2010年01月31日

格差社会考

(この記事は2007年8月3日に書かれました)

 内田樹がご自身のブログで「格差社会って何だろう」という文章を書いている。
 今回この人の意見を読んでみて強く感じたのだけど、もう内田樹は格差社会について発言しないほうが良いと思う。言っていることが間違っているからではない。内田はおそらく「カクサ」「カクサ」とうるさい連中に冷や水を浴びせるつもりで書いたつもりなのだろうけど、結果としては火に油を注ぐことになっているからだ。

 内田は次のように言う。

「格差社会」というのは、格差が拡大し、固定化した社会というよりはむしろ「金の全能性」が過大評価され、その結果「人間を序列化する基準として金以外のものさしがなくなった社会」 のことではないのか。
人々はより多くの金を求めて競争する。
競争が激化すれば、「金を稼ぐ能力」の低い人間は、その能力の欠如「だけ」が理由で、社会的下位に叩き落とされ、そこに釘付けにされる。
その状態がたいへん不幸であることは事実であるが、そこで「もっと金を」というソリューションを言い立てることは、「金の全能性」をさらにかさ上げし、結果的にはさらに競争を激化し、「金を稼ぐ能力」のわずかな入力差が社会的階層の乗り越えがたいギャップとして顕在化する・・・という悪循環には落ちこまないのだろうか。



 考えてみると内田はこれまでも常に同じようなことを言い続けてきた。
 「金が、金が」という貧困層に向けては、「金が全てじゃないと思うよ。もっと重要なことが世の中にはあるんじゃない」と。
 「男と同じだけの社会的地位を女性にも」というフェミニストに向けては、「社会的地位が全てじゃないんじゃない? もっと重要なことが世の中にはあるんじゃない」と。
 おそらく内田は「セックスしてえ。女ぁ〜」という童貞に対しては「セックスが全てじゃないだろ。もっと重要なことがあるんじゃない」と言うのだと思う。

 しかしこういうことを言われた貧困層の人々が、「そうだね。確かにそうだ」と納得するだろうか。私は残念ながら絶対にしないと思う。フェミニストだって「確かに内田の言うとおりだ」とは思わないだろうし、童貞の人々だって「よし。セックスより別のことを考えよう」と心機一転するということはあり得ないだろう。むしろ「テメエにだきゃあ言われたくねえ」と反発されるのがオチだと思う。
 その言葉が正論だとしても、いや正論であればあるほど、そんなことは人様から言われたくないものだし、それが金持ちで如何にもマッチョな男で人並みに女性経験もある奴の言葉だとすればなおさらである。

 内田の格差問題に対する考えは至極もっともだと思うけれど、その言葉がなぜ当の貧困層へ届いていかないのかという、その点について彼は全く考えていないように思える。内田の無神経さは何となくだけど、マリー・アントワネットの「パンがなければケーキを食べればいいじゃない」という言葉に類するものがあると私は感じてしまう。
 内田は次のように言う。

私は長い間同年齢の人々の平均年収のはるか下、底辺近い「貧困」のうちにあった。
だが、私はいつでもたいへん陽気に過ごしていた。
ご飯を食べる金がないときも、家賃を払う金がないときも、私はつねにお気楽な人間であり、にこにこ笑って本を読んだり、音楽を聴いたり、麻雀をしたりしていた。
たいていそのうち誰かが心配して、私のために手近なバイトを探して来てくれたので、間一髪のところを何度もしのぐことができたのである。
私がつねに変わらず陽気でいられたのは、年収なんか人間の価値とはぜんぜん関係ないということを深く、魂の底から、「確信」していたからである。
「金持ち」とは定義すれば「金のことで心を煩わされない人間」のことである。
そういう意味では私は貧乏なときもずっと「金持ち」であった。



