2009年09月29日

好きな芥川龍之介作品ベスト3

 過去記事のストックがもうすぐなくなりそうということもあり、気軽に書ける記事を少しでも書いてみようという企画。
 そういうわけで、メンバーにちょっとアンケートを取ってみることにしました。この前の放送で芥川龍之介の作品を取り上げたので、好きな芥川作品ベスト3を上げてもらいました。

(R)
1、地獄変
2、六の宮の姫君
3、さまよえるユダヤ人

(A.I.)
1、トロッコ
2、河童
3、奉教人の死

(イワン)
1、トロッコ
2、歯車
3、蜜柑

(SIZ)
1、歯車
2、河童
3、或阿呆の一生

 R氏の四位は「手巾」、五位は「二つの手紙」だそうです。
 A.I.氏とイワン氏がそれぞれ「トロッコ」を上げているのは、小説に描かれているのと似たような思い出がそれぞれにあるからみたいです。
 僕は芥川の後期作品が好きなので、上記の三つを上げました。(SIZ)

2009年09月28日

アフター・カーニバル深夜便(第二十回)〜「羅生門」と「藪の中」を読む・後半〜

 後半は「藪の中」。黒澤明の『羅生門』の話なども引き合いに出しています。(SIZ)

2009年09月27日

アフター・カーニバル深夜便(第二十回)〜「羅生門」と「藪の中」を読む・前半〜

 近代日本文学を読むシリーズの第三弾。今回取り上げるのは芥川龍之介の短編二つです。
 前半は「羅生門」。いつものように、高校の授業でこの作品がどのように読まれているのかということから話を始めています。(SIZ)

2009年09月26日

ウミヒコ ヤマヒコ(山本有三)

(この記事は2007年5月23日に書かれました)

 山本有三『ウミヒコ ヤマヒコ』が時代を超えて読まれ続けなければならないのはなぜか。それを明らかにしたい。

 海で働く兄のウミヒコと、山で働く弟のヤマヒコが、ある時仕事を交換する。だが、ヤマヒコは針をなくしてしまう。ヤマヒコは意固地になって、新しく針を作ろうとしたり、探しに行こうとしたりする。そしてウミヒコはそんなヤマヒコに腹を立てる。

ウミヒコ きさまのようなやつは、こうしなくちゃわからないんだ。(弟を押さえつけてなぐる)
(中略)
ウミヒコ 強情なやつだな。なぐられたら、なぜ、泣かないんだ。なぜ、「わあっ」と泣かないんだ。そんなひねくれた根性だから、きさまにはすなおなことができないんだ。……ひとこと「すみません。」と言いさえすりゃ、なんでもないことじゃないか。……きさまには、どうしてそれが言えないのだ。
(中略)
おまえは、なんでもつぐないさえすれば、すむと思っているのか。しかし世の中にはな、返そうたって、返せないものがあるんだぞ。(41-43頁)

 弟を懲らしめ、道徳を説くウミヒコである。だが、ポイントはこの後である。

ウミヒコ いや、もうよそう。もうよそう。いくら言ったって、同じことだ。……さあ、いいから寝ろ。
(中略)
ウミヒコ (寝どこの中から眠そうな声で)どうした。どうしたんだ。ヤマヒコ。
ヤマヒコ なあに、なんでもないよ。火が消えそうになったから……
(中略)
 ウミヒコはそれなり、また、寝入ってしまう。
 ヤマヒコは炉の火の燃えついたのを見さだめると、しずかにひざまずいて、何ものかにいのりをささげる。
 それから、兄の寝ているそばに寄って、

ヤマヒコ にいさん……

と、小ごえで呼ぶ。
(中略)
 もう一度、声をかけたけれど、兄はすやすやと眠っているので、ヤマヒコは兄の横にそっともぐりこむ。
 炉の火は、やみの中で美しい火ばなを散らしながら、勢いよく燃えさかる。――幕――(43-47頁)

 謝って、いない。

 ウミヒコは、世の中には返そうと思っても返せないものがあり、そういうものを損ねてしまったときには、意固地にならず、素直に謝るしかないと言った。そしておそらくこの時ヤマヒコは謝ろうとしているのだろう。しかし、ウミヒコは眠っている。ウミヒコはヤマヒコの謝罪を受け取らないまま、物語は終わってしまう。これが、この作品において決定的な部分なのである。

 ウミヒコは、寝ていない。寝たふりをしている。故意に、ヤマヒコの謝罪を受け取らないようにしている。それは二人が家族だからだ。家族の間に謝罪は必要ないからだ。あるいは、ヤマヒコは許してくれたことへの感謝の言葉を述べようとしていたのかもしれない。しかしそうであっても、それすらも必要ではない。それは二人が家族だからだ。

 ウミヒコがヤマヒコに教えたことは二つである。他者のかけがえのないものを損ねてしまった時には素直に謝るしかないということ。そして、家族の間には謝罪や感謝は必要ではなく、お互いの全てを受け入れるものだということである。

 家族に対して、「ごめんなさい」「ありがとう」は、ちょっと変である。これは、けっして僕が家族にありがたみを感じていないということではない。少なくとも、僕はこのような感覚において生きてきたし、生きていくだろう。

 『幸福な食卓』と同工異曲になってしまったが、以上。(イワン)
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2009年09月25日

スラムオンライン(桜坂洋)

(この記事は2007年5月14日に書かれました)

 この作品においても、主体は分裂している。それらは、リアルな世界の「坂上悦郎」と、MMOゲーム(オンライン格闘ゲーム)のキャラクター「テツオ」と、それらを往還する自己の、三つである。

 大学1年生の悦郎の生活は、「大学で知り合った布美子との仲は進展せず、無敵と噂される辻斬りジャックの探索に明け暮れる日々」(カバー裏)というものである。リアルな世界はいつも曇ったり雨降りだったりするのに対し、ゲームの中のバーサスタウンはいつも快晴である。リアルな世界はいつも憂鬱であり、また、バーチャルな世界は嘘くさいほどにクリアであるというわけだろうか。

