2009年10月31日

アフター・カーニバル深夜便(第二十五回)〜supercellと今日の音楽環境・前半〜

 今回は特別ゲスト、クヌギさんを招いての放送。
 テーマは音楽。特にニコニコ動画から出てきたsupercellについて話をしています。
 前半のトピックは、現在CDを買っているかどうか、いつまで買っていたか、初めて買ったCDは何か、など。
 その他、レコード、テープ、CD、MP3などのメディアの変遷の話もしています。(SIZ)

(参考)
クヌギさんのブログ
http://30per.cocolog-nifty.com/blog/

オリコンシングルチャート、20位が史上初の3000枚割れ。59位からは1000枚未満の異常事態
http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/1313302.html


2009年10月29日

今日の朝日新聞

(この記事は2005年7月3日に書かれました)

 高校教師となってとりあえず3ヶ月が過ぎたわけですが、とにかくいやというほど底辺校の実態を見せつけられているわけです。授業中寝る、喋る、携帯をいじくる、マンガを読む、ヘッドフォンで音楽を聴くあたりはまだマシで、音楽を流す(教室中に聞える音量で)、それにあわせて歌う、弁当を食う(しかもちゃんと断る。「先生、腹減ったから弁当食って良いですか?」)、出歩く、別のクラスの奴が遊びに来る(教壇に上って出席を取りたがる)などなど。他の先生方も半分以上諦め気味ですし、こっちもひとりでは手に負えないので疲労困憊します。しかし救いなのはそれくらいどうしようもなくても悪い奴がいないことで、「ダメだろ」と注意すれば「ゴメン」と素直ですし、弁当食っているやつも注意すると、ウィンナーをくれようとしたりと、要するに猛烈にバカではあるが田舎者で素直なのでまあ可愛いです。家庭科の調理実習で作ったお菓子を持ってきてくれる女子もいます。しかも微妙にヤンキーっぽい子がくれたりして、ありがとうとか礼を言うと照れるんですよ。可愛いですね。髪切ったときに「似合ってるね」とか言うと「え〜、そうかな」とか言いながらまんざらでもない様子で。いや、最高ですね。

 まあ、そんなこんなで授業は大変ですが、授業がなければ楽しい仕事です(しかしやはり授業が基本)。うちの妹は東京のほうに近い中学校に勤めているのですが、朝「おはよう」と生徒に挨拶すると「死ね」と返ってくるという話なので、遙かにましです。

 それにしても、勉強に関してはもう本当に致命的に出来ないわけです。就職が決まったときに世話になった大学の先生から「とにかく少しでもいいから何か生徒に知識を与えるようにしなさい。自分たちに何かを授けようとしてくれているというのが分かれば、生徒は聞いてくれる」と言われ、なるほどとその時は思ったわけですが、実際にはそんなに甘っちょろいものではありませんでした。そもそもヘッドフォンして音楽聞いているのだから、物理的に考えてこちらの話が耳に届いているわけもないのです。むろん教科書・ノートを開いている生徒は半分程度ですし、教科書は持っているほうが少ない。授業中に同じことを5回は繰り返して言わなければならないですし(五秒前に答えたのに同じ質問がとぶ)、ノートに書いてあるのに、そしてその箇所を見ているのにもかかわらず答えが分からない生徒までいます。そこそこできる生徒もいるのですが、下の方はおそらく小学6年生くらいの学力しかなく、「自ら」も読めないのでとりあえず漢字が出てきたらほぼすべて振り仮名を振らなければならない始末。少年ジャンプの編集じゃあるまいし、どうにかしてほしいものです。

 で、今日朝日新聞の朝刊を見ていたら、百マス計算の発案者の話が。

 ぼくは前々から百マス計算にはちょっと期待をしていました。うちの生徒くらい学力がひくいとなると、もう手のつけようがないんですね。一年のときも二年のときも古文の文法をやっているし、漢文の返り点の読み方をやっているはずなのに何も憶えていない。だから三年になってまた同じことを繰り返すわけで、それならいっそ基礎的なことをとにかく反復させたほうがいいんじゃないかと思うわけです。このあいだ中学2年程度の数学の小テストを実施したところ(自習監督で)、始まって数分でもう諦めて寝ている生徒がいるわけです。分からないのはいいです。しかし分かる分からないの前にとりあえず考えてみようという意志がない。ちょっと見て、分からないからもういいや、なわけです。