 内田は要するに「気の持ちよう」だと言う。だが、「年収なんか人間の価値とはぜんぜん関係ないということを深く、魂の底から、『確信』」するためには、そう確信させるだけのリアリティが必要である。何で金のない人間が本を読んだり、音楽を聴いたり、麻雀をしたりできるのか分からないし、バイトで凌げるなら貧困とは言えない気がするけど(ネットカフェ難民やマック難民とは比べ物にもならない)、それはともかく、例え貧乏であっても彼の価値を認め、彼を助けてくれる人がいたからこそ、「年収なんか人間の価値とはぜんぜん関係ない」と言えるのであって、内田が自律的にそのような確信にたどり着いたわけではないだろう。「たいていそのうち誰かが心配して、私のために手近なバイトを探して来てくれ」るという経験がなければ、貧乏になったとたん誰からも相手にされなければ、「年収なんか人間の価値とはぜんぜん関係ない」などとかっこいいことは言えない。

 労働から得る対価は金だけではない。
 「ありがとう」「おつかれさま」「ごくろうさま」というねぎらいの言葉や、一緒に働く仲間との何気ない会話も働く上で欠かせない対価である。その言葉や終業後の仲間との一杯が疲れた心を癒し、次の日の仕事を楽しみなものへと変えるのだ。
 現在のワーキングプアの問題は、彼らが誰からも尊敬されず労われず日々単純作業を主とする労働へ駆り立てられ、仲間との繋がりを絶たれている(日雇いの派遣であるため)からである。24時間営業のマクドナルドに寝泊まりする彼らに「にこにこ笑って本を読む」ことなど出来はしない。
 それができるのは、まだ真には貧乏ではないからである。(A.I.)
posted by A.I. at 17:57| Comment(0) | TrackBack(0) | エッセイ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年01月30日

底辺女子高生(豊島ミホ)

(この記事は2007年8月23日に書かれました)

 なんだか一高校教員として、いや元高校生として、というかダメ人間として妙に感情移入して読んでしまった。

 著者は数年前まで秋田県立の進学校に保健室登校していた高校生で、現在は「底辺女子高生」を微妙に?卒業して売れっ子作家になっている。しかし豊島自身の自意識としてはいまだに「底辺女子」なのではないかとも思わせる。

 入学と同時に1人称問題(「オラ」と「あたし」)で挫折し、もうその後は底辺街道を基本的には進んでいく。美術室でのひとときなど青春時代を思わせるシーンもあるが、やはり深刻なのは次のようなエピソードだ。

 彼女は23になった今も同級生に向かって「お前らなんか大っ嫌いだああ!」と絶叫する夢を見たりするというのだ。そしてなぜそうなのか、何に対して怒りや恨みを抱いているのか、当時はおろかいまだにうまく説明できないという。それは適切な言語化ができないということで、自己消化しきれていないということである。うかつに口にすれば、複雑な当時の感情が定型化された陳腐なものになってしまうことが分かっているので、そんなことならたやすく人の理解を求めるより、口を噤んでしまおうということなのだろう。「怒りや恨み」と書いたが、そういった言葉で括ること自体、ことの本質から遠ざかる気がしないでもない。

 当時の親友が慎重かつ気軽に「なんで教室に来なくなったの?」と聞いてくれたのに対して、彼女は赤面するばかりだ。

「みんな、私のことバカにしてる」
言葉にすると、その程度にしかならない。

 たしかにこれではまるで分かり易いいじめを受けている者のような発言に聞こえてしまう。彼女はクラスメイトに何をされたのかというと、ひとつひとつの事柄としてはさして取りざたするほどでもないと「周囲」や「大人」たち、あるいは「社会」といったようなものに片付けられてしまいそうなものではある。しかしそのように感じる立場の者にとっては、それはそれだけの根拠を微細なレベルで日常的に感受しているのである。それは絶対に彼女の心に突き刺さっていくのであるし、他人には(いじめのような行為として)見えにくいだけにタチが悪いだろう。細かいことの積み重ねで日々自分が「若干オモチャだけど、ま、基本的にどうでもいい存在」として不当な扱いをされている、そのように見られているということが許せなかったということである。その結果「誰に」というわけではなく、「ひとりひとりとして憎たらしいのではなく、カタマリとしてのみんなが憎たらしかった」のだ。

 これはやっかいである。憎むべき対象を特定できなければ感情の行き場は内側へこもることになりかねない。自分が何に対して怒りを感じているのか気づくことすら出来ないでいるという、最も哀れな状態に陥ってしまう危険がある。