 主体は、すでにゲーム的リアリズムというべきものの浸食を受けている。主体は、リアルな世界での物音を、たとえば「人の群れがアスファルトを踏みしめるSE」と語り、「リアルな世界は複雑で、男女が仲良くなるフラグをどこで立てればいいかはっきりわかるわけじゃない」と語る。だが主体は、バーチャルな世界の不毛さ、リアルな世界のくだらなさをともに認識している。リアルな世界にたいしても、バーチャルな世界にたいしても、相対的な立場をもっているということだろう。自己自身に、なんらかのわだかまりをもっているわけだ。そして、だからこそリアルな世界では布美子の青猫探しに、バーチャルな世界ではジャック探しに惹かれていくのである。

 リアルな世界にしろバーチャルな世界にしろ、ゲーム的リアリズムで世界を認識するということは、世界をコンテンツ化、データベース化し、無数の小さな物語群としてとらえるということである。それは0/1の世界であり、明確に割り切れるものである。それを志向すること、つまりクリアな世界でデータと戯れるだけの世界を目指すことは、ある意味では魅力的であろう。しかしそれにはある種の虚しさがつきまとう。バーサスタウンで何勝何敗だったか、あるいは青猫探しのために新宿の街をマッピングして塗りつぶした方眼紙のマス目の数をいくら積み上げても、それで世界の何事かを理解し実感したことにはならない。それだけでは、我々はどこにもいけない。これが、主体の抱いているわだかまりであろう。

 だから主体は、バーサスタウンにおいては武闘会での相対的評価を放棄してジャックとの戦いを選択するのだし、リアルな世界においては布美子との関係を押し進めることを選択するのである。相対的な数の世界から、絶対的な自己を立ち上げる過程が、この作品において表現されているのであろう。よって、「その日、ぼくは、何回勝ったかおぼえるのを忘れた」、つまり数を数えることをやめることで、主体は物語を終わらせるのである。これは〈癒し〉ではなく、すでにひとつの前進であろう。(イワン)
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2009年09月24日

All You Need Is Kill(桜坂洋)

(この記事は2007年5月13日に書かれました)

 現在の日本において、いわゆる〈主体の分裂〉というテーマは、このように描かれるべきものだという原型のような作品だと感じた。この作品は、ゲームを小説にしたかのような小説ではなく、ゲームによって構成された主体の描く作品である。つまり、これはまさに我々の時代の小説なのである。

 謎の生物「ギタイ」に侵攻される近未来の(おそらくは)日本での戦いに参加する初年兵のキリヤ・ケイジは、初めての戦闘で戦死する。しかし、気が付くと出撃前に戻っている。また出撃。戦死。それを繰り返すうち、自分が同じ日をループしていることを自覚する。肉体は変わらない。しかし意識は持ち越してループできる。ケイジに残された道は、ループの中で戦闘技術を身に付け、戦いに生き残り、ループから脱出することだけなのだ。

 時間のループという主題自体は、珍しいものではないだろう。だが、この作品の特色は、スペックが変化しない肉体=ゲームの使用キャラクターと、変化しうる自己=プレイヤーを峻別したところにある。ケイジにとっての一回の戦闘は、ゲームにおける1プレイに相当する。そして無数の戦闘回数はそのまま、無数の物語群だ。ケイジの意識=主体はそれらを、現在終了時点まで俯瞰して眺めることができる。前の戦闘に納得がいかなければ次の戦闘に臨むというように、ケイジが望めば、何度でもそれを繰り返すことはできる。しかし戦争である以上、というより原理的に、何度やってもリタ・ヴラタスキを含む人類全員を救うことは叶わない。どこかで戦闘を終わらせなければ時は動き始めない。こうなると、すでにケイジがどれだけ戦闘技術を身に付けるという意味で強くなっても関係ない。物語は、何かは守れるが、何かは切り捨てなければならない任意の1プレイを選び取るしかないというケイジの自覚とともに終了する。

 我々の世界に満ちあふれているのは、膨大な選択可能性である。バーチャル世代というのは、膨大な選択可能性と主体の乖離を実感している意識のことであろう。そのような状況は時として二つの不幸な事態を招く。選択可能性の前でためらい続けるか、選択にともなう痛みを引き受けるかという不幸である。これらは、前近代的な共同体においては、そもそも選択という概念すらないという意味で生じなかった不幸だろう。

 現代において、おそらく真に重要なのはインターネットをはじめとするメディアの発達ではない。それは我々自身なのだ。我々自身のなかにすでにメディアが繰り込まれており、主体との相互作用を起こしているのだ。メディアは膨大な選択可能性を示している。何を選択するのか。まずは情報といえるが、コンテンツのひとつひとつは今作で見たとおり、物語である。

 また、今作からは外れるが、メディアにおいて、情報とは消費される商品である。金で買えるものはせいぜい〈癒し〉しか自己にもたらさないだろう。それが今日の物語の役割なのである。〈癒し〉とは現状の緩和にすぎない。それによって自己は変革されない。だが本当にそれでいいのか。今日において、〈消費しつくせない物語〉とでもいうべきものが求められているのではないか。では資本主義の構造の外に立って物語を紡げばいいのか。それは不可能である。ならばその状況のなかにありつつ、メタレベルの視点を持ち合わせた物語、すなわち『All You Need Is Kill』のような作品が、現在渇望される物語なのである。

