2009年08月31日

トム・ヤム・クン!(プラッチャヤー・ピンゲーオ)

(この記事は2006年5月21日に書かれました)

(ストーリー)
象を助けるためにかなり激しく戦う。


 お腹いっぱい、大満足。

 『マッハ!』のプラッチャヤー・ピンゲーオ監督とトニー・ジャーの最新作ということで、喜び勇んで観に行った。

 どうしても『マッハ!』を超えられているかどうかという点で観てしまうところだが、それは杞憂だった。

 『マッハ!』をゆうに凌ぐガチンコぎりぎりのバトルとスタントの饗宴に酔いしれる120分。上映前まではごぞごぞやっている客が多く、「客層が悪いな。観賞の邪魔をしないでくれよ」などと思っていたのだが、上映中は皆さん大変行儀がよろしかった。みんなこの映画に没頭していたわけである。そして本編が終わっても誰もすぐに席を立たない。メイキングが流れることを分かっているのであり、つまりはみんな『マッハ!』を観たうえで、やる気まんまんで来場していたのであった。

 最初にやってくるバトルシーンで、いきなり画面の端からトニー・ジャーが飛んでくるところから始まり、見どころは尽きない。しいて挙げるなら今回はバトルが多く、これでもかというくらい強敵が現れるのにドキドキした。カポエラ使いはめちゃくちゃかっこよかったなあ。

 久々に幸福な映画鑑賞だった。(イワン)


 前作「マッハ!」と比べると、色々な点で落ちている部分がある。まず、色気をだしてストーリーの方を複雑にしようとしたらしく、オーストラリアでロケをしたり、敵側の確執を描いたりしているが、そういったことがほとんど裏目に出て、大して複雑なストーリーではないにもかかわらず収拾がつかなくなっている。またそれに伴ってスタントが唐突になりすぎていたり、大味になっているという感も否めない。

 一方で頑張っている部分もあって、ワンカットで延々と続くバトルシーンは圧巻だったし、最後の数十人との戦いはほとんど一撃で倒しながらもそのすべてが違う技という離れ業をやってのけている。おまけにトニー・ジャーのムエタイは打撃や防御がそのまま関節に移行するのでとにかく痛そう。ダメージを与えると言うより戦闘不能にする戦い方で、よくあれだけの関節技への入り方があるものだと感心した。

 そして何よりも素晴らしかったのが対カポエラ戦。大好き。ちょーかっこよかった。というわけで、色々言っても大満足でした。やっぱこういうのこそ映画だよ。(A.I.)
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2009年08月30日

アフター・カーニバル深夜便(第十六回)〜総選挙再び・後半〜

2009年08月29日

アフター・カーニバル深夜便(第十六回)〜総選挙再び・前半〜

 今回の深夜便は、今週末に行なわれる総選挙に便乗して、最近の政治的言説について話題にしています。
 出発点に据えたのは、2005年に行なわれた前回の総選挙についてのA.I.氏の記事で、そこでA.I.氏は、各党の具体的な政策ではなく、政治的な言葉やパフォーマンスに注目しています。
 こうしたA.I.氏の視点に乗っかる形で、今回の放送でも、個別具体的な政策ではなく、ある意味大衆的な関心事だと言える、政治的なキャッチフレーズ、政治的なイメージ、政治的なパフォーマンスといったことに注目して、話を進めています。
 前半では、小泉、安倍、福田、麻生と続いた、この四年間の政治的な流れを大まかに確認し、これまでに、どのような言葉が発せられ、その言葉がどのように流通してきたのか、ということを問題にしています。(SIZ)

(参考)
総選挙のこと
http://after-carnival.seesaa.net/article/123886646.html
総選挙・再考
http://after-carnival.seesaa.net/article/123982748.html

2009年08月28日

フォーガットン(ジョゼフ・ルーベン)

(この記事は2006年5月21日に書かれました)

(ストーリー)
1年ほど前に息子を亡くした母親が立ち直れずにいる。ある日息子の遺品が無くなっていることに気づき、夫をなじるとそもそも息子なんていなかった、おまえはずっと今まで妄想を抱いていたんだと告げられる。そんなはずはないと息子を知る人に尋ねてもあなたに子供はいないと言われ、息子が死んだ飛行機事故の記録を調べてもそのような事故が起きたという記事は無くなっている。本当に自分の妄想なのかと思い始めたとき、彼女は息子が実在した証拠を見つけ、誰が何のために息子のことを隠すのか調べはじめる。


 出だしのストーリーだけみるとウィリアム・アイリッシュの名作「幻の女」を彷彿とさせ、何やらサスペンス作品のようであるが、そういう期待をしていると見事なまでに裏切ってくれる。この裏切り方はかなりの衝撃で、ハンカチ落としましたよと言ったらお礼の変わりにぶん殴られたとかそういう感じであった。とにかく何が起きたのか、にわかには理解できず、冗談か何かかと思えてしまう。

 「ドゥヴァーン」というアレはちょっと楽しそうだったが、それ以外見所は特にない。(A.I.)

(付記)
「CinemaScape」のレビューでは「ドゥヴァーン」の擬音をそれぞれのレビュアーが工夫していて面白い。「すぽ〜ん」とか「ズバコ〜ン!」とか色々あるが、「ビュゴゥア」というのが秀逸だと思う。確かにそんな感じだった。
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2009年08月26日

ハリー・ポッターと炎のゴブレット(マイク・ニューウェル)

(この記事は2006年4月30日に書かれました)

(ストーリー)
遂に蘇るヴォルデモート。ハリーの運命やいかに?