 クラスのマジョリティたちは教室掃除も、「どうでもいい存在」に、自分たちが悪気もなくサボることで「間接的」に押し付けている。しかしその行為は、「どうでもいい存在」が何のリアクションも起こさないだろうという判断に基づいてなされている。その手前勝手な「判断」が、じっさい抵抗できない「底辺」の者をひどく内的に苦しめているように思われるのである。「こいつには何をしたっていいのだ、こいつがどう考えようと関係ない」という、自分を不当に扱う側の裏にある意識を、当のそいつらよりも敏感に感じ取ってしまうからだろう。

 そして「底辺」の者はたいていの場合、自分をうまく社会(学校、教室、クラスメイト)に流通させる術としての「ことば」を持っていない(それゆえに底辺を脱却できないとも言える)。そのような目にあっている自分を、その事態に気づいたとしても説明できない。豊島自身も、もし同級生を殺した高校生が理由を問われて「あいつが掃除をサボったから」と言ったら、「最近の高校生は怖いね」と月並みな反応をしてしまうだろうと言っている。

 最も救われないのは、人生の常態ともいえるが、そのような無邪気な虐げをする者たちが、とくに人間的欠陥者というわけではないということである。もしそうなら、自分が悪いのではない、絶対に向こうが悪いのだと確信できるのだろう。いまだにそんな夢を見ることもないだろう。これは仮にも進学校のなかで起きていたことでもある。先生たちには気に入られているような者もいるだろうし、親や友人思いの者もいるだろうし、将来は成長して何事もなかったように話の分かる「いいひと」になっていたりするのだろう。そのことを言い当てた次のくだりがこのエッセイの最も感動的で的確な叫びだった。

 また、いま高校生間の様々な騒動に身近に触れている者として実感するところが多かったのである。

 そういう人たちが特別冷血漢で想像力がないというわけではなく、きっと自分らの中ではいろいろ
 精一杯で、付き合ってる人とうまくいかなくて切なかったり、部活の人間関係に悩んだりしている
 だろうことが、お喋りの端に透けて見えるのがまた、憎らしかった。
 ――人のこと踏みつけといて、でもそれと全然別なとこで青春謳歌して、そっちだけが将来「高校時代の思い出」になるんだな。

 泣ける。

 何が悲しいって、「そういう人たち」が「付き合ってる人とうまくいかなくて切なかったり、部活の人間関係に悩んだりしているだろう」などというそんなことを、虐げられている者の方がデリケートにも想像してしまっているということだ。この逆はありえないだろう。そして「そういう人たち」が彼らは彼らなりの苦悩を抱えながら、(それを彼女自身認めながら)それでもなんだかんだ青春を「謳歌」していると見えてしまうことの悲劇である。じっさい謳歌してるのだろうが、これは程度問題になりかねない。豊島自身も「謳歌」はともかく「青春」はしていたことを今は当人が自認している。とすればここには「青春」というものに対する高校生の病的なまでの「飢え」が問題の根源にあるのかもしれない。

 ところで彼女よりも哀れだと思うのは、「バカにされても涼しい顔でいられる」ような「賢い」男子なのではないかと思う。「休み時間にじっと机を見ているだけのような男子」は学校も休まず皆勤で卒業していく。こちらは自分たちが虐げられていたことに対して(自覚はあったにしても)、どの程度リアルに捉えることが出来ていたか少々疑わしい。自分の人生におけるシビアな状況認識も、高校生としての「カタチ」もない男子の方がより惨めだろう。(R)
posted by SIZ at 15:32| Comment(0) | TrackBack(0) | 読書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年01月28日

THE VIRGIN SUICIDES(AIR)

(この記事は2004年9月15日に書かれました)

 エアーではない。エールである。念のため。

 映画「ヴァージン・スーサイズ」のサントラである。監督のソフィア・コッポラもそうだが、日本との関係も深いフランスのポップ・デュオユニットだ。チボマットやジョンとヨーコの息子ショーンなんかとも親交が深い。

