2013年08月25日

桐島、桐島をやめるってばよ?〜『あずまんが大王』から『桐島、部活やめるってよ』へ

かつて『あずまんが大王』は学園生活を描きながら、時系列で進行する不可逆で一回的な日常性そのものを前景化し、四コマという仕方でその様々な場面を切り取ることで、彼らの日常世界を積分してみせた。
四コマ形式というライトで機動性に富む鋳型は、充溢する青春の日々を描くに及んで、いかなる停滞をも見せることなく、その終焉まで実に爽やかに物語を駆動させていた。

昨年度の映画として日本アカデミー賞グランプリとなった『桐島、部活やめるってよ』は、歴代受賞作とは種々の点で異なる異色作だが、その一つに、物語や文脈の語り方に極めて意識的・作為的なことが挙げられるだろう。

この作品では、高校生たちの何の変哲のないただの日常が、時系列・単一視点ではなく、並列性・複数性を軸に持つ語りによってなぞり返されていく。
金曜日から週末を挟んだ火曜日までの、学校生活全体のカレンダーからすればごく短い、その分濃密な時間がそこにはある。そして「金曜日」はループして描かれる。時間がループするのではなく、描写/語りがリピートされるのである。
例えばファーストターンで、ある人物らが放課後に話題にしていた「朝会でのエピソード」が、次のターンで今度は「朝会そのもの」が描写される、という具合に。
そのようにして視点を変えつつ、同じ(桐島が部活をやめた日であるらしい)「金曜日の出来事」が微妙に時間や位相をずらされながら何度もリロードされるうち、総体としての現実が一つ一つその差分をバックアップされていく。
気がつくと曖昧模糊とした視界が開けてきて、われわれは日常現実の奥行きある理解を得ることになり、日常些事のひだや手触りが立体視されてくる。こうした生々しい現実感にはぞくっとさせられた。

だから、学園生活における少年少女それぞれのいま・ここの生の現実を支配している文脈は、次第に明確になりそのつど強度を増してくる。
そして、カメラが追う舞台上に交錯する視線・まなざしによって、人々のあわいを隔たる見えない壁が可視化され、各人の座標が確定されるとともに各々の電位差も肌身に伝わってくる。

「日常」をまなざそうとする作品は、今そこにある「日常」を撃ち抜くための「語り」を持たねばならない。
手法としては『あずまんが大王』が日常世界を積分によって立像したのとある意味では相似するものの、『桐島』はむしろ、「金曜日」という言わば四コマに相当する制限フレームの設定によって、厚みのある「日常」を微分したのだ。だから、この「日常」の質量は、その微分(「金曜日」の細分化)の度合いに応じて逆算的に確かめられてくることだろう。

(部活をやめたらしい)桐島はついに舞台に現れず、作品内で直接的なアクセスを禁じられた存在となっている。対面せず、応答もせず、人々の問いかけだけが残される。
それゆえにベケット方式よろしく「不在の中心」を多声的に物語ることを通し、日常現実は幾層にも補完されあう。
不在でありながら日常の中心である(部活をやめたらしい)桐島をめぐる言説は、この不可解でままならない日常を生きるわれわれの、それへの無力な異議申し立てのようでもあり、あるいは果敢ない盲目の祈りであり、不断の問い立てにほかならないということになる。
(部活をやめたらしい)桐島に繋縛される彼らにとっての生のあり方とは、(部活をやめたらしい)桐島との距離をはかりつづけることなのだとすれば、桐島とは彼らの日常そのものを構成・組成している原理であり、日常そのものを賦活している何ものかであり、そして学校現場を支配している空気のような見えないレギュレーションであるのだろう。
そして桐島が桐島であることをやめた時、彼らはその世界から解放されると同時に彼らの中の日常を失うのだろう。


ところで、スクールカーストの最底辺がどこにあるかをきちんと抉っていて身震いさせられるのだが、逆に言うと中間層があまり描かれていないのは気になった。
また、ヒロキカップルは少々リアリティに欠けていた。あの組み合わせにするのであれば、現状どちらかの性格描写、人物把握に難があり、破綻をきたしているように思われる。


ちなみに、クライマックスを煽るワーグナーのエルザは吹奏楽の定番なのでフルートが構えた時に「来るな?」と思ったのだが、通常の吹奏楽アレンジではなくオリジナルアレンジだったのでこれは思わぬ拾い物だった。
(R)
posted by SIZ at 07:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年08月24日

アニメ映画『ねらわれた学園』レビュー

ようやく念願の『ねらわれた学園』を観る。
とりあえず思うのは岩井俊二かよというくらいに嫌味スレスレのキラキラ・ライティングがほどこされていて、やたら世界は木漏れ日と葉漏れ日で眩しいのだが、新海誠の描写した世界像よりずっと好ましいということだ。
これはあれだ、『耳をすませば』を観た時に似ている。

映像と音楽が共に素晴らしく、質量が豊穣で、ノスタルジーを誘うオープニングのリリシズムは、『耳をすませば』と『星を追う子ども』に匹敵する。

これはれっきとした江ノ島モノでもあり、しかも異世界ファンタジーとしての江ノ島である。
例によって権五郎神社で一悶着あり、夜には画面奥の背景で、沖の波が月明りに揺らいでる。
HDならではだろう。
灯台のサーチライトは強調され、常に舞い散る花弁は車輌内にも飛び、もはや江ノ電は銀河鉄道にしか見えない。

出てくる登場人物は好んで議論を交わし、画面には常に二つ以上のドラマが進行していく。
そこで焦点になるのは今を生きることのかけがえなさであり、つまりこのアニメの季節感溢れる風景描写は、推移する時間を全編に力動させることに費やされている。

ああ、それにしてもドングリ攻撃の場面の遊びは楽しい。

音楽は音像が分厚く雄弁で、しかも画面を吹き渡る風のように流れてやまない。
特にピアノの音にこだわりを見せていて、主要モチーフとなる『月の光』の演奏はサントラ担当が自奏しているが、数々映像で使用されてきた中でも素晴らしい演奏になっている。

ただし主題歌が余計で、ラストの余韻をぶち壊している。
(R)
posted by SIZ at 12:39| Comment(0) | TrackBack(0) | アニメ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年12月21日