 とにかくガキ共が大きくなりすぎていて、一作目なんかと比べると同じシリーズだと強弁するのは少々無理がありすぎる気がする。いや、原作を読んでいるわけではないので、ひょっとしたらこれでいいのかもしれないけど、ぼくには残念ながらダニエル・ラドクリフはすでにハリー・ポッターには見えなかった。

 ただ映画としてはだいぶ面白くなっていて、とくにダンスパーティは秀逸。一番身近な女の子が一番きれいだったと当日になるまで気づかず、そしてその子が自分に誘って欲しがっていたことも(変なプライドが邪魔して)無視して他の男にとられた挙げ句、残り物の女の子を誘ったは良いけど一緒に踊ることもせずにふたりでふてくされているのである。いやあ甘酸っぱいねえ。(A.I.)


 ずいぶんとロードショー的に減った気がする。六本木ヒルズに行ったら、字幕は一館上映だった。土曜の午後ということもあってさすがに混んでいて次回を待たねばならなかった(三丁目の夕日ですら満員だ)が、一時のあのフィーバーぶりからすると、前作の大人向けトーンが災いしたのだろうか?

 しかし個人的には、前作からようやっと大人の鑑賞に堪えうるようになったと思う。相変わらず上映時間は長いが、苦痛にならなくなったし眠くもならない。楽しんで見ていられる。

 なぜか今作には、RADIOHEADのメンバーが劇中バンドとしてメイクアップまでして登場している。解せない。ジャーヴィス・コッカーはいいとして、よりによってなぜあのジョニーが出演を許諾したのだろう? 前にもREMのマイケル・スタイプ製作『ヴェルヴェット・ゴールドマイン』にサントラ・バンドとして参加したことはあったが、今回はちょっと毛色が違う。しかしサントラの三曲を聞いてみると、ジョニーらしいブンブン言うギターが全快でちょっと気に入った。でも画面に写るのはほんのちょっとだ。

 肝心の内容は、盛りだくさん過ぎて消化不良気味である。原作を読まないと細かいところがわからない。

 しかし、演出面だけでなく前作あたりから感心しているのが、主人公たちの微妙な関係性の描き方や心理描写だ。あまりわかりやすい構図に収斂させることなく、あいまいで危ういバランスを保ちながら各人の成長を追っていっている。

 ヴォルデモートのシーンだけは、前回のディメンターとの対決の迫力からするとやや後退している気もするが、それは次回に期待しよう。

 何しろ空中馬車と潜行帆船がホグワーツを去っていくラストシーンは美しく、まさに息を呑む場面として、映画史上に残る出来であった。(R)
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2009年08月24日

アフター・カーニバル深夜便(第十五回)〜生活の希薄さと固有性の剥奪を巡って・後半〜

 後半は、前半で話題にした「吉本ばなな居酒屋問題」をまとめたあと、あずまきよひこのマンガ『よつばと』や『電車男』を引き合いに出しながら、いわゆる文学作品と良質なサブカルチャーとの間に明確な差異づけを行なうことができるのか、等々といったことを議論しています。
 文学なり固有性なりといった言葉について、もう少し厳密な定義をする必要があるかも知れませんが、その点については、どのような形で問題提起をすればいいのかということとも絡めて、今後の課題としたいと思います。(SIZ)

2009年08月23日

アフター・カーニバル深夜便(第十五回)〜生活の希薄さと固有性の剥奪を巡って・前半その2〜

 前半その2は、R氏も交えて、再出発。
 その1での問題提起を再確認して、最近ネットの一部で話題になっていた「吉本ばなな居酒屋問題」と絡める形で、生活の希薄さの問題に関して、議論を展開しています。
 僕の主張というものは、簡単にまとめると、今日の時代は固有性の剥奪が過度に進行している時代なのではないか、というものです。(SIZ)

(参考)
よしもとばななさんの「ある居酒屋での不快なできごと」(活字中毒R。)
http://www.enpitu.ne.jp/usr6/bin/day?id=60769&pg=20090808

アフター・カーニバル深夜便(第十五回)〜生活の希薄さと固有性の剥奪を巡って・前半その1〜

 今週の深夜便は、先日僕がブログにアップした記事(「言葉のネタ的な使用について」)に対するA.I.氏のメールによる感想から出発して、われわれの世代において固有性のある言葉がなかなか立ち上がってこないのは、そうした言葉にとって基盤となりうる「生活」というものが希薄だからではないのか、という問題提起を行なっています。
 前半のその1は、地味な生活の積み重ねを重視している内田樹の文章を要約している途中で、R氏から電話がかかってきたために中断しています。(SIZ)

(参考)
言葉のネタ的な使用について――われわれアフター・カーニバル世代の課題
http://after-carnival.seesaa.net/article/125577274.html
After dark till dawn(内田樹の研究室)
http://blog.tatsuru.com/archives/000407.php

2009年08月21日

〈映画の見方〉がわかる本(町山智浩)

(この記事は2007年6月10日に書かれました)

 映画評論家である町山智浩が60年代後半から70年代までの映画を解説する。

 町山の映画評論(というのかな)の面白さは、その作品が制作された過程を豊富な資料を用いて解説するという、要するに楽屋裏話をするところにある。脚本家はどのような意図でそのストーリーを書き、監督はなぜそのような画面作りをしたのか、そして制作会社はどのように作品を改編し……という感じで「へ〜、あの映画ってそんなふうに作られてたんだ」と何だかすごい高尚な意図に基づいて作られたような映画が、実はかかわったスタッフ達の妥協の産物だったりして、そういう話を聞くと何かちょっと得した気になるというか、賢くなった気がするというか、そういう面白さが彼の評論にはある。

 そして同時に、その作品がどのような時代背景の中でどのような受容のされかたをして、その後どのような後発の作品を生んでいったのかを解説し、この本一冊読むと、その当時作られた映画が分かるだけでなく、そのときのアメリカの社会的・文化的状況までも知ることができるという結構お得な本である。素晴らしい。