 その点であの百マス計算はまず分からないということはないくらい単純な計算ですし、有る程度の成果は目に見えてでるわけですし、応用力がつくかどうかはともかく基礎は出来る。実際、ぼく自身の実感から言っても単純な計算や記憶を試す問題に対してはバカな生徒もかなりの意欲を見せます(できるからやる。考えなくても済むし)。多くの先生は「簡単な問題をたくさん出す」のが彼らをおとなしくさせるコツだと考えています。一方で「頭の体操」のような面白いけど考えることを要するというたぐいの問題は彼らには無理です。一度そういう数学の問題を自習の際に出した先生がいましたが、「教科書にもノートにも載ってないよ」と言ってほぼ全ての生徒は諦めていました。授業終了時にプリントを回収したら全ての生徒が全ての問題を白紙で提出。まあしょうがないです。

 だからバカができるのは単純作業なわけです。ぼくは要するに計算や記憶などを単純作業化するのがバカを鍛える近道だと思うので、あの百マス計算はけっこう使えるのではないかと常々考えているわけです。

 それが、朝日の記事で。

ブームになったのは、紙と鉛筆さえあればできる単純さ、数字で結果が示される明解さ、有名大学への合格につながるかのような宣伝の巧みさが、そろったからだろう。(中略)立ち止まって考えないまま、ゲームをクリアするかのように、見える成果を追い求める。そこに、いまの社会が透けて見える。

 最初から否定的なスタンスで書いているのはまあ、良いとしても。しかしブームの原因を実際にあがっている成果を無視して、「宣伝の巧みさ」や「明解さ」のみに還元するのはずいぶん不公平ではないかと。ついでにこの場合「明解」ではなく「明快」が正しいのではないかと。そして後半、「立ち止まって考えないまま、ゲームをクリアするかのように、見える成果を追い求める」。ここでもう怒り心頭ですよ。

 ざけんなバカヤロウが。

 立ち止まる?

 こっちは生徒を教室から出さないようにすることだけでも大変な苦労してるんだ。テメエが止まらせてみろ。

 考える?

 「フリーターの是非」という題で作文しろ。と言ったら「フリーターは良くないと思います」とだけしか書けなかった連中に何を考えさせるんだ? 立ち止まったらその瞬間に全ての機能が停止するような人間だっているんだ。

 ゲームをクリアするかのように?

 実際に授業中ゲームしてんぜ、奴らは。ばっちりクリアしてたぜ、奴ら。「おい、授業中だぞ」って言ったら「あ〜、先生のせいで死んじゃったじゃんか」って怒られたぜ。「かのように」で済めば御の字だと思うぜ。

 見える成果を追い求める?

 見えない成果ってなんだ? そもそも成果を求めているのはこちらではない。生徒自身がその作業に見返りを求めているのだ。進学や就職に学校の成績が関わらなかったらそれこそ古典なぞ誰がやるものか。行きたい大学や専門学校、なりたい職業があるからこそ奴らは何とか勉強できるのであって、そうでなければ勉強なぞするはずもない。

 「いまの社会」を「立ち止まって考えないまま、ゲームをクリアするかのように、見える成果を追い求める」と単純化していることから考えても到底この記者が「いまの社会」を正しく捉えているとは思えないし、大して知性のあるやつだとも思えないが、とにかくちょっとばかり言っておきたい。

 「自分で考えろ」「自分の意見を持て」という言葉を簡単に吐ける奴ほど「自分では考えていないし」「それは自分の意見ではない」ことが多い。しかしそれはよいとしても何より気をつけてほしいのは「自分の意見を述べよ」とか「自分で考えなさい」という言葉は、ある人にとってはあまりに残酷すぎる「命令」と化すということだ。

