2009年12月31日

来年もよろしくお願いします

 今年も今日で終わりですが、みなさん、いかがお過ごしでしょうか。

 アフター・カーニバルでは年末年始特別企画として、深夜便の特別放送を収録しています。というよりも、僕がゲストを呼んでひとりでやっているだけですが、2009年を振り返る企画をいくつか収録しています。

 最初は生放送でもやろうかと思っていたのですが、聞く人が誰もいないのではないかということを恐れたので、いつもの配信形態にしました。いずれ生放送もやってみたいとは思っています。

 来年も深夜便の放送だけは力を入れることができそうなので、基本的に放送メインでやっていきたいと思っています。前の記事に書いたように、文章の記事も何か書けるようにしたいとは思っています。

 あとブログのデザインを変えました。前のやつは、以前から気になっていたのですが、記事一覧などの文字がオレンジ色で見えにくかったので、新しいやつに変えました(今さらですが)。色はやはり暗めでいきます。これがアフター・カーニバルのテイストだと思うので。

 そんなわけで、来年もよろしくお願いします。深夜便の配信は明日から行なう予定です。(SIZ)

2009年12月29日

アフター・カーニバル深夜便(第三十三回)〜武者小路実篤の『愛と死』を読む〜

 Rさんが提案した企画。
 掲示板に書いてあるRさんの文を引用すれば、問題になっているのは「「野菊の墓」などと並び元祖ベタな純愛小説をネタ的に今読むとどうなのか。当時は「セカチュー」みたいなベストセラー的読まれ方をしたのかどうか」ということ。
 しかし、当時この作品がどう読まれたのかということはちょっと分からなかったので、現在どんなふうに読めばこの小説を面白く読めるのかということについて主に話をしています。
 そんなわけで、実篤をネタにしているところが多々ありますが、放送の中で言っている通り、実篤は基本的にいろいろと可能性のある作家だと僕は思っています。(SIZ)



(関連する深夜便の回)
第三十回:美嘉の『恋空』を読む
http://after-carnival.seesaa.net/article/135011107.html

2009年12月28日

時をかける少女(細田守)

(この記事は2007年8月4日に書かれました)

(ストーリー)
タイムリープする。


 同時期に公開された『ゲド戦記』や『ブレイブストーリー』などと比べると抜群に評価が高い。

 予算の関係からか、アニメーション特有の映像表現は乏しく、そういう意味での快楽はないが、

 夏。野球。青春。

 といった如何にもなツボは押さえていて、甘酸っぱいような歯がゆいような許せないような。

 実は昨日父親とこのアニメの話になって、舞台となっているのは千葉の幕張総合高校であるらしい。完璧そのまんまだとか。そうか、あれは幕総なのか。どうりで立派な学校だと思ったよ。(A.I.)
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2009年12月26日

ダイハード4.0(レン・ワイズマン)

(この記事は2007年8月7日に書かれました)

(ストーリー)
マクレーン刑事がテロ事件に巻き込まれ英雄神話的な活躍をする。


 なんだろうこの異様なテンションは。とにかくすごいことになっている。

 普通は期待されない続編でまさかこんなにもやる気を出されるとは思わなかった。とても4とは思えない。

 全編通して飽きさせないし一気に見せる。最後のほうはおなかいっぱいである。

 『アンダーワールド』ってそんなに一般受けしてないし、アクション評価もどれくらい高いのかしらないけど、ちょっとこれはすごすぎて笑いましたよ。とりあえずF−35のパイロットにあんな無謀なやついないって(笑)。

 敵の忍者女が車に引かれても体当たりされても骨ひとつ折れてなさそうだとか(マクレーンも同じだが)、勇んで犯人のところへヘリで急行したはず(ただし当初向かった目的地はアバウト)の副局長が一向にたどり着かないとか(徒歩のマクレーンが先に着くし)?なところもあるけど、終始息を呑むアクションとカメラワークは劇場効果を伴って、至上の二時間を提供してくれたのである。(R)

*

 ブルース・ウィリスがかったるそうに活躍すると、どういうわけかそれなりに説得力を持ってしまうから不思議だ。

 これがアーノルド・シュワルツェネッガーだったら、超人が超人的活躍をするという、それだけの凡作になっていたと思う。

 サイバーテロの方法には何となく説得されるものがあったけど、機能の麻痺した街がどんだけの混乱に陥っているかをちゃんと描いてくれればもっと良かったと思う。でも面白かったです。(A.I.)
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2009年12月23日

「書評」欄の過去記事が尽きた

 昨日、イワン氏による「砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない」についての過去記事をアップしたわけだが、これにて、「書評」欄の過去記事がすべて尽きた。

 「書評」欄というのは、昔のアフター・カーニバルのホームページでは、コンテンツのカテゴリーが、書評、映画、音楽に分かれていたので、そのうちの「書評」に当たるもの、つまり、現在のブログでは、「読書」と「マンガ」欄の過去記事がすべて尽きたことになる。

 「映画」欄の過去記事ももう少しでなくなりそうなので、過去記事ばかりではなく、何か新しい記事を書こうと、みんなでいつも話をしてはいるのだが、やはりなかなかそのエネルギーが出てこない。

