2009年06月29日

スウィングガールズ ファースト・ラスト・コンサート(矢口史靖)

(この記事は2005年5月16日に書かれました)

(ストーリー)
スウィングガールズの最初で最後のコンサート。


 去年、『スウィングガールズ』を観に行った帰り、一緒に観た彼女に「トロンボーンを吹いてたメガネの女の子が可愛かった」と言ったら、「やっぱりね。絶対あの子だと思ったよ」と散々に言われたわけだが、本仮屋ユイカという名のその子は、その後NHKの朝の連続テレビ小説のヒロインに抜擢されたりして大活躍しているわけで、要するにあの子が一番可愛いと思ったのは別にぼくが眼鏡っ子好きだとか大人しめの子が好みだとかそういうこととは関係なくて、ぼく自身の美的感覚がごく平均的だったからだと思う。

 あの映画の最後に演奏される「シングシングシング」という曲で、本仮屋ユイカが物凄くかっこよくトロンボーンを独奏する場面があって、あのユイカ嬢の勇姿がもう一度見たくて今回このDVDを借りてみたわけだけど、さすがに売れっ子になっただけあって、17人のスウィングガールズのメンバー中よりにもよってユイカ嬢のみこのコンサートには参加していないのであった。これでは借りた意味がほとんど無いに等しい。

 しかしとりあえず他の女の子たちも可愛らしくて、何はともあれ若くて可愛くて元気いっぱいの女の子たちが一生懸命に何かをやっている姿を見るのは決して悪くない。うん、悪くない。

 だからまあ実はけっこう楽しく見たし、全員で演奏するのはこれで本当に最後だということもあって途中からみんな泣きながら演奏していて、そういうのもなかなか悪くなかった。もちろん泣きながら演奏しているからあとのほうになるにつれて演奏自体はひどくなっていくのだが、まあそういうことを言うのは野暮だろう。とにかく青春真っ直中という感じで、ひどく鬱屈とした青春時代を過したぼくとしては羨ましいやら切ないやらで、こっちまで胸が痛かったです。

 去年の2月あたりにぼくはこのサイトで「今年は邦画が楽しみだ」と書いて、「デビルマン」「スチームボーイ」「ハウル」「アップルシード」「キャシャーン」なんかを挙げたのだけど、それらぼくの期待したアニメ・特撮作品はことごとく期待を外し、全く期待していなかった「スウィングガールズ」「下妻物語」「誰も知らない」「花とアリス」が大変面白かったのだから、つくづくぼくの予想も当てにならないものだと思った。それにしても去年から今年にかけて観て面白かった「スウィングガールズ」「下妻物語」「誰も知らない」「花とアリス」の四作品は、邦画であるという以外ほとんど共通項が無いわけだけど、よく考えてみると2点ほど共通項を持っていることに最近気づいた。まずひとつは要するに可愛い女の子が出てくるという身も蓋もないようなことで、要するにオマエは可愛い女の子がでてりゃあ満足なんだろと思われるかもしれないし、まあその通りなんだけど、ともかくこれは面白い映画には重要な要素である。

 もうひとつはどの映画も同人誌的であるということで、これは特に「スウィングガールズ」に顕著だと思う。つまりこの映画はジャズなんて知らない今時の女子高生が、徐々にジャズの魅力につかれて最終的にみんなでジャズバンドを組むという話なのだけど、これはほとんどこの映画の制作の道のりをそのまま辿ったようなところがある。つまり実際の映画制作も音楽に関しては素人の役者を連れてきて数ヶ月に渡って特訓させ、最終的にはコンサートで演奏するわけだし、事実ビデオのパッケージには映画内の演奏は役者たち本人によるものですという注意書きがあるし、ぼく自身にしても登場人物たちの背後に実際の役者の努力を重ね合わせて見ていた。あるいは「誰も知らない」が演技指導など行わず、ほとんど子役達の素の行動や会話をそのまま撮っているように、作品が作品として構築されているのではなく、制作現場の雰囲気を重ね合わせることができるのも同じことだろう。また、「花とアリス」がポッキーのCMから出てきた企画であるように、映画は観る側を楽しませるものというよりもスタッフやキャストがまずその現場を楽しみ、その楽しさを客にお裾分けするという傾向をこれら4作品には強く感じる。つまり作品は独立した作品として扱われることをすでに放棄し、その背後に隠れているべき役者のパーソナリティやあるいは制作秘話などといったものを込みで読まれることを前提としている。DVDの本編よりもメイキングのほうが面白い映画があるという逆転した状況を逆手にとり、メイキング映像のような作品を作っているのである。このような傾向は例えば、本来鑑賞する側に意識されてはならないはずのカメラの存在をわざと前面に押し出すような演出(手ぶれやピンぼけの多用。不自然なカット割りなど)にも通じるものを感じる。

 このような状況は、作り手と受け手の「お約束」と言われる共犯関係を許してしまう日本映画の馴れ合い体質を如実に反映していると言えるかもしれず、またそのような馴れ合いをひとつの「表現」であると強弁するふてぶてしさの表れなのかもしれず、同時にこれは日本映画の活路かも知れない。(A.I.)


 何を隠そう、じつは今ちょうど「スウィングガールズ」のサントラを借りて聴いているところなのでした。

 僕は昔から音楽の中に埋もれて、つねに音楽をやりながら生きてきたのだけれど、僕にとって音楽とは二人以上でやるものである。一人でやるものでは基本的にない。歌でも楽器の合奏でもそこには「合わせ」の作業を通じた、ある秘鑰があるのである。個々のそれぞれは違う仕事をしていながら、全体としてはまとまっているという、個と全体の関係性の妙が何ものにも変えがたい喜びとなるのである。

 ギターなんかを弾くひとは特にそうだが、誰でも楽器を弾くものは、その楽器を一番かっこよく弾くためにどうすればいいかという工夫を試みる。主役の上野や本仮谷はその辺が様になってくる過程を、いくつかのTVドキュメンタリー(なんかいくつもあったのでどれがどれやら覚えてないが)で見ることができた。ドラムの子の苦労は並大抵でなかったと思う。あれは一番大変なんじゃないかな。たとえセンスのある人でもドラムを、しかもジャズのリズムをキープするのは気の遠くなるような話だからだ。手首が使えるようになるまで、血のにじむような練習。ひたすら練習。できないのに練習。あのカツラの娘はたまにリズムが揺れてるけど、ライドやハットが叩けるようになり、全部の手足が別々のリズムを刻めるようになっている点で、がんばったなあと思うのである。

 しかし本仮谷なんたらはかわいいのか? むろん人の好き好きだが、どうも違う文脈で露出してきているように思う。マツキヨのCMにしても、先祖がえり的な「素朴」ブームにあぐらをかいたような売り出し方を、良くも悪くも感じるというか・・・。この映画では役柄的にかわいいのだろうけど。

 セカチューのドラマでは、さらにやぼったい出で立ちで出ていたが、こいつは誰なんだと思ったら数年前の金八で上戸彩といっしょに出てた、優等生委員長だという。ああ、そういえば・・・。そんなちんちくりんなのがいたと記憶をたどったが、もう現在の彼女は随分と成長しているので、わからなかったのだ。あのドラマ(というかTBS)は、お情けなのか何なのか毎回の役者を、その後自局のドラマに必ず使うという暗黙の了解みたいなのがあるようで、見てるとやたら「元生徒」が出てくるのだ。

 ところで「カメラの存在をわざと前面に押し出すような演出」といえば、そもそもヌーヴェル・ヴァーグを思い出すわけだが・・・。それがもはや馴れ合いでしかないというわけですの。(R)
posted by SIZ at 23:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年06月28日

アフター・カーニバル深夜便(第九回)〜発表の報告:保坂和志の小説論〜

 みなさん、こんばんは。
 今週もアフター・カーニバル深夜便をお届けします。
 今週は、某イベントで保坂和志を前にしてR氏が発表した、その発表の報告をR氏自身が行なっています。
 具体的にどのような点で保坂和志と意見が異なったのか(あるいは同じだったのか)というところが聞き所ではないかと思います。
 意見が同じところにしろ異なるところにしろ、そこで提出された争点は、今後アフター・カーニバルで問題にしていく重要な論点でもあることでしょう。
 この放送を録音したのが奇しくも6月19日という太宰治の誕生日(いわゆる桜桃忌)で、それも生誕百年に当たる日だったので、A.I.氏が太宰の名前を出していますが、保坂和志と対比される作家の名前として太宰の名前が上がっているのも面白いところではないかと思います。
 R氏が毎回用意することになった開始と終了の音楽にも注目してみてください。(SIZ)


(トピック)
今週のジングル
某イベント・某学会で呼んだ人たち
保坂和志の小説論についてのR氏の発表
隣の他者のことが抜け落ちている
型の問題
辺境について
薄っぺらな枠組みを再度出してくるしかない
『恋空』的なリアリティ
オーソドックスなアプローチの困難
太宰治生誕百年
太宰はキャラを生きている
終了のオルゴール
それはともかく

2009年06月25日

シグルイ 6巻(原作:南條範夫、漫画:山口貴由)

(この記事は2006年4月25日に書かれました)

 虎眼VS伊良子。すべてを超越した〈最狂〉の残酷無惨バトルである。

 以下、ネタバレ注意。

 僕は連載で読んでいるので、単行本を買うのはコレクションと加筆訂正・描き下ろしポスターを確認する意味合いしかないといってもいいのだが、それでもひまさえあればめくっている。

 今回の(も、というべきか)主役は虎眼先生である。見せ場、ありすぎ。伊良子については、地謡と無明逆流れ以外にはかっこいいところはなく、完全な引き立て役である。

 御簾の向こうに貴人のごとく座している(けど失禁)虎眼先生、萌え。せっかく助けに来てくれた弟子を切り捨てる二刀流の虎眼先生、萌え。魔神化、萌え。にゃんこ化、激萌え。とにかく虎眼先生の魅力がつまった一冊に仕上がっている。