 ぼくは97,8年ごろの「ムーンサファリ」が話題になったあたりから入ったのだが、あの頃の、AIRといえばあのラウンジっぽいぶりぶりした音というサウンドより今の色んなものを吸収し実験した、つまり単なるジャンル音楽を離れた作風が好きである。といっても「ムーンサファリ」がそうだというわけでもなく、あれはれでいいのだが。

 映画が公開されるだいぶ前の99年から00年くらいにかけての頃だろうか、サントラが発売されるとき、当時已然として絶大な影響を及ぼしていたRADIOHEAD「OK COMPUTER」にファンである彼らもそれを通過した音作りと世界観を打ち出してきたと聞いて、益々買う気になり、それからちょっと待たされてある日レコード屋で12”のLPシングルを買った。ちなみに置いてあったコーナーはHOSE/TECHNOでもなくBREAKBEATS/TRIPHOPであった。

 さっそく聞いてみると、もうツボに入るサウンドである。フェンダーローズのエレピがドリーミーで蠱惑的だし、スネアの響きは絶妙なアナログ調整だし、ストリングスも60年代の映画からサンプリングしてきたようなレトロさを醸している。とにかく映画音楽としてもこれ以上ないムーディーな仕上がりになっていた。彼らの特徴だが、ポップネスとそれでいてひねったコードワークも爆発している。とくに主題曲「PLAYGROUND LOVE」や「BATHROOM GIRL」なんかそうだ。重厚なサウンドアレンジもできるフランス人らしからぬ厚みが好きだ。(R)
posted by SIZ at 23:05| Comment(0) | TrackBack(0) | 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年01月26日

アフター・カーニバル深夜便(第三十五回)〜「アバター」と最近のマンガについて〜

 今回は久し振りにメンバーが集まった回なので、何かひとつテーマを決めて話すのではなく、最近見た映画とマンガについて雑駁な話をしています。
 映画は、まず、A.I.さんが見たという「アバター」について。A.I.さんは3Dとそうでないやつとを見比べたということなので、そういう映像表現や映像技術についての話もしています。
 それから、Rさんが見たという「ザ・スピリット」について。アメコミのヒーロー映画については次回の深夜便で改めて取り上げる予定です。
 マンガについては、山本直樹「レッド」(イブニング)、久保ミツロウ「モテキ」(イブニング)、西森博之の「お茶にごす。」(週刊少年サンデー)、つばな「第七女子会彷徨」(月刊COMICリュウ)について話をしています。(SIZ)



(関連する過去の記事)
最近気になるマンガ
http://after-carnival.seesaa.net/article/134819282.html

(関連する過去の深夜便の回)
第四回:最近読んだ(続きが気になる)マンガ・ベスト10
http://after-carnival.seesaa.net/article/119661631.html
http://after-carnival.seesaa.net/article/119661886.html
http://after-carnival.seesaa.net/article/119662027.html

2010年01月23日

Ultravisitor(Squarepusher)

(この記事は2004年3月26日に書かれました)

 一時期(フジ来演後)失踪話もあったトム・ジェンキンソンことSquarepusherの待望の新作。

 この前出た同じWARPの雄、Autechreの新作「Conefield」やその後のEPは、また聴きやすくなり、しかもとてもウェルメイドな仕上がりだったが、この「Ultravisitor」も一曲目を試聴したとき、そう思わせられる出来であった。彼の最近の作中でもPOPなほうだと思える。特に3曲目が最高だ。以前この欄でも紹介したKLUTONのようなダウンビートがだんだん爆発昂揚していくのがたまらない。

 この手の連中には、常に技術的な意味でもパースペクティブな部分においても何がしかの革新性が求められがちだが、そのような意味での新しさというのは特にないかもしれない。だがよくできている。肉厚な一枚だ。

 ウェルメイドに満足するかどうか。そのことに物足りなさをも感じてしまうか。難しいわかれどころである。AutechreやあるいはRADIOHEADなどもそうだが新作を聞くたび、最近の複雑さを考えざるを得ない。(R)

(追記)
そろそろ言っておくが、ぼくは熱烈なRADIOHEADイアンである。彼らは僕の中でダントツの横綱の地位を保っている。しかし真の信仰は無神論にもなるのだ。ニーチェがそうだったように・・・
posted by SIZ at 08:01| Comment(0) | TrackBack(0) | 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年01月21日