 ちなみに状況のメタレベルに立つとは、単に俯瞰的な三人称小説を書くことではない。かといって状況のみを描いていればいいというものではない。たとえば阿部和重は、その初期においては、今日の状況のなかで分裂せざるをえない主体というものを描いていた。しかしそれはそれだけのものだった。自己をそのようにし向ける状況への自意識を欠いていた。そして『シンセミア』以降になると、分裂は描かず、俯瞰的で安定した小説を書くようになる。阿部においては、状況と俯瞰が見事に乖離している。残念ながらこれが現在の阿部の到達点であろう。しかしその脇を、桜坂や、あるいは同じように主体の分裂に敏感な乙一などがすり抜けていく。もっと先を見たい。もっとその先を見たい。その先を見ることはきっと気持ちのいいものだろうから。

 ところで、僕がこの作品を読んだのは、東浩紀『ゲーム的リアリズムの誕生』を読んだことがきっかけであるが、正直な感想としては、「東って、こんなにすごかったんだ」というものである。『存在論的、郵便的』で示された大状況と個人の状況が短絡的に結びつくという世界認識には物足りなかったし、そのあとの、『自由を考える』なども、左翼的言説の同工異曲でしかないというふうにしかとらえられなかった。しかし『ゲーム的リアリズムの誕生』はどうだろう。ある種の清々しささえ感じた。このような清々しさの発見を他者にも、そして自己にも期待したいものである。(イワン)
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2009年09月22日

宮崎駿以前/宮崎駿以後

(この記事は2005年3月4日に書かれました)

 2000年に公開されたスタジオ4℃のアニメ『アリーテ姫』を観た(監督:片渕須直)。

 僕は、このアニメ映画を見ながら、ずっと宮崎駿について考えていた。スタジオ4℃は、ジブリのスタッフが中心になって設立したアニメ制作会社らしいので、それは当然のことかも知れないが、僕が宮崎駿のことを考えていたのは、このアニメが宮崎駿のアニメとよく似ている、ということだけではない。宮崎駿のアニメとどれほど似ていないか、ということもまた考えていたのである。

 このアニメと宮崎駿との近似性は、宮崎駿以前/宮崎駿以後という区分によって、適切に位置づけることができるだろう。つまり、このアニメ映画は、それが作られた時期から言えば、宮崎駿以後の作品ではあるが、その作風は宮崎駿以前を感じさせるものだったのである。

 宮崎駿が(西洋の)ファンタジーに強い影響を受けて自分の作品を作ってきたことは間違いない。彼の作ったアニメはすべてファンタジーだと言っても過言ではないだろう。宮崎駿以前のファンタジー、おそらく宮崎駿が影響を受けてきたファンタジーとは、寓話的なファンタジーではないのか? つまり、子供に向けて何かメッセージなり教訓を伝えるために、面白おかしい話を作り上げる。そのような形のファンタジーが主だったのではないか? こうした寓話的なファンタジーの色合いを『アリーテ姫』も強く感じさせるのである。

 しかし、興味深いことに、こうした寓話的なメッセージ性は、宮崎駿のアニメにおいては、極端に少ないように思われる。そこに何かメッセージがあるとしても、それは明確な言葉にすることができるようなメッセージではなく、ある種の感覚ではないだろうか? 宮崎アニメの面白さとは、端的に言って、彼の主張(メッセージ)にあるのではなく、彼の持っている子供っぽい感性、彼の持っている冒険心にあるのではないか?

 この点、『アリーテ姫』には、冒険の色合いが極端に少ない。冒険はもうすでに終わっているか(姫の求婚者である騎士たちがすでに宝捜しの冒険を行なっている)、始められそうになるまさにその瞬間に中断する(姫に課題が与えられて冒険の旅に出ようとするが、姫は冒険に行かない)のである。これは、この作品が、旧来のファンタジーに対してアンチの立場に立っていることと密接な関係があるかも知れない(王子様の助けを待っている旧来の物語の姫ではなく、自分から積極的に行動する姫)。いずれにせよ、この作品を見ていて、ワクワクすることはあまりない。この事実は、この作品のテーマと矛盾をきたすのではないか? この作品は、自分自身で活路を切り開いていくことに積極的な価値を置いているように見えるが、そんなふうに積極的に行動ができるのは、アリーテ姫が未知のものへの好奇心を持っていたからではないのか? しかし、このアニメ自体が、そのような未知のものへと、われわれを誘うことはない。これは宮崎アニメと対照的なところである。

 『アリーテ姫』は、一面では、「ファンタジーとは何か?」という問いに明確な答えを出しているように思える。つまり、ファンタジーとは、壁の前で、その壁の向こう側を夢想することである(城の中に幽閉された姫が自ら物語を紡ぐ)。だが、何度も言うが、この作品自体は、そのような夢想を紡ぐことを途中で放棄しているように思える。まさに、この作品の主人公の姫のように、夢想することをやめて、行動に移ることを積極的に推奨しているのである。

 われわれが、今日、宮崎駿のアニメを好んで見るのは、そこに未知のものが投影されているからではないのか? そして、その未知のものとは、知性によって捉えられるものというよりも、感性によって捉えられるものである(われわれをワクワクさせる)。宮崎アニメは、われわれの感性に訴えかける。われわれの冒険心をくすぐるわけである。「宮崎駿以後」というものがありえるとすれば、それは、このような感性への訴えかけなしにはありえないのではないか?(SIZ)
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2009年09月21日

システムツールとしての『NANA』

(この記事は2006年5月8日に書かれました)

 イワン氏が、マンガ欄で、矢沢あいの『NANA』について文章を書いている。僕は、このマンガを、まだ5巻までしか読んでいないのだが、イワン氏の書いたことと関連させて、ちょっと思ったことを書いてみたい。

 イワン氏の文章で興味深いところは、イワン氏が「メタ・フィクション的」と呼んでいる作品構造であるだろう。

 僕も、この『NANA』という作品が非常に魅力的であることの一因として、二人の主人公がいるという点を上げるのは正しいと思っている。二人の主人公がいることの利点とは、それらの登場人物を完全に相対化して描けるというところにあるだろう。つまり、常に比較される人物がいることで、その登場人物のやっていることが部分的なものであること、言ってみれば、その登場人物の強みと弱みとが明確になる、ということである。

