2009年07月31日

NOTHING(ヴィンチェンゾ・ナタリ)

(この記事は2006年2月3日に書かれました)

(ストーリー)
なんというか、主役の二人とその住みか以外何にもなくなる話。いやほんとに色んな意味で何もない・・・。


 あまり語ることがない。

 「CUBE」「カンパニーマン」と見てきて、これを見ると肩透かしを食らうものがある。

 ナタリはこれまで不条理な状況とそれを通した人間のドラマを提示してきた。本作もこの路線ではあるのかもしれない。

 だが今回は同時に、不条理や「理由のないこと」を描くことに対する難しさみたいなものを感じさせた。不条理な出来事に対して、「ただ理由がない」というのが、ただの思考停止か職務放棄にしか見えないほどに、今度の筋と描写が色々に脆弱なのではないだろうか。

 いやもう一度その点に絞って見直してみれば、彼の描こうとした「真実」がつかめるかもしれないが、とにかくそんな気にさせない映画だったことは確かだ。

 切ないくらい二人がどうしようもないほどな人間造型なのは、よかったのだが、ちょっとやりすぎな感じもした。(R)
posted by SIZ at 14:52| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年07月30日

キング・コング(ピーター・ジャクソン)

(この記事は2005年12月29日に書かれました)

(ストーリー)
キング・コングが暴れたり滑ったり落ちたりする。


 オリジナル版を観たことはない。評判の悪い76年版を観たきりなので、キング・コングと恐竜が闘うみたいなアホな設定を21世紀になった今更もう一度やってみようというその心意気には参る。そういう意味ではオリジナル版を踏襲したこの設定は新鮮であった。

 で、内容の方はと言えばとにかく色んな怪物が出てきてほとんどバトル・ロイヤルといった感じですごいし、舞台がNYに移ってからもけっこう胸に来るシーンが多くて良かった。傑作だと思う。(A.I.)
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2009年07月29日

アイランド(マイケル・ベイ)

(この記事は2005年12月29日に書かれました)

(ストーリー)
男女が頑張る


 人類は皆無機質なビルの中の狭い部屋に住み(外界は「汚染」されているのだ)、起きると自動的にその日着るべき衣服が出てきて(みんな同じ色で体にフィットした服)、ありとあらゆる点で究極的に管理された社会に住んでいるというディストピアSFを21世紀になった今更やられてもと思いつつ見たが、良い意味で裏切られた。
 
 途中のカーチェイスはかなりの迫力だし、ディストピアものの文脈を押さえたようなラストも良かった。けっこう好きかもしれない。(A.I.)
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2009年07月28日

オープン・ウォーター(クリス・ケンティス)

(この記事は2005年11月27日に書かれました)

(ストーリー)
とある夫婦が休暇でスキューバ・ダイビングを楽しむが、海面に戻ってみるとボートがいなくなっているという実話に基づいた話らしい。


 実話を基にしたとか、実際にサメのいる海域で撮影したとかで話題になった。相当の低予算映画でセットを使わず全て実際に海で、サメのいる横で撮影を敢行したらしいけど、確かにその甲斐あって、よくよく息苦しい映画にできあがっている。特に監督の力量が高いとは思えないけど(不必要なシーンが多いし、撮り方もあんまり上手くないと思う)、その分だけ安心感も少ないというか、映画だと分かっていながらもけっこうどきどきした。

 あんなふうに死ぬのだけは嫌だ。(A.I.)
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2009年07月26日

アフター・カーニバル深夜便(第十三回)〜ボーカロイドとニコ動的なキャラクターの生成・その4〜

アフター・カーニバル深夜便(第十三回)〜ボーカロイドとニコ動的なキャラクターの生成・その3〜

アフター・カーニバル深夜便(第十三回)〜ボーカロイドとニコ動的なキャラクターの生成・その2〜

アフター・カーニバル深夜便(第十三回)〜ボーカロイドとニコ動的なキャラクターの生成・その1〜

ニコニコ動画について語るシリーズの第三弾(実際は第四弾)。今回は初音ミクを始めとしたボーカロイドについて。

2009年07月24日

ヒストリエ(岩明均)

(この記事は2006年5月31日に書かれました)