 そしてやはり、なんといっても最高の見せ場は無明逆流れの前に倒れる場面である。まず、敗れた虎眼先生に嫁入り姿を見せに来る三重。伊良子の嫁として嫁ぐ姿を見せるというのは、虎眼先生への最大の復讐である一方、三重の結婚を待ちこがれていた先生への、最高の親孝行でもある。このくだり、まさに愛憎劇というべきであろう。しかし、三重の花嫁姿を見て虎眼先生は虎眼流の存続という妄執を超えて、「美しゅうなった喃」と、素朴な親心を見せるのである。矛盾によってしか繋がり得ない親子の姿の臨界点。ここまでプロセスを積み上げておけば、虎眼先生のひとしずくの涙も空々しいものにはならない。

 その直後に発覚する、すでに顔面の左半分を失った虎眼先生の残酷なお姿。常よりも一指多い右手の指も切られてしまい、大脳がうどん玉のごとくこぼれ落ちる。これも、いままででもっともグロテスクな描写ではなかったか。

 つまり、叙情的な面においても、残酷さの面においても、6巻の虎眼先生は群を抜いているのであり、『シグルイ』最強のキャラクターなのである。これは間違いないだろう。いや、断じて、最強=最狂である。かっこよすぎる。強さ、哀しさ、狂いぶり、それらすべてを内包しながらまばゆく輝いている。

 このあと、藤木の過去が語られる話では内弟子に迎えた藤木に満面の笑顔を見せ、虎眼先生はむしろ亡くなってから人間的な面を見せ始めているようだ。いなくなって初めて気づく師の偉大さ。

「どうしていつも失ってから、いつもそうだと気づくのだろう」

 ガッツばりに切なさで胸が切り裂かれそうである。(友六も好きなイワン)
posted by SIZ at 22:27| Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年06月24日

虚構のヒーロー

(この記事は2005年4月16日に書かれました)

 下の記事で、イワン氏が『BECK』について語っている。この作品は、僕もアニメを見たので、その感想を少し書いてみたい。

 まず言っておかなければならないこととして、僕はロックについての知識がまったくない。ロックを聞いたこともほとんどない。従って、『BECK』で言及される作品について、それがどのようなニュアンスを持っているのか、以前から気になっていたのだが、それに対してイワン氏が部分的に答えを与えてくれたわけだ。

カート・コバーン以前のムーブメントの不在と、カート・コバーン以後のムーブメントの不在は、決定的に質が異なるのではないか? カート以前は周期があった。しかしカートのもたらしたものは、周期そのものの断念だったのではないか?

 このイワン氏の意見はかなり鋭い。先にも言った通り、僕はロックについて何も知らない。従って、イワン氏が鋭いと言うのは、ロックに関してその判断が妥当であるというのではなく、あらゆる領域にわたって、そのような判断が妥当ではないのか、ということである。

 どんなジャンルにもジャンルの衰退というものはある。黄金期と衰退期がある。ムーブメントがある時期とない時期がある。しかし、今日、こうした一般論を越えて、ビッグ・ネームそのものの不在の時期がやってきたのではないだろうか? 誰もが一目置くようなビッグ・ネーム。その名前に対して賛否両論が日々闘わされるようなビッグ・ネーム。そうした名前が今日、非常に出にくくなっているのではないか? あるいは、衆目を集めるような名前が出てきたとしても、その寿命は非常に短いものではないのか? 一時期、みんなから注目を集めたとしても、翌月には、誰もその名前を口に上らせることがない。そんな極端なギャップが今日、あらゆるところに見受けられるのではないか?

 このようなイワン氏の観点から見ていくと、『BECK』とは徹底的に旧時代の作品である。旧時代をノスタルジックに回顧する作品である。そこで示されているのは「真のロック」、「真のバンド」という観念である。分かる人には分かる「本物」というものが厳然とそこにあり、大衆は「紛い物」に常に騙されている、というわけだ。

 しかし、今日、事態はこんなに単純だろうか? ロックの伝統、そんなものがあるのだろうか? 「ある」と答える人はもちろんいることだろう。しかし、問題なのは、そうした人はごく少数であり、そうした少数の人たちの中だけで、ロックというものが語られている、ということだ。そして、このことはあらゆるジャンルについて言えることである。

 ビッグ・ネーム。それは、われわれのヒーローの名である。しかし、今日、ヒーローが必要なのだろうか? 誰がヒーローを必要としているのだろうか? 私のヒーローとあなたのヒーローは同じ人物だろうか?

 今日のヒーローとは、まさに、今日一日だけのヒーローである。昨日まで誰からも注目を集めなかった人が、突然ヒーローに祭り上げられ、そして、その翌日には、また普通の人に戻っている。こうした人間がロック・スターの墓場に行くことは決してないだろう。「BECK」、それは虚構の中だけにいるヒーローの名前である。(SIZ)
posted by SIZ at 20:53| Comment(0) | TrackBack(0) | エッセイ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年06月23日

カート・コバーンの影――ハロルド作石『BECK』――(現代マンガの潮流いくつ目だっけ)

(この記事は2005年4月14日に書かれました)

 12巻くらいまでだが、ハロルド作石『BECK』を読んだ。

 感じたのは2点。そしてそれは不可分の2点であろう。

 まずはこの作品が、ある〈満たされなさ〉のなかで構想され、〈満たされなさ〉のなかで受容されているのだろうということ。

 その〈満たされなさ〉とは何か。それは当然、大きな求心力をもったミュージシャン・バンド・音楽のムーブメントの不在に対しての〈満たされなさ〉であろう。

 それらはいつから〈不在〉なのか。僕のなかでは、殊にロックバンドでいうと、欧米でいえばニルヴァーナ以来、日本でいえばBlankey Jet City以来、である。

 奥付をみると、『BECK』の連載開始は2000年、もしくは1999年だと見受けられる。カート・コバーンの死後、いまだ訪れない大きなムーブメントに業を煮やして夢想され、描かれ始めたのがこの作品なのではないだろうか。そしてその夢想は多くの読者の共感を生む。

 そもそも、僕にしても、この作品を読んでみようと思ったきっかけは、アニメ版のエンディング曲で、過去のミュージシャンたちの肖像が順に登場し、最後にカート・コバーンの肖像で終わるというところを見たからである。

 当然、『BECK』の作品世界でも、多様な音楽スタイルが混在し、それをひとつにまとめあげるようなムーヴメントは存在しない。「ロックは死んだ」という空気が横溢してる。

 ブランキーの照井利幸をモデルにしたようなキャラクターは、「あなたたちが解散すると、日本のロックは死ぬのではないか」と問われ、「おれたちはガソリンが切れた。だがシーンには周期がある。それはまたやってくる」と言う。さらに、BECKのメンバーが見る夢では、ジョン・レノンはじめ、過去のロック・スターたちが現れ、自分たちの〈ポスト〉を望んでいる(ロック・スターたちの最後に現れるのはカート・コバーンである)。主人公・コユキたちの目標とされる「ダイイング・ブリード」の音楽スタイルは〈とにかくロックである〉という以外、判然としない。やはりBECKは待ち望まれるポストして描かれているのだ。

 その、90年代から2000年代にかけての雰囲気のなかでシミュレートされるロック・バンドの成長譚であるというところが、他の音楽マンガとは一線を画するところであり、スリリングな試みであり、多くの読者の共感をよぶところなのであろう。

 しかし、本当に大きなムーブメントは再び訪れるのだろうか? カート・コバーンのもたらしたもの、いわゆる〈グランジ・ロック〉。それは、あらゆる音楽スタイルが相対化した末に、ついには音楽ではないもの――ノイズ(雑音)――が価値をもつにいたったという、ロックのなれの果ての姿ではなかったのか? たしかにピストルズをはじめとするパンク・ロックとニルヴァーナのグランジ・ロックはともに破壊的で、一見、類似している。しかし、パンク・ロックは体制のアンチに立つことにより、再構築に向かうための破壊であるのにたいし、ニルヴァーナの破壊は行き場をなくした、目的をもたない破壊ではないのか?(カートが、「しょうがないからライブでギターを壊している」と言っていたのを思い出す)

 つまり、カート・コバーン以前のムーブメントの不在と、カート・コバーン以後のムーブメントの不在は、決定的に質が異なるのではないか? カート以前は周期があった。しかしカートのもたらしたものは、周期そのものの断念だったのではないか?

 日本でいえば、たしかにBlankey Jet Cityは独特の世界観をもったロック・バンドである。しかしその世界観自体、音楽スタイル自体、過去のロック・スターたちからの綿密な引用によって成り立っているのではないのか? ブランキーの世界観は完成している。しかしブランキーの一曲一曲は、『機動戦士ガンダム』と同じように、広大だが閉じた世界、まさに「Blankey Jet City」のなかでの任意の一回のプレイ、引用である。多分に物語的なその歌詞自体もまた、〈本歌〉をもつものであろう。

 だから悲しい。ニルヴァーナもブランキーも。このような不毛感とは、この時代に特有のものではないだろうか。そしてこのようななかで、もう一度、世界を一挙に掌握するようなムーブメントが成立しうるだろうか? また、そのような試み自体、リアリティをもつものだろうか?