失われた祭りをもとめて〜日常性への着陸

 宮台真司は『終わりなき日常を生きろ オウム完全克服マニュアル』で、80年代前半に主流だった終末観を分析して、それは女の子を中心とした「終わらない日常」という終末観だったとしている。「輝かしい進歩」も「おぞましい破滅」もない、学校的な日常性のなかで永遠に戯れつづけることだと。高橋留美子のコメディーマンガ『うる星やつら』に代表されるような、ご町内で延々と繰り広げられる日常的なドタバタ劇の流行は、同人誌におけるパロディ作品においてもスタンダードであったと。
 いうまでもなく「学校的日常」はじっさいには終わりが来るものであり、主にサブカルを中心とした文化領域ないし精神風土において、それをまさに終わらないものであるかのように取り扱ってきたところに「終わり」の忌避と隠蔽という事態は淵源している。それが終わらないというかぎりにおいて「学校的日常」は「祭り」として機能するし、一種のパラダイス=非日常でありつづける。サブカルチャーという消費物における「終わらない日常との戯れ」という処方の選択が、むしろ「終わりなき非日常」に貪欲であることを増進させたのである。
 大澤真幸が指摘したように、近年の「昭和ノスタルジー」趣味の隆盛が、時に臆面もなく礼賛や美化をもって迎えられるのも、「昭和」という「祭り」のその後である現在においては、人々に見失われてしまった「希望の目線」が、まだあった時代への憧れに由来しているだろう。しかし言うまでもなく、「昭和」も「高度経済成長期」もその頃の「夢」も終わったのだ。終わっていないのは、人々のなかにある残像としての栄光の影である。

 『不可能性の時代』で大澤真幸は、「戦後の精神史は、『理想の時代』から『虚構の時代』へと転換してきており、オウム真理教事件は、『虚構の時代』の限界・終焉を徴づける出来事ではないか」と述べ、「『虚構の時代の後』が、つまり現在が、どのような時代なのか」という論題に取り組んでいる。ここでは大澤の議論に沿っていくことにする。大澤は東浩紀の『ゲーム的リアリズムの誕生』の論述を下敷きにしながら以下のような直感を述べる。

 (オタクたちを生み出した)現代社会は、終わることの困難に直面し、もがいているのではないかということ、これだ。ゲームや、ライトノベル、アニメの中で、「反復」という主題がやたらと反復されているのである。反復する時間の中に閉じこめられ、そこから抜け出すことができない、という主題が、作品横断的に、あまりにも頻繁に登場するのだ。ゲームにおいては、この反復を何とか切り抜け、真の終わりをもたらすことが、目標となる。つまり、終わらない、終わりたくても終わることができない、真の終わりを容易にもたらすことができない、このような困難に、われわれの社会は直面しているのではないか。(『不可能性の時代』)

 近年のそうした作品として押井守『スカイ・クロラ』や細田守『時をかける少女』などのアニメ、竜騎士07『ひぐらしのなく頃に』などのゲームが挙げられよう。どれも「夏」という季節が選択されていることじたい示唆的だが、『ひぐらしのなく頃に』はさらに「バッドエンド」によって繰り返される「夏祭り」を、(どのような正しい選択と決定によって)いかに終わらせるかという物語とも取れるものである。大澤は「反復からの脱出」というモチーフが現代のサブカルに頻出するのは、「終わることが容易ならざること」の端的な現れであるともいう。
 大澤は「選挙結果」の公式発表があるまで本当には「終わった気がしない」ことに着目し、そこから、「偶有性の感覚――他でもありえたのではないかという感覚」を克服し、「必然性の感覚――これでよいのだ、これしかなかったのだという実感」を得るためには、終わりの公式な宣言が必要だとする。だが現代社会にはそうした公式宣言をしうる資格と権能を持った機能体系がもはや存在しないことで、「社会内のさまざまな領域で、さまざまな瞬間に、終わりが決定されなくてはならない」にもかかわらず、「決着を付けることに特別な困難を覚えている」というのである。またサブカル作品のパロディや二次創作物の蔓延も、そもそもの「正典」が「これ以外ありえない」という限界線を持ちえず、そうした「終わり」を宣言できないからだとする。
 現在「機動戦士ガンダム」シリーズが誕生からすでに30年を経て新たな「正史」を展開しているようだが、この「正史」の終了後もおそらくそうした限界線は引かれることがないだろう。またそうした公式宣言は、動画サイト「YOU TUBE」や匿名の巨大掲示板「2ch」におけるコメント「祭り」=話題・ネタの盛り上がりにも存在しないが、これらの「祭り」には比較的早い鎮静化が多く見られるのに対して、「ニコニコ動画」は「非同期ライブ」というシステムによって、ユーザーの任意でいつでもそこに「祭り」を見出すことができる。そうした点で「祭りのあと」の訪れが遅延的であるメディアとなっている。つまりやはり「終わりにくい」メディア空間と状況がそこにあると見て良い。「ニコニコ動画」がサブカル的文脈の上では「YOU TUBE」より優位に立てたのも、そのことが大きいであろう。
 いずれにせよ現代社会が「終わり」の厳然性を保てなくなったとき、われわれは必然的に「祭りのあと」を、「終わり」を隠蔽しながら生きてゆかざるをえない。そこでは「偶有性」の念が「後の祭り」としてつねに残り、「祭りのあと」を「祭りのあと」として引き受けることができないのである。

 大塚英志によれば、世紀末に自決した文芸批評家の江藤淳は、甘美な虚構ないし仮構に閉塞しようとする欺瞞を厳しく批判しまた拒否していたが、夫人に先立たれた孤独の時間を彼が耐えきれなかったのは、そうした潔癖さによるところがあるのではないかという。

 上手くはいえないんだけどそのままずるずるとだらしなく犬と暮らすようなところがあれば江藤淳は死ななかったんだろう、と思うと同時に、・・・・・・老犬と老いていくという人生はやはり江藤淳にはありえなかったのだろうなとも思う。(『江藤淳と少女フェミニズム的戦後 サブカルチャー文学論序章』)