 漫画。

 「アレキサンダー大王の書記官エウメネスの波乱に満ちた生涯!」
というコピーどおり、古代ギリシアに活躍したらしいものの脇役人生を送った人間にスポットを当てている。

 岩明の漫画はおそらくほとんど読んでいる。特に『寄生獣』をはじめて読んだときはやっぱり衝撃だった。が、その後はイマイチというところで『七夕の国』も『雪の峠・剣の舞』も『ヘウレーカ』も面白いことは面白いけど、というあたりだった。そう考えると初期の『骨の音』とか『風子のいる店』とかもそこまで面白いものではなかったわけで、要するに『寄生獣』の一発屋だったのだろうとそのように理解していたわけである。

 が、『ヒストリエ』はかなり良いと思う。まだ、3巻までなので今後の展開にもよるが傑作になる可能性をもった作品だと感じた。なんとなくだけど。アララララーイ(A.I.)
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2009年07月23日

男女七人ネット心中(渋井哲也)

(この記事は2006年5月21日に書かれました)

2004年10月に起きたネット心中事件(ネットで呼びかけた男女が車内で練炭自殺をした事件)を中心に、ネットと自殺を巡る問題を取材したルポルタージュ。

 残念ながら、この本は、問題の核心を抉り出すまでには至っていないように思える。そもそも、何が問題なのか、ということを明確化するまで至っていない。著者の知り合いの女性の自殺を止められなかったことの無念さと、その女性についての実像を誤りなく示したいという気持ちは伝わってくるのだが、やはり、幾分かの考察は欲しいところである。

 この本を読んでいて、僕が最も興味を引かれたところは、リストカットについて書かれた部分である。リストカットが単なる自殺未遂と異なるというのは、今や、広く行き渡った知識であるだろう。リストカットをなぜ行なうのか、という問い対するリストカッターの答えは、ほぼ共通している。それは、自身のイライラを解消するため、張り詰めた精神を安定させるため、というものである。

 リストカットは、基本的に、攻撃性という水準で考えるべきだろうが、そうした攻撃性が外に向かうか内に向かうかは、それほど大きな違いではないように思える。その点で、リストカットには二重の意味があるように思える。つまり、攻撃することと罰せられることの二つである。

 いったい、誰が攻撃をして、誰が攻撃を受けるのか? 誰が罰を与え、誰が罰を受けるのか? この点は、リストカットをしている本人にとっては、まったく自明ではないだろう。ただ、そこには、血が流れる、という事実があるだけである。

 リストカッターは、その行為によって、ある種の負債を支払っているのではないだろうか? いったい、誰の何の負債なのか、ということもまた自明ではない。ただ、事態を収めるためのひとつの方策が手首を切るという行為なのである。

 リストカットは、それを誰かに見せるために行なっているということは、間違いないだろう。しかし、同時に、リストカットは隠されてもいるだろう。ここにもまた、二重性が見出されるわけである。

 以前、夜回り先生がテレビで、「リストカットは人前でやれ」というようなことを言っていたが、これは、まさに、リストカットの意味を明らかにする指摘だろう。つまり、リストカットは、ひとつのメッセージであるということ、言語化されていないメッセージだ、ということである。

 ネット自殺にも、「見せる」という側面が強くあるかも知れない。なぜ、ひとりで自殺をしないで、集団で死ぬのかという点については、自殺者が何を求めているのか、ということと関わってくることだろう。つまり、自殺に関しても、負債という観念を導入するのであれば、「なぜ、この私が、支払いをしなければならないのか」という不満がそこにはあるように思えるのである。

 おそらく、自殺志願者は、自分のことを被害者だと思っていることだろう。つまり、誰かの負債を背負わされた者というふうに、自分のことを認識しているのではないか? 彼ら彼女らにとって、生きることは、この不当な負債を自分の手で埋め合わせていくことである。これが、彼ら彼女らにとっては、苦痛なのだろう。

 このようにマイナスが重なった人生に、さらに、自殺というマイナス要因を加えることに、抵抗を覚える人たちがいるのではないか? そういう人たちにとっては、集団で自殺するということは、そうしたマイナスの支払いを軽減できることであり、その分、かなり気楽に自殺をすることができるようになるのではないだろうか?