 イワン氏は「メタ・フィクション」という言葉を出しながらも、この言葉の詳しい説明をしていないが、おそらく、イワン氏の言いたいこととは、作品の「語り」の部分が重層化している、ということなのだろう。つまり、イワン氏の言いたいことを積極的に解釈すれば、『NANA』という作品は、『NANA』について語ることもその作品の一部になっている、ということである。

 この点こそ、おそらく、イワン氏が「典型」という言葉で言いたかったことなのだろう。つまり、「あなたはナナ派? それとも、ハチ派?」みたいな感じで、この作品は、絶えず読者に、自身のライフスタイルを反省させるように促す。登場人物たちの星座のどこに自分が位置するのかを、それこそ、同性の友人同士で語り合う(もちろん、ここで想定されているのは、女性であるが)。この作品はそうした話題提供の装置となっていると考えられるのである。

 僕が『NANA』という作品を読んだとき、非常に気になったのは、そこで提示されているライフスタイルがあまりにもデジタル化されているところである。言ってみれば、『NANA』という作品は、極めてゲームに近い形で構造化されている。アドベンチャーゲームのように、そこには常に、いくつかの選択肢があり、その選択肢を選ぶことによって、新たなイベントが発生する。

 登場人物と世界との関係は、プレイヤーとゲームシステムとの関係そのものである。何かコマンドを入力すれば、それに見合っただけのレスポンスが即座に返ってくるわけである。

 僕は、リアルの世界は、やはり、そのようには出来上がってはいないと思う。限りなくデジタル化されているとしても、やはり、そこに回収されない要因はたくさんあることだろう。こうした世界の不可思議さに対する視野を欠いている点で、『NANA』は少々問題作だと言えるかも知れない。つまり、あまりに類型化しすぎているということである。

 『NANA』という作品で提起されている問題とは、端的に言って、われわれから「生活」が根こそぎ奪われてしまっている、ということなのかも知れない。その点で言えば、『NANA』という作品は、尾崎豊が歌ったような「街」を、現代の様相の下に、再び描いている、ということが言えるかも知れない。これは、二人のナナが共に、地方出身者であるという設定と相通じるところがあるだろう。『忘却の旋律』というアニメで描かれていたように、都市の魔力とは、環状線から降りられなくなることなのである。(SIZ)
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2009年09月20日

アフター・カーニバル深夜便(第十九回)〜梶井基次郎の「檸檬」を読む・後半〜

 後半は、丸善の話から、江戸川乱歩の「心理試験」を取り上げて、「檸檬」と比較しています。
 その他、梶井が結核で死んだことなどから、病気と文学との関係などについて話をしています。(SIZ)

2009年09月19日

アフター・カーニバル深夜便(第十九回)〜梶井基次郎の「檸檬」を読む・前半〜

 近代日本文学を読むシリーズの第二弾。今回は梶井基次郎の「檸檬」です。
 前半は、芥川龍之介の「蜜柑」などと比較して、「檸檬」を読んでいます。(SIZ)

2009年09月17日

SPIRIT(ロニー・ユー)

(この記事は2006年8月2日に書かれました)

(ストーリー)
自分はナンバーワンの武術家だと過信した霍元甲は、そのせいで結果的にライバルの命を奪い、家族を亡くし、友を失う。しかしたまたま自分を助けてくれた人々の村で農作業をしながら暮らすうちに自らを取り戻し、過去を悔い、自らの使命を自覚するようになる。


 まあまあ面白かった。

 監督は『フレディ対ジェイソン』や『チャッキーの花嫁』の、あのロニー・ユーである。だからというわけでもないのだが、さほど期待していたわけではない。更に言えば、ジェット・リーは偉い武術家だと思うけど、仕事の選び方はへたくそである。きっとダメな映画だろうと思うのは当然だろう。

 実際、特に内容的に優れているというわけではない。要するに自分の腕に過信した武術家が、そのせいで不幸に見舞われ、色々あって過去を悔い、武術の力を世の中のために役立てようとするというだけである。しかしジェット・リーの演技は今までに比べるとずいぶん自然に見えるし、演出も比較的抑制されているので、これまでの彼の出演作みたいな恥ずかしい感じはなかった。というか、実はちょっとぐっと来てしまった。

 今回観ていて、清朝末期を描いた香港映画には同一の物語の構造があることに気付いた。『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・チャイナ』シリーズもそうだけど、当時の中国は文化的・地理的・政治的に列強から露骨な侵略を受けていたが、役人は腐敗し、民衆はそういうことに無自覚で、同胞を身分・家柄などで差別するという愚を犯している。そこで立ち上がるのが武術家で、中国人の誇りを取り戻すために、アメリカだイギリスだといった国の筋骨隆々、ジェット・リーなんかよりも遙かにでかくて強そうなボクサーやレスラーをカンフーでもって、えいやっという感じで打ちのめす。中国人はその姿にうたれ、誇りを取り戻すというわけで、中国の欧米に対する複雑な心境がここにはあるようだ。