 妥協的な手段として、アンケート記事を作っているわけだが、アンケートばかり取っていても仕方がない。

 A.I.さんがこの前新しい記事を書いていたが、その路線を上手く活かして、僕も含めた他のメンバーの人たちが気軽に記事を書ける状態にしていけばいいのだが、そうした状況にまで持っていくのがなかなか大変だ。

 そんなわけで、現在のアフター・カーニバルは、深夜便の放送がメインになってしまっているところがある。放送のための準備はそれなりにしているので、そこでエネルギーは使っているわけだが、基本的にやっていて楽しいので、現在は放送がメインになってしまっているところがある。

 しかし、放送を毎週ちゃんと聴いている人がいるとは思えないので、やはり、文章系の記事のほうも何か書くべきではないかと思っているのだが、それがなかなか上手くいかないのが現状である。

 そんなわけで、アフター・カーニバルの来年の目標は、新しい文章系の記事を書く、ということ。それだけではなく、もっといろいろなことをやって、活動の幅を広げようという野心だけは持っているのだが、それもなかなか思うようにいかないのが現状である。

 そんなこんなで、いまひとつなところはありますが、来年のアフター・カーニバルの活動にもぜひ注目してみてください。(SIZ)

2009年12月22日

砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない(桜庭一樹)

(この記事は2007年8月13日に書かれました)

 どんでん返しがない。よって、一定以上の面白さを期待してしまうと拍子抜けしてしまうだろう。まあそれはいいとして、ちょっとあらすじを。

 鳥取県境港市。二学期の初めに、山田なぎさのクラスに海野藻屑という美少女が転校してくる。昔流行ったミュージシャンの娘である藻屑は、自分は人魚だと言い張るぶっとんだ少女で、なにかとなぎさに絡んでくる。なぎさの家庭は母子家庭であり、兄は美少年だがひきこもりである。貧しい自分には生きていくための「実弾」しか必要ないと考えるなぎさは、嘘=「砂糖菓子の弾丸」をばらまく藻屑に嫌悪感を示すが、しだいに引かれていく。

 こう書くと、はじめは反発しあっていた二人のあいだに友情が芽生えていく、爽やかな青春ものを想像するが、初めから嫌な予感が満々としている。つまりこれは青春暗黒小説である。

 クソみたいな世界である。海野藻屑というふざけた名前にも、彼女の引きずるような歩き方(人魚姫は歩くと脚に激痛が走るというが)にも、クソみたいな意味がある。クソみたいな、というのは、何か驚くべき理由で彼女がスポイルされているというわけではなくて、極めて散文的な理由で、あるいはだからこそ抜き差しならない状況に追い込まれているということである。

 このどうしようもない現実を前にして、藻屑はたとえそれが砂糖菓子でできたものであっても「弾丸」を撃つ、抵抗しなければならなかったのである。

 全体としては、子供が抱える無力感や焦燥感がひしひしと伝わってきて、好感の持てる作品である。なによりいいのは、登場人物が皆、どうしようもなく普通の人間であるということである。彼らの突飛な言動も、すべて現実的な状況をもとに生まれている。登場人物が普通の人間であるということが、読者との共通の基盤となり、地に足の着いた作品となっている。よって、桜庭一樹の作品はいまいち突き抜けないところがあるが、安定して読ませるものとなっている。(イワン)
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2009年12月20日

アフター・カーニバル深夜便(緊急特別企画)〜『FF13』とRPGの現在〜

 緊急特別企画と題して、今月の17日に発売された『ファイナルファンタジー13』について話す企画。
 僕自身は『FF13』をプレイしていないですが、発売日に購入して5時間くらいプレイしたというクヌギさんをゲストに呼んで、話をしています。(SIZ)

クヌギさんのブログ
http://30per.cocolog-nifty.com/blog/


2009年12月19日

アフター・カーニバル深夜便(第三十二回)〜森鴎外の『舞姫』を読む〜

 教科書に載っている文学作品を読むシリーズの第六弾。
 前半は、主に、エリスのモデルになったエリーゼについての話をしています。
 後半は、実際は前半と同じく1時間ほど話をしたのですが、録音ソフトの不調により、途中で音声が切れています。
 結果、「森鴎外はすごい」みたいなことが結論になってしまっていますが、この後は「舞姫」に戻って、作品内容についてもう少し話をしていました。(SIZ)


2009年12月17日

藤井誠二著『17歳の殺人者』を巡って(その3)

(前回の続き:今回で終わり)

 A.I.氏の書いたことに対して、返答をしてみたい。

 まず、女子高校生コンクリート詰め殺人事件についての「悪質さ」についてだが、A.I.氏は、この事件に関して、「質が悪く救いがたい」と言っているが、その点は基本的に同感である。しかし、この事件を形容する言葉としては、僕は、「悪質」というよりも「陰湿」と言ったほうが適当ではないかと思っている。

 藤井誠二のこの本を読むまで、僕は、この事件の詳細についてはほとんど何も知らなかった。知っていたのは、高校生たちが、女子高生を長期間にわたって監禁し、輪姦し、最終的には殺してしまった、ということぐらいである。こうした事実を知ったときには、「そんな残忍なことができるなんて、よほど残忍な人たちなのだろう」と思っていた。しかし、今回、この本を読んでみて、加害者の高校生たちに対する印象がかなり変わった。それで彼らのやったことが許されるわけではまったくないのだが、「なるほど、こういう状況ならば、彼らの犯行も理解できるかも知れない」と妙に納得するところがあったのだ。それは、つまり、彼らが子供であり、子供だからこそ、あんなにひどいことができた、ということである。A.I.氏が具体的にその犯行を書いているところからも推測できるように、この犯行はいじめによく似ている。目的があって何かをしているわけではなく、遊び感覚で人をなぶっているのである。これが、この事件の「陰湿」なところである。