 リストカッターにしろ、自殺者にしろ、問題とすべきなのは、彼らがそこで感じている不当な負債をどのように軽減するのか、ということである。あるいは、言い方を変えれば、いかにして、その支払いを先延ばしにするか、ということである。

 リストカットも自殺も、負債を先延ばしにするひとつの方法だとは言える。というのも、自殺は、自分を支払い不能な存在にすることであり、リストカットは部分的にその支払いを行なっていると考えられるからである。支払いを進んで肩代わりしてくれる人がいれば、問題はすぐに解決できるだろうが、そんな奇特な人はめったにいないことだろう。やはり、実効性がありそうなのは、集団自殺のように、他の人と共同することによって、負担を軽減することであるが、まさに、そのような繋がりを作ることが現代という時代では困難であるのだろう。(SIZ)
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2009年07月21日

総選挙・再考

(この記事は2005年9月18日に書かれました)

 個人的には民主党の惨敗は、ごく簡単に説明がつくことだと思っていた。別に新聞の調査とかを見る前からおそらく自民党が勝つだろうとは思っていたし、さすがにここまで大差になるとちょっとひくけど、にしてもそう不思議なことではない。

 そもそも民主党は明らかに戦略を誤っていたと思う。いくら「選挙を人気投票にするのではなく、政策を見て決めるべきだ」などと言ってみても、その政策の面で(特に郵政民営化)あんなふうに腰が据わらないようでは、そりゃ信用もされまい。結局あの民営化法案を廃案に追い込んだのも、「自民党を追い落とすため」であって、法案そのものに反対だったからとはあまり思えないし、こちらとしてはそういう茶番にはもううんざりなのである。実際小泉首相の構造改革が良いのか悪いのかは分からないけど、あの法案が廃案になったときはさすがにもういい加減こうやって何時までも同じ場所で停滞するのはやめて何か前に進めることを考えてほしいと思ったものだ。

 が、最近ちょっと面白いなと思うのは、その後のマスコミやら知識人たちの反応で、しきりと今回の総選挙の自民党大勝の理由を分析しようとしていて、その分析がどういうものかとか妥当かとかは別に興味ないのだが、何故そんなに分析したがるのかには興味をそそられる。

 いくつかの新聞と亀井静香と菅直人が言っていたのは「国民は小泉首相の催眠術にかけられてしまった」というようなものだったけど、こういう言い方には「小泉首相と自民党を支持することは明らかに誤った選択である」ということが自明の前提になっていて、さらにその「誤った選択」が成されたのは「国民は愚かで、つまらないまやかしに簡単に引っ掛かるものである」という「国民=衆愚」の図式的な考え方があると思う。

 あるいは香山リカがどこぞで言っていたことだけど、「小泉の構造改革は弱者を真っ先に切り捨てるものであるにもかかわらず、2ちゃんねらーのような“社会的弱者”に保守が多いことは矛盾していて、その矛盾に彼らは気づいていない」みたいな議論がある。このような意見の背後にも「私は今までずっと弱者の味方だったのに、その弱者に裏切られた」というような気持ちがあるように見えてならない。とりわけそういうことを言う奴がインテリだったりすると、弱者の味方をしているつもりの強者が上からものを言っているようにしか見えないのである。

 ぼくは去年までほとんど引きこもりみたいな人間だったし、精神的マイノリティなので言わせてもらうが、弱者にとってなによりむかつくのはこういう「私は弱者の味方です」と言っているような奴なのである。そもそも「弱者」にとっての救済とはいずれ自分が強い側にまわって自分より弱い者を叩くことなのであって、別に彼らが「弱者」であると認定されることではないし、場合によっては自分が「弱者」であると気づいていないことも多いのだ。

 半年くらい前にやっていたNHKの格差社会についての番組で、30代のフリーターがライブドアの株を買っていたように、弱者は常に強者を見上げざるを得ない。「いつか金持ちになってやる」と弱者が言うときのこの視線の上下関係こそが格差を広げているのであり、その点では格差を拡大しているのは勝ち組なのではなく、勝ち組を見上げ続ける負け組なのではないかとも言える。もしあの30代フリーターにライブドアの株券を破り捨てることが出来ていたら、そもそも彼は弱者にはなっていなかったに違いない。それが出来ないから彼は常に負け組なのである。