 面白いのは、主人公の武術家は、中国的な考え方や因習こそが敵だとして、中国は精神的な近代化を果たさなければならないと感じているところである(だからジェット・リー演じる霍元甲は「精武体育会」を設立する)。しかし、にも関わらずそこでとられているのは、「中国4000年」の武術による外敵の打倒という極めて象徴的で、民衆に訴えるような方法である。その方法だけをみると「扶清滅洋」をスローガンにした義和団とさほど変わらず、このような方法で近代化がなされることはまずないだろうし、何より政治に対する視点が致命的なまでに欠落していると感じられる。おそらくかの国は自国の歴史の長さに囚われるあまり、日本の「尊皇攘夷」派が明治以降あっという間に「脱亜入欧」へ転向したような節操のなさを持つことが出来なかったのだろう。それゆえ、清朝の腐敗した役人や無責任な民衆に対する批判が描かれ、自らの病に対する自覚が促されていながらも、結局はその病のうちに留まることが映画のうえでは選択されているのである。日本は近代化に際して、積み荷の多くを捨ててしまったが(そうしないと近代化は果たせなかったのだろう)、中国は後生大事に積み荷を抱えて溺れることを選んだようだ。映画の前半で、主人公は一番強い武術家であることを望む。そのような考え方を反省した主人公が、では何を行うかというと、やっぱり武術大会に参加して一番になることなのである。一体この人は何を反省したのだろうと思う。最初と最後でしていることは何も変わっていないにも関わらず、しかし成長したことになっている主人公。中国のすごいところは、何も変わっていないのに、いつの間にか近代化はなされたことにしてしまっているところである。

 どういうわけかこの手の香港映画の多くが、最後の敵として日本人を選んでいる。そしてこれまで観たほとんどの香港映画で、日本人武術家は高潔な人柄を持つ優れた人物として描かれてきた(例外もあるにはあるが、殊更に悪意を持って描いたものはほとんど無い)。中国がなぜ欧米よりも日本を「強敵」として描くのかぼくにはよく分からない。日本人を「悪者」にしないのも不思議だが、そのあたりになんかあるんだろうなと思わされた。(A.I.)


 この作品でリーは最後にするといっているが、その理由は当人いわく「僕がカンフーで伝えたいことをこの作品ですべて出し切った」かららしい。その伝えたいものとは、実に平凡なもの(いわゆる真の敵は己にあるといったような武道精神)なのだが、そういったことをはじめとして本作には極めて王道というか、悪く言えば紋切り型がままある。

 しかし、そんなことはどうでもよくて、ジェット・リーのアクション(とその見せ方)はすばらしいので、VS獅童ともども楽しめる。

 幼少の頃から始めといて、過程をすっ飛ばしいきなり最強になっていたり(父親は何が駄目だったというんだ?)、最初の妻がすでに死んでいたりするのは実話にせよ構成に疑問があるものの気にはならない。

 とりあえず農村の盲目の少女が、中越典子に見えて仕方がなかったです。(R)
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2009年09月15日

パイレーツ・オブ・カリビアン デッドマンズ・チェスト (ゴア・ヴァービンスキー)

(この記事は2006年8月2日に書かれました)

(ストーリー)
ジャック・スパロウ船長が食べられそうになったり、戦ったりする。


 まあまあってところじゃないですかね。

 期待しすぎた面もあるが、前作ほど面白いとは思わなかった。

 ジャック・スパロウ船長も前作ほどには魅力が感じられない。前作の船長は知的でユーモアがあってそれでいてどこか抜けているというキャラだったけど、本作はまず知性が前作ほどには感じられない。反面、ウィル・エリザベス・ジャックを三角関係に陥らせようとしたりしている部分なんかは、余計に感じられる。

 港町の雰囲気や、律儀に帆船の操船手順を踏んでいるところなど相変わらず素晴らしい点は多い。しかし主要な登場人物以外にもバルボッサ等の敵役を含め、キャラクターの魅力という点では前作に比べてだいぶ劣ると思う。(A.I.)
posted by SIZ at 21:37| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年09月14日

ALWAYS 三丁目の夕日(山崎貴)

(この記事は2006年6月11日に書かれました)

(ストーリー)
茶川龍之介が古行淳之介を養う。あと色々。


 西岸良平のマンガ『三丁目の夕日』の映画化。大変良かったです。連続して二回見てしまった。

 西岸良平のマンガは面白いと思うし、監督の山崎貴も『リターナー』はともかく『ジュブナイル』は良かったのでけっこう期待していたのだけど、どういうわけか劇場に足を運ばなかった。観た人からは良い評判ばかり聞いていたし、やっぱり観たかったのでDVDになったのを見計らってさっそく借りてきた。

 まず冒頭ワンカットで町並みを映すショットに心を奪われる。昭和33年の東京の町並みはもちろんVFXで再現されているわけで、いかにもCGぽくはあるが、しかし丁寧な作りなので悪くない。蛾を食べるヤモリや犬までCGで描いているのはやり過ぎというか嫌味っぽい感じがしたが、全体としてはVFXが過剰にならず作品のトーンとよく調和していると思う。

 演出は基本的にコミカルだし、キャラも原作通りとはいうわけではないがどっちにしろ紋切り型である。が、吉岡秀隆、堤真一、小雪、薬師丸ひろ子、堀北真希などの俳優陣がコミカルなキャラを決して過剰にならない範囲でうまく演じている。特に吉岡秀隆と堤真一と堀北真希は非常に良かったと思う(一方で子役はイマイチ)。

 30年代をノスタルジックに再現することに対して批判する向きもあるようだが(読売か朝日でそういう記事があった)、正直言うとこの映画をみて「うん、やっぱり昭和の頃のほうが今より良かった」というような短絡的な思考する人はほとんどいないんじゃあないかと思った。むろんこの映画を観て昔を懐かしむ人もいるだろうが、だからあの頃のほうが今より幸せという年配もまずいないだろうし、今より昔のほうが幸せだったんだなあと納得する若者もおそらくいないと思う。すでに30年代を知らない制作陣が、日本アカデミー賞の授賞式で語ったように、これはファンタジーとしての「昭和」であり、制作サイトがすでにそういう自覚に基づいているわけで、この作品世界に憧れるのは要するに『ロード・オブ・ザ・リング』や『スター・ウォーズ』に憧れるのとそう変わらないんじゃないだろうか。