 こうやってぼくが書いているように、意見を述べるとか考えるということは誰にでもできる作業ではない。それを誰でもできるかのようなフリをして、人に求めるのは酷なことだ。イカンというわけではないが、自分がある種の暴力に荷担している可能性を吟味できないようなやつに教育を語って欲しくない。(A.I.)
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2009年10月28日

張形 江戸をんなの性

(この記事は2005年7月3日に書かれました)

 昨日、本屋に行って田中優子の『張形 江戸をんなの性』というやつをちょっと立ち読みしました。張形というのはまあおそらく皆様承知かと思いますが、要するに江戸時代の女性用オナニー器具ですね。バイブとかローターみたいなもんで、春画によく描かれているやつです。ぼくが春画をはじめて見たのは中学生のころだったのですが、当時ウブだったぼくとしては「江戸時代って過激だな〜」と少なからずショックを受けつつも大変羨ましい思いをしたものです。で、まあこの田中優子は近世町人文化研究者のなかでも江戸時代賛美派として知られる人らしく、大学院で後輩だった小谷野敦なんかはかなり強い批判を浴びせているわけですが、この本も要は「江戸時代の女は性に対して奔放で、自由に快楽を追求していた」というようないかにもフェミニストが喜びそうなことを書いているわけです。

 何やら如何にもっていう感じの内容で正直に言ってこういうのにはウンザリするわけですが、それよりも思うのは田中優子自身は「江戸をんな」にならってバイブやローターを使ってオナニーするのかということ。むろんしていてもしていなくても構いませんが(ただし、していたらファンになる)、せっかくだからそこんとこを明らかにしてほしいと思いました。江戸時代の女のことはいいからお前のことが知りたいと。(A.I.)
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2009年10月27日

カーニヴァル化する社会について

(この記事は2005年7月3日に書かれました)

 掲示板のほうにSIZさんが書いていた鈴木謙介インタビューを読みました。76年生れということで同世代の論者だけに、かなり問題意識や状況の捉え方が似ているなあと。しかもかなり正確に捉えている感じがあって、やっぱりこういうことを考えている人がいるんだなあと感心しました。これはかなり注目株だと思います。

 にしても『オニババ化するおんなたち』とか『オレ様化する子どもたち』とか『動物化するポストモダン』とか『カーニヴァル化する社会』とかいまいち題名が格好悪い。(A.I.)
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2009年10月26日

アフター・カーニバル深夜便(第二十四回)〜中島敦の「山月記」を読む・後半〜

 後半は、小森陽一の新書を引き合いに出しながら、杜甫や李白などの唐時代の中国の詩人と李徴とを比べたりしています。(SIZ)

2009年10月25日

教科書に載っている好きな(印象に残っている)作品ベスト3

 深夜便の教科書に載ってる教材を読むシリーズにあわせて、各面子に好きな国語教材を挙げてもらいました(小説・詩など限定ですが)。コメントも添えて。

(イワン)
3 新美南吉『ごんぎつね』
2 岩瀬成子『緑のカイ』
1 遠藤周作『札の辻』
 3は重要な単元で長く扱ったためタイクツだった。2は難しくてよく分からない。たぶん女性の恐れみたいなものを描いているが、これほど難しいものを教科書に載せるのかと思った。1はうちひしがれた感じが全編を漂っていて、暗い無力感とかがすばらしい。


(A.I.)
3 杉みき子『あの坂をのぼれば』
2 大塚勇三『スーホの白い馬』
1 葉山嘉樹『セメント樽の中の手紙』
 3、とても印象に残っている。最後に海が見えたのか見えなかったのか覚えていないのだが。2、泣いた。全力で泣いた。1、プロ文なので本来切なく悲しい話のはずなのだが、授業中、授業とは無関係のこの教材を読んでいて笑いをこらえるのに必死だった。「恋人はセメントになりました」とかで爆笑しかけた。