 今回の総選挙にしてもそうだ。何度かラジオで「とにかく各党の政策をちゃんと理解したうえで投票に行くようにしてほしい」と言っていたコメンテーターがいたけど、なぜ彼らは国民に勉強することを求めるのか。終わった後でやっぱり国民はバカだったと言っても始まらない。そんなことは最初から分かっていたことだ。弱者・負け組に賢くあることを期待しても仕方ない。これまでの日本にいた弱者(女性・障害者・在日など)と違い、現在の弱者・負け組はバカで盲目的だからこそ弱者・負け組なのである。だからこそ「彼らが負け組なのは努力が足りないからだ」という説明が説得力を持って語られてしまうのである。弱者の社会的救済を謳うのであれば、それは「救いようのないバカ」を救うのだという自覚を持つことが必要だ。弱者救済を謳う人間が結局「国民はバカだった」とか「救われるためには悪い奴に騙されないように個人個人が努力することが必要だ」というようでは、事態は収拾がつかないほどに深刻だとしか言いようがない。そこはすでに強者の言葉で満ち、弱者が声を挙げる隙などはどこにもないことになる。(A.I.)
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2009年07月20日

総選挙のこと

(この記事は2005年9月11日に書かれました)

 開票速報をちょっとだけ見た。

 ぼくは衆議院解散した直後から自民党が勝つだろうと思っていて、あのとき民主党やら造反組やらあるいは各種マスコミやらが鬼の首とったように小泉政権は終わったと浮かれているのを見て、何でこの人達はこんなにも自分たちが国民にどう見られているのかが見えていないんだろうと思ったが、それにしてもここまで大差で自民党が勝つ(っぽい)とは思っていなかったので、ちょっと拍子抜けした。

 ぼくは今まで基本的には民主党支持だったのだが、今回はどうしても民主党にだけは入れる気になれず、今まで入れたこともないような党に票を投じたのだけど、それにしてもここまで民主党が不甲斐ないといったい民主党は何をやっとるんだとだんだん怒りを感じてくる。いくらマニフェストを頑張って作ろうとも、そんなもん誰も読んじゃいねえんだということに何故民主党の方々は気づかないのか。実際のところ政策に関して言えば、自民党だろうが民主党だろうが共産党だろうが大差はない。悪いことを言うわけではないのだし、掲げている政策が本当に実現できるんなら別に共産党でも社民党でも自民党でも良いに決まっている。いや、もちろん党ごとに重視する政策というのはあるし、その内容もある程度は善し悪しというものがあるんだろうが、そんなこと政治の知識もない我々が分かるはずもないわけで、ましてや年金改革を先にやるべきかそれとも郵政かなんてどっちがいいのか分かるわけない。どっちもやりゃいいんじゃねえのかと思ってしまう。結局我々が判断基準にするのは政策の内容ではなく、その言葉を実行に移すだけの力がある(ように見える)か、言ったことは守る(ように見える)かということで、それにしたって本当に出来るかどうかは分からないわけだから、要するに「ように見える」ということが大事なのだ。

 今までの政治家が批判されてきたのだって別に政策が悪いとかそういうことではなく、散々選挙戦で主張していた公約を当選した途端守ろうとしないとか、「善処いたします」「記憶にございません」「たいへん遺憾に思います」といったのらりくらりとした言葉づかいでごまかそうとするその態度だったはずだ。しかるに、小泉首相が常に郵政民営化を訴え、その主張は終始一貫していたのに対し、民主党は郵政民営化と言っていたはずなのに、法案には反対し、衆院解散直後は口をつぐみ、それが批判されると漸次的な民営化を主張して、自民党案は真の民営化ではないなどと言い出す始末。いやむろん色々理由はあるのだろうし、もしかしたらその主張も正当なのかもしれないが、「どう見えるか」と言ったら、どうしたってふらふらしているようにしか見えないし、いくら頑張って演説してみようと岡田さんのあの神経質そうな顔ではどうにも言い訳じみて見えるのは避けようもない。