 少なくとも作る側は「あの頃は良かった」と簡単に済ます気は無さそうな気配が感じられる。というのも、一方でノスタルジックな「昭和」を再現しつつ、もう一方でそのようなノスタルジーが幻想であることをはっきりと示しているシーンがあるからである。「幸せな30年代の家庭」という幻想から醒めたとき、そこにあるのは戦争の記憶とそこから未だ立ち直れずにいる人の姿である。あるいは電気冷蔵庫を買ってはしゃぐ家族と、捨てられた氷冷式冷蔵庫を見て悲しげな顔をするおとくいの氷屋の姿が対置されているシーンには、高度経済成長に見放されたものの姿が描かれていると言えるだろう。どんな時代にだって良い面もあれば悪い面もあるのである。

 この映画が描いているのは在りし日の幸せな人々の姿ではない。まだ見ぬ未来が幸せであってほしいと願う人々の姿なのである。

 現代では失われてしまった家族や希望といったものを過去の日本を舞台に描くことで擬似的なノスタルジーを喚起していると読むことは容易だけど、それはなんか悲しすぎる。年をとったせいかもしれないけど、まだ見ぬ婚約指輪をきれいだと小雪が言ったように、現状がどうあれ未来は光り輝く美しいものだと言うのは大人たるもののつとめなんじゃないかと思うのだ。(A.I.)
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2009年09月13日

アフター・カーニバル深夜便(第十八回)〜「富嶽百景」と「走れメロス」を読む・後半〜

 後半は、「富嶽百景」についての話も再びしていますが、「走れメロス」をメインに読んで、ベタとネタなどの観点から、現代作家としての太宰治について話をしています。(SIZ)

2009年09月12日

アフター・カーニバル深夜便(第十八回)〜「富嶽百景」と「走れメロス」を読む・前半〜

 太宰治生誕百周年に便乗した企画。
 中学校や高校の教科書に載っている太宰治の有名な作品を取り上げて、それをアフター・カーニバル的な観点から読んでみようという試み。
 有名な近代日本文学を読んでいくこの試みは今後シリーズ化する予定です。

 今回の放送では、今まで登場していなかったメンバー最後のひとり、イワン氏が初参加。
 前半は、『ドラゴン桜』の著者である三田紀房の思想について少し話をしたあと、高校の授業で文学作品がどのように取り上げられているのかということを話題にしながら、「富嶽百景」を読んでいます。(SIZ)
 

2009年09月11日

幸福な食卓(瀬尾まいこ)

(この記事は2007年2月22日に書かれました)

 瀬尾まいこの描き出そうとしているものは一貫している。それは家族のつながりだ。「家族っていいよね」という月並みな標語でもある。だがその陳腐にさえ思える言葉も、それが生み出される過程の如何によっては、厚みのある言葉となるのだ。

 『7’s blood』では、主人公・七子の母親が、死んだ夫の愛人の息子(七生)を引き取る。当然七子は反発するのだが、母が病気で死んでしまうと、何のために母が七生を引き取ったのかに気づく。母は七子に、家族の絆という確かなものを残してやりたかったのだ。

恋や愛や友情は、美しかったり強かったりするけれど、いつ切れたっておかしくない繋がりだ。母さんは私を一人にはしなかった。遠く離れていても、憎しみ合ってても、お互いの存在すら知らなかったとしても、私と七生は繋がっている。(167頁)

 恋人、友人に恵まれている七子だが、それとは別に、家族とのつながりが必ず必要だということが強く打ち出されている。

 恋人や友人、学校の同級生、会社の同僚といったものとは、社会的な関係性の謂である。極端に言えば利害関係でのみ、つながっている。お互いに数値化して評価しあっている側面が強い。しかし人間はそれだけでは耐えられない。自分の存在を、いつ、どこでも無条件に受け入れてくれる場が必要である。それが瀬尾においては家族なのである。

 それは今作『幸福な食卓』でも、より明確なかたちで描かれている。

 主人公・佐和子の父は以前自殺未遂をした。それから佐和子は事件のあった梅雨の時期になると、それを思い出して体調が悪くなる。母は父といることに精神が耐えられなくなり、別居している。万能な兄は、事件以後、真剣に生きると父のように壊れてしまうと悟り、いい加減に過ごしている。

 物語は、父が「父さんをやめる」と宣言するところから始まる。そして父は教師を辞めて大学の薬学部に入るための受験勉強を始める。父は以前、父という役割を演じきれなくなって自殺を図った。そしてそのことにより佐和子たちを苦している。薬学部に入ろうというのは、明らかに佐和子を治そうという償いの気持ちの表れである。また、自分が父であることによって佐和子は苦しんでいるのだとも考えているのだろう。父がいなくなれば佐和子も回復するかもしれないと考えて「父さんをやめる」と言っているわけだ。しかしこれは逃げているだけである。家族の間に、損得勘定や償いが必要だろうか。『7’s blood』の流れからいえば、家族とは、どんな罪でも許し合え、受け入れ合える関係である。とすれば、佐和子が癒される道は、父が父をやめて実際的な償いをすることではなく、父が父であり続ける、佐和子と苦しみを分かち合う者であることを引き受けることにしかないのだ。それは次のような箇所からも明確に読み取れる。

「別に、子どものためではないさ。佐和子は命の恩人だから。だから、何とかしたいんだ」
 父さんが少しうつむきながら言った。街灯の灯りが父さんの影を映した。
 五年前、私は父さんを助けるために救急車を呼んだ。そして父さんの命を救った。だけど、それが父さんを気負わせることになった。父さんの自殺未遂はたいしたことじゃない。でも、ずっと小さく家族の中でうずいている。母さんは家を出て、父さんは父さんを辞めた。そして、私のためにいくつかのことが動いている。
「だけど、私に必要なのは新しい画期的な薬でも、無農薬野菜でもないよ」(59-60頁)

