四コマ形式というライトで機動性に富む鋳型は、充溢する青春の日々を描くに及んで、いかなる停滞をも見せることなく、その終焉まで実に爽やかに物語を駆動させていた。
昨年度の映画として日本アカデミー賞グランプリとなった『桐島、部活やめるってよ』は、歴代受賞作とは種々の点で異なる異色作だが、その一つに、物語や文脈の語り方に極めて意識的・作為的なことが挙げられるだろう。
この作品では、高校生たちの何の変哲のないただの日常が、時系列・単一視点ではなく、並列性・複数性を軸に持つ語りによってなぞり返されていく。
金曜日から週末を挟んだ火曜日までの、学校生活全体のカレンダーからすればごく短い、その分濃密な時間がそこにはある。そして「金曜日」はループして描かれる。時間がループするのではなく、描写/語りがリピートされるのである。
例えばファーストターンで、ある人物らが放課後に話題にしていた「朝会でのエピソード」が、次のターンで今度は「朝会そのもの」が描写される、という具合に。
そのようにして視点を変えつつ、同じ(桐島が部活をやめた日であるらしい)「金曜日の出来事」が微妙に時間や位相をずらされながら何度もリロードされるうち、総体としての現実が一つ一つその差分をバックアップされていく。
気がつくと曖昧模糊とした視界が開けてきて、われわれは日常現実の奥行きある理解を得ることになり、日常些事のひだや手触りが立体視されてくる。こうした生々しい現実感にはぞくっとさせられた。
だから、学園生活における少年少女それぞれのいま・ここの生の現実を支配している文脈は、次第に明確になりそのつど強度を増してくる。
そして、カメラが追う舞台上に交錯する視線・まなざしによって、人々のあわいを隔たる見えない壁が可視化され、各人の座標が確定されるとともに各々の電位差も肌身に伝わってくる。
「日常」をまなざそうとする作品は、今そこにある「日常」を撃ち抜くための「語り」を持たねばならない。
手法としては『あずまんが大王』が日常世界を積分によって立像したのとある意味では相似するものの、『桐島』はむしろ、「金曜日」という言わば四コマに相当する制限フレームの設定によって、厚みのある「日常」を微分したのだ。だから、この「日常」の質量は、その微分(「金曜日」の細分化)の度合いに応じて逆算的に確かめられてくることだろう。
(部活をやめたらしい)桐島はついに舞台に現れず、作品内で直接的なアクセスを禁じられた存在となっている。対面せず、応答もせず、人々の問いかけだけが残される。
それゆえにベケット方式よろしく「不在の中心」を多声的に物語ることを通し、日常現実は幾層にも補完されあう。
不在でありながら日常の中心である(部活をやめたらしい)桐島をめぐる言説は、この不可解でままならない日常を生きるわれわれの、それへの無力な異議申し立てのようでもあり、あるいは果敢ない盲目の祈りであり、不断の問い立てにほかならないということになる。
(部活をやめたらしい)桐島に繋縛される彼らにとっての生のあり方とは、(部活をやめたらしい)桐島との距離をはかりつづけることなのだとすれば、桐島とは彼らの日常そのものを構成・組成している原理であり、日常そのものを賦活している何ものかであり、そして学校現場を支配している空気のような見えないレギュレーションであるのだろう。
そして桐島が桐島であることをやめた時、彼らはその世界から解放されると同時に彼らの中の日常を失うのだろう。
ところで、スクールカーストの最底辺がどこにあるかをきちんと抉っていて身震いさせられるのだが、逆に言うと中間層があまり描かれていないのは気になった。
また、ヒロキカップルは少々リアリティに欠けていた。あの組み合わせにするのであれば、現状どちらかの性格描写、人物把握に難があり、破綻をきたしているように思われる。
ちなみに、クライマックスを煽るワーグナーのエルザは吹奏楽の定番なのでフルートが構えた時に「来るな?」と思ったのだが、通常の吹奏楽アレンジではなくオリジナルアレンジだったのでこれは思わぬ拾い物だった。
(R)