 ふたつ目に感じた点は、SIZさんが注目している、〈視野狭窄〉の問題である。この作品もまた象徴的で、「14歳にしてすでに先は見えていた」というコユキのモノローグから始まる。つまりこの作品もまた、未来においていわゆる〈人生のレール〉(高校から大学、サラリーマンという)をしか想定できない少年が、ロックという、そこからはずれたところに生き甲斐を見出すという構成となっている。

 だがこれもまた、娯楽的な要素を抜きにして考えるなら、欺瞞的な設定ではある。なぜならご多分に漏れず、この一見冴えない主人公・コユキもまた、「自分は社会にとって必要のない、つまらない人間かもしれない」と思いつつも、類い希な音楽の才能を無条件に与えられた、つまりあらかじめ〈選ばれた〉少年だからである。

 この物語の滑り出し・基本設定そのものを、僕は〈視野狭窄〉であると感じる。

 人生は、皆の乗る、安定しているが生の喜びは感じられない〈レール〉か、そこからはずれて、不安定だが生の実感を感じる道のどちらかであると認識されている。そしてその認識自体が、青少年には秘められた潜在能力があるのだという幻想を生む。なぜならそういう幻想でも抱かないと、どちらの道を選ぶにしても、やりきれないからだ(前者ならば、自分はまだ本当の自分の力を出していないのだと、後者ならば、本当の自分を発揮していくしか術はない、として)。

 現実との決定的な差は、実際は僕は(失礼だがもしかすると、おそらくはあなたも)何にも選ばれてなどいないことだ。そして今現在、人々が〈人生のレール〉を嫌った結果、本当に戻るところなどない――望めばいつでも戻れるような〈レール〉を捨てて夢にチャレンジするどころではなく、あらかじめ〈レール〉の側から閉め出されてしまうというような――寄る辺ないリスクフルな時代が到来しているというところだ。

 次なる大きなムーブメントの渇望、それは裏を返せば、自分自身がそれそのものになりたいという渇望であろう。

 皆、薄々もうそんなことはありえないと感じ始めている。しかし無理矢理にでも〈視野狭窄〉に留まろうとしている。そのほうが安心するからだ。

 だとすれば……むしろ求められる物語は、自分は選ばれてなどいないし、身を委ねるべき大きなムーブメントなどありはしないと悟ったところから始められる物語なのではないだろうか。

 『BECK』は興味深い作品だし、好感がもてる。だがそれをうけて我々は、もっと深く絶望することでしか、新しい何かを見出すことができないのかもしれない。(イワン)
posted by SIZ at 21:04| Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年06月22日

ニコニコ動画と村上春樹について物語という観点から問題にするということ

 今回の深夜便は、特別編として、先日行なった会合の録音を公開したわけだが、そこでは、物語と小説の違いがメインの話題になっていた。今回の通信でも、このことについて、とりわけ物語というものについて考えてみることにしたい。

 そもそも、なぜ、小説と物語との違いが問題になっていたかというと、今回の会合のテーマが保坂和志の小説論だったからである。保坂和志は小説家であるわけだが、彼は自身の創作活動(あるいは創作活動一般)をどのように規定しているのか、ということを検討したわけである。

 保坂和志は、反物語というスタンスを貫くことで、小説家という自身の立場を明確にしていたわけだが、こうした保坂の立場は、ある点において、村上春樹の立場と大きく対立するところがある。この点については、これまでの深夜便の放送において問題にされてきたことであるが、春樹は、自身の創作活動を規定するにあたって、「物語」という言葉を持ち出すのである。R氏が指摘したように、春樹は「いい物語は人の心を深く広くする」ということを言うのである。

 この規定は、保坂の考えと対照させたときに、大きな問題を生じされることだろう。会合でA.I.氏が言っていたように、物語がひとつの型であるとするならば、それは「人の心を深く広くする」よりも、むしろ、人の心を狭いところに閉じ込めてしまうことになりはしないのだろうか。いったい、なぜ、型である物語が人の心を「深く広くする」のだろうか。

 こうしたことを問題にするにあたっては、そもそも春樹が物語というものをどんなふうに考えているのかということを検討する必要があるだろう。春樹は『アンダーグラウンド』のあとがきに当たる「目じるしのない悪夢」で次のように述べている。

 アメリカの作家ラッセル・バンクスは小説『大陸漂流』の中でこのように述べている。
「自我より大きな力を持ったもの、たとえば歴史、あるいは神、無意識といったものに身を委ねるとき、人はいともたやすく目の前の出来事の脈絡を失ってしまう。人生が物語としての流れを失ってしまう のだ」(黒原敏行訳)
 そう、もしあなたが自我を失えば、そこであなたは自分という一貫した物語をも喪失してしまう。しかし人は、物語なしに長く生きていくことはできない。物語というものは、あなたがあなたを取り囲み限定する論理的制度(あるいは制度的論理)を超越し、他者と共時体験をおこなうための重要な秘密の鍵であり、安全弁なのだから。
(講談社文庫、1999年、749-750頁)

 ここで春樹は、物語を自我の側に位置づけ、自我よりも大きなもの(神や歴史や制度)と対立させている。つまり、自我の物語は、宗教的な大きな物語とも、国民国家の大きな物語とも対立する小さな物語として規定されている。物語は優れて個人的なものとして規定されているのである。逆に言うと、自我の一貫性を保証しているものこそが物語なのだろう(自分という一貫した物語)。

 こうした春樹の規定を前にして僕が思うのは、おそらく、多くの人にとって、自我の確立というものは、非常に困難な課題なのではないか、ということだ。人々は、自分で自分だけの物語を築こうとするよりも、すでにある物語に飛びつこうとするのではないか。春樹は、物語を「「お話」の夢」とも言っているが、われわれの誰しもが夢を見ているとしても、その夢というのは、どこかから借りてこられた夢、大量に生産され、大量に消費される、そのような種類の夢である可能性があるのではないか。

 さらに言えば、アメリカ人にとって当然であるようなことが日本人にとって当然であるとは言えないし、とりわけ、自我というものは、日本人にとって厄介な代物ではないかという気がする。だからこそ、春樹自身が言っているように、多くの人々はジャンクな物語に惹かれるのだろうし、麻原彰晃が生み出した物語が大きな力を持ったのだろう。春樹はジャンクな物語について次のように述べている。

人々の多くは複雑な、「ああでありながら、同時にこうでもありうる」という総合的、重層的な――そして裏切りを含んだ――物語を受け入れることに、もはや疲れ果てているからだ。そういう表現の多重化の中に自分の身を置く場所を見出すことができなくなったからこそ、人々はすすんで自我を投げ出そうとしているのである。
(同書、751頁)

 こうした現状認識が正しいとして、それでは、なぜ、他方において、物語の凋落という事態が立ち上がっているのだろうか。多くの人々がジャンクな物語を求めているとすれば、物語の凋落は起こらないのではないか。

 この問いに答えるために重要なファクターをひとつ持ち出せば、それは、現代社会が多様化している、というものだろう。現代人の生活環境は多様化し、ライフスタイルも多様化している。様々な価値観も多様化し、何が良いことで何が悪いことなのかを一概に言えなくなっているとすれば、当然のことながら、人生の物語も多様化していることだろう。だが、生活が多様化していても、ジャンクな物語が求められるということはありうるわけで、みんなにとって共通の物語というようなものは凋落しているとしても、個々人にとって分かりやすい物語が求められているという現状は存在しているのかも知れない。

 今日の物語環境というものを考える必要があるだろうが、共通の物語というものが解体しているのだとすれば、保坂が目指すような反物語的な方向性は、小説において実現されるまでもなく、われわれの日常生活においてすでに実現されていると言えるかも知れない。われわれの日常生活がすでに方向性を見失っており、どこにも接続されることなく断片化している可能性があるのだ。

 それでは、こうした物語環境にあっては、個々人のレベルにおいて、それぞれの自我に見合った物語が立ち上がっているかと言えば、そんなことはまったくないように思えるのである。むしろ、人々は、ジャンクな物語に絶えず群がっているように思えるのだが、そこで獲得された物語と自分自身の生活との齟齬が非常に大きいために、そうしたジャンクな物語の持続性はとても短いものになっているのではないか、という気がするのだ。

 そもそも、自我というものは、人間が生まれたときから保持しているようなものではなく、徐々に確立されるというか、 他人の自我(物語)をパッチワークすることによって出来上がっているのではないかと思う。そういう意味では、誰しも自分の物語を持っていないとも言えるし、持っているとも言える。今日の問題とは、誰しも持っていると言える「私の物語」が非常に脆弱になっているというか、個々人が自分の物語を生み出すにあたって参照しているメインフレームのようなものが非常に脆くなっているのではないか、という気がするのだ(だからこそ、A.I.氏は、今日の物語のメインフレームに相当する、物語ることの技術というものを重視するのだろう)。

 春樹の「いい物語」という言葉を好意的に解釈するとすれば、そこで提示されるはずの物語というのは、人々に人生のモデルを提供するような、そういう意味での物語なのではなく、人々が自分で自分の物語を構築することができるような、ある種のメインフレームを提供する物語になるのではないかと思う。こうしたレベルで解釈しないと、春樹の言っていることに一貫性を与えることはできないだろう。

 さて、ここから、今後のアフター・カーニバルの活動についてちょっと考えてみたいのだが、今後ネットの放送で予定されている活動とは、村上春樹の小説の読み直しとニコニコ動画について語ること、この二つである。僕はこの二つの活動が、それぞればらばらに行なわれるのではなく、密接に関わってくると思っているのだが、ここでキーワードになりうるのが「物語」である。他にもいくつかキーワードが出てくるといいと思っているのだが、物語こそが、まず最初に検討されるべきテーマだろう。

 ニコニコ動画と物語とはどのような関係にあるのかということが、まずは、検討されるべき課題であるが、この点については、次回以降、詳しく問題にしてみることにしたい。非常に多様な断片的な素材を繋ぎ合わせることによって、様々な作品が生み出される場としてのニコニコ動画。この場を、ジャンクな物語が日々生成している場だと言うことはできるだろうが、そう した物語の生成の仕方や消費のされ方が春樹の小説とどのように関わってくるのか、ということを今後問題にしていきたいと思っているのである。

 こんなところで、また次回。(SIZ)