(R)
3 三田誠広『いちご同盟』
2 あまんきみこ『ちいちゃんのかげおくり』
1 山本周五郎『内蔵允留守』
 3は直美がおっぱい揉ませるところが衝撃的だった。2は「かげおくり」は晴れた日にしかできないが、晴れた日にやると何故か悲しくなるのがすばらしい。1かっこいい。百姓はつらいぞ。がすばらしい。ヨーダとルーク。

(SIZ)
3 ヘルマン・ヘッセ『少年の日の思い出』
2 安部公房『赤い繭』
1 宮澤賢治『やまなし』
 3は嫌な思いをした、苦い体験。2はこんなわけわからない話が教科書に載るのかと衝撃だったから。1は純粋に好きだから。

2009年10月24日

アフター・カーニバル深夜便(第二十四回)〜中島敦の「山月記」を読む・前半〜

 教科書に載っている文学作品を読むシリーズの第五弾。
 前半は、僕、A.I.氏、R氏の三人でやっていて、最後のほうでイワン氏が突然乱入します。
 トピックとしては、李徴の葛藤にみんな共感したということ、虎になることの格好良さ、などについて話をしています。(SIZ)

2009年10月23日

レディ・イン・ザ・ウォーター(M・ナイト・シャマラン)

(この記事は2007年6月11日に書かれました)

(ストーリー)
選ばれた者に会いにアパートにやって来た水の精を故郷に帰すために管理人が奔走する。


 まず、主人公のクリーブランドを軸とする物語がある。彼は元医者だが、強盗に押し入られて家族を失い、今は孤独にアパートの管理人をしている。希望を失い、人生を降りてしまっているわけだ。そんな彼が、水の精、ストーリーに協力するなかで、もう一度何者かになることを選び取る、まさに再び自分の「ストーリー」を見出すという物語だ。「治癒者」という肩書きは象徴的なものであり、ここでは、もっと広い意味で、もう一度自分の人生を自分で引き受けようということで受け止めていいだろう。シャマランの作品では、一度挫折して(家族関係に起因するものが多いだろう)自分の人生を主体的に選び取れなくなっている主人公がいかにして立ち上がるかというテーマが含まれており、そういった流れから見ても、マンネリにならず、素直にいいと思った。

 次に、シャマラン自身の物語であるという点も、やはり大きいのだろう。なぜならシャマランの役どころは、ストーリーの「器」だからだ。シャマラン(役名は忘れた)は、自分の本が後の世に大きな影響を与え、まさにそのことによって死んでしまうということを告げられながらも、本を世に出す決意を固めている。ここでも、シャマランは何らかの役割を(放棄することができるにも関わらず)積極的に選び取っているように見える。「ストーリー」が、人の意志によってどのようにでも変容する水の「精」であり、プールの形がハート型であることも、意図されたものなのだろう。

 他の登場人物達、「ギルド」「シンボリスト」「ガーディアン」にも共通して言えるが、作品全体から、先験的にある役割を担っているのではなくて、何者でもない状態から、自らの意志で役割と責任を担っていこうという流れを感じた。

 だがシャマランの作品世界において、その先に何があるのかはまだ分からないわけで、これは過渡期にある作品ではないかと思った。(イワン)

(追記)
「役割」ということで言えば、『アンブレイカブル』では、自分で選び取る役割ではなく、他者に望まれる役割を担い続けさせられる中年男の悲劇が主として描かれていたように思う。佐藤哲也がこの作品を「ヒーローものの第1話」と評するのは、どういう意味か分からないが、ここでのブルース・ウィリスにとってはヒーローでさえも他人に望まれた役割でしかなく、彼にとっては否定的な肩書きである側面が強いだろう。というか、ガラス男が狂人である時点で、ブルース・ウィリス=ヒーロー/ガラス男=悪役という因果も崩れており、だからこそ、結局は最後まで他者の望む役割を演じさせられていたという悲劇が際立つのだろう。


 人によると思うけど、この映画はかなり好きです。(A.I.)
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2009年10月22日