PROTECTION(MASSIVE ATTACK)

(この記事は2004年10月21日に書かれました)

 いまやブリストル一派の中でも大御所になったマッシブ・アタックのセカンドからの有名曲である。ブリストルといえばトリップ・ホップの名産地でもあった。グラスゴーの音響派ともまた違う世界観を提供していた地である。PORTISHEADやTHIRD EYE FOUNDATIONなど好きなアーティストぞろいだ。

 僕の好きなイギリス音楽の勢力を土地で分けるとBEST3は、RADIOHEADやMEDALのオックスフォード。MOGWAI、DELGADOS(なんか前に深夜にやってた「ガンスリンガー・ガール」とかいう変な美少女系?アニメの主題歌になぜか曲が使われたらしいがびっくりしている。音楽監督がマニアックだったのか。それにしてもなぜ?)らのグラスゴー、そしてブリストルだ。

 マンチェ勢はあまり好きではないし、オアシスなんか嫌いだ。ストーンローゼズくらいか。映画「24H」とかは見たいのだけど。そしてビートルズにあまり思い入れもないのでリバプールも聖地でもなんでもない。

 音の粒立ちがぞくぞくするほど精確で際立ってくるのは三枚目「メザニーン(中二階ってやつだね)」からだが、この曲は彼らの曲の中でも一、二を争うメロウなチューンでありかつ、今よりもHIPHOPテイストがあったころのものである。メンバー脱退により(昔はTRICKYもいたのにね)今は中心メンバーのプロジェクトになってしまった感があるが、当時は雑多で豊かな音楽性があったように思う。

 去年、あろうことかDJ SHADOWをゲストに迎えた豪華なライブでは、当日さらになんとあのDOT ALLISON(過去評を参照)もVOCALとして来日したのだった。大ファンだった僕は一気に3アーティストもの来日を目にして興奮したことを覚えている。ときはイラク戦争開戦直後であり、演奏前いきなり素舞台に全員で出てきて、手をつなぎ一般犠牲者に対し黙祷をしだしたことも印象的だった。

 その年のFUJI ROCKに再来日したときもDOTを従えていたのだが、そのときは別ステージのトリMOGWAIを見に行かねばならず、途中でグリーンステージを去った。あのDOTをグリーンで見られる信じがたい機会なのに!(数曲見たけど)

 彼らの後継としてはBOWERY ERECTRICが有望だと思うが、今だブレイクはさほどみられない。名作「LUSHLIFE」はとてつもなく凍った夜の音楽世界だったしベースの硬質でダークでアダルトな響きはマッシブ・アタックのお株を奪うようだった。

 ジェット・リー主演のリュック・ベッソン新作「ダニー・ザ・ドッグ」のサントラ・スコアを手がけたようなのでそちらも要チェックである。(R)
posted by SIZ at 09:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年01月19日

アフター・カーニバル深夜便(第三十四回)〜大晦日の格闘技番組について〜

 今回は、年始特別企画のときに来てもらったナリチカさんを再び呼んで、大晦日に放送された格闘技番組「Dynamite!! 〜勇気のチカラ2009〜」について話をしています。とりわけ、吉田秀彦×石井慧、青木真也×廣田瑞人という二つの試合について話をしています。
 ナリチカさんはプロレスに詳しいので、(メンバーの中でプロレスに詳しい)A.I.さんといずれ話をする機会を設けたいと思っています。
 深夜便において、プロレスは、とりわけ物語の喪失や希薄化という文脈で問題になっています。つまり、物語が喪失し、希薄になってきたからこそ、端的にリアルなものが求められるようになり、結果、ゼロ年代に入ってから、総合格闘技が人気を獲得するようになったのではないか、ということです。
 以上のような文脈において、今日逆に再検討されるべきなのがプロレスの物語性です。物語の問題はプロレスに限らず、他の様々なジャンルにおいても問題になっていることです。
 こうした共通する問題を、プロレスにおいて、象徴的な形で見出すことができるのではないか。物語の復権というものが今日ありうるとすれば、それはどういうふうに可能なのか。こうした問題意識をナリチカさんもしっかりと共有していると思います。(SIZ)