2009年06月21日

アフター・カーニバル深夜便(特別編)〜会合の記録:保坂和志の小説論・後半〜

(トピック)
物語と小説の違い
「今は昔」という物語の枠
『源氏物語』のストーリーテリング
芝居における演技の肉づけ、小説における文章の力
(BGM:故郷(ふるさと))
「き」と「けり」
近代小説と古典の物語の違い
リアリティの源泉はどこにあるのか?
語りの構造、話型
意識的に取られる小説の技術
意識的に書かれていない『恋空』のリアリティ
小説のリアリティはディテール(写実)にある
『恋空』の質をどうやって判断するのか?
近代小説のリアリズム

会合のまとめ
保坂は閉じている
小説にも型がある
他人に向けて書かれる日記
他者性を排除した思考は可能か?
小説は常に他人に向けられているのではないか?
パーティの終了

(参考)
保坂和志の小説論――2009年6月13日の会合の報告
http://after-carnival.seesaa.net/article/121640224.html

アフター・カーニバル深夜便(特別編)〜会合の記録:保坂和志の小説論・前半〜

 みなさん、こんばんは。
 今週も深夜便をお届けします。
 今週は、特別編として、6月13日に行なわれたアフター・カーニバルの会合の録音を公開したいと思います。
 会合に参加しているのは、R氏、A.I.氏、それから僕です(僕は放送に初参加になるわけですが)。
 録音した場所は、放送の中でも触れられていますが、僕たちの母校の食堂なので、雑音が入ったり関係ない人の声が入ったり等、いろいろと聞き苦しいところもありますが(音声がリピートしてしまうところも何箇所かあります)、御了承ください。
 公開する録音は、5時間くらいにわたって行なわれた会合のすべてではなく、最初の一時間と最後の20分だけです。保坂和志の小説論を中心に据えて、小説と物語の違いなどについて議論しています。
 僕が「通信」に書いた会合の報告も参照してもらえるとありがたいです。(SIZ)


(トピック)
母校の食堂から
メンバーのハンドルネームの由来(謎のまま)
ブログのアクセス数
これまでの会合を振り返って

保坂の本の感想
すれすれの感じがない
保坂にとっての理想の小説
叙述トリックと人称
保坂の小説の面白さ
ガルシア=マルケスを思い出す
『カンバセイション・ピース』の朗読
ハリウッド的な作品構成と『ディア・ハンター』
村上春樹の方向性と保坂和志の方向性
近代小説と物語
『当世書生気質』に見る「小説」

2009年06月19日

えじき(アレックス・ターナー)

(この記事は2005年9月19日に書かれました)

(ストーリー)
そうとは知らず数人の男女が幽霊屋敷に足を踏み入れてしまうと、都合良く嵐になりどうでもいい奴から順番に次々と仲間が失踪してゆく。


 不気味な感じは良く出ていたのだけど、編集が悪いのか演出が悪いのか恐怖が長続きしない。特に感じたのは黒人女性が地面に縛り付けられているのを発見したところで、ここは結構怖いのになぜ途中でシーンを切ってしまうのだろうか。こういうふうに「目を逸らす」のは見ているほうにゆだねるべき事で、作り手はこれでもかこれでもかというくらいに恐怖を前面に出すべきではないのか。こういう半端なことをしていてはダメなんじゃないかと思うのだが。(A.I.)
posted by SIZ at 17:06| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年06月18日

ZOO(安藤尋ほか)

(この記事は2005年8月26日に書かれました)

(ストーリー)
乙一の短編小説集の映画化。映画化されたのは『カザリとヨーコ』『SEVEN ROOMS』『SO-far(そ・ふぁー)』『陽だまりの詩』『ZOO』の五作品(『陽だまりの詩』はオールCGのアニメ)。


要するに「世にも奇妙な物語」みたいなもんか。

 オムニバスということだが全て原作は乙一の小説なので、内容自体はどれもしょうもない。あとは脚本と演出でどこまで見せるかというところなのだろう。

一本目『カザリとヨーコ』
駄作。顔は全く同じの双子だがカザリは可愛くて親にも可愛がられ、一方のヨーコは醜くて親に疎まれるという状況がよく分からない。矛盾しすぎである。双子が生まれたとき蛙みたいと言われたとか母親が言っていたが、いくら何でも双子に失礼だし、双子くらいでビビるような親がいるか? だいいち、蛙はもっとたくさん産むだろが。リアリティがなさ過ぎだし、頭ぼさぼさなヨーコのキャラも不自然すぎ。ギャグにしか見えないが、どうも制作側はマジメにやっているつもりらしいので、笑っていいものかどうか迷うところ。

二本目『SEVEN ROOMS』
まあまあ。いきなり監禁されているところから始まるのは『CUBE』みたいだが、内容自体は遙かに下。しかし下水の汚い感じはよく出ていたと思う。身勝手だった姉ちゃんの勇気ある行動がもっとぐっとくる感じで表現できていたら良かったのだが。

三本目『SO-far(そ・ふぁー)』
全体を通じて固定カメラを使い、アングルや照明など細かいところまでよく演出されている。ソファーがやけに赤いところや、父親が妙にでかく見えるところや、セリフの全くないところでカットを三つに分けていたりするところなど、作りはとても丁寧。悪く言えば凡庸なのかもしれないが、他の作品が妙に才気走ったり、雑になったりするのに対してとにかく丁寧に作っているので好感が持てる。

四本目『陽だまりの詩』
アニメ。結構好き。何となく『風の名はアムネジア』を思い出す。こういう「その後」を描いたSFは好き。

五本目『ZOO』
五本中最も退屈。これはいらない。もういい加減に気怠い雰囲気だけで実は別に何も考えていない人物が出てきてうじうじしている話などを撮るべきではないと思う。死体の特殊メイク以外、特に見るべきところはない。(A.I.)


 個別化の問題。われわれは、自分の立っている場所からしか、ものを見ることができない。この限定された認識(パースペクティヴ)の中で、いかにしてその認識を拡張することができるのか? そんなことを考えさせられた映画だった。とりわけ、それは、『SEVEN ROOMS』を見て、そう思ったことだ。

 この作品のテーマとは、端的に言って、「超越すること」だろう。つまり、個別の条件、個別の認識を超えて、いかにして超越的な視点を確保できるか、という問題である。なぜ、このようなことが問題なのか? それは、まさに、『SEVEN ROOMS』において、主人公たち姉弟が課題としていたように、行き詰まりを打開するためである。

 行き詰まり。その原因のひとつは、われわれの認識の限界にある。われわれは、自分の立っている場所からしか、物を見ることができない。それゆえ、認識を何らかの形で拡張するためには、横に繋がっていくことが必要である。つまり、必要なのは、他者とのコミュニケーションである。

 自分自身がどこにいるかを知るために他者とコミュニケートする。(仮に)他者の場所に立つことによって、それまで自分がいた場所を振りかえる。行き詰まりを打開するためには、このような作業が必要なのではないか?

 同様の問題は『SO-far(そ・ふぁー)』でも描かれている。問題は、いかにして、メタレベルに立つことなしに、自分のいる場所を位置づけるか、ということである。

 超越的な場所、すべてを見渡せるような場所に立っている人間など、果たして存在するだろうか? 今日の社会は、とりわけ、見通しが悪いのではないか? 自分と家族、自分と友人、自分と恋人、自分と隣人、その間の距離はますます広がっているのではないか? 「私」の視点というものは、横と繋がることもなく、孤立してしまっているのではないか?

 こうした時代背景のためか、乙一の作品は、メタレベルを拒絶することによって物語を展開させる。ある視点から別の視点へと視点の移動があったとしても、それは、メタレベル(メタな視点)への移行ではなく、横並びになった複数の視点のひとつへと移行したにすぎない。つまり、無限に別の視点へと移動することが可能である反面、どこにも特権的な視点というものは存在しないのである。

 このことはネットの言説に顕著に現われているかも知れない。本気でその発言をしたのか冗談でそれを言ったのか、それを判別する決定的な手段は存在しない。すべては横並びであり、ひとつひとつの価値はみな同じである。しかし、すべてがネタだったとしても(あるいは、すべてがネタであるからこそ)、逆にそこから、ベタなものが浮かび上がってくる場合がある。これがネットの不思議なところである(『電車男』についても、こうした視点から分析することができるかも知れない)。

 乙一の作品は、「あらゆるものは計算可能だ」というデジタルな思考に促されている。しかし、その目的は、デジタルでは捉えきれないアナログなものを拒絶するためではなく、デジタルな思考を徹底的に推し進めることによってだけアナログなものを示すことができる、ということを言いたいがためではないのか(このことを描いた作品が『陽だまりの詩』である)。

 われわれは、もはや、ベタなメッセージに心を動かされることはないだろう(「愛はお金では買えない」など)。われわれは、あらゆるものから距離を取ることに慣れてしまっている。しかし、だからといって、完全にシニカルなわけでもない。あらゆるものから距離を取るのは、逆に、決して疑うことのできない絶対的な真理を求めているからとも言えるのである。何かを信じたいがために、まずは疑っているだけなのである。

 乙一が示していること、それは、絶対的な真理は存在しない、だが、すべてが嘘であるわけではない、ということではないか? 「絶対的に正しいものは存在しない」と「すべてのものが嘘であるわけではない」との間。この微妙な一線を、彼は描き出そうと苦心しているように見える。

 ネタバレを避けるために話が抽象的になったが、この映画を見れば、こうした抽象的な問題が、非常に巧妙に、具体的な物語によって提示されていることが分かることだろう。(SIZ)
posted by SIZ at 00:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年06月17日

ナショナル・トレジャー(ジョン・タートルトーブ)

(この記事は2005年9月19日に書かれました)