PROMISE 無極(チェン・カイコー)

(この記事は2006年8月6日に書かれました)

(ストーリー)
真実の愛がどうとか……


 チェン・カイコーは「始皇帝暗殺」を見て、これだけドラマ性のある題材をよくもここまで詰まらないものに仕上げてくれたと怒りを感じ、それ以来見る気がしなかったのだけど、結果から言うとけっこう面白かった。

 中国の武侠映画は、どういうわけか「愛」に拘るところがあって、最近の「HERO」とか「LOVERS」とか「グリーン・デスティニー」とか、あるいは昔の「チャイニーズ・ゴーストストーリー」とか「スウォーズマン 女神伝説の章」(これは傑作である。一度は見て欲しい作品)とか全部そういう映画である(とは言えその大部分がチン・シウトンの監督作品だけど)。本作は明確にその方向を踏襲していて、だからストーリーもCGも役者も衣装もアクションも画面もすべてアジア的な美を再現することのみに奉仕している。その潔さは悪くないし、香港映画ファンなら間違いなく楽しめる(これは中国映画だけど)。やっぱりこういう映画が好きです。(A.I.)
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2009年10月21日

轟轟戦隊ボウケンジャー THE MOVIE 最強のプレシャス/劇場版 仮面ライダーカブト GOD SPEED LOVE(諸田敏/石田秀範)

(この記事は2006年8月6日に書かれました)

(ストーリー)
明石のオヤジが出てくる。あと、ライダーが宇宙で戦う。


『ボウケンジャー』は30分くらいなので、テレビ版が1話余分に観られるという程度のもの。しかし短い中にしっかりと明石とその父のあいだの葛藤と和解を描き込んでいる。激しいアクションが序盤にしか見られないのは残念だが、全体を通しての爽快感はなかなかだった。

 それにしても『ボウケンジャー』の魅力はそれぞれの登場人物の造形の厚みにあると思う。彼らはそれぞれ、過去へのわだかまりを抱えつつボウケンジャーとして活躍している。明石は仲間を見殺しにしてしまっているし、真墨も生い立ちとトレジャーハンターとしての過去にコンプレックスを抱えている。映士については言うまでもないが、蒼太は普段ナンパなポーズでスパイとしての経歴を覆っているので、たまに昔の傷口(犯した罪)が開くと、やるせない気持ちになる。

 このようにヒーローものの登場人物で加害者性をもった人物というのはあまり見かけたことがないが、『ボウケンジャー』に限って言えば、自らの過ちがもとでけっして割り切れないわだかまりを抱えてしまった登場人物たちが、それでも新たな自らの生き方を探ろうとしているところに大変好感がもてる。

 そしてなによりいいのは、そういう登場人物たちの葛藤を説明的になりすぎずに伝える見せ方であろう。

 そして『カブト』は……あまりの高速で動くと過去に戻れるというのは、いったいどういう理屈なのだろうか。さすがにあれはどうかと思った。あと、ネオ・ゼクトは四、五名のクラスメイトがだべっているようにしか見えなかった。(イワン)
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2009年10月20日

ジャーヘッド(サム・メンデス)

(この記事は2006年8月6日に書かれました)

(ストーリー)
湾岸戦争に行く。


 海兵隊に入隊し、ほどなくして湾岸戦争が起きる。「やった!戦争だ!殺しまくるぜ!サイコー!」って感じで意気揚々とイラクに行くが、どこに敵がいるのかという感じで常に「待機」の状態で退屈している(オナニーしまくる)。結局一発も撃つことなく戦争は終わり、引き上げてくる。

 戦争行ったけど、全然人も殺せなかったし、すごいつまんなかったです。残念です。という感じの映画。兵士達は『地獄の黙示録』を観て戦意を揚げるし(「やれ」「ぶっ殺せ」とか騒ぎながら観る)、女房から送られてきた『ディア・ハンター』のビデオには女房が隣のダンナとヤッている映像が挿入されている。女房の浮気ビデオを観て泣いている兵士の横で他の奴らは久しぶりに観られるポルノ映像に大喜びする。観ているとへこんでくる。