 「そのままずるずるとだらしなく犬と暮らす」とはどのようなことか。大塚が「犬と暮らすセンチメンタリズム」というところのそれは、ある意味では江藤が忌避した「仮構」性(通俗的な物語)のうちに自閉するありようだが、言うなれば夫人亡きあとの「終わりなき日常」のだらりとした日常性そのもののなかに自足していく生き方でもあろう。大塚が言うように江藤はそれとは別種のセンチメンタリズムに崩れて自決したわけだが、それと対蹠的なサヴァイビングを見せたのが少女漫画家の大島弓子であったという。大島は独身を通しながらサバという愛猫と暮らしていたが、あるときサバについに先立たれてしまう。大塚は、サバに支えられているかのように見えた大島の世界がどうなってしまうのか心配だったものの、大島がエッセイマンガのなかで新しい飼い猫を、対話可能な人間の姿で描いていたサバとは異なり、ただの猫として描いていたことにほっとする。「その擬人化されていない猫の絵が大島弓子がサバの死を通して乗り越えたものが何だったかを物語っているように思えた」と。対する江藤は「犬をただありのままの犬として飼うこと」が受け入れられなかったというのである。漫画家である大島弓子はサバと訣別しえて、その生活の「終わり」を受け入れられたわけであり、逆に「仮構」を拒否していたはずの江藤が「犬をただありのままの犬として飼う」散文的な日常性に耐えかねたというある種の転倒性が見出されるのである。これは一見、先の宮台真司の議論に見られた「終わりなき日常との戯れ」が逆説的に可能にしたことのようにも思えるが、大島は「終わりなき非日常」を求めたのでなく、あくまでも「日常性」に軟着陸したのである。それは単なる個人の資質の問題なのかもしれないが、なおその理由が問われねばならないだろう。(R)
posted by R at 00:23| Comment(0) | TrackBack(0) | エッセイ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年12月17日

失われた祭りをもとめて〜現代サブカルの深層心理

★終わりを忌避する現代社会

 911テロの跡地であるグラウンド・ゼロに再び世界貿易センタービルをも凌ぐ記念タワーを創り上げる計画があるという。色々な問題を抱えて難航しているようだが、そこからうかがえるのはいまだ治らないアメリカの病である。それは「失われた祭り」を再現しようと躍起になる姿に見える。彼らは、あの広大な一画をぽっかりとした空白地帯のゼロ地点のままにしておくことが出来ないのである。追悼の塔であると主張しているようだが、このような弔いのあり方はむしろ死者の犠牲を無に帰す反魂にすぎないのでないか。そこには「喪に服する」ということへの根源的な省察が欠けており、彼らは致命的な誤謬を犯しているのではないだろうか。グラウンド・ゼロはかつての「輝けるアメリカ」のあくまで跡地なのであり、悲惨な出来事の跡地として素舞台にしておくことによってのみ真の鎮魂が成り立つのである。「悼む」ことは、痛みを麻痺させることによって可能になるのではない。どこまでも悲劇の痛覚を想像しうる喚起力をグラウンド・ゼロは持たねばならない。アメリカの「祭り」はまだ終わっていないのである。

 現代社会はグローバルな状況として「終わり」を望まない傾向にあると言える。「終わり」を迎えることの極端な忌避、そして究極的には「死」を可能な限り回避・延命し続けることによって、この世の「無常」の隠蔽を拡大し推し進めていく科学技術とそれへの信仰。たとえば近年のアニメ業界の最大のヒット作であり、サブカル界を席巻した『けいおん!』のマンガおよびアニメの連載終了・放映終了における、愛好者の過剰なうろたえぶりは記憶に新しい。連載終了をあたかも世界の終わりであるかのように受け入れられないものとしてふるまう愛好者たちの姿は、現代のサブカルチャー(マンガ・アニメ・ゲーム)のマスが何を志向しているのかを暗示している。むろんそれはひとつの擬態にすぎないであろう。だがそのようにふるまおうとすることに現代のサブカル文脈の基盤があるとも言えよう。まさに「アイロニカルな没入=虚構にすぎないことをよく知っているが、それでも不動の『現実』であるかのように振る舞う態度」(大澤真幸)の横溢である。2010年に話題となったTVドラマ『Q10』でも、そのような「終わること」をめぐる主人公のモノローグが散見され、また『けいおん!』の連載終了に恐怖したような者たちの戯画が描写されてもいた。(しかしこの作品では、最終的には主人公が未来から来たロボットのリセット・ボタンを押して、かけがえのないものとなっていたロボットとの関係性を断ち切るという苦渋の選択が描かれていた。)

 そもそもSFが今よりもサブカルのスタンダードに食い込んでいたと思われる時代では、一日が何度も反復される趣向の作品がありふれていたし、反復といえばループ系のタイムリープもの、あるいはパラレル・ワールドのモチーフは、80年代ラブコメの定型だったろう。有名な押井守『ビューティフル・ドリーマー』(いつまでも文化祭当日がやって来ず「祭り」の準備だけが反復される作品)の他にもアニメ『きまぐれオレンジロード』では、望月智充が演出担当した「そしてダ・カーポ」などの話に顕著であった。それらは往々にして話型じたいが円環構造をなしていたことも指摘できよう。

 そもそも『サザエさん』に代表される過去無数に量産されてきた日常系の作品では、「終わり」というものが設定も意識もされていない。それは「終わり」の刻印がどこにもない作品類型だと言える。だが同時に世紀末を跨ぐ辺りから『あずまんが大王』や『けいおん!』といった日常系の学園ものなどで、非常にサブカル的な身体性を持ちながら、過ぎ去る時間と成長する人物という基軸が導入されるようになり、先述のように作品内の「卒業」に耐えられないといった倒錯した現象が起きてくる。われわれはこれまでのサブカル作品において、「終わり」が回避されてあることに飼い慣らされすぎていたのだろうか。

 だがわれわれはつい十年ほど前の前世紀末までノストラダムスに代表される終末論の世界観を共有し、ハルマゲドンを懼れつつそのような「物語」を消費してきたし、一部に勃興した「物語」濫用者はじっさいにそれを起こそうともした。だがそこでのそうした「終わり」の「物語」は、終わりゆくものに引導を渡す大義を放擲した「お祭り騒ぎ」にすぎなかった。われわれはそれを無責任に愉しむことすらしただろう。そうした点から見れば、オウム教団の幹部が来たるべき最終結論に向けて準備していたものも、ひとつの巨大な「祭り」の準備にすぎなかったとも言えるだろう。