(ストーリー)
テンプル騎士団の隠した財宝を探す。


 ニコラス・ケイジはあまり好きではないが、とりあえず楽しい映画だった。

 内容はテンプル騎士団だのフリーメーソンだのお決まりのキーワードが出てきて、やっぱりお決まりの暗号と財宝と大冒険が始まるという感じで、その割にアメリカ国内だけで話が全部済んでしまうあたりがお手軽なのであった。とにかくディテールの部分ではかなり適当で、冒頭の北極だか南極だかのシーンからあり得ないことばかり。何で水が凍らないのか謎だし(不凍液ではないだろ)、100年も氷の下に埋まっていた船の割に簡単にドアが開くし(凍りつくだろ普通)、火薬も湿気っても凍ってもいない。指定された日時にあるものの影の尖端を調べると手がかりが埋まっているってのだって、季節によっても影の長さも指す方向も違うのになぜそんなことが分かる? というわけで細かいところは本当に適当だし、フリーメーソンは別に秘密結社じゃないし(HPもあるし多少の条件があるにせよ入会だって出来る)、バカっぽいことは確かだけど、まあ楽しいので別に問題はない。ダイアン・クルーガーも綺麗で良かった。ショーン・ビーンの悪役ぶりとジョン・ヴォイドのオヤジぶりも好きだ。(A.I.)
posted by SIZ at 04:52| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年06月16日

保坂和志の小説論――2009年6月13日の会合の報告

 先週末に予定通り会合が開かれたので、その報告をちょっとしてみたい。ちなみに、会合のときに、話の内容を一部録音したので、これも近々アップするかも知れない。

 今回のテーマは、保坂和志の小説論だったわけだが、アフター・カーニバルにおいて誰か小説家を取り上げることは、必然的にこれまで問題にしてきた村上春樹と比較することになり、いったいどういう点で春樹と異なっていて、どういう点で春樹と同じなのかということを問題にすることになる。

 こうした村上春樹との相違点と共通点については、これまで深夜便の放送でも話されたことであるが、そこでの議論も参照しながら、いくつか論点をまとめてみよう。

 まず、大きな問題になったのが、小説における物語の有無である。保坂和志は、基本的に、自身の小説から物語というものを排除する。ここで保坂が何を目指しているのかということが問題になるわけだが、保坂が目指しているものとは、場面ごとのリアリティというものであり、それは、会話や動作のリアリティ、日常生活のリアリティといったものだろう。

 物語のある小説というのは、登場人物の台詞や動作、あるいは、風景の描写といった断片にひとつのまとまりをつけることによって出来上がっているだろうから、例えば、ある場面で話されたことやそこでの登場人物の態度といったものが、ひとつの伏線として、後で大きな意味を持ってしまう可能性がある。登場人物たちのどんな発言もどんな行為も、その場だけの行為として位置づけられることなく、物語という全体に奉仕する部分として意味をもたされてしまうことになるのだ。

 こうした意味の回収に対して保坂は抵抗しようとする。「比喩を用いるな」という保坂の警告もこうしたことに関わってくるだろう。つまり、保坂は、作品の全体性というものを無効化しようとしているところがあって、言うなれば、作品全体の強度よりも、ひとつひとつの場面の強度のほうを重視しているところがあるのだ。

 こうした点で、保坂がこだわっているのはリアリティというものである。ここで言うリアリティというのは、文字通り、実際にありうるということ、日常生活において実際にありうるということである。このようなリアリティという観点からするならば、物語的な作為は、どうしても、リアルでないものをはらんでしまうことになる。

 このような保坂の方向性と比べると、村上春樹の方向性は、ほとんど真逆である。つまり、春樹が自身の小説を作り上げようとする手段というのは、虚構性を前面に打ち出すというものであり、虚構によって真実を提示するというものだからである。つまり、春樹にとって何かリアルなものがあるとしても、それを提示するためには、虚構性という回り道を経る必要がある、ということである。こうした虚構がもたらす危険性(とりわけジャンクな物語の危険性)を春樹は熟知しているだろうが、それでもなおかつ、物語によって自身の小説を構築していこうとする。保坂が、ある種の分かりやすさというものを常に警戒して、そこから離れようとしているのとは対照的であると言えるだろう。

 それでは、もう少し具体的に、小説の形式というレベルから、この二人の小説家の小説観に切り込んでいくことにしたい。小説の形式ということで問題になってくるのが、今回や前回の深夜便の放送で語られていたような、一人称と三人称の区別、あるいは、回想形式の有無といったものである。

 まず一人称と三人称の区別であるが、この区別について、保坂は、そうした区別は小説にとってそれほど重要なものではないと言う。これは、保坂が言語の他者性というものを重視しているからだと言える。保坂は、夢を重視し、比喩表現を退け、「猫を猫として書く」ことを推奨するわけだが、こうした方向性の基礎にある考えとは、言語は人間の自由になるようなものではなく、人間は必然的に言語の運動に巻き込まれている、というものだろう。つまり、人間は言語に対して基本的に受け身なのであり、そのような言語と人間との関係をカフカの小説は描いているのだ、と保坂は言うのである。

 保坂は、夢のような小説を描くことを目指しているようだが、これは、不条理な小説を描きたいということではなく、対象との距離を取ることのできない世界、超越という観点を決して取ることができない世界といったものを描き出そうとしているのだろう。この世界は裏側のない世界とでも言うべきものであるが、保坂にとっての言語のリアリティ、あるいは、世界のリアリティというのは、人間は世界に内属しているというものであり、それゆえにこそ、保坂は、「私」の死後も世界が存在することを肯定しようとするのだろう。

 言語は世界を認識するための道具だと言えるかも知れないが、しかし、言語は世界をバラバラに解体することで、言語の彼方にある語りえないものを見えなくさせてしまう。こうした言語の彼方の語りえないものを、保坂の小説は、輪郭づけようとしているのだろう。人間の限界を意識することが、つまるところは、世界の大きさを認識する有効な手段であり、こんなふうにして、保坂は、この世界は無に還元できるわけではなく、何かがしっかりとあるという存在論を提出しようとするのである。

 それでは、村上春樹については何が言えるだろうか。春樹においても他者性は問題となっていると言えるが、春樹が他者に接近する仕方は、ある意味、非常にアクロバティックなものだと言える。つまり、春樹は、まず、自己のうちに閉じこもる。デタッチメントという態度を選択するのである。これは、端的に、他者性の排除だろう。だが、春樹は、そのような他者性の排除から、今度は徐々に他者に近づいていこうとする。それをコミットメントの態度だと呼ぶことはできるが、ここでいうコミットメントというのは、ただ単に社会的な問題に関与するということではない。そうではなくて、「僕」や「私」といった一人称の限界のうちにいかにして他者の片鱗を浮かび上がらせることができるか、そこで浮かび上がってくる他者とどのように関わるのか、ということである。

 こうした意味で、春樹は、一人称という基盤を決して捨ててはいないと言える。一人称から三人称への移行というものがあるとしても、このことは、ただ単に、あるひとつの立場から別の立場に移行したことを意味しない。むしろ、ここで問題になっているのは、弁証法的な展開である。つまり、春樹の三人称には一人称的な問題設定がそっくりそのまま移しかえられている可能性がある、ということである(この点については今後もっと詳細な検討を加える必要があるだろう)。

 会合の中で、三人称について、A.I.氏が非常に面白いことを言っていた。これはA.I.氏が小花美穂の少女マンガを引きながら言っていたことであるが、三人称の特性とは、複数の視点が混在しているところにあるのではないか。AとBという二人の登場人物がいた場合、AがBを見る視点とBがAを見る視点の両方がある。あるいは、AがBを見る視点とCがBを見る視点との違いというものも想定することができる。いずれにせよ、ここで問題となっているのは、個の立場の相対化というものである。個が個として立ち上がるためには、それが個であることを指し示す何か別のものを持ち出してくる必要があるだろう。他者の視点というものがまさにその種のものであるが、こんなふうに視点を混在させることによって、アフター・カーニバルでしばしば話題に上る「個を丹念に描き出すこと」が可能になるのではないかとA.I.氏は言うのだ。

 保坂和志も、小説の課題として、個を描き出すことを重視しているだろうが、保坂が個を描き出す方法というのは、裏側のない世界(あるいは世界の裏側のなさ)を提示することによって、あらゆる存在の交換不可能性を強調するというものである。小説で描かれる存在というものが、単なる比喩の役割、何かを意味するための指標の役割しか果たさないならば、そのような存在からは固有性というものが消失してしまうことだろう。そうではなくて、何かと出会ったという絶対的な体験、あるいは、経験の一回性というものを土台に据えることによって、保坂は、交換不可能な存在を強調することになる。保坂が猫を重視するのも、人間とは異なるタイムスケールを生きる存在である猫の固有性というものを強調したいがためだろう。まさに、この地点においては、人間の認識の限界が何か別の存在の固有性を輪郭づけることになっているのである。

 以上が、今回の会合の議論の大雑把なまとめであるが、村上春樹と保坂和志との共通点については、それなりに素描することができたかも知れないが、この二人の作家の相違点を十全に描き出すまでには至らなかったと言える。しかしながら、今回の会合の課題は、これまでアフター・カーニバルが形成してきた議論を保坂の小説論と結びつけて考えるというものだったので、相違点よりも共通点のほうが強調されることになったのも、やむをえないかも知れない。

 しかしながら、保坂の小説論と春樹の小説観を比べることによって、春樹の小説をこれから再読するための観点がそれなりに整理されたところもあるのではないかと思うので、そうした意味では、かなり有意義な会合だったと言える。

 次回の会合の予定はまだ立っていないが、どんな形であれ、これまでアフター・カーニバルで形成されてきた議論がもっと開かれる形に展開されればいいと思っている。そのためには、議論の文脈を他の様々な文脈と接続していくことが必要になってくるだろうが、そうした試みは深夜便の放送でも行なっていきたいと思っている。

 こんなところで、また次回。(SIZ)