(関連する過去の深夜便の回)
第十回:プロレスの物語性とニコニコ動画の創造性
http://after-carnival.seesaa.net/article/122926851.html
http://after-carnival.seesaa.net/article/122927380.html

2010年01月17日

C.B.Jim(BLANKEY JET CITY)

(この記事は2004年10月31日に書かれました)

(どんな時に聞きたい?)
一人の時

(ここは良かった!)
歌詞がものすごい。ウッドベースがいい。やたらかっこいい。コンサートではなく演奏旅行。あたりみゃーだぎゃ。

(ここはいまいち・・)
男の子の夢がすべて詰まっているので不満などない。


 A.I.氏が熱い音楽論を展開しているので、僕も感化されましたよ。及ばずながら僕も音楽界の発展を祈りつつレヴューをば。

 このBLANKEY JET CITYというバンド、すごいですよ。歌詞がものすごい。とにかくすごい。とにかくかっこいい。かっこよすぎる。かっこよすぎてウソみたいに思える。

フロントフォークが一番長いのは C.B.Jim

 なんじゃそりゃ。ただこれだけの歌詞を叫ぶように、または読み上げるように(失礼か)歌っているだけなのに、なんたる説得力。

 「天国行きのエスカレーター その手すりは」なんと「ワニの皮だったぜ」。度肝を抜かれる。因果関係はない。まったくない。意味が分からない。しかしそんなものいらない。有無を言わさず納得させられる。

 または、いきなり「いいだろ 俺のこのサングラス」である。いきなり言ってくる。いきなりである。そんなもの知らん。だが納得。そして大満足。

 「ライラックって どんな花?」これもいきなりである。いきなり聞いてくる。知らん。知らんが妙に納得。

 多分ほかのアルバムになるが、「彼女のことが好きなのは」……「赤いタンバリンを上手に打つから」だそうだ。ふつう女性を好きになる理由にはならない。だがいい。それでいい。そのままの君でいてほしい。

 とにかく歌詞のいちいちに胸がときめく。ビックリマンワールドみたいに、一曲一曲がBLANKEY JET CITYワールドの物語の一部になっているところもにも、想像をたくましくさせられる。ワクワクする。

 遠い過去に聴いただけのアルバムなのに、脳裏に焼き付いて離れない。すばらしいロックバンドである。

 ちなみに僕は名古屋に住んでいたことがあるのだが、BLANKEY JET CITYは生活に浸透し、地域住民の誇りだったぎゃ。(イワン)
posted by SIZ at 22:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年01月13日

愛は燃えている(金子由香利)

(この記事は2005年2月5日に書かれました)

 というわけで、「みんなのうた」シリーズ第二弾。

 といってもこれは正式には「みんなのうた」ではなく、おなじNHKの番組デジスタに投稿され受賞した実写アニメ作品に、「みんなのうた」的につけられていた歌である。

 その映像作品は、シャンソン歌手として活躍する金子由香利の歌の世界を完璧に創り上げていた。デジスタ内でもその年の話題をさらった作品である。完成度が高く世界作りに隙がない。歌が持つ、木枯らし吹く昭和ムードの世界で暖炉にあたっているような「あったかいわ」(最も印象的なフレーズ)の雰囲気が、一部の隙もなく映像とマッチングしている。どこかコミカルな曲調の味が伝わってくるし、軽く流れるような歌い方のテンポに演出がともなわれていた。

 気になる人は検索してチェックしてみてほしい。(R)
posted by SIZ at 22:15| Comment(0) | TrackBack(0) | 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年01月12日

カゼノトオリミチ(堀下さゆり)

(この記事は2005年2月16日に書かれました)

(どんな時に聞きたい?)
リラックスしたい時

(ここは良かった!)
ぽつんとひとりになれるような歌。何かを再確認できるような歌。もう一度取り戻そうと思うようになる歌。

(ここはいまいち・・)
1月で「みんなのうた」放映が終了してしまい、もう見られない・・・


 最近見たアニメの中では、「げんしけん」のエンディング・テーマになっていたアツミサオリの「びいだま」が、歌詞、曲作りともにはっとさせられるところがあってよかった。そしてこの曲である。