 別に自民党が良いわけではない。小泉さんが首相になってから外交も財政も内政も基本的に悪くなる一方だし、それらが改善される兆しは一向に見えない。一方の民主党は政権さえ取れれば良い政治をするのではないかと期待させるようなところもあるにはある。にもかかわらずこういう結果になったのは、民主党が言葉に鈍感だったからなのではないかと思うのだ。つまり小泉首相の言葉が「国民のみなさんにお聞きしたい」と率直に国民に向けられていた(たとえポーズだけだとしても)のに対し、岡田さんの演説(例えば「私たちにやらせてください」というやつなど)にはどうも「私の言葉を聞いてくれ」という態度があったのではないだろうか。あくまで話すのは私で聞くのはあなたというような岡田さんに対して、実際には何も聞いてはいないとしても「もう一度国民の意見を聞きたい」と言う小泉首相のほうが良く見えてしまう。

 言葉が問題なのだ。語られる話の内容が重要なのではない。誰に向けてどのように語るかが重要なのだ。

 個人的には民主党には自民党に対抗できる勢力を保っていてほしいと思っているので、民主党には票を投じなかったにもかかわらず今回の結果はちょっと残念である。(A.I.)
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2009年07月19日

アフター・カーニバル深夜便(第十二回)〜『戦争の法』と紋切り型の問題・後半〜

(参考)
佐藤亜紀『戦争の法』〜物語ることの不可能性
http://after-carnival.seesaa.net/article/94209287.html
祭りのあとを生きてゆくために〜青春小説としての『戦争の法』
http://after-carnival.seesaa.net/article/94324682.html

アフター・カーニバル深夜便(第十二回)〜『戦争の法』と紋切り型の問題・前半〜

 みなさん、こんばんは。今週も深夜便をお届けします。
 今週は、先日文春文庫から復刊された佐藤亜紀の小説『戦争の法』が話題になっています。
 この文庫の解説は、佐藤亜紀の夫である佐藤哲也が書いているわけですが、A.I.氏の話によると、この解説はもともと伊藤計劃が書く予定だったらしいです。
 実を言うと、僕も最近になって、伊藤計劃の『虐殺器官』を読んだので、今後アフター・カーニバルでも伊藤計劃を取り上げることがあるかも知れません。
 それはともかく、この『戦争の法』という小説は、アフター・カーニバルにとってはかなり馴染みの深い小説で、二年前に一度会合で取り上げたというだけではなく、放送でも語られているように、A.I.氏にとっては青春時代の小説であるようです。
 しかし、そうした個人的な経験ばかりが問題ではなく、この小説を取り上げて問題にしていることは、以前R氏が書いた文章を参考にしてほしいのですが、これまでアフター・カーニバルで村上春樹を取り上げて問題にしてきたことと重なります。
 とりわけ、今回は、これまで保坂和志の小説論を問題にしてきた流れを受けて、ある種の型の問題、紋切り型の問題について検討しています。
 今回の話題は、今後村上春樹を再読していくにあたっての準備運動にもなっているところがあるので、村上春樹との関連性にも注目して聞いてみてください。(SIZ)

(参考)
刑事物語 ハンガーヌンチャク
http://www.youtube.com/watch?v=Sahsws7p6l4

2009年07月17日

ザ・リング2(中田秀夫)

(この記事は2005年11月6日に書かれました)

(ストーリー)
前作の続き。


 始まって30分くらいで例のビデオが焼かれるのですでにビデオの呪いがどうとかそういう話ではなくなっている。で、そういうビデオの呪いという制約がなくなったせいで、サマラ嬢はやりたい放題だし、ナオミ・ワッツ演じる母子もやられ放題という感じである。

 前にぼくは中田秀夫の作品をとりあげて、ちょっとしたエッセイを書こうかと思ったことがあって、そのエッセイの骨子になっていたのは、彼の映画は常に母子関係を軸にして展開しているというものであった。

 例えば「リング」では松嶋菜々子演じる母親と息子の母子家庭だし、「仄暗い〜」も同じく母子家庭。「リング2」では松嶋菜々子の演じる母親は死んでしまうのだが、変わりに中谷美紀が擬似的な母親になっていてやはり父親が家庭から排除されている。そして「リング」「仄暗い〜」両者に出て来る幽霊の女の子はどちらも「母親」を求めていて、両作とも主役の母親が幽霊の母親になり変わることで自分の子を救うという構図になっている(「リング」では貞子の遺体を母親が抱き寄せるし、「仄暗い〜」も女の子の霊を抱き留める)。