2009年06月15日

アフター・カーニバル深夜便(第八回)〜今こそ村上春樹を読み返すとき〜

 みなさん、こんばんは。
 今週も深夜便をお届けします。
 今週は、『1Q84』を読み終わったA.I.氏が、今後この放送でやりたいことを提案しています。
 A.I.氏の提案というのは、村上春樹の読み直し、村上春樹の語り直しというものです。
 この提案は、これまでのアフター・カーニバルの活動の、ある種の反復となるところがあるので、僕としても、大いに賛成したいです。
 A.I.氏が言いたいのは、これまでアフター・カーニバル内で形成されてきた言説をどのように外部の言説と接続するか、ということではないかと思います。
 これは、つまり、アフター・カーニバルの言説を開いていくということでしょうから、ネットでの放送とは言え、ある種の公開性を重視するのであれば、そうした作業は絶対に必要になってくることでしょう。
 この放送では、ニコニコ動画を取り上げるなど、他にもいろいろと企画は出ているわけですが、村上春樹を読み返していくという作業が基本線になっていくのかも知れません。
 『1Q84』も、いずれちゃんと取り上げる予定なので、お楽しみに。(SIZ)


(トピック)
緊急放送
『1Q84』を読み終わった
村上春樹を評価する基準
アフター・カーニバルにとっての村上春樹
春樹を語り直す作業
われわれにとっての本丸
一人称/三人称、回想形式の有無、固有名詞の有無
村上春樹スタディーズ
終了のベル


(参考)
1Q84(池田信夫 blog)
http://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo/e/cd9d38c366ef07b53223572ed0b445b4
村上春樹研究会としてのアフター・カーニバル
http://after-carnival.seesaa.net/article/120699023.html

2009年06月14日

ゴジラ FINAL WARS(北村龍平)

(この記事は2005年8月29日に書かれました)

(ストーリー)
色んな怪獣が出てきて暴れる。


 久しぶりに観たこと自体を後悔する作品に出会った。

 おそらくこの映画制作に関わった人間のうちケイン・コスギとドン・フライを除くひとりとしてマジメにやろうとした奴はいないのだと思う。どうも何班にも別れて撮影を行ったらしいが画面の色調も映像の粒子の細かさも何一つとして統一されていないし、それなりに鑑賞に堪える特撮がある一方で全く箸にも棒にもかからないものもある。とにかく統一感が全然無いし、つまりは監督不在で妙なところばかり突っ走って、クオリティもなにもあったものではない。きっと現場では監督自ら「何こんな映画で熱くなってんの?」とか「中の人も大変だな(藁」とか言って、スタッフのやる気を殺ぐことに全霊を挙げていたのではないかと思われる。

 不思議なのは、この作品の評価が意外にいいことで、何で「CinemaScape」みたいな映画サイトで、エメリッヒ版のゴジラが2.5点しか取っていないのに、本作が3.5点も取っているのだろう。本当にこっちのほうが出来がいいとみんな思っているのだろうか。ゴジラファンの採点基準がよくわからん。

「マグロ食ってるようなやつはダメだな」には笑ったけど、とにかくどうしようもない駄作であった。映画のコピーが「さらば、ゴジラ」だったけど、ぼくも言いたい。「さらば、ゴジラ。もう帰ってこなくていいぞ」(A.I.)
posted by SIZ at 17:45| Comment(1) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年06月12日

ベルカ、吠えないのか?(古川日出男)

(この記事は2006年4月30日に書かれました)

 小説。本屋大賞だかのノミネート作品になった。

 大塚英志がその評論で、「犬猫に根ざした思想」とかそんなことを書いていたことがある。どういう内容だったかはほとんど覚えていないのだが、要するに自分は犬とか猫とかに根ざしていない思想というものを信用しない、とかそんなことを言っていたのではなかったかと思う。吉本隆明は猫だとか江藤淳は犬とかよく分からない分類でかなり杜撰というか適当な議論を展開していて、よくこの人はこういう口から出任せみたいなことを本に出来るもんだと他人事ながらドキドキした憶えがある。しかし、どっちが好きかという小学生が議論しているみたいなレベルの話で良いのなら、ぼくは犬が好きだ。

 ただ、小説というと猫を扱ったものはけっこう思い浮かぶのだけど(『吾輩は猫である』、『夏への扉』、『三毛猫ホームズ』シリーズ、ポーの『黒猫』など)、犬の小説というのはなかなか思いつかない。精々『フランダースの犬』くらいである。しかしではウィーダの『フランダースの犬』を読んだことがあるのかと言えば、ないわけで、要するにアニメで知っているだけなのである。そう言えば、アニメや映画では犬猫の勢力は逆転して、『南極物語』とか『忠犬ハチ公』とか『名犬ラッシー』とか『名犬ジョリー』とか『いぬのえいが』とか『クィール』とか『白い犬とワルツを』(これはもともとは小説だけど)とか犬を題材にしたものは腐るほどあるのである。おそらくその理由は猫よりも犬のほうが「絵になる」からだと思うが、しかしそうして描かれたこれら犬の作品群のどれもが「感動もの」であるというのはやっぱり、人々の犬に対するイメージが貧困なせいなのだろう。

 そういう意味で本作は「犬の物語」という系譜に立ちながら、安易な「感動もの」に回収されなかった点だけでも評価できると思う。

 1943年、日本軍が撤収したキスカ島に4頭の軍用犬が捨てられる。そしてそこから始まる「犬の世紀」。

 というわけで、けっこうハードボイルドな犬の物語で、でてくる犬たちの生き様がかっこいい。やたらと気取った文体が鼻につくが、まあそこは好みの問題だと思う(ぼくはあまり気にならない)。だがスタイルだけというわけでもなくて、現代史に関してはよく調べているし、スタイルを優先させながらもなかなかの情報量があってそういうところは感心する。けっして格好だけの作家ではないと思う。悪くない。(A.I.)
posted by SIZ at 15:37| Comment(0) | TrackBack(0) | 読書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年06月11日

羽生(保坂和志)

(この記事は2007年7月28日に書かれました)

 作家である保坂和志が将棋指しの羽生善治について書いた、羽生論。

 将棋界の天才棋士・羽生善治について書かれた本はこれまでもかなりある。なぜこの微妙にオタクっぽいツラしたとっつあんボーヤがそこまで注目されるのかというと、むろん恐ろしく将棋が強いということもあるけれど、それだけでなく、このとっつあんボーヤは棋士という職業を、将棋というゲームを、ほとんど根底から変えてしまったからである。

 かつて、将棋は指す人間の人生観が体現されるもの、という考え方が大手を振って歩いていた。だが羽生は「人生と将棋は何の関係もない」「将棋はただのゲーム」といってそういう考え方を一蹴した。

 かつて、プロ棋士は定跡を研究しないもの、という考え方が大手を振って歩いていた。定跡をわざわざ研究するのは弱いからであり、真の実力が発揮されるのは定跡からはずれる終盤戦にあると考えられていた。だが羽生は「終盤は誰がやっても同じ」といってそういう考え方を一蹴した。局面が限定された終盤は極端なことを言えばコンピュータに任せてしまえば良いのであって、むしろ棋士としての実力を発揮すべきは序盤・中盤の戦術にこそあると言うわけである。

 羽生のこの将棋観は今では棋士のあいだでも一般的になってしまったけど、羽生が大活躍しだした10年前は(尤も今でも大活躍しているが)、羽生の真意を正しく汲める人は棋士のあいだにも多くはなかった。

 本書は10年前に書かれた羽生論の文庫化である。作家である著者が羽生の発言や棋譜などから羽生善治という天才棋士の思考法を丁寧に分析している。今読むと特に目新しい情報は何もないし、その分析もずいぶん平凡な印象を受けるが(コンピュータ将棋についての章は結構面白い)、それはまあ仕方がないことなのかもしれない。この10年の将棋の進歩がめざましいものであったということなのだろう。藤井システムもゴキ中も後手番一手損角換わりもこの10年くらいのあいだに指されるようになった戦法なのである。

 とはいえ、率直に言うとさほど面白い本ではなかった。

 羽生についての本では、羽生自身と認知科学者、人工知能研究者三人の共著『先を読む頭脳』という本が面白い。(A.I.)
posted by SIZ at 04:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 読書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年06月10日

ただ希望なき人々のためにのみ…

(この記事は2005年4月4日に書かれました)

 下でA.I.氏が見たと言っているNHKの格差社会についての番組を僕も見た。見ていていろいろ考えたことがあったので、その感想をひとつひとつ書いていきたい。

 まず、A.I.氏も問題にしている「努力」について述べてみたい。

 僕は、努力という観念は、現にそこにある格差を隠蔽するためのイデオロギーだと思っている。番組に参加していたフリーターのひとりが言っていたように、努力は結果で判断される。つまり、何か成果を出したときに、「努力をした」ということになるのであって、逆に、何も成果を出せなかったときには、「努力が足りなかった」ということになる。つまり、努力という言葉は、結果の不平等(とそれをもたらす様々な格差)を人々に納得させるためのイデオロギーとして機能するのである。こうした点で、「努力することができる人とできない人がいる」ということを述べている山田昌弘らの意見は注目に値する。

 次に「夢」について述べてみよう。

 30代のフリーターの人が「自分には夢がある」みたいなことをぼそっと言ったときに、司会者の人が嬉しそうに「あなたの夢は何ですか?」と質問している場面があった。なぜ、この司会者はあんなにも嬉しそうだったのか?