 主犯格のAを始めとする少年たちが女子高生を監禁したのは、まずは、レイプ目的だった。そして、それを成就したあと、Aは、この女子高生を持て余してしまったのだと思う。つまり、もし彼女を家に返せば警察に通報されるかも知れないというただそれだけの理由から、彼らは女子高生を監禁し続けたわけである。彼女に対してなされた数々の暴行は、それゆえ、彼女に対してそうした暴行を行ないたいからそういうことをした、というよりも、彼女をどうにかしたいがどうにもできないというその苛立ちが彼女に対する暴行という形に現われたのだと考えられる。そうした彼らの締まりのなさが、最悪の結果を招いてしまったと考えられるのである。

 このような犯罪過程を読んで、僕は、子供の犯罪ということを考えたわけである。何らかの明確な目的の下に行なわれた大人の犯罪ではなく、小さなことから始まって(今回の事件のレイプという端緒はかなり大きなものであるが、そこに至るまでの過程も含めて)、それがずるずると長続きした結果、非常に大きなものになってしまったという子供の犯罪。この子供の犯罪は、その途中で大人が介入すれば、すぐにでも足元から崩壊してしまう非常に脆いものだ、という印象を持った。そこから、僕は、大人が介入するチャンスが何度もあったにも関わらず、なぜ大人が介入できなかったのか、という問題を提起したわけである。

 加えて、なぜ彼らがそのような陰湿な暴力を長々と続けることができたのかと言えば、それが、まさに、一種のいじめの構造をなしているからだと考えられる。つまり、いじめというのは、決して、一対一で行なわれるものではなく、集団対個人で行なわれる。いじめは常に何らかの形で集団が関わっており、この集団性が個人の罪意識を曇らせると考えられるのである。

 女子高校生コンクリート詰め殺人事件に見出すことができる集団とは、単に、A、B、C、Dという実行犯に留まるものではなく、その周辺にいたすべての人がそこに入る。僕は、こうした点からも、この事件を理解するには、学校の一教室におけるいじめのことを考えるのが一番いいのではないかと思っている。いじめは、少数のいじめっ子といじめられっ子だけの間で起こっているわけではなく、常に、それを知っている多くの人がいる。この事件に関しても、実行犯たちの友人・知人の間で、女子高校生が監禁されているという事実は知れ渡っていた(それほど明確でなくても、あそこで何かが行なわれているということは感じ取られていた)。それに、そもそも、その監禁の場所というのが、普通の一軒家(Cの家)の二階であるわけなのだから、Cの両親も、明確にその事実を知らないとしても、何か変なことが行なわれているという雰囲気は感じ取っていたことだろう。しかし、これは、まさに、いじめに関して言えることであるが、そのように漠然と感じ取られた雰囲気が公にされない限り、それは、存在しないも同然になってしまうのである。

 こうしたいじめの構造が加害者高校生たちの意識にも影響を与えていたと考えられる。つまり、自分がそうした犯罪をなしているという意識を軽減させるような機能がいじめの構造にはあるように思われるのである。いじめに関してよく言われる「いじめられるほうにも非がある」という発言は、その発言の前提となっていることを無視することによって初めて可能となるような発言である。つまり、それは、その集団が共通に持っている規則から逸脱してはならない、という前提である。そして、往々にして、その規則は(いじめられっ子の目立つ特性から)事後的に作られるものなのである。

 話を元に戻すと、加害者高校生の発言に見出すことができるのも、こうした罪意識の薄さである。Aという人物が主犯格とされているが、この主犯というニュアンスも、この事件に関しては、かなり異なるものだろう。Aという人物が力を持ち、他のB、C、Dはそれに従っているという構図が見出せるが、おそらく、A自身も、上に立って何かをやっている意識が非常に薄かったことだろう。こうした、なあなあな人間関係は、やはり、いじめに顕著に見出すことができる人間関係ではないだろうか?

 こうした事件の詳細を読んで、僕が思ったのは、何度も言うが、これは、本当に、子供の行為であり、未成年の犯罪だから云々という以前に、やはり、何らかの形で大人のほうも責任を取るべきではないか、ということである。身近なところでは、加害者の親も、何らかの形で、処罰されるべきではないか、と思ったのである。

 僕は、法律的な側面についてはほとんど何も知らないので、詳しいことはよく分からないが、こうした事件で子供を厳罰に処するのは、大人の責任を棚上げする部分がかなりあると思ったのである。少年犯罪の厳罰化という流れも、確かに、大人の責任のひとつの取り方なのかも知れないが、「われわれ大人が作ってきた社会の中からこうした子供たちが出てきた」という視点からの反省の声があまり聞こえてこないのが僕の不満なところであり、そうした視点から、僕は、この事件について語っているのである。


 さて、次に、加害者中心の視点/被害者中心の視点ということに話を移りたい。「加害者中心か被害者中心か」という犯罪事件に関する議論によく出てくるこの論点に、僕はそもそも疑いを持っている。藤井誠二も、やはり、この論点のことを非常に気にしていて、この本に被害者の視点が欠けていることに対して反省的なことを述べているが、もしそうした反省があるのなら、改めて一冊その視点から本を書けばよいのではないか、と思う。つまるところ、被害者の視点も加害者の視点も両方入れるべきだという折衷案は、ある意味で、本質的な問題点を無視するのに役立っているのではないか? つまり、こうした観点は、犯罪事件を「いったい誰が悪いのか」という問題に回収してしまうことになるのではないのか?