 この曲はアニメといっても「みんなのうた」用に作られたもので、監督が「きまぐれオレンジロード」の望月智充。作画があの近藤勝也である。

 年末の忙しい中、晴れたり雪が降ったりする中、朝のTVにこれが流れてきた。するとなんだか癒されるのである。風景の移り変わりや時間の移り変わりがいいし、歩いてくカップルの目線がいい。主人公の少女の肩越しの視点、男の顔が見えるか見えないかぐらいのところを揺れ動いていく。気持ちのいい映像である。いいなあ「みんなのうた」。(R)



 この作品については、音楽のほうではなくて、アニメのほうにコメントしてみたい。

 R氏がこの作品について言っていないことで重要だと思われるのは、望月智充と近藤勝也は、ジブリの『海がきこえる』を作った人たちだ、ということである。僕は、このアニメを見て、まっさきにそのことを想起した。そして、次に思ったことは、このアニメが、80年代へのノスタルジーに彩られている、ということである。

 望月智充は、象徴的な意味で、80年代のアニメ作家と言えるだろう(僕にとっては『クリイミーマミ』を作った人と記憶されている)。80年代、それは、爽やかな青春の時代(それ以前の、スポ根ものに顕著に見られるような「汗臭い青春」と比較して)。80年代、それは、青い空と青い海を背景にした夏のイメージ。80年代、それは、(とりわけ、アニメにおいて顕著であるように)日常生活がファンタジー化された時代である。

 『カゼノトオリミチ』は、こうした80年代の雰囲気をノスタルジックに感じさせる映像作品であった。(SIZ)
posted by SIZ at 00:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年01月08日

「映画」の過去記事も尽きた

 昨日上げた「トランスフォーマー」の記事で「映画」の過去記事も尽き果てました。昔のホームページの「映画」のカテゴリーは映像表現をすべてカバーしていたので、今のカテゴリーの「映画」、「アニメ」、「ドラマ」の記事がすべてなくなったことになります。

 アップし忘れた記事もいくつかあるかも知れませんが、それをいちいちチェックしていくのは面倒なので、ひとまず全部なくなったことを宣言し、時間のあるときにアップし忘れた記事がないかどうか調べてみることにします。

 「トランスフォーマー」の記事が書かれたのが「2007年8月6日」ということなので、そのすぐあとくらいに旧アフター・カーニバルのホームページがなくなって、新しくこのブログを作ったことになるので、だいたい二年半くらいこのブログに過去記事を上げ続けたことになります。

 まだあと、「音楽」と「エッセイ」の過去記事が残っているので、それらを騙し騙し使っていくことにします(「音楽」の記事はそもそも数が少ないですが)。

 新しい記事をどうやって書いていくか。メンバーの人たちと話し合って、何か方策を考え出したいと思います。(SIZ)

2010年01月07日

トランスフォーマー(マイケル・ベイ)

(この記事は2007年8月6日に書かれました)

(ストーリー)
機械が変形したりする。


 ガチャガチャ変形するシーンが楽しそうだったので見に行ったら、どうでもいい人間のつまらんやりとりがかなり多くて、いらいらした。

 監督が監督なので登場人物は揃いもそろって異常事態かと思うほど頭が悪いし、脚本は本当に存在していたのか疑わしく、放射能がどうとかハッキングがどうとかは結局どうなったのか全然分からない。あのメガネだって重要そうに見せといて結局特になくても構わなかったんじゃなかろうか。

 つまりストーリーなどあってないようなものなので、だったらいちいち恋愛だとか国家の危機だとかそういうところに踏み込まなければ良いと思う。

 それと、敵のボスは最後倒したけど、まだ結構ザコが残ってた気がするんだが、あれはどうなったんだろうか。(A.I.)
posted by SIZ at 21:03| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年01月06日

墨攻(ジェイコブ・チャン)

(この記事は2007年8月4日に書かれました)