 なぜわれわれの社会はハルマゲドンという「祭り」を希望したのか。しかもそれは「祭りのあと」に現れた「祭り」であった。蓋し「祭り」が渇望されるのは「祭り」がすでに終了しているからであり、「祭り」がない状態すなわち「終わりなき日常」ゆえにである。宮台真司がかつて指摘したように「終わりなき日常」を拒否して「祭り=ハルマゲドン」を希求することのなかからオウムの実力行使は産まれてきた。われわれにとってもはや「終わりなき日常」は「祭り」の欠如態としてある。だとすれば戦後から世紀末にかけて失われていった「祭り」とは何だったろうかと考えてみる必要がありそうだ。そのときそこで終わっていたものとは何であろうか、と。

 よく言われるように、ひとつにはそれは「物語」の失墜であろう。われわれにとって、共同体として信じられ、希望を見いだせる「物語」(宮台真司は「良きことの自明性」「良心」「倫理」などを挙げていた)は戦後、順次さまざまな段階を経て瓦解していった。敗戦、市民運動・学生運動の挫折、三島の自決、昭和の終焉、共産主義の敗北、バブル経済の暴落、1995年の衝撃、911テロ、広がるコミュニケーション・ギャップとあらゆる格差、各方面の安全神話の崩落、どの局面にも見出せるモラル・ハザード、それと反比例するかのようにますます狭量になる検閲的モラルの帝国主義・・・・・・ハルマゲドンは、あらゆる価値の文脈が解体され崩壊した後にかろうじて機能しかけた大きな(「 」つきの)「物語」であり、終末論はお手頃なものにリサイジングされた「祭り」のいわば「しおり」であった。あの当時のわれわれの社会では、それに対して人々がどのようなリアクションを取るにせよ、半ば無意識に「祭り」に参加していたのである。

 だから赤城智弘の物議を醸した議論「希望は戦争」は、21世紀に突如として出現した心理ではない。すでに終末論を求めた人々の心の荒廃に暗に胚胎していたものであり、世紀末という「祭り」以後も終わらなかった「後の祭り」なのである。

 世紀末の終わりとともに「祭り」は終わり、社会は「祭りのあと」を今も過ごしている。だが終末が終わったとき、われわれは「祭り」がなぜ求められたのかという問題それじたいを終らせていたわけではなかった。したがって「祭り」は内面的に続行されつづけているのである。そこでは「戦後」もまた終わってなどいないのだ。むろん、しかるべき訣別なきところには何らの鎮魂も追悼もありえないのである。(R)

2010年12月15日

失われた祭りをもとめて〜伊東静雄『夏の終わり』

 以下は、詩誌「四季」や日本浪曼派の代表的な詩人である伊東静雄の代表作である。

 
夜来の颱風にひとりはぐれた白い雲が
 気のとほくなるほど澄みに澄んだ
 かぐはしい大気の空をながれてゆく
 太陽の燃えかがやく野の景観に
 それがおほきく落す静かな翳は
 ……さよなら……さやうなら……
 ……さよなら……さやうなら……
 いちいちさう頷く眼差のやうに
 一筋ひかる街道をよこぎり
 あざやかな暗緑の水田の面を移り
 ちひさく動く行人をおひ越して
 しづかにしづかに村落の屋根屋根や
 樹上にかげり
 ……さよなら……さやうなら……
 ……さよなら……さやうなら……
 ずつとこの会釈をつづけながら
 やがて優しくわが視野から遠ざかる 
                   伊東静雄「夏の終わり」


 文芸評論家の江藤淳は、かつて敗戦後まもない頃の虚脱感と喪失感のなかで伊東静雄の詩「夏の終わり」を収めた詩集『反響』に出会い、非常に慰められたという。江藤によれば伊東は「なにか大きなものを喪いつつ、それに耐えている人」であり、「むしろその喪失を創造の出発点に据えて、〈明るくかし処を彩〉ろうとして来た人」であった。江藤は「もし、このとき、『反響』にめぐりあわなければ、私は文学を仕事とするようになっていただろうか?」という感懐を吐露していた。彼がこの「夏の終わり」に慰撫された理由は、「自分がいまなによりも、この「……さよなら……さやうなら……」とこだまする歌を必要としていることに、気がつかざるを得なかった」からであり、「さまざまなものに〈……さよなら……さやうなら……〉をいわなければならなかった」からであった。その「さまざまなもの」とは、住み慣れた「鎌倉」や「幼いころから親しんで来た生活の様式」、敗戦に至る前の「それを成り立たせていた時代」としての「少年時代」であり、また「敗戦」という「汚辱から自由だった日本」である。そして、できれば手放したくなかったであろうそれらを喪う悲哀に耐えることを、「夏の終わり」の「……さよなら……さやうなら……」という「反響」(リフレイン)が可能にしていたというのである。

 「白い雲」が「落す静かな翳」は「……さよなら……さやうなら……」と「いちいち頷く」ように、「街道」や「水田」や「行人」「屋根屋根」そして「樹上」に呼びかけ、遠ざかっていく。その「反響」は、それを聴く江藤の喪失感や別離それじたいを歌いあげるものとして響く。そのとき「……さよなら……さやうなら……」というこだまは、「街道」や「水田」や「行人」「屋根屋根」そして「樹上」それぞれの一つひとつに、「いちいち頷く」ように「反響」していくのである。そしてそれら個々の「反響」が、ひいては「夏の終わり」という、別離の全体性へと高次化されていく。