 被害者中心の視点と加害者中心の視点とは、ある意味で、そこで問題になっていることはまったく別のことだと言っていいだろう。そう単純には分けられないかも知れないが、加害者の側のほうでは特に原因についての話が問題となっており、被害者の側のほうは特に結果についての話が問題となっている。藤井が問題としたいことは、「なぜこうした少年犯罪が起きるのか」ということであり、つまるところ、その視点は原因のほうに注がれている。結果、被害者への視点が薄くなるというのは当然だろう。もし、被害者への視点も重要であると考えるのであれば、結果の観点から、まったく別種の問題設定を立てるべきではないのか?

 被害者中心の視点において、特に重要な問題提起があるとすれば、それは、被害者の側と加害者の側との間にコミュニケーションが構造的に取れなくなっている、ということにあるだろう。この点は、武孝和君殺人事件に関連して藤井も述べていることだが、被害者の側が加害者の側に何かを言いたくても言えない状態があるという。つまり、少年犯罪の場合、事件の処理が被害者の側を抜きにして行なわれているという構造があるというのだ。

 僕が、犯罪事件の厳罰化に少々疑問を抱いているのは、いったい、誰がそれを望んでいるのか、ということに絡んでいる。A.I.氏は、刑罰に関して、「社会的制裁」という言葉を用いているが、もっと言えば、それは、国家による制裁であるだろう。つまり、多くの犯罪事件は、当事者でのやり取りを離れて、国家が間に入ってそれを処理している。おそらく、被害者側における問題というのは、刑罰が軽いか重いかということではなく、国家が事件をすべて決定づけてしまい、被害者と加害者との間で直接的なコミュニケーションが取れないことであるように思う(「刑罰をもっと重くしてほしい」というのは、そのように国家が下した裁定に対する不満であるだろう)。

 僕が「知る/知らない」ということを語ったのも、この点に関わっている。つまり、被害者の側も、単に加害者が死ねばいいとは思っていないだろう。加害者が死刑になるにしても、その死刑の意味を理解して死んで欲しいと思うのではないのか? 最終的に、加害者が自分の罪を理解するかどうかは分からないが、被害者の側が何かを言いたいときにそれを言う機会が奪われているところに様々な憤懣が出てくるのではないだろうか?

 厳罰化に関してもう少し言えば、昨今の議論において、この点は、犯罪の抑止ということにも絡んで出てくる話であるだろう。これは、明らかに、管理の強化という流れだが、この流れは、現代社会の諸状況ということから考えると、ある点では、やむをえない話かも知れない。しかし、もう一方で、犯罪事件が起きないことを望むのであれば、犯罪事件が起きる背景というものに、もう少し目を向けてもいいのではないか、と思う。この点は、A.I.氏と認識の異なる点かも知れないが、僕は、犯罪事件についての言説が、加害者側の視点と被害者側の視点との間で完全に閉じているように思える。つまり、その背景というものには、ほとんど目が向けられていないように思える。即効性という点で言えば、確かに、厳罰化のほうが有効だろうが、それは、現在の社会が不変であるということを前提にした上でのことである。短期的にではなく、長期的視点を持つのであれば、もっと積極的に、犯罪事件の社会的背景について言及すべきだと思っている。


 最後にいじめについて述べてみたい。僕が、いじめの話を持ち出してきたのは、上に書いた通りであるが、いじめと学校との関係は、かなり本質的なものだと思っている。もちろん、いじめは、別の場所でも見られるが、その閉塞さ(逃げ道のなさ)という点では、学校ほど典型的なものはないだろう。

 僕は、いじめという行為は、二次的な派生物だと思っている。つまり、いじめは、それを目的に行なわれることはなく、何かに附随して常に行なわれるのではないのか? 極端なことを言えば、学校に誰も行かなければいじめが起こることはないわけである。僕が「いじめをなくす」という話をしたときに念頭に置いているのは、こうした発生条件の問題である。

 今日において、いじめの問題が深刻なのは、学校文化が学校外においても力を持っている、というところにあるだろう。学校の力が相対的に弱ければ、学校にこだわることもないだろうが、学校と同じくらいに力を持つ場所が相対的に他にないので、結果、学校の力が強くなってしまっていると言える。みんな学校を軽んじているにも関わらず、学校に行くわけである(不登校の問題などは学校の力が強いからこそ起こっているとは言えないだろうか?)。

 いじめをする必要性というのは、上に書いたような、いじめの集団性に関わっている。つまり、いじめを行なう重要な理由として、クラス内での位置関係、友人グループ内での位置関係、そうした、いったい自分がどのような場所に位置しているのかという位置づけの問題があることだろう。「自分がいじめられないために他の人をいじめる」というのが典型的であるが、そのような位置取りに腐心した結果、いじめを行なうということが多々あるのではないか?