 また、佐和子の恋人が交通事故で亡くなるが、これも、瀬尾のモチーフを際立たせるための材料として扱われている面が強い。次は、恋人が死んだ後、兄の彼女が佐和子に向ける言葉である。

「あのさ、言葉悪いけどさ、恋人はいくらでもできるよ。もちろん、今、そんなこと言うの最悪だってわかってる。でもね、そうだよ。恋人も友達も何とかなるよ。あんたの努力しだいで。あんたさ、すごくいい子だもん。いや、まじでそう思ってるよ。だから大丈夫。絶対、また恋人はできる。私が保証してあげる。っていうか、もし、できなかったら、私が探してきてもいいし。でも、家族はそういうわけにはいかないでしょう? お兄ちゃんの代わりもお父さんの代わりもあんたの力ではどうすることもできないじゃん」
「だから大事にしろってこと?」
「まあね。もっと大事にしろって思うし、もっと甘えたらいいのにって思うよ」(217頁)

 資本主義社会の状況下で、人間関係=利害関係とでもいうぐらい、人々の情緒的なつながりというものは希薄になっている。そこで問題なのは、人々が公=社会と私=家の線引きが上手くできずに、どちらかというと社会の論理(数字と結果のみで相手を判断する)を家庭に持ち込む傾向が強いことだ。核家族化の進行によって、どのような家族を築けば妥当なのかという判断がつかず、それぞれの家庭が0から、各々が思いついた方法を恣意的に試すほかなくなっているという状況が、そうさせるのだろう。また、親たちは自分がコミュニティを作るとき、参照体系が社会、会社しかないのだろう。

 だが、夢や希望、友情や恋愛、そういった輝かしいもののみで人は生きられない。無条件に自分を受け入れてくれる、ぬくもりを与えてくれる場が必要である。その役割を担うことが、今日の家族に課せられた役割だろうし、家族の成員も、他の成員を受け入れる責任を担わなければならないのである。(イワン)
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2009年09月09日

温室デイズ(瀬尾まいこ)

(この記事は2006年12月11日に書かれました)

 いじめ小説。

 みちるがいじめに遭いながらも学校へ行こうとするのはなぜなのか。これに明確な解答は出せないのではないか。これはひとつのスタイルの提示であって、問われているのはむしろこれを読む者自身のとるべき態度だと感じる。

「もう、学校なんか来なくたっていのに」
(略)
「どうしてみんなそんな風に言うの? 優子も先生も、教室行かなくたっていいって。学校なんて休めばいいって。どうして? だって、私何も悪いことしてないんだよ。病気にもなってない。なのに、どうして教室に行くの、放棄しなくちゃいけないの? どうして普通に教室に行けないの?」
(略)
「そういうの、すごく変だよ。学校に行かなくても大丈夫なようにするのが先生なの? つらいことがあったら、逃げ場を作ってあげるのが先生たちの仕事なの? そんなんじゃなくて、ちゃんとみんなが普通に教室で過ごせるようにしてよ。私は、先生に教室に行こうよって言ってほしい。ちゃんと学校に来いよって言ってほしい」
(92頁)

 我々がこの原理から目をそらした瞬間から、欺瞞は生じ始める。「辛いなら、逃げてもいい」というメッセージ。これを生徒が発するのなら、まだ問題はないだろう。だが、学校を運営することを職務とする教師自身がこれを言うのなら、職務放棄であり、自家撞着である。

 なぜ、このようなメッセージが、教師、ひいては大人から発せられるに至るのか。理由はただひとつ、学校を、生徒が辛くない場に変える労力と責任を忌避するからである。

 僕だって、その苦しみは御免被りたいし、誰だってそうだろう。しかし、みちるのような愚直な問いかけを前に沈黙するとき、自分がいったい何を踏みにじっているのかを自覚するべきである。

 それは生徒の心であり、自分自身のそれである。(イワン)
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2009年09月08日

「お気に入り」の中

(この記事は2005年5月14日に書かれました)

 公安9課の草薙素子さんは、少女の義体を手にしたあと次のように呟いた。

「ネットは広大だわ」

 全くその通りだとぼくも思うわけだけど、それにしてもそれほどに広大なネットの海へ漕ぎだしてゆくにあたって地図も羅針盤も無しという状態では心許ないわけで、一体大抵の人は何を羅針盤としてこの広大なネットの海を駆けまわっているのだろうか。不思議である。

 そもそもインターネットを利用する最大の利点は情報検索に関する量の多さと早さにあると思う(正確ではないが)わけだが(むろんコミュニケーション手段としての利用も大きいだろうが、携帯電話のほうが主流だろう)、そもそもその情報を集めるためにはどうしたらよいのかネットというのは広大すぎてよく分からないわけで、これがドラクエだったら街の人に片っ端から声をかければ済むわけだけど、ネットはドラクエとは違ってそう一筋縄ではいかなくなる。もちろんYahoo! JAPANだとかGoogleなどという有名な検索エンジンやら、あるいは2ちゃんねるなんかの有名な掲示板で調べるという手はあるが、これらはそれこそ膨大な数のサイトやスレッドがヒットしてしまう可能性があるし、キーワードの入れ方によっては自分の求めているものがきちんと手にはいるとは限らない。最近ではサーチャーとかいう情報検索を専門とした資格があるらしいが、こういう資格ができるのもむべなるかなという気がするわけである。

 つまり何が言いたいかというと、一体みんなどういうサイトをいつも閲覧しているのかなあということであって、人の家に行ってインターネット・ブラウザなんかを開く機会があるとどうしてもその人の「お気に入り」の中を覗いてみたくなるのである。しかし例えばぼくの「お気に入り」の中を全部公開するとこれは色々と大変なことになるわけで、やっぱり他人には見せたくない(というか見せられない)ものというのはある。だからやっぱりマナーとして勝手にひとんちのパソコンの「マイドキュメント」とか「お気に入り」を覗くのは良くないと思うわけなのだけど、それでも少しくらいは情報交換をしたほうが良いんじゃないかと思うわけだ。