 われわれはすでに打ち上げ花火が発光とともに必滅するものであることを見知っている。そこには打ち上がる一発ごとに「さようなら」がある。ところで日本語において、移りゆく「こと」の世界を言葉に表すことによって、一つひとつの個々の事象(たまさか・偶然性・一回性のできごと)を「さようならば」と確認し、その場、その場を成就させていこうとするのが「さらば」という仕方での別離のいとなみである。そしてまた、みずからに起きた一回性の「こと」を「さようであるならば」と、そのつどそれぞれに確認・総括することを介して、むしろ「さようであらねばならないならば」という、有為転変する無常の普遍原理が承認可能となってくる。ならばここでの「夏の終わり」の「終わり」の営みとは、「……さよなら……さやうなら……」によって「眼差」され、総括されていく個々の景物――それはむしろ詩人の心象としての内景だが――をそのように一つひとつ歌いあげ、余さず数えあげていくことによって、「夏の終わり」そのものを成就せしめんとする心的態度にほかならないだろう。なおかつそのことは、終わりゆくものが、「夏」、あるいは「少年時代」や「汚辱から自由だった日本」が、まさに終わらなければならないものとして感得されている(「さようならば」と受けとめられている)からこそ、そうした「反響」が別離の承認・成就として響いてくるのだろう。

 以上のことは、まどみちおの詩「さようなら」においても想起される。

 
子供よ、あの赤い夕焼けは、一日が「さようなら」っ
て言ってるのだ。
 子供よ、今落ちた木の葉の、あのしずかな音も、
やはりあの木の葉の「さようなら」だ。
 子供よ、お前の持っている鉛筆でさえ短くなる
たびに、「さようなら」「さようなら」って書いて
いる。
 ああ、子供よ、耳をすましてみると、なにもか
にもみんながみんな、「さようなら」「さようなら」っ
て言ってるではないか。


 ここでは、自己が自己の前に立ち現れる個々の現象なり、自己を包む万象のそれぞれから、「さようなら」と常にすでに呼びかけられているありようが提示されている。いわばわれわれは、万象それぞれからの無限の「さようなら」に出会うかたちで、その総体としてのこの世界に立ち会っている。そのような「さようなら」を聞く者として、それに一つひとつ応答する仕方で、われわれは世界全体を常にすでに「諦めている(別れている)」とも言えるとすれば、万象の「さようなら」の声を一つひとつ余さず「聞いている(聞き取る)私」という詩人のありようが逆に浮かび上がってこよう。
 つまり世界をそうした見立てにおいて見る詩人の感受性こそ、むしろわれわれが一つひとつの事象をそのように丁寧かつ十全に愛でることにおいて、なおそれと分かたれてくるという別れのあり方と可能性を逆証しているからである。(R)

2010年12月12日

失われた祭りをもとめて〜一期一会のふたゝたびかへらざる事

★井伊直弼『茶湯一会集』

 「安政の大獄」で有名な幕末の大老井伊直弼は、千利休以降の重要な茶人に数え上げられる当代きっての文化人であり教養人であった。利休に由来する「一期一会」という茶湯用語とその極意を世に伝え広めた人でもある。

 『茶湯一会集』に、「茶湯の交会は、一期一会といひて、たとへば幾度おなじ主客交会するとも、今日の会にふたたびかへらざる事を思へば、実に我一世一度の会也」とある。それは、主人が客人をもてなすという形で主客が交会する「茶湯」という営みにおいて、何度同じ交会がありうるとしても、それら一つひとつが「一世一度」の出会いであり交会であって、その一つひとつのできごと(一会)のそのつどの成就を本意とするものである。もてなす主人ももてなしを受ける客人も、互いに「此会に又逢ひがたき事を弁へ」て、「深切実意」をもって交わるべきであるとされる。しかもそのことは、茶湯において「強ち品を取かへ飾り・手前等かはらざれば茶湯の趣向ならずといふ謂、曾て無き事也」(そのつど客の目を引くような飾りや茶器等を用意していなければ良い茶湯とは言えないなどということはない)のであって、利休が「呉々相替る事なく、日々同事斗の内、心の働は引替へ引替へ如何様にも可有候」(そうした品々を替えることもなく、毎日同じことばかりのうちに、なお心の働きはいかようにも引き替え改めてもてなすことができる)としたところこそ、「茶道の大本」であるとされるなかで述べられている。つまりそれは、毎日が「茶湯」という現場であり、まさに取り立てて新奇な起伏もない「つれづれ」としての日常の些事一つひとつが「深切実意」に取り扱われることなくしてありえないだろう。だから「一期一会」こそが「茶湯」の極意なのである。

 ところで「一期一会」を観念するということは、すなわち「一会」を連続する時間の無差別・等価値な一瞬から屹立させ、「一会」をまさに代替不可能な「一会」としてそのつど区切ってゆくことで、以前の「一会」および後続する「一会」との截然たる意義をもうけ成就せしめんとすることであろう。そうであってみれば「一期一会」においては、「一会」はあくまでもそのつどにおいて全き成就を見るものであって、すでに終りを見た「一会」をもういちど再現しようとすること(「一期」のものではなくすること)、あるいは過ぎ去った「祭り」をもういちど求めることとは真逆の心意である。以前に述べた花火の例で言えば、「たまさか」の打ち上げ花火こそが「一期一会」であって、再び同じものを求めて「一期一会」を復興可能なもののように扱うことは、どの「一会」をも質的に等価に付すことであり、「又逢ひがたき事を弁へ」ない心得違いのふるまいということになろう。

 『茶湯一会集』の「暇乞い」について手引きしたくだりでは、主客が「共々に残心をのこして、わかるべき也」とある。別れの場面に際し、なお今日の「交会」に心ひかれるものを「余情残心」としてこよなく感受しながらも、充分に別れよということである。さらに言えば相手とはむろんのこと、おそらくは「この一期一会」それじたいとの別れについてをも指したものだろう。それは、客が帰ったあとも決して片付けを急いだりせず、静かに茶席に戻り炉前に独座して「一期一会」を観念する(一心に「一期一会」を想念する)ことが極意だという次の箇所からもうかがえる。

 
炉前に独座して、今暫く御咄も有べきに、もはや何方まで可被参哉、今日、一期一会済て、ふたゝたびかへらざる事を観念し、或は独服をもいたす事、是、一会極意の習なり。此時、寂寞として打語ふものとては釜一口のみにして外に物なし、誠に自得せざればいたりがたき境界なり。