 「いじめをなくす」と言ったときに、まず考えるべきなのは、いじめの発生率の低下と、いじめが過度にひどくなることを回避することにあるだろう。いじめは基本的につまらないものであり、そうしたつまらないことにでも関わらざるをえないところに隠微な快楽があると思われる。僕が「魅力的な何か」と言ったのは、そうしたつまらなさの対極にあるようなポジティヴなものを提示すべきだと思ったからである。様々な形での否定性(不全感)がいじめを誘発していると考えられるからである。(SIZ)
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2009年12月16日

藤井誠二著『17歳の殺人者』を巡って(その2)

(前回の記事の続き)

 この本は読んだことがないのだけれど、女子高校生コンクリート詰め殺人事件についてのルポは昔読んだことがある。うちの父親が猟奇犯罪のノンフィクションを多数蔵書していて、子供だったぼくは書斎には入るなと言われていたものの、そこは子供だから父親がいない間にこっそり入り込んではそういったたぐいの本を読み漁っていた。だから宮崎勤もエド・ゲインもチャールズ・マンソンもアンドレイ・チカチーロも佐川一政もとりあえず知っているが、そういった数々の超有名犯罪者なんかよりも遙かにこの事件は質が悪く救いがたい。

 ぼくがこの事件について読んだのはずいぶん前だからほとんど内容は覚えていないけど、それでも座り込んで読みふけっていた父の書斎の床のひんやりした感触と、彼らが女子高生に対して行った暴行の数々は今でもけっこう覚えている。集団レイプをし、殴る蹴るを繰り返す。泣けばまた殴り、喉が渇いたと言えば牛乳1リットルをいっきのみさせてまた殴る。2キロもある鉄球を腹に落とす。ライターで足をあぶり火傷を化膿させる。自慰を強要しオロナミンCのビンを陰部に挿入させる。家には両親がいて一部始終を知っているはずなのに両親は無視を決め込み、被害者が死ぬと少年たちは死体をドラム缶にコンクリートで詰めて処分する。

 こんな奴らが(主犯一人以外)たかだか10年もしないで社会に復帰していること自体がぼくには到底信じられない。そのうちひとりは刑期が長すぎると控訴し(もちろん理由になっていないとして棄却された)、さらに一人は(Bと呼ばれた)出所後さっそく犯罪を犯している。はっきり言わせてもらうが、死んで貰いたい。死刑にして全然構わないと思う。

 むろん、社会の問題、家庭の問題、学校の問題、それぞれあるだろう。そういったことは議論され改善されてゆくべきものであることは間違いない。しかしだからといってそういった問題に責任を転嫁するべきではないとぼくは思う。結局現実には被害者がいて加害者がいるのだ。その加害者が(被害者がそうであるように)たまたま加害者という位置に置かれたに過ぎず、あるいは被害者と加害者の位置が置換可能なのであったとしてもそんなことは関係がない。問われるべきなのは彼らが自分たちの行為を知っているかではなく、その行為それ自体だ。殺人事件に限って言わせてもらうけど、加害者の心情なんて斟酌する必要はないと思う。少なくとも被害者の心情はひとかけらも斟酌されなかったのだ。こういった少年犯罪の「原因」探しが陥りがちなのは、そこで被害者への視点がほとんど欠けてしまっているということである。しかし現に明かな被害が出てそこで人の命が損なわれている以上、例え加害者を厳罰に処することでよりいっそう何かを損ない取り返しのつかない自体に陥らせるのだとしても、やはり厳罰に処することでしか贖えないことというものはある。刑罰というのは更生を促すためにあるのではなくて、社会的制裁なのだ。

 ちなみにいじめについてだけど、いじめには学校文化が大きく関与しているということについてはその通りだと思うが、だからと言って、大人たちが魅力的な何かを体現したとしてもいじめは無くならないだろうと思う。よく言われることだけど、別にいじめは学校文化特有のものではないし、人間社会のみに現われるものでもない。社会的な動物は必ずいじめを行っている。学校が変わることでいじめの質は変わるかもしれないけど、どちらにせよいじめというのは陰湿なものだし、行っている当人が天真爛漫である点でもさほど変わらないのではないだろうか。いじめは必要に迫られてするとは限らないし、あるいは快楽として行われるとも限らないのではないかとぼくは感じる。(A.I.)
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2009年12月14日

藤井誠二著『17歳の殺人者』を巡って(その1)

(この記事は2006年1月23日に書かれました)

 女子高校生コンクリート詰め殺人事件(1989年)、長野・宮田稔之君殺人事件(1994年)、大阪・武孝和君殺人事件(1996年)、佐賀バスジャック殺人事件(2000年)という四つの少年犯罪を扱ったルポルタージュ。この本の中で一番ページ数が割かれているのは、女子高校生コンクリート詰め殺人事件である(全体の三分の二くらい)。あとの事件については、短く概略を示す程度である。

 この本の著者の藤井誠二は、面白い経歴の持ち主である。巻末の「著者略歴」には、こうある。「高校在学中に「愛知の管理主義教育」を告発する社会運動に参加。その記録を卒業と同時に出版し、地元で大きな反響を呼ぶ」。つまるところ、藤井誠二は、学校というものが大嫌いなのだろう。

