿はやっぱり見ていて清々しいものです。


 頑張れ高校生と思いました。あとオリエンタルラジオも色々頑張れと思いました。
posted by A.I. at 00:06| Comment(0) | TrackBack(0) | エッセイ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年02月02日

2009年に亡くなった人でショックだったランキング

 去年とったアンケートだったんですが、存在をすっかり忘れてました。今さらの感もありますが。一応。しかし伊藤計劃による佐藤亜紀『戦争の法』の解説は読みたかった。マジで。


(SIZ)
1 レヴィ=ストロース
2 金田伊功
3 マイケル・ジャクソン
今年は死にそうにない人が死んだ年だった。3、ネバーランドでまだ生きていそう。2、ザンボット3が良かった。1、お疲れ様でした。

(A.I.)
1 伊藤計劃
2 三沢光晴
3 レヴィ=ストロース
3、この人は死ななそうな気がしていた。2、個人の死というよりもプロレスの死を感じた。1、日本SFを背負って立つ気鋭の作家だと思っていたので早世が惜しまれる。

(R)
1 レス・ポール
2 加藤和彦
3 大野晋・土居健郎・坂部恵
3、お世話になった学者がみんな死んだ。2、一回だけ会ったことがあるので衝撃だった。1、けいおんの主人公も弾いてたのに(偽物だけど)。

2010年02月01日

アフター・カーニバル深夜便(第三十六回)〜近年のアメコミ・ヒーロー映画について――「ウォッチメン」と「ダークナイト」を中心に〜

 今回は映画です。このブログでは、RさんとA.I.さんが映画についてたくさん記事を書いていますが、深夜便の放送で映画についてちゃんと話をするのはこれが初めてではないかと思います。
 大きな問題設定としては、ゼロ年代に(特にゼロ年代の終わりに)アメリカでアメコミ原作の映画が集中的に制作されたことに対してどのような意味を見出すことができるのか、ということがあります。単純に正義の立場を代表するようなヒーローが成り立たなくなったことをどんなふうに考えればいいのか。
 とりわけ2008年の「ダークナイト」と2009年の「ウォッチメン」とが極めて現代的な問題を提示しているように思えます(アメリカの国としてのあり方だけではなく、現代的な倫理の問題という点でも)。
 他に、「ザ・スピリット」、スーパーマン、スパイダーマンなどといった作品やヒーローについても話しています。(SIZ)



(関連する過去の記事)
バットマン ビギンズ(クリストファー・ノーラン)
http://after-carnival.seesaa.net/article/118877316.html
スパイダーマン2(サム・ライミ)
http://after-carnival.seesaa.net/article/103542148.html
スパイダーマン3(サム・ライミ)
http://after-carnival.seesaa.net/article/132210276.html

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