 『2001年宇宙の旅』がアメリカンニューシネマを用意し、それを『ロッキー』が殺したという町山の映画の見方は、若干単純化しすぎかもしれないが、でもやっぱり「へ〜そうなんだあ」と思わされました。

 ついでに言うと、本書では言及されてないけどこれを読んで、アーサー・ヒラーの『ある愛の詩』はアンチ・アメリカンニューシネマなのだと気づいた。(A.I.)
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2009年08月19日

うつうつひでお日記(吾妻ひでお)

(この記事は2006年7月16日に書かれました)

 非常に楽しい本だった。僕は、このマンガは、「comic新現実」に連載されていたときから読んでいて、「新現実」での連載が終わったあとも、「コンプエース」を、このマンガを読むためだけに、少しだけ買っていた。

 今現在、僕にとって、この本は、文字通り「座右の書」になっている。ちょっと空いた時間にパラパラ読んだり、寝る前にパラパラ読んだりするのに最適な本だからだ。どこから読み始めてもいいし、どこで読み終えてもいいし、適当に眺めているだけでもいい。こういう本は、非常に重宝する本だと思う。

 これまで、僕にとっては、桜玉吉の『しあわせのかたち』がそのような本だった。それも、繰り返し読んでいたのは、日記形式になってからのもので、アスキームックの5巻はかなりの回数読んだ(4巻は友人に貸したままになっていて、ずっと読んでいない)。そういった種類の本が新たに手に入ったことは嬉しい限りである。(SIZ)
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2009年08月18日

このあいだ思ったこと

(この記事は2005年6月19日に書かれました)

 「書評」のほうに小谷野敦の『すばらしき愚民社会』について書こうかと思ったのだけど、読み終わった直後だというのにすでに内容を憶えていない。どうも最近こういうことが多くて、『雲のむこう、約束の場所』は見ている最中から色々気になったので、見終わってあわててパソコンに向かって書いた。この調子で行くと40歳くらいになったら親の顔さえ忘れてしまうのではないかとちょっと心配である。というわけで何か色々考えたらすぐに書いておいたほうが、心の健康のためにも記憶の補完のためにも良いかと思うので、このあいだ思ったことを書いておきたい。

 ぼくは現在通勤に車を使っていて、毎日55キロの距離を往復しているのだけど、その際ときどき見掛けるのが後部ガラスに「赤ちゃんが乗っています」と書いたステッカーを貼っている車である。以前はトラックなんかで「最大積載量 女房子供が食えるだけ」というステッカーを貼ってあるものがあったけど、ああいうシャレなら良いが「赤ちゃんが乗っています」というのは気持ちは分かるものの腹が立つ。まずだから何?と思うし、だったらこっちだって「運転手が乗っています」と言いたい。あるいは「27歳独身男が乗っています」か。もちろんこんな感じで「22歳、学生。彼氏いない歴4ヶ月。スレンダーで可愛い系よりは美人系の女の子が裸で乗っています」だったらこれはかなり嬉しいしお近づきになりたいけど、おそらくステッカーの文字を読むことがまず難しい。しかしこの「赤ちゃんが云々」はまだ良い方で、「BABY IN CAR」というやつは本当にどうにかならないものか。ぼくは英語が苦手なのできちんとしたことは言えないが、それにしても「CAR」に冠詞はつけなくて良いのだろうか。これでは「車の中の赤ちゃん」と言っているだけではないのか。あるいは「(一般的に)車には赤ちゃんが乗っている」というよく分からない宣言になるのではないのか。どうもここら辺がよく分からなくて、いつもあの「BABY IN CAR」を見掛けるたびに本当にこれで合っているのだろうかと思うのである。調べてみたところ、正しくは「BABY ON BOARD」というらしいが、確かにこれでは大半の日本人には何のことか分からないだろう。しかし「BABY IN CAR」というのはやっぱり何やら恥ずかしいので止めたほうがいいと思う。(A.I.)
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2009年08月17日

ゲームの報酬

(この記事は2005年4月10日に書かれました)

 山田昌弘の『希望格差社会』を読み終えた。感想は「回覧版(*旧掲示板のこと)」のほうにも少し書いたが、若干物足りなさを感じた。

 全体としては物足りないものだったが、部分部分では耳を傾けるに値する重要な示唆がいくつもあった。例えば、それは、次のような記述である。

 報われる見通しなきまま、「苦労」を強いられると、あるものは反発し、あるものは絶望する。またあるものは、そもそも報われない苦労を強いられる状況から逃れようとする。そして、次に述べるように、苦労を一時的に忘れさせてくれるものにふける人が出てくる。
 具体的に言えば、嗜癖(アディクション)に「はまる人」が多くなる。アディクションとは、これさえやっていれば、現実の苦労を一時的に忘れることができる活動をいう。軽いアディクションとしては、たばこ、酒、買い物、セックスなどが挙げられよう。パチンコやゲームセンター、そして、ファミコンなどは、「努力が報われるという経験」をバーチャルな世界で実現しようとする代償行為である。ゲームの勝ち方を学習し、それが勝利で報われれば、「希望」がかなうのである。いわゆる「収集癖」である「オタク」、「追っかけ」なども、一種のアディクションといえよう。問題をはらんだものとしては、ドラッグなども含まれる。
(p.206-207)

 僕が物足りなかったのは、こんなふうに、あらゆる現象を、ひとつかふたつぐらいのファクターで、あっさり説明してしまうところである。この本を読みながら、僕は「事態はそんなに単純だろうか」という疑問を常に感じていた。

 それはさておき、ファミコンなどのゲームに関して、それを「「努力が報われるという経験」をバーチャルな世界で実現しようとする代償行為である」という視点から捉えているのは、なかなか興味深い。