 どんなに優れた反戦映画も敗戦映画も、それが優れたものであればあるほど、どこかで「いいなあ、オレもこういう経験したいなあ」と観客に思われる皮肉から免れることができないが、本作はそれを逆手にとって、どこまでも「退屈」な戦争を描いている。

 戦争の中で育まれる友情も勇気も、あるいは狂気も挫折もこの映画にはない。退屈のあまりガスマスクをつけてフットボールをし、飽きたら強姦ゴッコをして遊ぶ。本人達は「イエーッ!」だのと喚声をあげて楽しそうだけど、それがよりいっそう惨めさと退屈さを強調している。

 客の観たがる戦争映画を撮らなかったという点に評価が与えられるべき映画だと感じる。(A.I.)
posted by SIZ at 20:39| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年10月19日

アフター・カーニバル深夜便(第二十三回)〜「コトリバコ」と現代の怪談・おまけ〜

 今回は、現代の怪談がテーマだったので、イワン氏とA.I氏に実際に怪談みたいな話をしてもらいました。
 ちなみに僕は何もネタがないので話はしていません。(SIZ)


2009年10月18日

アフター・カーニバル深夜便(第二十三回)〜「コトリバコ」と現代の怪談・後半その2〜

(参考)
ヒサルキの謎
http://syarecowa.moo.jp/49/394.htm
ヒサルキまとめ
http://www.geocities.co.jp/Bookend-Ohgai/8083/

アフター・カーニバル深夜便(第二十三回)〜「コトリバコ」と現代の怪談・後半その1〜

 後半は、怪談の語りの構造、物語の細部のリアリティ、ネットにおける物語の流通、などについて話をしています。(SIZ)

2009年10月17日

アフター・カーニバル深夜便(第二十三回)〜「コトリバコ」と現代の怪談・前半〜

 2ちゃんねるの「死ぬ程洒落にならない怖い話を集めてみない?」のスレに投稿された現代の怪談について語る企画。その中でも「コトリバコ」に焦点を当てて、話を進めています。
 前半は、それぞれ、どういう話が怖かったのか、どこがどうして怖いのか、などについて話をしています。(SIZ)


(参考)
死ぬ程洒落にならない怖い話を集めてみない?
http://syarecowa.moo.jp/

コトリバコ
http://syarecowa.moo.jp/99/59.html
師匠シリーズ
http://syarecowa.moo.jp/sisyou/sisyou%20menu.html

ウヅガアさん
http://syarecowa.moo.jp/132/33.html
裏S区
http://syarecowa.moo.jp/160/34.html
かんひも
http://syarecowa.moo.jp/111/26.html

切腹ショー
http://syarecowa.moo.jp/115/33.htm

2009年10月16日

合体の美学

(この記事は2005年4月18日に書かれました)

 この4月から新しく始まったアニメに『創世のアクエリオン』というのがある。『マクロス』の河森正治が監督している巨大ロボット・アニメである。このアニメでは「合体」という言葉が強調されている。巨大ロボット・アニメというジャンルでは、一時期、合体という要素が欠かせないものだったが、『アクエリオン』ではその復活を果たそうというのだろう。

 合体に関して、昔のアニメをパロディにしたようなアニメで、しばしば指摘されるのが、なぜ初めから合体して出てこないのか、という疑問である。こうした巨大ロボット・アニメでは、まず最初にいくつかのメカがバラバラに出てきて、その後でそれらのメカがひとつに合体する。最終的にひとつに合体するのであれば、なぜバラバラに出てくる必要性があるのか、という疑問である。

 『アクエリオン』はそうした疑問にちゃんと答えるような設定になっている。つまり、『アクエリオン』のメカは、どのメカを中心にして合体するかで、合体した後のロボットの能力が変化するのだ。様々なシチュエーションに対応するためには分離・合体の必要がある、というわけだ。