 というわけで、ぼくの「お気に入り」の中から役立ちそう、あるいは面白そうなサイトを紹介しておこうと思う。


●Sleipnir
世のネット利用者はブラウザに何を使用しているのだろうか。やはりInternet ExplorerとかNetscape Navigaterあたりが主流なのだろうか。個人的にはIEはあまり使いやすくないと思うので、IE利用者におすすめなのがこのスレイプニルというブラウザ。フリーウェアだし。一応上級者向けということになっていて、色々なカスタマイズができるらしいけど、デフォルトでも使いやすいと思う。

●Digitally Imported
トランスとかそういうほうの音楽専門のインターネットラジオ局。修論を書いていたときポップソングをかけているとどうしても歌詞が気になったりしてしまうので、ここのインターネットラジオで単調でノリの良いトランスをずっとかけていた。おかげでつつがなく修論も提出することが出来ました。ありがとう。

●ウィキペディア
ネット上の百科事典。誰でも利用し、また記事を作成したり編集したりできる。ぼくもちょっとだけ記事を編集したことがある。似たようなものに、「はてなダイアリー」なんかで有名なはてなというサイトがあるけど、こっちよりは詳しくて便利だと思う。また南京事件や従軍慰安婦など議論の紛糾している問題についてもその紛糾の仕方を知るにも都合の良いサイトである(右と左で記事の書き替え合戦が行われている)。

●@Takaのページ
将棋についての個人サイト。将棋の総本山は何と言っても日本将棋連盟だし、このほかにも色々将棋に関するサイトは多いのだけど、ここの「豆知識」というコンテンツは素人にも面白いと思う。特に「プロの犯した反則」というのは面白い。反則をよくやるプロというのもいるらしい。

●「X51.ORG」「AZOZ BLOG」「ABC(アメリカン・バカコメディ)振興会」
バカニュースサイト。最初のX51.ORGはどちらかというとオカルトニュースという感じで、最後のABC振興会はハリウッドのゴシップという感じだが、どれもバカバカしくて笑える。三つともかなりの有名サイトです。

●ファイルマン
面白動画や画像の投稿サイト。一時期よく見ていた。


●借力
読者参加型の変なプロジェクトをやっているサイト。「バカ世界地図」「バカ日本地図」「超東京地図」が面白い。特に東京はこれでいいんじゃないかという気がしてくる。


あとは2ch系。

●2ちゃんねるベストヒット
2chのまとめサイトのひとつ。笑えるものばかりを集めている。まとめサイトではおそらく2ちゃんねる名スレの部屋と泣ける2ちゃんねるあたりが有名なのだと思うが、「名スレの部屋」のほうは更新しなくなってすでに久しいし、「泣ける2ちゃんねる」のほうは出版までされていてウザいし、何より2chに泣かされるのは色々納得がいかない(でもけっこう泣かされる)。というわけで最近はここがいい気がする。

●vipper.info
ここも同じく2chのまとめサイト。つくづく2ちゃんねらーのやることはくだらないと思う。しかし嫌いではない。てゆうかけっこう好きだ。なかでは「暇だからテーマソングでも作ろうか」と「将棋界に新たなスター誕生」と「粘土でチンコ作ったwww」というコンテンツが面白かった。しかしくだらねえ。

●UD-Team2chWiki
ここは2chのなかでも真面目なサイト。2chは公式にUDがん研究のボランティアに参加していて、ここはそのボランティアを支援するサイト。

 UDがん研究プロジェクトというのは「コンピュータ使用時の余剰処理能力を使用し、白血病・がんの治療薬研究解析の目的で分散コンピューティングを用いてスクリーニング作業を行うプロジェクト」だそうで、このUDというやつを自分のパソコンにインストールするとパソコンを起動するたびに自動的にUDというプログラムが立ち上がって、がんとか白血病の治療薬研究のための解析を行ってくれるというもの。このボランティアを主宰しているのは確かアメリカのどっかの大学かなんかの研究所だったと思うが、参加している人間は世界中にいて、日本のボランティアの貢献度はUSA、UKに次いで3番目。たぶんあと一年以内にUKは抜くと思われる。2chは悪い面も多いが、しかしおそらく2chが無かったら日本がこのプロジェクトへの参加でイギリスに次ぐほどの貢献をすることはなかっただろう。このUDでは参加者が楽しめるようにチームを作って成績を競うことができるのだが、この「Team 2ch」は世界でもダントツで首位をキープしている。とりあえずぼくも参加しています。どうもUDを導入したせいで少しだけパソコンが重くなった気がするが、それで何人かの人間が救われるのであれば、まあいいでしょう。

 実を言うと去年のぼくは仕事も何もしていない本当にクズみたいな人間だったので、このボランティアに参加している(それも要するにパソコンを起動しているだけだが)ことだけが唯一自分が生きていて人のためになっているんだと自分を慰めるネタだった。

 以上、A.I.でした。
posted by SIZ at 23:27| Comment(0) | TrackBack(0) | エッセイ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年09月07日

アフター・カーニバル深夜便(第十七回)〜東浩紀のゼロアカ道場と村上裕一のゴースト論について・その3〜

 最後の第3パートはまとめです。
 具体的には村上さんの文章に出てくる鶏の卵の比喩に基づいて、これまでの議論をまとめています。(SIZ)

2009年09月06日

アフター・カーニバル深夜便(第十七回)〜東浩紀のゼロアカ道場と村上裕一のゴースト論について・その2〜

 この第2パートでは、具体的に村上裕一さんの文章を検討して、これまで行なってきたアフター・カーニバルでの議論と擦り合わせを行なっています。
 具体的な作品論としては、A.I.氏の得意分野である『ジョジョの奇妙な冒険』について主に話しています。(SIZ)

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