 確かに、ゲームは、やればやるだけ、努力が報われるような気がする。それも、その努力が比較的短時間のうちに報われる。例えば、RPGであれば、数時間レベル上げに精を出していれば、明らかにそのゲームのキャラクターは、数時間前よりも強くなっていることだろう。強くなっていれば、敵を容易に倒すことができるだろうし、そのことによって行動の範囲が今までよりも広くなることだろう。

 問題は、こうしたことはヴァーチャルな世界だけでなく、リアルな世界においても基本的に同じだ、という点である(だから「代償行為」と言える)。勉強に数時間をかければ、数時間前には解けなかった問題が容易に解けるようになるだろう。ある仕事に対して数時間訓練をすれば、ある技術を習得することができ、以前よりも仕事を容易にこなすことができるようになるだろう。

 それでは、ヴァーチャルとリアルとの間の差とは何だろうか? まず考えられるのは、事態を決定する要因が単純か複雑か、という差である。つまり、ゲームにおいては、一定の時間をかければ、誰でも成長することができるが、リアルな世界においては必ずしもそうではない。ほとんど何の努力もせずにある課題をこなす人がいる反面、何時間かけてもその課題をこなすことができない人がいる、というわけである。しかし、このことは、ゲームに関しても言えることだろう。ゲームが上手い人と下手な人がいる。つまり、ゲームにはまる人がいるとしても、あらゆる人がゲームにはまれるわけではない。ゲームにはまれるのは、その人がそれなりの才能(ゲームのシステムに順応できる才能)を持っているということである。

 「人生はゲームだ」というような言い方がしばしばされるように、ゲームにはまる人が必ずしも現実に適応できないわけではないだろう。山田の議論にもう少し近づく形で話を進めれば、問題は成功報酬の質にある、ということだろうか? ゲームにおいては、努力の結果が目に見えるような形で表われる。数値によって表われたり、何ステージ目まで進むことができたかということによって表われたりする。しかし、この点も、虚構と現実との間に大差はないように思える。

 この点は、山田の議論に対する反論にもなるだろう。つまり、山田は、ある職業に就くことができるか否かということを決定的なファクターと考えているようだが(確かにそれは重要なことだが)、最終目標に到達することができるかどうかが、あらゆる行為に意味を与えているわけではないだろう。つまり、ゲームをクリアしたあとでも、延々とレベル上げに勤しむ人がいるように、部分的な成長それ自体がその行為の意味を与えてくれることもありうるのである。

 それゆえ、問題は、セーフティーネットにあるように思えてならない。ゲームは、失敗しても、また一からやり直すことができる。しかし、それに対して、現実の世界では、失敗することが大きな痛手になるのではないか? ゲームにおいては、スタート時の条件はいつも同じだが、現実の世界においては、失敗するたびに、再出発の条件が悪くなっていくのではないか? かくして、出発するにあたって、二の足を踏む人が出てくるというのも、よく分かる話である。

 小さい頃からゲームをやり続け、10代のかなりの時間をゲームに費やした人間としては、ゲームとは何なのかという問いは、非常に関心のある問題である。(SIZ)
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2009年08月14日

ポセイドン(ウォルフガング・ペーターゼン)

(この記事は2006年5月28日に書かれました)

(ストーリー)
船が沈む。


 タイタニックよりも二回りくらいでかい豪華客船が巨大な横波を食らって転覆する。

 というストーリーからしてすでにもうおかしいのである。まずああいう砕ける波というのは沖では発生しないし(だから北斎の有名なあの絵はあり得ない場面なのである)、仮に発生したとしても船が大きければ大きいほどその影響は受けにくいので、わざわざ迫りくる波に対して横を向いたりしなければやり過ごせたはずなのである。それなのに面舵をとって横波食らって転覆しているのだからお話にならない。

 ただ、豪華客船に乗っているのは一杯5000ドルするようなワインを余裕で頼むことが出来るようなセレブばかりなので船が転覆したときには心の中でガッツポーズをとったし、ペーターゼン監督なのでとにかく迫力は保証されている。その点では間違いなく面白い。しかしペーターゼン監督なのでリメイク元の『ポセイドン・アドベンチャー』にあった人間ドラマは根こそぎどっかに行ってしまっているという難点もある。とは言え、ペーターゼン監督作品に人間ドラマを期待するような奴は劇場に足を運ぶべきではないのであり、だから余計な話は全部抜きにしてポセイドン号が転覆するとこに見入っていれば良いのだし、いっそのこと船が転覆して沈むだけで終わる映画でも良かったんではないかとぼくは思うわけである。(A.I.)
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2009年08月13日

ナイト・ウォッチ(ティムール・ベクマンベトフ)

(この記事は2006年4月9日に書かれました)

(ストーリー)
光と闇の勢力の戦い。

「立喰師列伝」でどうしようもない思いを味わったので連続して「ナイト・ウォッチ」を見た。

 そしてやっぱりどうしようもない思いを味わったのだった。これがロシア国内の興行記録を塗り替えたのかと思うと愕然とする。(A.I.)
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2009年08月12日

言葉のネタ的な使用について――われわれアフター・カーニバル世代の課題

 アフター・カーニバルでこれまで議論してきたことに、われわれに固有の言葉というものをどのように見出していくかという問題がある。しかし、この最初の問題設定の時点から、メンバーの間には意見の相違があるように思える。おそらく、「われわれに固有の言葉」というような世代的な括り方をしているのはA.I.氏であるだろう。それに対して、R氏は「われわれの言葉」ではなく、「私の言葉」というものを重視しているように思える。このような違いがあるにせよ、既成の言葉とは別の言葉の使い方を模索するというのが、これまでに形成されてきたアフター・カーニバルの結論的言説であるように思える。しかし、この結論に留まっていると、もうこれ以上、アフター・カーニバルの活動には発展性がないのではないかという気がしているので、この結論に対して、あえて、いくつか異論を提出してみたいと思う。