 巨大ロボット・アニメから合体という要素を希薄にさせたアニメは、やはり『ガンダム』だろうが、『ガンダム』においても合体シーンは何回か出てくる。『ガンダム』における合体の必然性は、他のモビルスーツと互換性があるということだろう。ガンダムのコクピット部分は戦闘機(コアファイター)に変形し、この部分はガンキャノンやガンタンクと互換性がある。しかし、残念ながら、この設定が活かされた話はほとんどなかったように思える。

 ガンダム・シリーズの最新作である『ガンダムSEEDデスティニー』においても、合体の要素が復活を果たした。しかし、難点は、合体の必然性のなさまでも、そのまま復活させてしまったところである。残念なのは、合体の醍醐味であるはずの合体シーンを、数秒で終わらせてしまっているところである。往年のロボットアニメでは、ひとつひとつのパーツがどのように組み合わさるのか、ご丁寧に1分くらいの時間をかけて披露していたものだが、『デスティニー』ではそうした演出もなく、出てきてすぐに合体してしまうのである。

 合体の発想の基盤にある考えとは、『アクエリオン』にも出てきたが、毛利元就の「三本の矢」の発想と同じものだろう。一本の矢ならばすぐに折れてしまうが、三本ならばそうではない、つまり、「三つのメカがひとつになる」とより強くなる、という単純な発想である。しかし、これは確かに、子供には受けそうな発想である。主人公たちが危機を迎えたときに、合体をすることによってパワーアップをし、目の前の危機を打開する。そうした物語の基本構造がそこにはあるのだろう。

 男の子向けのアニメでは「強さ」というものが常に問題になってきた。どうすればより強くなれるのか? 合体、変身、巨大化。こうした変化は、「強さ」を非常に分かりやすく表わしている。今日の作品では、男の向けの作品であっても、必ずしも「強さ」という要素は問題にならなくなった。そうした時代の変化は、巨大ロボット・アニメにも大きな影響を与えていることだろう。『アクエリオン』もその一端が窺える作品である。(SIZ)
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2009年10月15日

街場の中国論(内田樹)

(この記事は2007年6月14日に書かれました)

 内田樹の中国論。一応『街場のアメリカ論』につづく、街場シリーズの第2弾だとか。

 大学院のゼミで院生が発表した内容を受けて、その場の思いつきでしゃべったことに多少の修正を加えて本にしてしまったという、「いい商売だねえ……」といやみのひとつも言いたくなるくらい、やくざな出自の本である。

 内田もゼミ生も中国についてはほとんどそこらの市井の人と変わらない程度の知識しかないということで、だからはっきり言ってこんなものを本にして売りつけていること自体ほとんど暴挙と言っても良いくらいだと思う。少なくとも他のやつが同じことをしたらまず、誰も買わないだろう。なのにどういうわけかこの人の本は売れるわけで、いやぼくも買ったわけだし、実際読んでみると面白い。なんなんだろうか、これは。

 読んでいるときはかなり面白く感じているし、ついつい最後まで一気に読んでしまう。が、別に本書を読んでも特に中国について詳しくなるというわけでもなく、読み終わった直後には、もうどんなことが書かれていたか忘れてしまっているという、ハリウッドの超大作映画みたいな評論である。

 この人は多作だし、やたら色んなことを論じているし、出せばかならず当たるわけで、これはもう「思想界のスティーブン・スピルバーグ」と言っても良いんじゃないだろうか。名誉と感じるか不名誉と感じるかは知らないが。(A.I.)
posted by SIZ at 08:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 読書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年10月13日

アフター・カーニバル深夜便(第二十二回)〜村上春樹の「七番目の男」を読む・後半〜

 後半は、指導書に載っている問いを手がかりにして、「私の場合それは波だった」の「それ」とは何か、などについて話をしています。
 また、芥川龍之介の「疑惑」という小説や坂口安吾の「文学のふるさと」などについても話題にしています。(SIZ)