(ストーリー)
梁が趙に攻められ、それを一人の墨家が防ぐ。


 駄作でしょう、これは。

 攻城戦に特化したような話なのだし、主人公は防御戦のプロという設定なのだから、そのように描けば良いだろうに、どうでも良いところにこだわったせいでみんながみんな自滅していく。とても戦場の話とは思えなくて、自分たちの命よりとりあえずその場その場の感情を優先させているので、そんなんだったら死んでもしょうがないと思う。

 その意味では

 酒見賢一の小説→森秀樹の漫画→映画

の順番でダメになって行っている。(A.I.)
posted by SIZ at 21:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年01月04日

どろろ(塩田明彦)

(この記事は2007年8月4日に書かれました)

(ストーリー)
百鬼丸が自分の体を取り戻すため、妖怪みたいなのを倒す。


 面白いような面白くないような。

 昨今の似たタイプの邦画の中ではかなり頑張っているほうだと思う。

 オープニングのHuun-Huur-Tuの唄も良いし、アクションもさすがにチン・シウトンなので悪くない。化け物どもの造形は実に馬鹿っぽいけど、主役二人は良い演技をしている。

 しかし全体としては「ふ〜ん、それで?」という感じではある。

 手塚の原作は読んでいないんだが、印象としては白土三平っぽい。どうせならカムイ伝も映画化してくれないかなあ。(A.I.)
posted by SIZ at 20:09| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年01月03日

アフター・カーニバル深夜便(年始特別企画)〜2009年のアニメを振り返る〜

 年始企画の第三弾はアニメ。
 またゲストとクヌギさんと一緒に2009年のアニメについて語っています。
 取り上げている作品は、ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破、サマーウォーズ、けいおん!、東のエデン、センコロール、亡念のザムド、など。
 年始企画はこれで終わりで、来週からはまた通常の放送が始まることになると思うので、みなさん、今年もよろしくお願いします。(SIZ)



クヌギさんのブログ
http://30per.cocolog-nifty.com/blog/

2010年01月02日

アフター・カーニバル深夜便(年始特別企画)〜2009年のゲームを振り返る〜

 年始企画の第二弾はゲーム。
 年末にクヌギさんをゲストに呼んで「FF13」について話したことがありましたが、それの延長で、2009年のRPGについて、それからもっと広く、いったいゲームの面白さとはどのようなものかについて話しています。
 話題にしているのは、ファイナルファンタジー13、ドラゴンクエスト9、ハード(DS、PS3、Wii)の違いについて、「ペルソナ」シリーズ、任天堂について、などです。(SIZ)



(関連する過去の深夜便の回)
緊急特別企画:『FF13』とRPGの現在
http://after-carnival.seesaa.net/article/136082603.html

クヌギさんのブログ
http://30per.cocolog-nifty.com/blog/

2010年01月01日

アフター・カーニバル深夜便(年始特別企画)〜2009年の政治と社会を振り返る〜

 大晦日に収録した年始企画の第一弾。
 第一弾はナリチカさんをゲストに呼んでの放送。2009年に起こった出来事、さらにはゼロ年代に起こった出来事を振り返っています。
 話題にしているのは、政権交代、オバマ大統領誕生、有名人の死去(マイケル・ジャクソンや三沢光晴)、酒井法子事件、裁判員制度、グローバリゼーション、格差問題、2010年代の未来について、など。
 ナリチカさんには今後も、いろいろな企画で、ゲストに来てもらう予定です。(SIZ)



(関連する過去の深夜便の回)
第十六回:総選挙再び
http://after-carnival.seesaa.net/article/126703381.html
http://after-carnival.seesaa.net/article/126786841.html

第二十八回:東浩紀の未来論とロスト・ジェネレーションの未来
http://after-carnival.seesaa.net/article/133662729.html
http://after-carnival.seesaa.net/article/133741915.html

広告


この広告は60日以上更新がないブログに表示がされております。

以下のいずれかの方法で非表示にすることが可能です。

・記事の投稿、編集をおこなう
・マイブログの【設定】 > 【広告設定】 より、「60日間更新が無い場合」 の 「広告を表示しない」にチェックを入れて保存する。


×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。