 まずは、R氏の「私の言葉」、個の言葉について。

 R氏は、個の立場を重視することによって、つまり、既成の言葉遣いから距離を取ることによって、自分の言葉を獲得していくという方向性を重視しているように思える。そして、このような文脈のうちで、(『風の歌を聴け』に見出される)村上春樹の自己療養の作業というものを評価しているところがあるように思える。しかしながら、この個の立場を重視するという方向性には、いくつかの難点があるように思えるのだ。

 まず、大きな困難を指摘すると、個の立場を発見していくということ、自らの固有性を発見していくということが、どのようにそれと分かるのか、という問題があるだろう。つまり、いったい、どこからどこまでが自らに固有な領分であり、どこからどこまでがそうでないのかという線引きをいったい何が(誰が)行なうのだろうか。ある種の自分探し的な方向性においては、常にこうした危険が伴うように思うわけだが、「これは自分ではない」という自己像の見かけを指摘することは容易だろうが、その容易さと同じくらい容易に、「これが自分だ」という自己像を発見してしまうことも起こりうるのではないか。つまり、見かけの背後に立ち現れる自己の本来性のようなものの見かけを、いったいどのようにして、偽りの自己像として排除することができるのだろうか。

 第一の問題点をまとめると、われわれは、自己の本来性の見かけを容易に退けることができるとしても、その後にやってくるもうひとつの見かけを避けることは非常に難しいのではないか、ということである。いったい何が本質と仮象とを区別するのか。その基準を明確にしない限り、本来的な自己について語ることはできないだろう。

 この問題が、つまるところ、個に立脚することの究極的な難点であるが、ここから派生される同種の困難についても記述しておこう。

 まず問題になるのは、いったいどのようにして個の立場を確保することができるのかということである。例えば、個という概念は集団という概念と対立するものであるが、個と集団とを厳密に区分するのは極めて難しい作業であるだろう。つまり、いったいどこからどこまでが個人の意志であり、どこからどこまでが集団によって形成された意志なのかということを決定するのは困難であるだろう。自分が、「それは個人の意志だ」というふうに見なしたとしても、それを集団の意志と取り違えることがありえないとどうして言えるのだろうか。

 同種の問題は、言葉の使用の問題としても打ち立てることができる。つまり、言葉というものが、個人のものではなく、集団のものであるとすれば、言い換えれば、言葉というものには常に他者性が刻印されているとすれば、個人の言葉が他者に理解されない可能性は、どんな場合においても、残ってしまうと言えないだろうか。つまり、自分の苦しみや痛みといったものが他人に理解されないとすれば、その理解されないということ、どんな場合においても誤解されるという可能性こそが、言葉にとっては本質的だとは言えないだろうか。

 以上のような困難が解決されない限り、個の立場を重視して、そこに立脚する形で、個人に特有の言葉を紡ぎ出すことはできないのではないかと僕は思うのである。そして、上記の「個人に特有の言葉」というところを「われわれの世代の言葉」というふうに置き換えてみれば、上記の問題はA.I.氏の主張にとっても問題であると言えるが、A.I.氏は、そのような固有の言葉を発見するにあたって、何らかの枠組みを参照すべきだということを主張しているように思える。ここで、その枠組みというものが既成の枠組みのことを指しているのかどうかという点は問題であるが、既成の枠組みを採用するという方向性の可能性をこれから少し検討してみたいと思う。

 この方向性は、言い換えれば、個に立脚する立場とは対極にあるような立場、つまり、既成の言葉遣いを採用することによって、逆に、われわれの言葉を獲得していくという方向性だと言える。このような方向性は、『戦争の法』で描かれていたような、あえて紋切り型を採用するという立場、あるいは、村上春樹が自らの物語を紡ぎ出すにあたって、ジャンクな物語の枠組みを採用したという方向性と合致するかも知れないが、こうした方向性においても、大きな困難が存在することだろう。それは、あえてその言葉遣いを選んだという倫理性(距離感)をいかにして担保できるのかという問題である。この点について詳述する前に、まずは、こうした方向性の言葉遣いを特徴づけておきたい。

 この方向性の言葉遣いは、それが既成の文脈に則っており、すでに誰かが言った紋切り型をあえて意識的に採用しているという点で、言葉のネタ的な使用というふうに言うことができるように思う。言葉のネタ的な使用においては、個の出現というのは非常に希薄であると言える。それは、その言葉が他者にどんなふうに受け取られるのかということが事前に了解されているような言葉の使用だと言える。それは、端的に言って、受け狙いの言葉遣いであり、意味上の齟齬というものがほとんど生じない言葉の使用だと言える。つまり、誤解の生じにくい言葉の使用だと言える。

 そのような言葉が極端な形で使用されている場所として、2ちゃんねるやニコニコ動画の名前を出すことができるだろう。これらの場においては、匿名性というものが重視されているがゆえに、発話者の個の次元というものはほとんど現出しない。そこにおいては、ある一定のルールに従って(場の空気を読んで)、決まり文句を口に出すことが重要になってくるのである。

 2ちゃんねる的な、あるいは、ニコ動的な、ネタ的な言葉の使用とは、発話者の立場というものを括弧に入れることによって可能となる言葉の使用だと言える。これは、つまり、発話者が実際に何を考えてそういうことを言ったのか、ということをあえて問わない言葉の使用である。こうした場所においては、言葉のベタな使用というものは、極めて困難になることだろう。つまり、そこにおいては、パフォーマンス性というものが重視されるのであり、結果、真面目な議論というものは成立しにくくなるだろう。つまり、何かを語ったときに、その語った内容よりも、それをどんなふうに語ったかといった姿勢のほうに常に注意が向けられることになるのである。