 炉前に独り座り直って、客人は今もうどこまで帰られたであろうかなどと思いやり、今日のこの一期一会が済んでは二度と現れないのだということをよく観念し、あるいは独り茶を一服するのが、一期一会の極意である。このとき己独りの茶の湯であることの物寂しさを全的に味わうには、その極意を自得していなければならない――と。
 「自得」するとはいかなることか。その中身が問われようが、いずれにせよ今日のこの「一期一会」が、いかにも「ふたゝたびかへらざる事」であるのを観念しえたとき、この「一会」との別れが成就するということである。(R)

2010年12月11日

11月の読書メーターbyR

試しにやってみたのだが、こんな感じになるのか。
ここに挙げられた本は新刊以外はすでに読んであるものばかりなので「先月読んだ本」情報としては正しくないけど、読み返したりなんだりした備忘録としてはよさそうだ。(R)

11月の読書メーター
読んだ本の数:22冊
読んだページ数:4036ページ

音楽ノート (岩波文庫 青 501-2)音楽ノート (岩波文庫 青 501-2)
今日からお前は恥ずかしさなしであの家には行けない。こんな×××を欲求したからには!>・・・いったい何を欲求したんだ何を!
読了日:11月27日 著者:ベートーヴェン
1973年のピンボール (講談社文庫)1973年のピンボール (講談社文庫)
読了日:11月24日 著者:村上 春樹
1973年のピンボール (講談社文庫)1973年のピンボール (講談社文庫)
なぜ村上春樹は消える女たちを探し求めるのか?http://after-carnival.seesaa.net/article/169300604.html
読了日:11月24日 著者:村上 春樹
マイ・ロスト・シティー (村上春樹翻訳ライブラリー)マイ・ロスト・シティー (村上春樹翻訳ライブラリー)
読了日:11月24日 著者:フランシス・スコット フィッツジェラルド
おもひでぽろぽろ 2 (集英社文庫―コミック版)おもひでぽろぽろ 2 (集英社文庫―コミック版)
どうでもいいけど『おもひでぽろぽろ』でタエ子がやってる有名な分数の割り算ミスは、3分の2を4分の1で割るところを、4で割ってしまっている。だから×1分の4ではなく、×4分の1=6分の1という答えを出してしまう。4分の1で割るというのが4等分だと思っているからおかしいのだ。 いうまでもなく3分の2を4分の1で割るというのは、3等分したケーキの2つぶんを、同じくケーキを4等分したところの1つで割るということだ。。ところでなぜか石森章太郎が出てきてタエコにめんどくさそうにサインする。
読了日:11月19日 著者:刀根 夕子
おもひでぽろぽろ 1 (集英社文庫―コミック版)おもひでぽろぽろ 1 (集英社文庫―コミック版)
読了日:11月19日 著者:刀根 夕子
よそのねこ (アニメージュ文庫)よそのねこ (アニメージュ文庫)
読了日:11月19日 著者:岡本 蛍
音楽家訪問―ベートヴェンのヴァイオリンソナタ (岩波文庫 青 656-1)音楽家訪問―ベートヴェンのヴァイオリンソナタ (岩波文庫 青 656-1)
読了日:11月18日 著者:アラン
君と僕のアシアト〜タイムトラベル春日研究所〜 2 (ジャンプコミックスデラックス)君と僕のアシアト〜タイムトラベル春日研究所〜 2 (ジャンプコミックスデラックス)
読了日:11月15日 著者:よしづき くみち
江藤淳コレクション〈3〉文学論(1) (ちくま学芸文庫)江藤淳コレクション〈3〉文学論(1) (ちくま学芸文庫)
読了日:11月15日 著者:江藤 淳
機動戦士ガンダム ジオンの再興 (角川コミックス・エース 17-6)機動戦士ガンダム ジオンの再興 (角川コミックス・エース 17-6)
読了日:11月15日 著者:近藤 和久
オーミ先生の微熱 1 (ビッグコミックス)オーミ先生の微熱 1 (ビッグコミックス)
同業経験者としては主人公を蹴っ飛ばしたくなるが、面白い。同級生らしい?武嶌波も好きだけど河内遥も面白いな。
読了日:11月13日 著者:河内 遙
終わりなき日常を生きろ―オウム完全克服マニュアル (ちくま文庫)終わりなき日常を生きろ―オウム完全克服マニュアル (ちくま文庫)
読了日:11月09日 著者:宮台 真司
ゆるゆる (ヤングキングコミックス)ゆるゆる (ヤングキングコミックス)
読了日:11月09日 著者:たかみち
文壇アイドル論 (文春文庫)文壇アイドル論 (文春文庫)
読了日:11月07日 著者:斎藤 美奈子
夏と花火と私の死体 (集英社文庫)夏と花火と私の死体 (集英社文庫)
読了日:11月07日 著者:乙一
さみしさの周波数 (角川スニーカー文庫)さみしさの周波数 (角川スニーカー文庫)
読了日:11月04日 著者:乙一
めくりめくる 1 (GUM COMICS Plus)めくりめくる 1 (GUM COMICS Plus)
素晴らしい。日常系の中でも画力があるし切り取るものも好感が持てる。近藤勝也を思い出した。「よつばと」早く出ないかな。
読了日:11月03日 著者:
のりりん(1) (イブニングKC)のりりん(1) (イブニングKC)
読了日:11月02日 著者:鬼頭 莫宏
機動戦士ガンダム デイアフタートゥモロー ―カイ・シデンのメモリーより― (1) (角川コミックス・エース)機動戦士ガンダム デイアフタートゥモロー ―カイ・シデンのメモリーより― (1) (角川コミックス・エース)
一年戦争展を通してファーストという過去の歴史が通覧されたり回想されたり解釈されたりしていくことになるわけで、ある種メタ・ヒストリカルな視点を持つことになる。そしてそこには必然的に「記憶」の問題、「事実」と解釈・記述の問題、などといったような「歴史」をめぐるおなじみの問題群が孕まれてくるのである。http://after-carnival.seesaa.net/article/168585582.html
読了日:11月02日 著者:ことぶき つかさ
茶柱倶楽部 1 (芳文社コミックス)茶柱倶楽部 1 (芳文社コミックス)
読了日:11月02日 著者:青木 幸子
いもうとデイズ(3) (アフタヌーンKC)いもうとデイズ(3) (アフタヌーンKC)
読了日:11月02日 著者:田中 ユキ