 そして子供は「母親」を求める霊を触媒する役割を果たしていて、そういう点で母と子はスピリチュアルな関係を保っているのだが、そこに父親は科学や社会などを持ち込んで母子関係を破壊しようと介入してくる。「リング」での真田広之の役どころは数学者だし、「仄暗い〜」では父親に裁判を起こされる。特にその点がよく現れているのは「リング」における山村志津子・貞子の母子と伊熊博士の関係で、山村母子が両方とも超能力の持ち主であるのに対し、伊熊博士はその超能力を研究しようとして、志津子の自殺という結果を招いてしまう(貞子は「父」である伊熊博士に殺される)。

 中田作品はこの母子家庭に母親を求める霊が取り憑くという構図が繰り返しでてきて、それが何とも言えない気味の悪さを醸しだしている。「リング」では松嶋菜々子が息子に喪服の背中のジッパーをあげさせるところなど、とにかくいやな予感に満ちていたし、「仄暗い〜」では黒木瞳が自分が幼稚園児の頃、母親の迎えが無かったことを思いだす件などがあって、そういう部分が日本的な湿っぽさというか不吉さを保証していたのだと思う。

 で、何が言いたいかというと、アメリカに行っても中田秀夫は中田秀夫だということである。ただ、まあ何というか実の子供を護るために幽霊と母子関係を結ぶという結末は実にアメリカ的に変更されていて、子供護るために幽霊に対して私はオマエの母親じゃねえと突き放すところはちょっと切ないものがあった。(A.I.)
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2009年07月16日

マシニスト(ブラッド・アンダーソン)

(この記事は2005年11月6日に書かれました)

(ストーリー)
がりがりにやせ細って丸一年も不眠症になっている男が、妙な男と会ったことから何やら変な出来事が周りで起き始める。


 クリスチャン・ベールの異常なまでの痩せ方だけで観る価値はあるかもしれない。

 初めのうちはいくらなんでもこれはメイクか何かだろうと思っていたが、実際に彼自身が痩せて演じたと知ったときはマジでビビッた。どうやって痩せたのかと問われてクリスチャン・ベールは「ただ絶食しただけ」と答えていたけど、到底絶食などできるものではない。「バットマン・ビギンズ」でかなり良いガタイを見せていただけにちょっとヤバイくらいだと思う。とてもではないが、役者根性で説明できるものではない。

 ストーリーの方は面白いか面白くないかは別として、あまり商業映画っぽくない。よくこんな映画ハリウッドで撮ったなと思っていたらやっぱりハリウッドでは断られてスペインで撮ったのだそうだ。出演者も言葉も舞台(ロス)もアメリカだけど、スタッフとロケ地はスペインというかなり変わった作品で、そう思ってみるとどことなく人工的な匂いのする映画である。(A.I.)
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2009年07月15日

あずみ2 Death or Love(金子修介)

(この記事は2005年10月23日に書かれました)

(ストーリー)
あずみのコスプレをした上戸彩が、真田昌幸と名乗る平幹二朗を倒すまでを描く、おそらくは昭和年間に作られたVシネ。


 予告編からすでに前作を下回る予感はあった。前作の予告編であずみのコスプレをした上戸彩が「きさまー」と抜けた叫びを発していたけど、今回の予告では「何なんだこれはー」と言っていた。いくら何でも「何なんだこれは」は無いんじゃないのか。

 予告編やらテレビCMなんかを見る限り、近年の日本映画は(セカチューとか)やたら泣き叫ぶシーンが多くて、ぼくは鬱陶しく感じるのだけど、こういう小児病的な反応を優しいとか人間的であるとかと勘違いしている人間が多いような気がする。痛み、苦しみ、哀しみ、恐怖といった感情に堪えようとする人間のほうがいちいち泣いたり叫んだりする人間よりも尊いと思うんだが、どうなんだろう。しかるに「何なんだこれは」である。ホント、何なんだこれは。