 それゆえに、2ちゃんねるやニコ動においては、発話者は常に仮構された存在になると言える。「私」という個が語るのではなく、特殊な仮構された存在(これをキャラクターというふうに言うこともできるだろうが)が語るのである。

 ネタ的な発言のうちには、その発言を極力真面目に受け取らないでほしいというメッセージが暗に内包されていると言える。むしろ、そこでの発話者がベタにそれを語っているように見えるという見かけとそのパフォーマンス的な側面であるネタ的な振る舞いとの間に距離が取れていれば取れているほど、その発言はクオリティの高い発言になりうると言える。これは、つまり、分かる人には分かるし、分からない人には分からないという、高度なリテラシーを要求する発言である。端的に言って、これは、内輪の人間と外の人間とを選別する発言である。

 自分は、この発言を本当に信じてそう言っているのではなく、あえてそう言っているにすぎないのだ、ということ。このような態度をアイロニーと呼ぶことができるだろう。このようなアイロニカルな態度は、極めて防衛的な態度だと言えるが、なぜそんなふうに過度に防衛的にならなければならないのかというところに、われわれの世代の問題が見出されるように思う。

 われわれが過度に防衛的にならざるをえない理由。それは、われわれの依拠すべき場所というものが、逆説的にも、「私」というものしかないからなのではないか。この「私」というのは、明確な主体としての自我といったものではなく、空っぽの「私」、ただ「私」しかないというような単なる一人称以上の意味を持たない「私」である。このような内実のない「私」に向かって、過度に固有性を求めることは、非常にきつい要求になっているのではないだろうか。こういう次元においては、われわれは、自ら進んで自らの固有性を捨て去っていると言えるのではないかと思うのである。

 この点で、われわれの世代の問題は二重化してくる。一面においては、「私」の存在が希薄であるという問題があり、他面においては、そんなふうに単なる「私」でしかないという状況に耐えられない(承認が存在しない)という問題もある。われわれの世代にとって、固有性の解消の問題、個が剥奪されるという問題は、決してネットに特有の問題なのではなく、現実の社会的なレベルにおいても要請されているように思う。例えば、今年の始めに話題になった派遣労働者の問題とは、彼らの存在というものが他の人間といくらでも取り替え可能な存在になっているところにあると言えないだろうか。つまり、社会のあるレベルにおいては、人間の固有性の剥奪への要求というものが実際に存在するということである。

 秋葉原事件を引き起こした加藤智大も同種の問題を抱えていたのではないかと思われる。そんな彼がネットに書き込んだ言葉が固有性をまったく欠いた言葉だったという点が極めて象徴的である。つまり、彼のうちには矛盾するような二つの要求があったのではないか。自らを認めてほしいという要求が一方にあるとしても、そこで認められる自分の内実というものが希薄であるがゆえに、個というものを露出させないでほしいという要求も一方には存在していたように思えるのである。こうした二つの要求を同時に満たすために彼が選んだのが、言葉のネタ的な使用、言葉の防衛的な使用だったのではないか。そういう意味では、彼の起こした犯罪には、パフォーマンス以外にまったく内実がないというところに核心があるのではないかという気もしてくるのである。

 つまるところ、われわれに固有の言葉を発見するなり創造するなりと言ったときに、大きな困難であると思われるのは、そのような言葉が立脚するべき「私」なり「われわれ」なりといったものが非常に希薄なのではないか、ということである。そうした点で言えば、人々は、固有の物語や固有の自己像などを求めることなどなく、むしろ、安易な物語、ジャンクな物語に飛びつくことによって、単純化された自己像というものを発見しようとするのではないだろうか。

 われわれがこれまで話してきた問題というのは、われわれに固有の痛みや苦しみといったものが先行世代の人たちに理解されないというものだった。そのような固有性を伝える言葉が欠けているのではないか、というものだった。しかしながら、われわれの世代特有の言葉の獲得というものがありうるとしても、それは、個々人の努力によってだけで、どうにかなる課題なのだろうか。つまり、A.I.氏が主張するように、「私」の言葉ではなく、「われわれ」の言葉というものを確立することが目指されているのであれば、そこで前提となっている「われわれ」の内実というものをまずは確立すべきではないかと思う。これは、つまり、新しい社会、新しい共同体をいかにして確立することができるのかという課題でもあるだろう。

 こうした課題を達成するためにも、われわれが実際にどのような言葉遣いをしているのか、ネットにおいてどのような言葉が流通しているのか、といった現状認識にもっと時間をかけるべきではないだろうか。われわれが現在すでに行なっていることのうちにしか脱出口は存在しないのではないかと思うのだが、どうだろうか。脱出口を探し求める手がかりのひとつとして、ニコニコ動画について見ていきたいという思いもあるのだが、ニコニコ動画に限らず、現在の文化的な産物に鋭く切り込んでいく視点を獲得していくことが必要になってくるだろう。そのためにも、これまでにアフター・カーニバルにおいて形成されてきた言説を再度検討する必要があると僕は思っているのであり、そのような批判的な検討がいくつかの壁を突破することに役立つのではないかと思っているのである。(SIZ)

2009年08月11日

道化の華

(この記事は2006年5月2日に書かれました)

 押井守の『立喰師列伝』を見た。この作品については、「映画レビュー」の欄で、A.I.氏も感想を書いているので、参照していただきたい。

 この作品の前面で主張されていることは、おそらく、「昔は良かった」というノスタルジーだろう。ペダンティックなモノローグという挟雑物を通しながらも、何となく、押井の言いたいことは理解できた。つまり、便利で、清潔で、システマティックになった現代社会に決定的に失われたものがある、ということである。