 それは、まさに、「夢に向かって努力する」という観念がひとつのイデオロギーになっているからである。「今は貧しくとも、自分には夢がある。その夢に向かって自分は努力している。夢が自分に希望を与えてくれるのだ」。このような典型的な図式(物語)があるため、司会者の人は、あの暗い表情をしたフリーターの生活に希望を見出したかったのだろう。

 しかし、彼はまさにその夢に破れた人間なのであって、現実に徹底的に打ちのめされた人間であるはずだ。彼の表情が強張っているのも頷けるところである。この彼に対して、経営者の人が、「自分はああいう部屋に住んでいる人を雇おうとは思わない」ということを言っていたが、この経営者の人は、なぜ彼があのような部屋に住まざるをえないか、ということを理解できていない(この経営者の人が言おうとしたことは、生活を向上させようとする意欲が、あの部屋を見ると感じられない、ということだろう。しかし、奮起して生活を変えようとするその意志が出てこないことがありうる、ということは思いもつかないのだろう)。

 この経営者の人は「自分を変える気があるのか?」ということを言っていたが、まさにこの点が問題であって、自分を変えるということは「社会に適用する人間になれ、と言っているのも同然である。従って、このフリーターの人の中には、ある種の抵抗感が存在しているはずである。おそらく彼の望みはささやかなものだろう。そのささやかな望みのほうがむしろ受け入れられないというのは問題である。

 このフリーターの人がライブドアの株を持っているということが事態の深刻さを窺わせる。つまり、この人は、徹底的に希望が失われているのである。ライブドアの株を(数株)持っていたって実利はほとんどない。そのことは彼自身もよく分かっている。では、なぜ株を買ったのかと言えば、それは、「多少なりとも、明るい兆しのあるところへ向かっていきたい。現在のところ、何らかの明るい見通しを示してくれるのがホリエモンとライブドアだ。だから、少しでも、その希望の恩恵を蒙りたい」というわけだ。これは、つまり、ホリエモンぐらいしか、現在の日本において希望を抱かせてくれる人がいないということである。これは深刻な事態だと言えまいか?

 なぜ、人はフリーターになるのか? この点に関して、学生はフリーターになるのを選ぶのではなく、フリーターを選ばされるのだ、ということを述べていた女性の教師の人の意見には、納得させられた。彼女の論理はこうである。まず、子供たちは小さい頃から夢を持つように仕向けられている。その結果、自分の夢を実現させることができた成功者はそれでいいだろう。そこには何の問題もない。途中で夢を諦めることができた人もそれでいいだろう。だが、この夢を諦めることができた人は、賢明であったからそれができたのではない。夢と現実を比較して、それをよく考慮に入れた上で、夢を諦めたと言っただけでは不充分である。この人は夢を諦めることができるだけの選択肢が目の前にあったということである。夢を諦めてもそれなりに満足することができる選択肢が目の前にあった。だから夢を諦めることができた。逆に、そのような選択肢がない場合に、人はフリーターになるのである。

 もし、フリーターという選択肢がなかったら、どうだろうか? フリーターという選択肢がなく、どこかに就職するしか道がないとすれば、どうだろうか? その場合は夢を諦めるか、それとも、働きながらでも夢を実現するために努力するという道しかないだろう。つまり、フリーターになって夢を追い求めている若者たちは、夢というイデオロギーの選別の結果、企業が(一時的に)必要としているフリーターにならざるをえなかったわけである。こうした論理には一理あると言わねばならない。

 さて、次に、A.I.氏も問題にしている「弱者へのシンパシー」の問題を取り上げよう。この点に関して、僕は数日前に放送していた『朝まで生テレビ』を思い出した。そこで、二人の政治家(自民党と民主党)が出ていたのだが、彼らは、「グローバル・スタンダードとジャパニーズ・スタンダード、どっちを選ぶのか?」という質問に対して、二人とも同じようなことを言っていた。つまり、「規制緩和をとっぱらって経済を活性化させることは必要である。しかし、そこからこぼれ落ちた弱者の救済も必要である」と。この最後に取ってつけたように出てくる「弱者のことも忘れずにね」という台詞には欺瞞的な匂いがする。それはただ単に、「弱者は切り捨てざるをえない」と言うと角が立つので、そう言ったに過ぎないという感じがするのだ。NHKの番組でもこのような空気が漂っていた。「失敗した者には再チャレンジするチャンスを与えるべきだ」という発言がそれである。山田の希望格差の論理を敷衍すれば、まさに、チャンスを活かすことができる人とできない人がいるはずだ。それゆえ、この発言にも欺瞞的な匂いがするのである。

 こうした口当たりのいい発言を聞いていると、それに反発して、極論を吐きたくなってくる。 例えば、「成功するか失敗するか、それは努力によって決まるものではない。いくら努力しても無理なものは無理だ。すべては生まれや環境によって決まるのだ」とはっきり言うべきではないのか? こう言われたほうが負けた人たちも諦めがつくというものではないのか? また、司会者の人は、最後に、「それでも私たちは生きていかなければならない」ということを言っていたが、そんな社会に生きていく必要などないのではないか? 人生に絶望した人たちが集まって、何百人単位で集団自殺をすれば、社会にとってこれほどインパクトを与える行為は存在しないのではないか?

 A.I.氏は「格差社会の問題を論じる番組のはずなのに、格差を開く方向にしか機能していない」と述べているが、それはその通りだと思う。こうした番組の果たす役割とは、「今、社会には、こんなにいろいろと問題がある。みんな大変だよね。でも、大変だけど、みんなで頑張っていこうじゃないか」というふうに、現状を肯定し、それを忍従させるという方向に促す、というものではないのか? 「一般市民参加型の討論番組」という番組形態自体が、そうしたイデオロギーに荷担している。つまり、そこでの討論の結果というのは、「いろいろな立場の人がいて、みんなそれぞれ異なった意見を持っている。意見は立場によって人それぞれだよね」というふうな一般論しか導かず、結果、議論が拡散し、問題を無化するという役割を果たしているのではないか?

 少なくとも、僕は、番組を最後まで見て、何も希望を見出せなかった。しかし、安っぽい希望を持たせられるより、徹底的に絶望したほうがいいのではないか、という気もしてくる。僕にとって最も印象的だったのは、あの30代のフリーターの生気のない顔である。僕は、個人レベルであれば、その人がどのような立場にあろうとも、表情が生き生きしていればそれでいいのではないかと思っている。従って、あのような表情をした人間を作り出す社会に対して、僕は不信感を持つ。僕は、彼に対しては、「徹底的に絶望せよ」と言いたい。ライブドアの株なんて破り捨ててしまえ、と言いたい。そして、自らの運命を呪え、と言いたい。「再チャレンジして頑張れば、もしかして成功するかも」などという甘言にはもう乗らないでいただきたい。(SIZ)
posted by SIZ at 20:12| Comment(0) | TrackBack(0) | エッセイ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年06月09日

「努力」という病

(この記事は2005年4月3日に書かれました)

 NHKの格差社会の番組を見た。本当は見る気なかったのだが、3時間ものあいだけっきょく最後まで見てしまった。

 とりあえずの感想としては、途中でギャラについて気焔を吐いていた変なおばちゃんが面白かったのと、ふたりの女性の大学院生が可愛かったのが印象的だった。

 特にふたりの大学院生は、片方がメガネをかけた真面目そうな娘で、ちょっと無愛想ながらもなかなか良かったし、もうひとりはホントに可愛くて、こんなんが大学院にいたら教授も院生もヤロウというヤロウどもは色めきたって勉強どころではないだろうと思いました。頑張って発言してみたものの緊張してうまいこと言えなかったあたりもまた可愛かったし、あの子と同じゼミに入りたいと思いましたよ。それでゼミ中、いいとこ見せて一緒に国会図書館で調べもnてゆうかぜんぜん内容には関係ないですね。

 で、内容について言うと、まず堀江社長にかなり好感を持った。考え方もしっかりしていたし、他の経営者みたいに弱者(という言い方もなんだが)に対して居丈高なところもなかったし、相続税は上げるべき、フリーターについては制度を見直すべき(完全な労働基準法違反だ)という意見も正しいと思うし、ライブドアの採用基準も年齢や学歴などでの差別は一切しないと明言していたし、こういう人に頑張ってほしいと思う。

 もちろん考え方自体にはちょっと疑問もあるし(「努力」に対する信仰とか)、個人的な意見から言えば、金子ナントカや斉藤貴男や重松清のほうに共感するのだが、しかしどうもこの人達の意見は如何にも負け惜しみっぽいところがあり、吠えるだけで彼らの言葉は実際に何の役にも立っていなさそうと感じた。いくら社会の現状を上手く切り取ってみせても彼ら評論家の言葉は事実フリーターである人々には虚しく聞えるだろうし(で、おまえは何かしてくれんのか?と)、番組に登場した30代フリーターがお守り代わりにライブドアの株を一株だか二株だけ買っていたように、彼らに届く言葉を発していると言う点ではおそらく堀江社長のほうが、遙かにフリーターらに届いていることだろう。番組の最後で斉藤貴男が「弱者に対する想像力と優しさ」みたいなことを言っていたが、こういう言葉を易々と吐いてしまうところにぼくは彼の想像力の貧困と酷薄さを感じる。ギャラがどうと実につまらないことで怒っていたおばちゃんの叫びが示しているように、たとえ心底からそう感じているとしても、社会的に成功している人間の同情の眼差しこそがフリーターやら失業者を侮辱し、抑圧し、格差の助長を招いているのだということこそを自覚すべきである。むろん現状の分析は必要だろうし、議論も行うべきだろう。問題を改善するために行政などが何らかの方策を立てることも考えるべきだと思う。が、想像力と優しさなどという言葉を吐くからにはそれだけの覚悟をしてほしいものだ(お前が代わりに仕事を探してくれるのか?)。正直言って、こういう言葉を吐くやつに限って電車でお年寄りに席を譲らなかったりするんだと怒りを感じた。

 あと感じたのは、格差社会の問題を論じる番組のはずなのに、格差を開く方向にしか機能していないということである。討論中誰かが言っていたが、番組構成上仕方ないとは言え、アンケートが基本的に二者択一になっているのは問題の根深さをよく物語っている。一億総中流階級であったはずの日本社会が、勝ち組・負け組という二分法が示すように中間層でいることを許さなくなったという点に格差社会の問題があったはずである。しかしあのアンケートはこういう格差社会を「良い」と思うか「悪い」と思うかのふたつの陣営に分け、その結果「努力したのにダメだった」「私もそういう時期があったが、リスクを負って努力し続けて成功した」「それは結果として成功したからそう言えるんだ」などと堂々巡りする始末。けっきょく「努力」「成功」「勝ち負け」「リスク」という言葉が示す価値観から一歩も外に出れず、番組の最後にはフリーターで今の社会に不満を持っている連中までもが「頑張る」だの「勝ち組に」などと書いているのである。これはもう病弊というしかない。(A.I.)
posted by SIZ at 19:21| Comment(0) | TrackBack(0) | エッセイ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年06月08日