 この学校への嫌悪感が、自分の主観を極力抑えているはずのルポルタージュの文章にも、はっきりと滲み出ている。それは、学校そのものに対する嫌悪感というよりも、学校文化に対する嫌悪感と言ったほうが正確だろう。少年時代が学校を中心にして動くこと、学校的な価値観が何よりも優先すること。そうしたことに藤井は反発を持っているように思える。

 その点で、藤井の少年犯罪に対するまなざしは、どちらかと言えば、加害者のほうに向けられている。つまり、なぜ、加害者の少年たちのような人たちが生まれてきたのか、ということの背後に、学校文化というものを見出そうとしているのである(はっきりそのように言うことは決してないが)。

 女子高校生コンクリート詰め殺人事件のあらましを読めば、おそらく、誰もが理解するだろうが、そこにあるのは、学校特有の陰湿な雰囲気、つまり、いじめの雰囲気である。

 いじめにおいて重要なのは、いじめっ子といじめられっ子の二項対立ではないだろう。極端なことを言えば、いじめっ子など存在しない、ということが言えるかも知れない。ただ単に、いじめられっ子だけが存在し、そのように、いじめられっ子を生み出すような陰湿な雰囲気だけがあるのだ。

 コンクリート詰め殺人事件において、この事件を主導したのは、Aという人物だとされる。しかし、おそらく、Aは、自分のやったことの重大さなど、まったく、意識できていなかったことだろう。自分が人を殺したということすら自覚できていないかも知れない。これは、Aが残忍な人物だからではなく、Aをそのような行為に駆り立てさせた陰湿な雰囲気がそこにあったからである(雰囲気で人を殺したということ)。

 この点で、Aの罪とは、その無知にあったと言えるだろう。彼は、自分が、どのような状況において、何をしたのか、ということに無知だったのである。彼は、知ろうと思えば知ることができたことに、あえて目をつぶっていた。その結果が、殺人事件にまでなってしまったわけである。

 この本の中で紹介されている四つの事件に共通しているのは、どの犯罪も、加害者と被害者との間に偶然的な関係しかないことだ。別に、加害者は、その被害者を殺す必然性などまったくなかった。別の人を殺しても良かったし、別に殺さなくても良かった。こうした投げやりな感じがどの事件にも見出せるのである。

 それゆえ、これらの事件は、偶然、殺人にまで行き着いてしまった事件である。あたかも過失の如くに、人を殺してしまったわけである。その点で、これらの事件のどれもが、「子供」の犯罪だと言わざるをえない。人を殺す覚悟もなく(その結果を引き受ける覚悟もなく)人を殺しているのである。

 これらの事件が提起している問題とは、子供の世界に大人が介入していくことの困難さだろう。学校文化に思いを馳せてみれば、そこに見出すことができるのは単なる欺瞞だけである。いじめというのは常に陰で行なわれるものであり、この陰というのは、欺瞞によって生じる陰だと言える。

 学校内における登場人物とは、大人を抜かせば、優等生と劣等生だけが存在しているわけではない(そのように綺麗に二分されるわけではない)。教師の存在とは、ひとつの灯台のようなものであり、その光に当てられた生徒は、みな、優等生の振りをする。積極的に優等生を振る舞うことは、みんなから倦厭されるので、みんな一緒に優等生を振る舞う必要がある(場合によっては、みんな一緒に、劣等生を振る舞うこともあるだろう)。

 かくして、生徒の内に、奇妙な二重性が生じるわけである。表の顔と裏の顔という言い方をすれば、至極単純であるが、事態はもっと複雑だろう。表の顔が偽の顔であり、裏の顔が本当の顔であるわけではない。両方ともが偽の顔であり、偽の顔でもって、人はいじめをするのである。

 つまるところ、この本に登場する何人かの人たちは、偽の顔で人を殺してしまったわけだ。こうした子供たちを厳罰に処すというのは、やはり、何か間違っているような気がする。彼らに必要なことは、自分たちの無知を知ることだろう。加えて、もっと考えるべきなのは、いかに、子供たちの間に大人たちが介入するかということである。ある意味で、子供たちは、大人たちがやってくることを待望している。いじめなど、やらないで済むのであれば、やりたくないと思っていることだろう。いじめで得られる卑猥な快楽よりももっと魅力的な何かを大人たちが体現していれば、いじめをする必要などなくなるのではないか?(SIZ)
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2009年12月12日

アフター・カーニバル深夜便(第三十一回)〜手塚治虫の『火の鳥 宇宙編』を読む〜

 手塚治虫生誕八十周年便乗企画。何かマンガ作品を取り上げてみたいと思って、手塚治虫の『火の鳥』を読むことにしました。
 なぜ「宇宙編」なのかと言えば、A.I.さんがこの作品にトラウマ体験があるため。僕もこの宇宙編には嫌な思い出があります。
 マンガを読む企画、手塚治虫を読む企画は、今後も何かやってみたいと思っています。
 ちなみに、『火の鳥 宇宙編』のアニメの監督は川尻善昭でした。(SIZ)

2009年12月11日

unknown(サイモン・ブランド)

(この記事は2007年7月16日に書かれました)

(ストーリー)
ある男が目を覚ますとそこは外から鍵のかけられた廃倉庫。周りには自分も含めて5人の男がいるが、誰もが記憶を失っている。どうやら5人のうち3人は誘拐犯で2人はその人質らしいことが判明するが、誰が誘拐犯で誰が人質なのかは本人にも分からない。あと数時間で誘拐犯の仲間が戻ってきてしまうが…。