 この点で、押井は、新しい戦後史を描く、というような野望を持っていたかも知れない。つまり、現代の視点から見られた光り輝く戦後史ではなく、暗くジメジメとした陰湿な戦後史というものである。そして、そのような戦後史の中に、アニメやマンガなどのサブカルチャーを位置づけることは、基本的に正しいと思う。つまり、言ってみれば、それは、サブカルチャーとしての戦後史なわけである。

 しかし、そのような戦後史を語るにあたって、押井のペダンティックな語りは、ほとんど障害物にしかなっていないように思える。

 僕は、オープンとクローズドというのは、そう単純には、対立しないものだと思っている。つまり、完全にオープンであることはありえず、あまりにもオープンになりすぎて人を倦厭させることもありえるだろうし、逆に、クローズドであることは、一部の人にとってはオープンであるということと同義であるだろう。

 その点で、押井の作品にとっての問題とは、押井は誰に対してオープンなのか、ということである。僕は、押井のペダンティックな語りは、完全にフェイクだと思っている。それは、完全に無内容であり、そうした無内容さを前提にして(観客がそのような語りをメタレベルで受け取ることを見越して)、初めから作品を作っている節がある(もちろん、その語りから、意味を読み取ることは可能であるが)。

 映画の中で非常に印象的だったシーンとして、立喰師のひとりが電話で母親と話をするシーンがあった。そこで、母親は、「いったい、なぜ、お前は、立喰師なんていう、ありもしない職業を、本に書いたり、映画にしたりするんだ?」というようなことを言うわけだが、これほど、事態の核心を突いた台詞はないだろう。これは、もちろん、押井が自分自身に発した問いであり、そこで、押井は、「お前は、何の役にも立たないことを、なぜやっているんだ?」というふうに自分を問いただしているわけである。

 こういう台詞を入れられる点で、押井は、やはり、非常にセンスがある人だと思う。しかし、押井の問題点は、自分を完全には道化にできない点だろう。つげ義春や吾妻ひでおのような人は、自分を道化にすることができたわけだが、押井には、やはり、一抹の羞恥心のようなものがあるのだろう。そこで、押井は、一種のバランスを取るため、無意味な独白を重ねることで、観客の苦笑を買おうとしているように思えるのだ。

 おそらく、押井の求めている言葉は、「こんな馬鹿な映画を作りやがって」というものだろう。そう言われることが、押井映画の最大の賛辞になりえると思われる。しかし、そう言われるためには、馬鹿さ加減がまったく足りないだろう。ほとんど人が見ないような映画を作るという志には共感するが、今度は、もっと吹っ切れて、誰も見たくなる人がいなくなるようなバカバカしい映画を作ってほしいものである。(SIZ)
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2009年08月10日

立喰師列伝(押井守)

(この記事は2006年4月9日に書かれました)

(ストーリー)
立喰師と呼ばれる無銭飲食のプロたちの生き様を追うことで立ち現れる戦後史を描く。


 最近全然映画を観ていないので映画館に出かけて、「ナルニア国物語」と「ナイトウォッチ」とこれで迷ったあげく、上映時間が一番近かったので選んだ。

 立喰師という架空の職業(というかヤクザ)を通して描かれる戦後史という話だったのでちょっと期待していたのだけど、はじまった瞬間にこれを選んだことを後悔した。

 よく考えてみるとぼくは押井作品を面白いと思ったことは一度もないわけで、だったらせめてDVDレンタルで済ませればよかったわけなのだけど、最近映画を見ていないせいで選択眼がだいぶ落ちていたようだ。最後まで見るのはけっこう苦痛だった。

 押井作品独特な饒舌とも言える言葉遣いも全然魅力的ではないし(というか勘違いしたハードボイルドという感じですでに滑稽でしかない)、そもそもその言い回しによって語られる戦後史もどっかで聞いたようなものであって全然独創的ではない。例えば戦後すぐに現われた立喰師が月見蕎麦を頼んで言う「結構な景色だ」というセリフにしても、要するに蕎麦と称しながらも蕎麦らしいところはなく、またその蕎麦に玉子をのせるというジャンクな立ち食い蕎麦のあり方を戦後日本になぞらえつつ、そうでありながらも肯定しているとまあその程度のことなのである。

 つまりこの作品において見るべきところがあるとすれば、それは、とりあえず面白いと言えなくもないかもしれない気もしなくもないという程度の映像と、立喰師という職業を創作したことだろう。しかしだったらなおのこと立喰師なるものとそのような職業を成り立たせた時代をひとつの物語のなかで語るべきであったのだと思う。

 アイディアは良いと思うのだけどアイディア出しただけで満足してしまったのだと思う。要するに早漏でオナニストなんだよ押井は。それは別に構わないし、ぼくだって人のことは言えないわけだけど、しかしそのオナニーを人に見せるなと言いたい。(A.I.)
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2009年08月09日

アフター・カーニバル深夜便(第十四回)〜村上春樹を再読する:『風の歌を聴け』・後半〜

 村上春樹を再読する企画の第一弾の後編。今回は『風の歌を聴け』の内容に踏み込んで語っています。
 これまでのアフター・カーニバルの活動で、どのような方向性から春樹を読んできたのかということが、ここでまとめられています。
 われわれにとっての現代的な問題、祭りの後の問題についても話しているので、そうした点にも注目して、聞いてみてください。(SIZ)

2009年08月08日

教育工場の子どもたち(鎌田慧)

(この記事は2006年11月8日に書かれました)

 鎌田慧の本は、以前、トヨタの工場労働者についてのルポ「自動車絶望工場」を読んだことがあったが、その本に比べると、この教育についての本は、やや迫力に欠けるところがあった。「自動車絶望工場」のほうは、著者自らが労働者となって働いた記録だったので、非常に生々しいリアリティがあったのだが、この「教育工場」のほうは、他の人から話を聞いてまとめている分、核心的なところに今一歩届いていないという印象を受けた。