2009年10月12日

好きな村上春樹の短編ベスト3

 メンバーアンケート第二弾。
 「好きな村上春樹の短編ベスト3は?」です。
 アフター・カーニバルでは読書会などで村上春樹をずいぶんと読んできています。「アフター・カーニバル深夜便(第二十二回)」でも春樹の短編小説『七番目の男』をとりあげたので、好きな作品をあげてもらいました。

(R)
1、象の消滅
2、蛍
3、夜中の汽笛について、あるいは物語の効用について

コメント:理由は特にないです。ただ好きだから。出来の善し悪しはま
     た別です。
     「中国行きのスロウ・ボート」はラストが好きです。
     「蛍」は短編の方がラストの印象が鮮明です。「その小さな
     光は、いつも僕の指のほんの少し先にあった」という。


(SIZ)
1、中国行きのスロウ・ボート
2、ニューヨーク炭鉱の悲劇
3、4月のある晴れた朝に100パーセントの女の子に出会うことについて

コメント:僕は春樹の短編をそんなに読んだことはないのですが、やは
     り初期の短編、特に「スロウ・ボート」の本に入っている短
     編は、一文一文がよく練れていて、非常にいいと思います。


(イワン)
1、午後の最後の芝生
2、納屋を焼く
3、眠り

コメント:やはり初期のものは無条件にいいと思います。若いころの焦
     燥感が、季節の感覚とともに伝わってくる。
     読解するにしても、簡単に整理はつかない。そして、整理が
     つかないからこそ、手に取れるようなリアリティがあるのだ
     と思います。
     「午後の最後の芝生」は真夏の感覚が、「納屋を焼く」は晩
     秋の感覚がよいです。
     「眠り」は初期の作品ではないですが、読み込んでみたいと
     思わせる作品。これも、ただ構造の複雑さだけではない何か
     を感じさせます。
     「七番目の男」や「沈黙」など、比較的構造が見通しやすい
     ものには、そんなに惹かれません。


(A.I.)
1、我らの時代のフォークロア
2、中国行きのスロウ・ボート
3、4月のある晴れた朝に100パーセントの女の子に出会うことについて

コメント:だいぶ、SIZさんとかぶりますが。ぼくも初期の短編はどれ
     も好きです。
     イワン氏・SIZさんがそれぞれあげている午後の最後の芝生
     やニューヨーク炭鉱の悲劇も好きですし。パン屋再襲撃なん
     かも良い短編だと思います。上に挙げた3つは作品の精度と
     いうよりも単純に個人的思い入れが強いというものです。


 上記中、「中国行きのスロウ・ボート」「ニューヨーク炭鉱の悲劇」「午後の最後の芝生」は『中国行きのスロウ・ボート』所収。「眠り」「我らの時代のフォークロア」が『TVピープル』所収。「4月の〜」は『カンガルー日和』、「納屋を焼く」は『蛍・納屋を焼く・その他の短編』に入ってます。
 ちなみに春樹堂の人気投票では、「パン屋再襲撃」が四期連続不動の一位です。また『村上春樹にご用心』の著書があるレヴィナス研究者・内田樹の春樹短編ベスト3は「4月のある晴れた朝に100パーセントの女の子に出会うことについて」「中国行きのスロウ・ボート」「午後の最後の芝生」となっていました。(参照http://blog.tatsuru.com/archives/001138.php)うーむ、かぶりまくりっすねえ。(A.I.)

2009年10月11日

アフター・カーニバル深夜便(第二十二回)〜村上春樹の「七番目の男」を読む・前半〜

 中学校や高校の教科書に載っている文学作品を読む企画の第四弾。今回は『レキシントンの幽霊』に収録されている村上春樹の短編、「七番目の男」を読みます。
 今回の放送は、初めて、メンバー全員が集合した回でもあります。
 前半のトピックを上げれば、この小説の語りの構造、岡本綺堂の小説との比較、怪談話や集団セラピーとの比較、他の春樹の小説との比較、などについて話をしています。(SIZ)

(参考)
七番目の男
http://after-carnival.seesaa.net/article/80455370.html

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