 シチュエーション・スリラーというのだろうか。

 誰が敵で誰が味方なのか分からないというタイプの作品は結構あるが、そこから一歩進めて、自分自身さえも誘拐犯なのか人質なのか分からない、自分が悪者なのか善人なのか分からないという設定にしたあたりは良いと思う。が、そのことにあんまりこだわりすぎると、結局みんなで「おまえは信用できん」「おまえこそ信用できん」「いや、俺は俺が一番信用できん」というようなやりとりだけで2時間終わってしまうことになるので、そこら辺は適当に切り上げてストーリーの展開を優先させている。この「考えてもわかんねえことは考えてもわかんねえんだし、それよか先に進もうぜ」という脳天気さは嫌いじゃない。建設的だし、考えていてもどうしようもないことに拘泥しすぎて自滅するような話よりも好感が持てる。

 ただし、そのせいでせっかくの状況物なのに、状況物としての特性は放棄されている。謎は誰かが発見したり考えたりすることで解決されるわけではなく、記憶喪失によって忘れていたことを、手っ取り早くみんなが「思い出す」ことで解かれてゆくし、そういう安直な解決法が採られているので、伏線もないまますごい大どんでん返しを「思い出し」たりする。

 というわけで、テンポを重視して物語を犠牲にしたという好例。謎解きものでは致命的な傷だけど、とりあえず退屈はしないので、細かいことに拘泥しなければ見ていられる。(A.I.)
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2009年12月10日

CHAOS カオス(トニー・ジグリオ)

(この記事は2007年8月3日に書かれました)

(ストーリー)
銀行強盗犯を追う。


 強盗が銀行に立てこもって、無理な突入をしてみたら大爆発が起きて、銀行強盗は爆破に紛れて逃げたけど、盗まれたものはひとつもない。いったい犯人の目的は何だと思っていると、そこにはカオス理論がかかわっているという。

 テンポが良いので、見ているときはあまり気にならないけど、あとで思い出すとかなり適当なプロットである。いちいち指摘するのは馬鹿馬鹿しいけど、思いつくことをいくつか並べてみよう。

1 まず強盗に対する対処が、銀行とは思えないくらいにずさんである。
2 いくら犯人側の要求とは言え、停職中の刑事を復帰させるのみならず、現場の指揮(SWATの指揮も含め)まで任せる警察などあり得るのだろうか。
3 銀行内の状況が分からないまま、SWATが突入するなどあり得ない。
4 突入中止の命令が出ていながら、命令を無視して突入するSWATはもっとあり得ないだろう。
5 人質を窓際にロープでぶら下げる犯人の意図が分からない。
6 他にも色々あるけど、カオス理論の説明がおかしいのは致命的だと思う。てゆうかカオス理論全然関係なかったし。

 ただし、劇中起こるどんでん返しの数々には一応伏線が張られていて、伏線自体がチープであるという傷はあるものの、唐突ではない。その点では結構見られる。(A.I.)



 だいぶ前に見たので良く覚えてないが、とにかくジェイソン・ステイサムのファンなのでそれ自体は楽しめた気がする。(R)
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2009年12月08日

アフター・カーニバル深夜便(第三十回)〜美嘉の『恋空』を読む〜

 著名なケータイ小説をベタに読んで評価するという真面目な企画。
 ちなみに内容的なネタバレありです。(SIZ)


2009年12月06日

最近気になるマンガ

最近、気になっているマンガをアンケートとして挙げて貰いました。個人的には、そういや最近マンガ読んでねえからなあと挙げるのが大変でした。


(SIZ)
1『バクマン。』大場つぐみ 小畑健
2『GANTZ』奥浩哉
3『銃夢Last Order』木城ゆきと

3そろそろ格闘マンガをやめてほしい。天下一武闘会が長すぎる。
2もういい加減に終わらせてほしい。まとめに入ってほしい。
1このコンビには期待している。次の作品にも期待。



(R)
1『光る風』山上たつひこ
2『ストロボライト』青山景
3『モテキ』久保ミツロウ
4『レッド』山本直樹
5『ちはやふる』末次由紀

5盗作問題からの復帰作にしては実力があると思う。
4時代空間が肌で感じられる。
3身につまされる。
2出てくる女の子が初恋の子を思い出させる。やたらノスタルジックな女の子が多い。
1びっくりした。



(A.I.)
1『アンダーザローズ』船戸明里
2『賭博覇王伝 零』福本伸行
3『自殺島』森恒二

そもそも最近マンガを読んでいない。ので読んでないマンガも入っている。
3『自殺島』は読んだことない。が、『ホーリーランド』は面白かったので期待age。
2福本はすばらしい。この人の頭んなかにはアイディアが詰まりまくっている。
1基本的にものすごいことが起こるわけでないが、読ませる。

2009年12月04日

007 カジノ・ロワイヤル(マーティン・キャンベル)

(この記事は2007年8月3日に書かれました)