読書メーター

matome_gimage_77722_1.jpg
posted by R at 08:22| Comment(0) | TrackBack(0) | 読書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年12月10日

「ニッコ」とさせる仕事〜海老蔵問題から思う役者の日常

 すぐそばの半島で緊迫した有事が続くなかで、こちらでは毎日のTVで非常にどうでもいい平和ボケした事件が取りざたされている。公人の有事における評価の激しい暴落ぶりは、良くも悪くも近年のドッグイヤー社会の特徴だろう。
 
 こうした事件の是非や真偽に対して、現時点で当事者でも関係者でもない者が口を挟む資格はないのであって、ことの真偽や是非に関しては何も言う気もないし興味もないが、ふと思い出したのは大昔の役者のことだ。
 そもそも、たとえば19世紀前半の天保年間に希代の千両役者として活躍した成田屋、七代目市川団十郎は教養人でもあった。表芸のみならず詩歌、骨董などにも通じていたという。が、思い出したのは能の完成者である世阿弥の言葉である。『申楽談儀』からだが、白州正子の意訳がいいのでそれをあげておこう。世阿弥が当節の役者の身の処し方について具体的に論評するくだりである。

 
・・・・・・他座の者と同席した時は注意が大切である。一緒にひかえているにしろ、席をはずすにしろ、その場の空気を察して動く必要がある。役者ともあろうものが、そのくらいの察しがつかないようでは話にならない。
 ・・・・・・小さな日常の行いこそ大切なのだ。この芸道は、礼楽二つの道にとれば「楽」である。人にたのしみを与えるのがつとめなのだから、舞台の上ばかりでなく、日常のことごとに心を配って、人と人との間柄を「ニッコ」とさせるのが我々の仕事なのである。


 「ニッコ」は原文でも「につこ」だ。
 まず身近な日常現場から空気を察して果断かつ的確に動けるよう準備し、心を十分に配ってゆくこと。こうしたことは芸道に携わる者ならずとも、常日頃から念頭に抱いていきたいものだ。

 佐藤浩市の父である三国連太郎が親鸞の歎異抄を繰り返し読み続けては書き写しているとか、緒方拳などもそうしたエピソードに事欠かなかったが、大事なのはそうした教養が前面に出てこないくらい役者は素手でいることである。
 そういう意味で先年ついに鬼籍に入った森繁久彌という大役者は、その内に深く豊かな淵を湛えていた。これもわりと有名な逸話だが、彼が贈った向田邦子の墓碑銘の言葉は老境などというものを超えて、彼岸の域に届いている。

 花開き 花香る 花こぼれ なお薫る

 真宗大谷派の僧侶であった金子大栄が般若心経の「色即是空 空即是色」を翻訳して「花びらは散っても花は散らない」としたのを個人的には、空海が(伝説上)「色即是空」を「色は匂へど散りぬるを」とした以上に腑に落ちる言葉として聞いたのだが、この森繁の言葉を知ったときは、それと同じくらいの衝撃を受けた。「かおる」の文字が繊細に使い分けられている。後者の「薫る」こそ、「散らない花」としての「空即是色」のありようだろう。そのような「花」といえばまた、世阿弥の「物数を極めて、工夫を尽して後、花の失せぬところを知るべし」という至言が想い合わされるのだが、森繁のすごいところはこれがおそらく素手で発せられた言葉のように感じられるところだ。現代の役者に、したり顔で生半可な「情報」にたよらずとも、生身の体験知で勝負できるような存在感を持てるような者が出てきてほしいと思う。そういえば近年の蒼井優はそうした雰囲気をやや感じさせている。ともかく「役者」になるとは「人間」になることだと思う。あるいは「人間」になることに有り金全部を賭けている人のことだと思う。(R)
posted by R at 00:30| Comment(0) | TrackBack(0) | エッセイ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年11月24日

『ノルウェイの森』〜ジョニー・グリーンウッドの音響世界

 最近、映画『ノルウェイの森』のサントラを繰り返し聴いている。本当に素晴らしい出来だ。ジョニー・グリーンウッドは今まで『BODY SONG』とポール・トーマス・アンダーソンの『There Will Be Blood』の二作を手がけてきた。後者は高く評価されグラミー候補にもなったが、この『ノルウェイの森』が最も琴線に触れる傑作だと思う。つい先日の発売だったがマスタリング終了が先月というのが信じられない。いわゆる「完パケから3ヶ月」という流れはいよいよ崩されたのだろうか?

 ジョニーは登場人物たちが抱える「宙ぶらりんの状況」や「大人になれずにいる宙吊りの青春期」を表現しようとしたと発言している。精緻に組まれたオーケストレーションと和声はまさにそうした位相で鳴らされている。そこには、弦楽隊が鳴らすいびつで不穏なコード・ボイシングから静寂のなか薄明の光を感じさせるユニゾンへと揺らぎたゆたうような、孤独な物思いの世界が広がっている。

 RADIOHEADにしろジョニー自身にしろ日本贔屓とはいえ、このアルバムが曲タイトルも含めて総「日本仕様」というか、日本発のアイテムとして届けられていることが日本のファンとしては嬉しい限りだ。
 おまけに全部持っているとはいえCANが3曲も入っている。CANはいわゆる60〜70年代のジャーマン・プログレッシブ・ロック=通称「クラウト・ロック」においてFAUSTやNEU!と並び称されるバンドだ。現代ロックその他に与え続けている影響は計り知れないものがある。ある意味(奇跡的にこの映画の主題歌にも使用許可された)ビートルズ以上かもしれない。少なくとも僕自身はそうだ。
 収録された3曲はどれもA級作品ばかりで、個人的にはCANの中でも最も好きな曲の一つ「Mary, Mary, So Contrary」が入っていて浮かれてしまった。これらの楽曲は60年代末期を象徴する音楽としてビートルズの代りに使用されているようだ。
 