 この本は、今から20年以上前、80年代に書かれたものであるが、それにしても、教育やその他を巡る状況が現在と非常によく似ていると思った。「文庫版あとがき」にはこうある。

 親たちのあいだに「一流企業」志向が昔よりも強まったのは、中小企業との年収での格差がひらいてしまったからである。六〇年代の高度成長は、日本経済の二重構造を解消させるなどの楽天的な予測もあったが、実際はより格差を拡大しただけだったし、その後の低成長はさらにそれを絶対的なものにした。さいきんでは、身分不安定なパート、アルバイターの激増となり、人材派遣業の認知は、少数の大企業エリートと膨大な雇用不安層をつくりだそうとしている。
 高度成長以後、もうひとつあらわれた現象は、商店や町工場や生業の経営逼迫である。これは、そびえたつデパートやスーパーから外れた商店街の閑散とした風景やシャッターをおろしたきりの店のたたずまいなどからうかがい知ることができる。
(p.234-235)

 これと同じ文章が現在に書かれたとしても何もおかしくないだろうが、80年代からこのような状態だったということは記憶しておくに値すべきことだろう。

 同様のことは、いわゆる愛国心教育、日の丸や君が代の取り扱いについても言えることである。この本の中で批判的に取り上げられているのは、愛知と千葉の管理教育なわけだが、こうした傾向が80年代からすでにあったということは、これもまた記憶に値すべきことである。80年代初頭は、子供の数が増えてきて、それに伴って高校進学・大学進学の割合も大きくなり、結果、受験競争や学校の荒廃化といった問題がいろいろと出てきた時期であったが、そうした時期だからこそ、管理強化が謳われたというだけでなく、戦前からの教育の継続という側面もそこに見出すことができるように思えるのである。つまり、本文で書かれていたように、その当時においては、校長他、ある程度の割合の教師たちが戦前の教育を実際に受けていて、そうした教育を肯定的に評価しているということである。

 つまるところ、ここには、明治時代から始まった日本の近代化の流れが、戦後において断絶することなく、現在においても継続されているということである。もちろん、現在の教育と戦前の教育とではかなり異なっているだろうが、しかしまた、同一のところもあるというところにも注目すべきだろう。

 戦後民主主義教育については、最近、それを批判する声をよく聞くが、僕は、そもそも、民主主義教育などこれまであったのだろうかと疑問に思っている。よくよく考えれば、江戸時代から、まだ150年くらいしか経っていないのである。その間に、様々なことがあったわけだが、そんな短期間に、人間の社会が変わるとはとても思えない。そうした点から、僕は、戦後民主主義批判というものは、少々方向違いのところがあると思っているのである。

 鎌田慧は明確に左翼的な思想の持ち主であるが、まさに、その左翼思想が、彼が問題の核心を捉え損ねている大きな要因になっているように思える。つまり、あまりにも、左翼思想に傾倒していると、始めから結論ありきになってしまって、事態の細かい側面を見過ごしてしまうところがあるのではないかと思われるからである。逆に、鎌田慧がこれほど確信を持ってエネルギッシュに仕事をしているのも、おそらくは左翼思想のためだと思えるので、その点では、左翼思想は諸刃の剣だと言えるだろう。

 「自動車絶望工場」でも「教育工場」でも、労働組合がほとんど機能していないことが指摘されているが、80年代ですらそうなのだとすれば、現状はもっと惨憺たるものなのだろう。そうした現状に対して、労働組合の意義のようなものを強調してもほとんど無意味なのだろう。大衆の無知や資本主義のイデオロギーのようなものを強調しても無意味だろう。人間というものは、単にイデオロギーだけで動くものではないのではないか? 何かそこから零れ落ちるリアルなものがあるように思えるのだ。

 いわゆる日本的な村社会、同調圧力が強く排他的な村社会が問題なのだろうか? それも重要な要因だと思われるが、しかし、事態はおそらく、複合的な要因の集積から出来上がっているように思える。戦前とも80年代とも異なる2000年代特有の問題がある一方で、人類誕生からずっと変わることのない問題というのもあることだろう。問題をすぐさま「是か非か」で捉えるのではなく、そこで働いている複合的な要因を分析してみるという作業がまずは必要になるのではないかと思った。

 いずれにしても、鎌田慧のルポは、時間が経ってもほとんど色褪せることはなく、現在の問題を考えるためにも大きな参照点になるテキストであるように思う。(SIZ)
posted by SIZ at 20:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 読書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年08月07日

終末のフール(伊坂幸太郎)

(この記事は2007年1月23日に書かれました)

 八年前に、地球に小惑星が衝突し、あと三年で滅ぶと宣告された世界。これだけ聞くと、なんとなく流行の文脈にのっかった作品だと感じられるかもしれない。

 しかし、それは何でもない。たしかに流行の文脈かもしれないが、その状況のなかで、流されず、自分自身の立ち位置を明確化しようという気概に溢れている。世のさまざまな事象にたいして、穿った見方をしよう、斜に構えてみようといった自分自身の歪んだあり方を逆照射される作品である。

「明日死ぬとしたら、生き方が変わるんですか?」
「あなたの今の生き方は、どれくらい生きるつもりの生き方なんですか?」

 変えたくないような生き方をしたいと思う。死の可能性は毎瞬間に内在する。この前提からすると、「明日」、つまりいつか死ぬから生き方を変えてしまうということは、この一瞬一瞬、常に自分のあり方を否定し続けていることになる。自分のどんな行いも発言も、常に嘘であることを前提に始めているようなものになるのだ。(イワン)
posted by SIZ at 23:18| Comment(0) | TrackBack(0) | 読書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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