 原作のファンとして言わせてもらうが、あずみは哀しみや苦しみを孤独に一人で抱えるから美しいのである。誰もいない川で泳いだり、独楽をまわしたりするのはその哀しみや苦しみを自分の中に押し込めるためで、だからあずみは「何なんだこれは」なんてまぬけな叫びをあげることはしない。その点では本作はあれほどひどかった前作を更に下回る出来と言って、間違いないと思う。少なくとも前作はそういうあずみの切なさを描こうという意志だけは僅かながらも感じられたし、だから上戸彩がきれいに見えるところもあった。しかし本作は使命がなんたらと別のところに拘りすぎてあずみの言動は幼稚にしか見えないし、そうすると上戸彩はあのルックスなのであずみどころか刃物持った頭の悪いアイドルにしか見えない。全然魅力も感じなかった。

 いや、実際冒頭の井上勘兵が夜叉鴉を連れてあずみとながらを襲うシーンからずいぶんひどい感じはあった。背景のCG合成がずいぶんで何やら昭和の香りがするし、血飛沫なんかも深作欣二が撮ったのかと思うようなわざとらしさ。栗山千明を起用しながら使い方が下手だし(とは言え、使いどころの難しい女優だけど)、前田愛の農婦はかなり良かったけど、あれしか出ないのはもったいない。高島礼子は鎧のインパクトが凄くて、あの鎧をつけるためだけに起用されたんじゃないかと思った。真田昌幸も幸村も凡庸な人物にしか見えない。あれを真田親子だと称するのはちょっと厳しすぎる。天海も全然天海に見えてこない。金閣が喋るとき吃音になるという設定はいいけど、途中で面倒くさくなったのか最後のほうは普通に喋ってた。別に原作のイメージとか実際の人物像とかそういうことを云々するつもりはないが、どいつもこいつも凡庸にしか見えないし、そうすると映画の規模自体そう大きいわけではないので、人のいない空き地でこぢんまり撮っているVシネか何かにしか見えない。そう思って見ていると何だかじょじょに日曜の朝七時半からやっている戦隊ヒーローものにしか見えなくなってきて、それだったらいっそ巨大ロボとか登場させても誰も文句も言わなかっただろうし、そうすれば良かったんじゃないだろうか。

 それと、この恥ずかしい副題も何とかならんのか。(A.I.)
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2009年07月14日

ファイナルファンタジーVII アドベント・チルドレン(野村哲也)

(この記事は2005年10月15日に書かれました)

(ストーリー)
ゲームの後日談。


 FFZは結局最後までやらなかった。どうもFFシリーズは制作者が自分たちで作った設定と戯れているようなところがあって、作る方は面白いのかもしれないが、プレイヤーとしてはこの設定に乗れなければもう話にならないわけである。FF]はシンとか変な宗教とかがウザいし、FFZはよく覚えてないけどライフストリームとか知ったことか、である。キャラの性格づけも余計なだけで、バイク・武器・服装・都市などのヴィジュアルがかっこいいだけに、こちらとしてもストーリーを遅延させるためだけに用意されたどうでもいいキャラの懊悩などで時間を浪費したくないわけである。

 だからFFシリーズは要するにムービーだけ見られれば個人的にはそれで十分だと思っていたけど、ちょうどそんな感じの映画(なのかOVAなのかよくわからんが)が作られたのは大変有り難い。実際良くできている。数年前に撮られた映画「ファイナル・ファンタジー」はFFとしての魅力を何一つ感じられない映画だったけど(何故フルCGでやったのか?)、本作はアニメっぽいキャラや町並みをCGで再現し、しかもそのクオリティはべらぼうに高い。アクションシーンも如何にも日本のアニメという感じの誇張に満ちていて、それが実にかっこ良かった。少々スピードが速すぎるのが難点だけど全体としては悪くない。ティファも良かった。(A.I.)
posted by SIZ at 18:54| Comment(0) | TrackBack(0) | アニメ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年07月12日

検索ワードでひっかかる記事のまとめ

 今週の通信は、ちょっと手を抜いて、今回の深夜便で話された検索ワードでヒットする記事をまとめてみた(しかし、まとめるだけでも、それなりの時間がかかってしまったが)。

 過去記事もぜひ読んでほしいと思っているので、気になるワードをチェックしてみてください。(SIZ)

続きを読む

2009年07月11日

アフター・カーニバル深夜便(第十一回)〜今週の雑談:ブログの検索ワード・後半〜

(トピック)
ブログの検索ワード(その2)
終了の音楽
次回予告

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