(ストーリー)
ジェームズ・ボンドが悪いやつを懲らしめる。


 意外、と言っては悪いかもしれないが、意外なくらい面白かったです。

 まず、話の規模が小さいのが良い。ぼくは007シリーズはほとんど見ていないので確たることは言えないけど、今回の敵は結構みみっちく金を稼ごうとしている小悪党で、世界征服を企んだり核兵器をテロ組織に売りつけようとしたりといった大それたことを考えないのが偉い。MI6も相手が小さくなったせいか資金不足らしいし、新兵器も出てこなかった。Mも「冷戦のころは良かった」などとぼやいているし、派手派手しいスパイ活動をする時代ではなくなったということだろうか。

 そのせいか、ボンドのやることもスマートさに欠けていて、何となく体力としつこさで勝負しているように見えるし、ピアーズ・ブロスナンがボンドを演じていたころよりもだいぶ人間くさくなっている。犯人を追って血だらけになるし、女に惚れ込んで引退を考えるしで、色々突き抜けたことをやっていても、自分の仕事に一生懸命な普通の親父なのである。そして普通の親父のくせに職業がスパイだから絶対に自分の感情を表情に出さないのである。泣きたいときにも涼しく笑って「ボンド。ジェームズ・ボンド」なのである。

 いや、かっこよかったです。(A.I.)



 一作目をリメイクということで、ボンドもまだまだあらあらしく、迷いやミスのあるところが新鮮だ。

 しかしいまいちポーカー勝負がカタルシス不足だった気もする。

 リメイク元は駄作のようだが、キャストが豪華なのでちょっと見てみたい。(R)
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2009年12月03日

大日本人(松本人志)

(この記事は2007年6月12日に書かれました)

(ストーリー)
巨大化して、代々巨大生物「獣」と戦ってきた「大日本人」の六代目である大佐藤。だが、人気は低迷し、元妻と娘は離れていく。その傍ら、四代目である祖父の介護に明け暮れる日々である。


 映画とは呼べないかもしれない。

 とりたてて優れた映像効果、演出は見られないし、全体的な印象を述べるなら、テレビドラマの手法で撮られており、そもそもこの作品は映画の文法に沿って作られてはいないのではないか。何をもって映画と呼ぶのかは不明確だが、たとえば同じお笑い芸人である北野武の作品と比べると、映画としての出来は明らかに劣ると言わざるをえない。映画として成立しているのかどうかも疑わしい。物語は、テレビ局のスタッフによるインタヴュー形式(一人称小説のようなもの)で進んでいくが、インタヴュアーが知り得ないようなことまで平気で挿入していて、その辺りからしてすでに映画としての手法は破綻しているように思えるのだ。

 かといって、これによってお笑い芸人としての松本人志の名誉が傷つけられたとは、露ほども思えない。先ほど、テレビドラマと言ったが、これはテレビドラマではなく、壮大なコントであろう。

 松本人志は、あくまでお笑いに立脚している。その軸とは、最後のほうで、特撮から実写に切り替わる場面そのものである。あの「ごっつええ感じ」を思わせるチープな着ぐるみの実写がこの作品の核なのであり、それが、それまでのCGを多用した特撮映像全体の物々しさを、逆に笑い飛ばしているのである。

 当然、最後までCGで撮ろうと思えば撮れただろう。しかし松本の根幹をなすものは、あくまであのチープで胡散臭い着ぐるみコントの世界、奇妙で不可解な、笑いの世界である。だから、あの実写のシーンによる終幕は松本自身の信念を示している。

 これは映画ではない。これは、松本が、映画であれ何であれ、どんな場所に置かれても自分は一人のお笑い芸人でしかないという信念を、自分のあり方を貫いた結果、生み出された何物かである。以上。

……としたいところだが、これだけでは僕がこの作品を面白いと感じたかどうかが分からないだろう。映画か否かという判断を保留すれば、僕自身は十分に楽しかった。そもそも大佐藤の喋る微妙な標準語からして可笑しい。UAとのスポンサーをめぐる言い争いや、娘の反応、「獣」たちの造形も面白い。笑いの観点からすれば、ほとんど全編笑える。しかもその笑いは、大佐藤の抱える屈託や孤独と切っても切り離せない状況から生み出されている。こみ上げるほどの笑い、そしてそれと混ざり合った松本人志という人間の人柄。『大日本人』とは、まさにそれそのものなのである。

 結局、僕は松本人志がますます好きになった。(イワン)
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2009年12月02日

鉄コン筋クリート(マイケル・アリアス)

(この記事は2007年7月15日に書かれました)

(ストーリー)
やくざとか警察とかガキとかが出てきて、俺の町だと主張しあう。


 松本大洋原作のアニメ。

 アニメーションとしては相当ハイレベルだと思う。

 ぼく自身は松本大洋には思い入れがないせいか、特に面白い内容だとは思わない。が、シロ・クロ・ネズミ・蛇などの人物造形、テーマパークじみた宝町、それに結構入り乱れる人間関係まで含めて手際よくかつ微細にわたって再現されているし、背景の描き込み、色彩の美しさ、アニメーションならではのアクションなどは、原作を遙かに凌駕する出来だと思う。物語に入り込めないとしても、あの絵がぐいんぐいん動いているのを眺めているだけでも、結構しあわせになれるくらいにはクオリティは高い。監督がすごいのか、それともスタジオ4℃がすごいのか。

 そして何より蒼井優が素晴らしい。(A.I.)
posted by SIZ at 13:41| Comment(0) | TrackBack(0) | アニメ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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