話らしい話のない小説論争再び

 予定されていた会合は、諸々の事情により、一週間延期されたので、今週の「通信」も予定を変更して、今回の放送に合わせた記事を何か書いてみたい。

 放送を聞いていて、どのような小説が良い小説なのか、物語のある小説とない小説があって云々というところでちょっと思い出したのが、芥川龍之介と谷崎潤一郎との間で行なわれた「話のない小説(筋のない小説)」論争である。

 この論争は、簡単に言ってしまうと、小説にとって話の筋というものはどれだけ本質的な要素なのかという論争であって、小説には話があるべきだと主張したのが谷崎であり、小説には話がなくてもいいんじゃないかと主張したのが芥川なわけだが、その芥川が谷崎に対する反論として書いたエッセイが『文芸的な、余りに文芸的な』である。

 ちょうど青空文庫にこのエッセイがあるので、その最初のほうを読みながら、今回の放送で話された内容に対する補助線を引いてみたいと思う。

文芸的な、余りに文芸的な(芥川龍之介)
http://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/26_15271.html

 しかし、そもそも、ここで争点となっている「話」あるいは「筋」という言葉がちょっと分かりにくい。芥川は「僕の「話」と云ふ意味は単に「物語」と云ふ意味ではない」と言っていて、じゃあ、どういう意味なんだというところが、ちょっと掴みにくい。

「話」らしい話のない小説は勿論唯(ただ)身辺雑事を描いただけの小説ではない。それはあらゆる小説中、最も詩に近い小説である。しかも散文詩などと呼ばれるものよりも遙(はる)かに小説に近いものである。

こういうふうに規定されると、それなりに理解できるようにも思える。つまり、韻文と散文、詩と小説との区別があったときに、詩から遠く隔たっている小説というものが話のある小説であり、詩に近い小説というものが話のない小説ということなのだろう。

 「「話」らしい話のない小説は勿論唯(ただ)身辺雑事を描いただけの小説ではない」と芥川は言うが、やはり、そこで理想とされているのは、日常を描いた小説、あるいは、取りたてて事件というものが起こらない小説なのだろう。「通俗的興味」を引き起こす「奇抜な「話」」が取りたててない小説というものがここでは問題になっているのだろう。

 そして、具体例として名前が上がっているのが志賀直哉の『焚火』である。『焚火』は、確かに、芥川の言うように「未完成」な印象を与える。ここから何か大きな物語が展開される予感がないわけではないが、しかし、何か大きな出来事が起こることはなく、人々が焚火にあたりながら雑談してそれで終わってしまう小説である。

 芥川が言いたいのは、こんなふうに話が展開していないからこれはダメな小説なんだとは言えない、ということなのだろう。小説の価値を決定するのは、話の奇抜さとかそうしたところではなく、もっと別のところにある、ということが言いたいのだろう。そんなふうに別のところに価値あるものがあることを示すためにも、小説から話らしい話を抜き出して、一見すると未完成なもののようにしてある小説が注目に値すると芥川は言いたいのだろう。「僕等は勿論動物園の麒麟に驚嘆の声を吝(を)しむものではない。が、僕等の家にゐる猫にもやはり愛着(あいぢやく)を感ずるのである」というわけだ。

 別に芥川の議論を追っていくことが目的ではないので、芥川のエッセイに言及するのはこの辺でやめておくことにするが、問題となっているのは、小説の芸術性とでも言うべきものであるように思える。芸術作品としての小説を価値づけるにあたっては、「通俗的興味」を排した、「純粋」性を強調する必要があるということなのだろう。

 この論争は昭和の初めに行なわれたものであるが、それでは、現在の時点で小説の価値を云々した場合に、芥川の主張する純粋性にどれだけの意義を見出すことができるのかというところに、僕はかなりの疑問を感じる。僕としては、小説の芸術性というものを認めるのにやぶさかではないところもあるのだが、いわゆる純文学の純粋性にどれだけ積極的な意味を与えることができるのか、そこのところが疑問なわけである。

 純文学の「純」というところが僕は曲者だと思っていて、ここには、つまり、不純物の排除があるわけだが、しかしながら、そこでの純粋性というものは、いったい何によって保証されるのだろうか。つまり、何か中身を入れていくことによって内容を豊かにしていく方向性と、不純物を取り除いていくことによって純粋なものを築いていく方向性があったときに、どちらの方向性にもA.I.氏が言っていたような「堕落」の危険が存在しているとしても、今日においては、後者の方向性、つまり、純粋性を目指す方向性というものには、明確な理想が存在しないように思える分だけ、堕落してしまう危険性が非常に大きいのではないかと思うのだ。

 例えば、芥川には西洋の芸術という理想があった。『文芸的な、余りに文芸的な』にも西洋の芸術家の名前がたくさん出てくるが、こういう理想が文学者の間で(さらには読者にも)共有されているとすれば、何らかの形で芸術の純粋性を担保できるかも知れないが、作家のよって立つ場所がおそらくバラバラになっている今日にあっては、芸術的な純粋性よりも、大衆の要求のほうがそれなりの基盤を作り上げているところがあるように思えるのだ。

 純文学という言葉は大衆小説に対立する言葉であるが、大衆小説が出てこなければ純文学という規定も出てこなかったことだろう。芥川と谷崎との論争も、ある意味、大衆小説を巡る論争だったと言えなくもないところがある。つまり、文学の商業的な価値や商品的な価値が問題になり出したがゆえに、逆に、文学の芸術的な価値がことさらに問題になり出した、ということである。

 もちろん、大衆におもねる作品を作り上げることは間違いなく堕落だろうが、しかし、大衆の要求と明確に対立するような価値基準を作り上げることができないとするならば、こうした大衆の要求を、あるいは、文学の商品価値を不純物として取り扱うことは、ある種の小説の豊かさを損ねることになりかねないのではないかと思うのだ(谷崎側の主張というのもこういうものだったのではないか)。

 おそらく、今日においては、作家のひとりひとりが、不特定多数の読者というよりも、ある特定の趣味嗜好を持った具体的な読者との間に緊密な関係を築くことによって、理想とする作品像というものを作り上げているのだろうが、そこでどのような読者が想定されているのかというところが大きな問題となっていることだろう。

 純文学の貧困というものがありうるとすれば、それは、読者像の貧困であるように思える。どのような読者に向けてそのような小説が書かれているのか、ということが不明確であるように思えるのだ。あるいは、芸術的な価値を信奉する読者にそうした小説が向けられているとしても、そこでの芸術的な価値というものが非常に不明確であるように思えるのだ。

 僕は、今日という時代にあっては、内容に偏りのない小説というものはないんじゃないかと思っている。つまり、純文学というものがありうるとしても、それは、純文学という偏りのある小説、純文学という名のジャンル小説にすぎないんじゃないかと思っている。どんな小説もジャンル小説にならざるをえないとすれば、ある程度の定型表現というものは避けられないことだろう。しかし、そのような定型表現に従いつつも、そこから何とかして抜け出そうと努めている小説。そのような小説にしか、もはや、芸術的な価値と呼ばれるようなものは宿らないんじゃないかと思っているのである。

 来週は、予定通り会合が開かれれば、その報告ができると思うので、ご期待のほどを。(SIZ)

2009年06月06日

アフター・カーニバル深夜便(第七回)〜村上春樹の小説観、保坂和志の小説観〜

 みなさん、こんばんは。
 今週も「深夜便」をお届けします。
 今回の放送は、前回の放送の後編に当たるもので、R氏とA.I.氏とが村上春樹と保坂和志の小説観に基づきながら、小説はどのようにあるべきなのか、等々について話をしています。
 争点となっているのは、小説における物語の地位、といったものでしょうか。
 単純に小説は面白ければいいという考えが間違いではないにしても、そこでの面白さとはどのようなものなのかということが問題になっているとも言えます。
 R氏が主張する「個を丹念に描く」ということが、現在のアフター・カーニバルでは、重要なテーマとなっていますが、このテーマが村上春樹と保坂和志の小説観とどのように関わるのか、そうした点に注目して聞いてみてください。(SIZ)


(トピック)
リズムのいい小説はダメなのか
スラスラ書ける、スラスラ読める
近代文学のリズム
小説を読む快楽
亀山郁夫のドストエフスキー観
比喩を使うべきではないのか
猫を猫として書く、虫を虫として読む
村上春樹の「蛍」の表現
日常生活における寓意
夢のリアル、夢の寓意
仮説としての比喩、牡蠣について書くこと
物語と小説との差異
小説の面白さ、物語の持つ力、言葉の魔力
ポストモダン小説と物語の解体
物語と語ることとの差異
物語の放棄ではなく物語の復権を
カフカの小説の特殊性
春樹にとっての良い物語
物語の実在感(リアリティ)
「である」と「がある」
個のかけがえのなさを丹念に描くこと
定型化された交換可能な内面
『パン屋再襲撃』における関係性の描かれ方
『グレート・ギャツビー』と『戦争の法』に見出される関係性
メタな私を想起させられるかどうか
保坂和志の小説(『明け方の猫』)
次回予告

広告


この広告は60日以上更新がないブログに表示がされております。

以下のいずれかの方法で非表示にすることが可能です。

・記事の投稿、編集をおこなう
・マイブログの【設定】 > 【広告設定】 より、「60日間更新が無い場合」 の 「広告を表示しない」にチェックを入れて保存する。


×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。