 オリジナル・スコアを担当したジョニー・グリーンウッドは言うまでもなく、金字塔となったアルバム『ok computer』以降、名実共に現代ロックの先端と頂点に君臨し続けているRADIOHEADのメンバーであり、豊富な音楽知識とロックの枠組みを問い直し押し広げる実験精神と、唯一無二の独創的なアイデアでサウンドのまさに中核を担ってきたマルチ・ミュージシャンである。独自の奏法でギターからギターでないもののような音響を出し、異様な音階でリフを編み上げ、オンド・マルトノやアナログ・シンセをエフェクティブに駆使し、フェンダー・ローズピアノやグロッケンで叙情的なカウンター・パートを紡ぎ出す。バンドは常に「現代ロック」とそのあり方を決定づけてきたゆえに、世界中の音楽家たちが注目し続けてきた。当然このサントラも各方面から注目されているわけである。

 僕自身にとっては村上春樹より重要な存在だが、いまや春樹もRADIOHEADと同じくらい世界的存在であって、その両者が出会って作品が生まれるというのは一つの事件だった。と同時にこの10年においては必然だったとも言える。春樹はエッセイでビョークとともにRADIOHEADを語り、『海辺のカフカ』には、日米でもチャート一位となり一躍一般にも愛聴者を増やした『kid A』を主人公のフェイバリットに出すようになった。だがそれ以前に、バンドのフロントマンで現代を生きのびているカリスマと言われる天才トム・ヨークが、おそらく日本の知人(雑誌スヌーザー編集長だったような気もする)の薦めで『ねじ巻鳥クロニクル』を読んで共感と感銘を受けたことが話題になっていた。まあ欧米圏の本屋の日本文学コーナーには春樹作品がどこも充実しているので、読書家のトムがガルシア・マルケスなどとともに愛読するようになるのも時間の問題だったかもしれない。
 そして確かにトムが『ねじ巻鳥クロニクル』を読んだと聞いた頃、RADIOHEADと春樹の時代に対する問題意識は近親性を持っていた。悪とは何か? 我々の精神を著しく圧迫する暴力性はどこからやってくるのか? 我々はそうした緊迫感をもって両者を受けとめたのである。

 映画本編については公開前だが、トラン・アン・ユンらしい映像美にこだわられた画面作りや美意識が感じられるものの、日本映画としての出来、そもそも村上春樹『ノルウェイの森』の映画化としては不安を感じている。クライマックスが直子との別離にワタナベが海辺で泣くシーンらしいが、それが文学ではない「映画」ゆえに成立するとしても、またこの映画の必須要件だったとしても、少々心配になってくる。
 春樹の初期作品をハードボイルド的と見る者や安手のセンチメンタリズムと批判する者など評価は分かれているが、それは単純な二項対立などではない。原作の雨後の竹の子族はセンチメンタリズムだけに流れていったようだが、『ノルウェイの森』じたいは自己の物語を物語る叙述に意識的であり、そこには「直子との別離」という出来事に対しての相対距離が測られている。視点は現在時制での記述でなく、過去時制の記述としてある。そのようなナラトロジーの問題が「文学」だけのものとは必ずしも思わない。(R)
posted by R at 22:56| Comment(0) | TrackBack(0) | エッセイ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年11月18日

牙狼‐GARO‐(雨宮慶太)

2005年(平成17年)10月7日から2006年(平成18年)3月31日までテレビ東京系列で全25話が放映された、特撮テレビドラマ作品。
はるか昔から人の欲望に憑依し、現世に災いをなしてきた「ホラー」という魔物たちと、黄金の鎧を纏う魔戒騎士・鋼牙が戦う。

劇場版を観たので振り返ってみた。

改めて思うことは、『牙狼‐GARO‐』は、鋼牙が「ヒーローになる」物語だったのだということだ。

はじめ、鋼牙はカオルを(何か魅かれるものはあるにせよ)ホラー狩りの餌と見ている。
この時点での鋼牙の目的は、父親を殺したホラーを狩り、復讐することのみにある。
そのためには弱者を利用し、切り捨てて顧みない。
たしかに鋼牙は1話目から強く、格好いい。しかし、復讐という私欲にとらわれている点で、ホラーどもと同じ位相にあるともいえる。
これではさすがにヒーローとはいえないだろう。

そんな鋼牙が、戦いを通じて、カオルとの交流を通して、少しずつ変わっていく。
つまり、カオルを守り、その他の命も守るという姿勢に変わっていく。
これによって、鋼牙は魔物たちとは次元の違う存在になっていくのだ。
自分の欲を満たすのではなく、弱者への責任を感じ、守り続けようと戦う、挑戦し続ける者、それこそがヒーローといえるだろう。

……か? 人間、そんなに強くあり続けられるものだろうか?
ラストシーンで、鋼牙はカオルの描いた黄金騎士の絵本の結末を見る。何が描いてあったのかは描かれない。
戦いを終えた騎士の安らぎなのか、果てしなく続く戦いなのか、それは分からない。

それを見た鋼牙は、一滴の涙をこぼす。
何が描いてあったのかは分からないが、なぜ鋼牙が涙をこぼしたのかは分かる。

それは、「ヒーローであることが辛い」ということだ。
辛かったし、今も辛いし、これからも辛いだろうということだ。
全編をとおして硬い表情を崩さない(一度も笑わない)鋼牙がずっと抑え込んでいたのは、こういうことだったのだ。
それはそうだろう。超人的な戦闘能力をもつ鋼牙だが、ホラーを倒すためには、90秒間、鎧の力を借りなければならない。
超人的ということと、実際に超人であることは違う。
あくまで人の範疇にある鋼牙が、あらゆることを耐え忍んで、GAROとしての自分を保っているだけなのだ。
鋼牙はヒーローそのものではない。ヒーローになろうとしている者、ヒーローであろうと願っている者だったのだ。

そして、弱者への責任、「ヒーローであることが辛い」という自分の弱さまでも含みこんで、それでも新たな戦いに臨んでいく決意をしたとき、鋼牙はヒーローになったのだ。


そこから先は、我々の物語である。(イワン)
posted by SIZ at 11:58| Comment(0) | TrackBack(0) | ドラマ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

広告


この広告は60日以上更新がないブログに表示がされております。

以下のいずれかの方法で非表示にすることが可能です。

・記事の投稿、編集をおこなう
・マイブログの【設定】 > 【広告設定】 より、「60日間更新が無い場合」 の 「広告を表示しない」にチェックを入れて保存する。


×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。